ヘブライ的思考①:「区別」があるようで無いような曖昧さ

前投稿:「日本宣教と「ヘブライ的思考」

ヘブライ的な考え方について、西洋の考え方との対照表をご紹介しました。その中の項目の一つを考えたいと思います。

西洋の思考:「正確な分類をして生活をする」
ヘブライ思考:「全ては全てに重なり、曖昧である」

誰が救われているのか?

キリスト者にとって最も関心の高い、「神の救い」について話しましょう。救いの条件として、「信仰によってのみ」というのが、プロテスタント教会の私たちの信条です。誰が救われて、救われていないのかという議論が必ず出てきます。ところが福音書のイエス様の言葉を見てください、喩えが多くありますが、誰が救われて、救われていないのか?という区別なく、一つの忠告を与え、あるいは励ましています。救われているのか、いないのか?という「存在」を問うのはヘレニズム的です。けれども、「行なっているか、どうか」という「動いていること、活きていること」ことを問うのがヘブライ的です。イエス様の教えは明らかに後者でありました。

教えている「内容」が明確であり、それを知識的にしっかり把握していることはヘレニズム、ギリシヤ的なのですが、パウロがテモテに「敬虔にかなった教え」と指導したように、もっと敬虔さのほうに重きが置かれています。今日の教会は、「正しい信仰告白、信条」というものに重きを置くのに対して、ユダヤ教においては組織的な神学体系を持っておらず、個々の具体的な「教え」が中心になっています。

もちろん、信仰の内容、信条をはっきりさせている部分が、聖書にはたくさんあります。けれども、それは「生きている者たちの発せられる、活きた言葉」の中で告白していることであり、何か会社の議題で話し合いがまとまって、それで一つの信条告白をしているのではないのです。

「けれども、きちんとまとまった教理、信条があって、それを学習するからこそ、正しい行ないができるのではないか?」という問いがあるかと思います。その面はあるでしょう、私も教会でそのことは強調します。けれども、「行なってみて、キリストを知る、神の真理を知る」ということがあるのです。いや、比重としてはこちらのほうが大きいでしょう。ペテロがイエス様を自分のキリストと知ったのは、どのようにしてか?初めに、網を舟から降ろしてみたことから始まります。そして、それ以来、共にイエス様と過ごしたことから分かります。

では、「善行を積み上げることが救いなのか?」という疑問が出て来るかもしれません。律法の行ないによる義をパウロは否定したではないか?と。けれども前提として、思考の中に次の誤謬があるからです。

「信じる」 対 「行ない」

パウロは何一つ、「信じることは、何も動かないこと」など話していません。むしろローマ4章において、アブラハムが神を信じた信仰によって義とみなされたことを論じていますが、アブラハムの信仰は、「全くその兆しがないのに、それでも信じた」という、もっと「人格的な信頼を神に寄せた」というものであり、またイサクが生まれることを信じたことについては、生まれる前から神をほめたたえるなど、その「信仰」が活き活きとしています。それでもって、義とみなされたと論じているのです。

だから、ヤコブは、ただ言っているだけで行わないのは、「死んだも同然」と言っているのであり、義と認められるのは信仰だけでなく、行ないによるのだと言っています。

つまり、「信じる」ということに「行ない」が重なるのであり、「行ない」の実があるということは、信じていることでもあり、「区別はあるけれども、重なり合っていて、曖昧」な部分があるのです。

「普遍的教会」と「地域教会」

救いについて話したので、次に教会に行ってみましょう。

目に見えない、時代と地域を越えて普遍的に存在する教会を「普遍的教会」、そして個々の目に見える組織を含めた教会を「地域教会」と、しばしば区別します。確かに、この区別は状況によって必要になるでしょう。教会籍がただあるだけで、その人が本当に教会に属しているかと言えば違いますし、区別をある程度しないといけないと思います。しかし、それ以上でそれ以下ではありません。むしろこの区別がさらなる対立、混乱を引き起こし、有機的なキリストの体に亀裂さえ生じさせるものです。

あるサイトでは、ユダヤ的な聖書の読み方ということを名打って、このことを紹介していましたが、実は極めてヘレニズム的です。分類できない、全てが全てを被っていて、明瞭ではないこの違いを無理やりやっているので、実際に、教会で混乱が起こっている弊害が出ています。ましてや、自分は普遍的教会に属しているのか、地域教会なのか、この教会は普遍なのか、地域なのかという会話さえ聞こえ、教会生活の喜びと平安を取り崩している人々もおられる感じです。そこで語られる「普遍」が既に「概念」にしかなっていないように思われます。

