神道を摂取する宣教? 2011/10/27

昨日は、カリフォルニアから日本に訪問されている、カルバリーチャペル・コスタメサに長年通っておられる旧知のご夫婦が恵比寿バイブルスタディにいらっしゃいました。他のメンバーと一緒に、有意義な語り合いの時を持つことができました。日本に来るたびに感じるのは、霊的土壌の堅さだそうです。それがどのようにして砕かれるのかは、全ての人が抱いている課題であり疑問でしょう。

 以前フェイスブックに、以下の動画サイトにあるビデオが紹介されました。

Jesus Loves Japan

 イエス様が日本を愛していることを伝えたいために、日本のルーツ、特に神道の儀式に古代イスラエルがあるという説を紹介してあるテレビ番組をいくつか掲載しています。これは「日ユ同祖論」というものですが、以前、この問題について取り扱いました。

きよきよの部屋 反ユダヤ主義について

 そして、次のサイトにも掲載されています。

佐伯好朗博士と「日ユ同祖」論
ウィキペディア『日ユ同祖論』

 その正否は以上のサイトに譲ることにして、私は、信仰的、霊的側面に焦点を当てて、その問題点を述べていきたいと思います。

 上の動画サイトを作成されている人(おそらく外国人)は、日本を愛している、またイエス様が日本を愛していることを伝えたいがばかりに、キリスト教が日本に異質なものではない、西洋のものではないことを知ってほしいと思って掲載しているのでしょう。

 今、多くのキリスト者がルーツを古代神道に求めます。さらに、自らも神道儀式の中に入り、そこでキリストを宣べ伝える試みも行なわれています。ここまで来ると、聖書の禁じている偶像礼拝、具体的には混合宗教という深刻な過ちを犯しており、そこで宣べ伝えられた「イエス」は、聖書に啓示されているイエス様とは異なった、違う存在になっています。神道にキリストの光が照らされるのではなく、“キリスト”が神道の暗闇に埋没しただけのことです。

 何とかしてキリストを知ってもらいたい、という情熱はわかります。けれども、「現代人に受け入れやすい福音を!」というスローガンのもとに、聖書の教えが薄められ、「理屈はいいから、人が救われればよいのだ」という風潮に流されれば、かえって聖霊の救いの御業が損なわれているのだよ、ということを知っていただきたいです。


神道は、「造られたものに神々が宿る」宗教

 第一に、神道とは神が物の中に宿ると考える宗教です。「森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する(Wikipedia「神道」)」「太古からある神道の始まりである古神道においては、必ずしも神奈備(かんなび・神々が鎮座する森や山)に代表される神籬(ひもろぎ・鎮守の森や御神木の巨木や森林信仰)や磐座(いわくら・夫婦岩などの巨石や山岳信仰)は依り代としての対象だけではなく、常世(とこよ・神の国や神域)と現世(うつしよ・俗世いわゆる現実世界)の端境(はざかい)や各々を隔てるための結界の意味もある。あくまでも自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム)を内包し、その延長線としての祖先崇拝も観念や、祈祷師・占いなどのシャーマニズムとも渾然一体となっている。(Wikipedia「アニミズム」)」

 それに対して、聖書の語る「神」は、あらゆる天地万象を超越し、これらのものを創造した存在であります。聖書を日本語に翻訳するときに、神道にも適用された中国語「神」を用いたことによって、同じ名称が使われますが、その違いは歴然としています。

 聖書のストーリーは、「初めに、神は天地を創造した。(創世1:1」から始まります。天地を造られた神が、やがて現れる人々が拝み仕える偶像に対峙、あるいは対比して、「わたしこそが主であり、まことの神である」と宣言されます。出エジプト記にある、エジプトに下った十の災いがそれです。「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。(12:12」そして、主は自分こそが神であり、他に神々があってはならない、自分のために、偶像を造ってはならない、と命じられました(出エジプト20:3-4)。

 聖書の神は他の神々と単に異なっているのみならず、対比や対峙してご自分を現しています。北イスラエル王国がアラム(シリヤの古代名)と戦っている時に、アラムは王にこう告げました。「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかしながら、私たちが平地で彼らと戦うなら、私たちのほうがきっと彼らより強いでしょう。(1列王記20:23」そこで神の人はイスラエルの王にこう預言しました。「主はこう仰せられる。『アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう。』(28節)」そして、大損害をイスラエルはアラムに与えました。

 ユダの王ヒゼキヤがアッシリヤに抵抗しているときに、アッシリヤはエルサレムの住民を脅してこう言いました。「私の手から自分たちの民を救い出さなかった地の国々の神々と同じように、ヒゼキヤの神も、その民を私の手から救い出せない。(2歴代誌32:17」このことに対して、歴代誌の著者は、「このように、彼らは、エルサレムの神について、人の手で造ったこの地の民の神々について同じように、語ったのである。(19節)」と注釈を加えています。その後、神はエルサレムを包囲するアッシリヤ軍185千人を一夜にして滅ぼし、王自身を彼が自分の神に礼拝しているところで息子らによって殺されるようにされました。