関連記事:「“普遍教会”にある誤謬

例えば、「私たちは結婚した夫婦です」と言った時に、「法的に夫婦」と「毎日、同じ屋根の下で生活を共にしている夫婦」では、もちろん区別できるでしょう。けれども、後者なしの前者というのはあり得ない話なのです。戸籍上そうかもしれませんが、むしろその戸籍があるために、財産の分与など後で複雑で大変なことになり、むしろ争いを引き起こします。だからといって内縁ではいけないでしょう。社会的責任、公的性があってこその内実です。

このように、区別はあるのですが、どちらかであると区別することはできない、「互いに重なり合っている」「相互作用のある」という存在であります。この有機性はヘブライ的な考えに基づくのであり、日本においても、「あうんの呼吸で、明らかにしない」という文化があります。いや日本だけでなく非西洋であれば、どこでもそうした、「無言で承知する部分、どちらか分からず曖昧だけれども、別にどちらかにしなくてもよい」部分というものがあります。

「霊・魂・肉」の区別

人間をどのように見るか?も、キリスト教の神学や教理の中では大きな話題です。これは、次の項目になる話でしょう。

西洋的思考:自然と超自然は明確に分けられる
ヘブライ的思考:超自然は全てに影響を与える

キリスト教では、霊魂肉がそれぞれあるとする「三分説」と、霊魂と肉だけとする「二分説」があります。けれども、私たちは西洋医学と東洋医学の違いでよく知っているように、体というのは有機的存在で、全体としての総合的なバランスを考えた東洋医学に、智慧があることを直感的に知っています。それがまじないのようであるとか、考えていないでしょう。必ずしも、体の各部分と各症状が分類化できない事を知っており、全体のバランス、均衡が崩れると各症状が出る、というのは理にかなった見方だと知っています。

聖書におけるバランスもそれです。霊と魂と体の区別は確実にあります。聖書がそれぞれを区別して名づけていますから。けれども、「このことについては、霊的なのか、肉的なのか?」と考える発想は、ヘレニズム的なのです。しかし、この考えが「霊魂については清く、肉は悪だ」とするグノーシス主義へと発展し、キリスト教会はその異端の猛威の中で、使徒たちが正しい信仰を固辞し、伝えてくれました。

セックスは肉的で、悪なのか?いいえ、ユダヤ教の超正統派の人たちは、アブラハムの子孫として妻との性行為を聖なる行為として大切にしています。彼らは子沢山です。「産めよ、ふえよ」との命令があり、聖書当時のユダヤ教では、サンヘドリンの議員は既婚者でなければいけないと聞いています。肉の営みが霊的にもなり、また逆に霊における営みも、例えば結婚を禁じたり、ある食物を断つような教えは、”悪霊の教え”であるとテモテ第一に書いてあり、霊的に見えて、実は汚れた霊によって汚れていることを教えています。

ヘブライ人の生活はもっと具体的です。その生活の具体的な各場面において、そこに神がなされたということがあり、それがたとえ否定的な感情であっても、例えばナオミがベツレヘムに帰郷して、「全能者が私を辛くしたのだ」と言ってはばからなかったのです。生活の全てに、主がおられることを認め、主がおられない領域はないとしていました。そして、「なぜ?」という原因を探ろうともしなかったのです。ただ主を認め、その中で生きることだけを考えていました。そのため、この項目にかぶさってくるのです。

西洋的思考:「偶然や因果関係で物事が起こる」
ヘブライ的思考:「神がご自分の宇宙で全てを起こしている」

日本人はどのように考えているでしょうか?神道的な世界観をある意味、有しているでしょう。全ての事に神的なものを感じれば、そこを祠にして、カミとしてあがめます。それは汎神論であり、もっと正確にいうならば「物活論(アニミズム)」です。そう、アニメはアニミズム(物が活きる)から来ています。

これはもちろん間違いであり、神々と聖書が呼んでいるものであり、偶像です。けれども、これは極端であるというだけで、全てが間違っている訳ではありません。一つ一つの具体的なことに、神は私たちが命令を守ることによりそこでご栄光を現したいと願われておられます。その栄光を例えば、木々が主をほめたたえよ!等という言葉が詩篇148篇にあるほどです。(CSルイスの「ナルニア国物語」はこれをもって、自然界が活きているように描いていますが、これを偶像礼拝だとあるクリスチャンが一蹴しているので、それは違うな、と思っていました。)

聖書は「霊的な生活」「肉的な生活」と言っても、明確な霊と肉の区別をしていない、折り重なる部分を残しているということがお分かりになったでしょうか?聖書はこうやって、生活臭のある、生々しさを覆い隠すことはしなかったのです。

聖書の世界は、「整頓されたオフィス」ではない

他にも数多くの分野があるでしょう、区別、分類、正確に把握して、整理するということよりも、聖書は「活きる」ことを私たちに求めておられます。整理しようにも収まらない、そこに神への礼拝と信仰が生まれて来るのではないでしょうか?

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