 これが神のお心なのです。したがって異教の儀式の中にキリスト教のルーツを見つけて、そこから神々と創造主が共に「神」と呼ばれ、共に人々に拝まれている対象という共通項を前面に出して伝道しようとする試みは、聖書のどこにも書かれていないどころか、むしろ区別や対比をせず同類であるかのような印象を与えることによって、深刻な霊的損傷を神に対して、また兄弟たちに対して行っているのです。

 ダニエルという人物は、バビロンという多神教宗教の色濃い文化と社会の中にいて、信仰を保ちました。ちょうど先進国であるにもかかわらず古来の神々を拝んでいる日本と状況は似ているでしょう。そこでも、神は、バビロンの神々に対するご自分の圧倒的な優位性を表すことによって、ご自分を現されました。

 ネブカデネザル王が夢を見て、それを解き明かしてもらいたくて、バビロンの知者を集めましたが、彼はその夢も言い当てろと命じました。けれども彼らはできません、こう言いました。「王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。」(ダニエル2:11」けれども、ダニエルのみが解き明かすことができましたが、彼は、「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。(27-28節)」と言って、対比することによって自分の神を紹介しました。

 これは旧約聖書に限りません。パウロは、主に会堂でユダヤ人やユダヤ教改宗者に伝道することによって、異邦人にも福音を届けようとしていましたが、まったく知識の持ち合わせていない異教徒にも伝道した記録があります。ルステラにおいて、その住民がパウロとバルナバを神々として祭ろうとしたときに、衣を裂いてこういいました。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。(使徒14:15-17」パウロは、偶像とまことの創造主を対比しているだけでなく、生ける神に立ち返るよう、悔い改めを説きました。

 アテネにおいても、物に宿る神とまことの神を対比させています。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。(使徒17:24-25」ここにも、神道的な限定された物理的空間に存在する神と、超越したまことの神とを比較、対比させながら宣教している姿をうかがうことができます。

 そしてもちろん、信者に対して宛てた手紙には、先祖伝来からの教えに自分たちキリスト教のルーツがあったという話は一切しておらず、むしろ、それらの空しさを語り、そこから立ち返ったことを確認させています。使徒ヨハネは第一の手紙をこうしめくくっています。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。(5:21)


もし本当なら「背教」という大罪

 もし日本民族が、古代イスラエルの末裔であることが仮にそうだとしたら、そこに希望があるのでしょうか?もちろん、彼らがまことのイスラエルの神に立ち返るなら希望はあるでしょうが、あくまでも悔い改めが前提です。もしそのままであれば「背教」という罪を犯しており、神の怠りない裁きの中に置かれるのです。「選びの民」に対する一種の羨望が、日本人とイスラエルの民を結び付けようとする人たちにはありますが、神の選びには特権と共に、とてつもない重責が伴っていることを見失っています。

 ぜひホセア書をお読みください。これは、北イスラエルに対して語られた預言です。そこには、彼らが行なっている自然崇拝が、「姦淫の霊」であると神は断罪しておられます。「ぶどう酒と新しいぶどう酒は思慮を失わせる。わたしの民は木に伺いを立て、その杖は彼らに事を告げる。これは、姦淫の霊が彼らを迷わせ、彼らが自分たちの神を見捨てて姦淫をしたからだ。(ホセア4:11-12」そのために彼らは、おぞましい残虐行為を被征服民に課すアッシリヤによって、捕囚の民として捕え移されたのです。もし日本の民がイスラエル人であれば、もともと神を知らない異邦人が受ける罰よりも、ことさらに厳しい罰を受けることを知らなければいけません。


肉を誇らせる試み

 そして、神道の中にキリスト教のルーツ、あるいは古代イスラエル人であったとする試みは、偏に日本民族としての「肉」を誇らせる行為です。まさに肉への誇りが、人を信仰によって、恵みによって、神のところに近づくことを妨げる原因であることは、パウロの手紙の主論になっています。「なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。(ガラテヤ6:13

 私は自分が日本人であることに誇りを持っています。日本に生まれてきて良かったな、と主にあって思います。けれども、それはまことの神がここに生まれさせてくださったという、神の主権を受け入れて出てくる感謝の念であり、神の救いとは関係ありません。むしろ、それを救いに敷衍して話すことは、妨げ以外の何物でもありません。仮に日本人がユダヤ人であるとしましょう。それで?パウロほどユダヤ的な人はいませんでしたが、これらのものを全て「塵あくた」と言ったのです!「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:4-8


受けるに値しない者が受け取る

 信仰というのは、恵みによるのです。聖書の中で、呪われたと宣言されているのに、それにも関わらず神の霊的祝福の中に置かれている人々がいます。これこそ、神の恵みであり、神から遠くはなれた者、希望のない者、無関係な者が、神の祝福の中心部にイエス・キリストによって移された、というのが福音の真髄なのです。

 創世記9章で、ノアはカナン人のことを「呪われよ」と預言しました。事実、カナン人の多くが、例えばソドムとゴモラで死に絶え、ヨシュア率いるイスラエル軍によって殺されました。しかし、カナン人でしかも遊女であるラハブがいかがでしょうか?彼女はイスラエル共同体の中に入り、しかも、イエス・キリストの系図の中に入れられるというとてつもない栄誉を受け取っているのです。ひとえに、彼女はイスラエルの神を恐れ、その方を信じたからです。

 レビ記13章では、らい病人が汚れた者とされています。彼は、人が近づくものならば、衣を裂き、髪を振り乱して、「汚れている、汚れている」と叫ばねばなりません。ところが、イエス様はらい病人を見ると、「手を伸ばし、彼にさわり(マタイ8:3」とあります。ここに福音があるのです。疎外され、隔離の中に生き、望みのないいる人に近づいてくださり、触ることすらしてくださるのが、私たちの主イエス・キリストなのです!

 そして極めつけは、カナン人の女に対するイエス様の言葉です。娘が悪霊につかれているから助けてほしいと、「ダビデの子よ。」と助けを呼びました。「ダビデの子」というのは、極めてユダヤ的なメシヤ称号です。彼女はユダヤ的になろうとしました。ところが、イエス様は彼女に一言もお答えになっていません。弟子たちは、「あの女を帰してください。」という始末です。

 そしてイエス様は、「イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われました。ところが彼女が真に、心から次の告白をします。「主よ。私をお助けください。」ダビデの子というユダヤ人の振りはもはやしませんでした。そして、イエス様が「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われたら、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言ったのです。彼女は、この癒しを受ける資格などないのだ、ということを認めたのです。なおかつ、パンくずをいただくことはできるという、主の憐れみの行為にすがったのです。それで、イエス様は「女よ。あなたの信仰はりっぱです。」と言われました。

 偶像礼拝にまみれたカナン人の女が、そのままの姿で、ただ信仰によって救いに預かりました。これこそ、私たちが宣べ伝えるべき福音の力です!まったく資格のない者に対して注がれる好意こそが、神のみが持っておられる属性なのです。そして、ユダヤ人であるということで、その民族性や宗教性に対する誇りがかえって、この恵みの真理を知ることに大きな妨げになったのであり、私はそれゆえに、ユダヤ教と神道を結びつけることを宣教の道具として使うことには全く魅力を感じていません。


自分が神道信者に伝道した経験

 繰り返しますが、「一般人に受け入れやすい福音を!」という風潮が今日の福音伝道界に立ち込めています。キリストだけでなく、神道によっても、仏教でも救われると言わんばかりの勢いです。ただでさえ、キリスト教が排他的、西欧の宗教である日本人には異質、という批判に囲まれているので、その流れに合わせて語ろうとする人々の意図は理解します。けれども、日本人受け、現代人受けするから語るのでしょうか?「人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。(1テサロニケ2:4」とパウロは言いました。

 私は、比較的最近、神道の信者の人に伝道する恵みにあずかりました。東北被災者の人たちを助けるボランティアの人たちの集まりに私が参加したときですが、私がクリスチャンであること、また自分のロゴス・ミニストリーを紹介するチラシを手渡したところ、すぐに噛み付くように質問してくる女性がいました。「キリスト教の人に会うのは初めて」ということで興味があったようです。そして話を伺っていると、彼女は熱心な神道信者でした。

 まず、私は同じ「神」という用語を使っているけれども、キリスト教では天地を創造した神という意味、という定義付けを行ないました。そして私がなぜ、救援活動に従事しているのか、キリスト者としての意義を分かち合いました。津波によって家族に死者のいる彼らに、「死」は身近な問題となっている今、死後の命を含めた人生の意味、「永遠のいのち」の希望があるのだということを話しました。彼女は上手に、神道について説明してくれました。「神道は、葬儀でさえ祭りの一つ。死んだら神様になって、残った人々は祭りを楽しむ。そんなに「死」についていつも考えていたら、疲れてしまうし、そんな難しく考えなくてよい。」自分自身が被災者のボランティアをしているはずなのですが、それでも「死」というものは難しくて、重すぎるということでした!そして、「罪とか、義とか、そういうことを日常考えなければいけないなんて、大変ですね。」という心遣い(?)もいただきました。永遠のいのちについては、「いいじゃない、今が楽しければ。」という意見です。

 私としては、「今の生活が楽しい、というのはすばらしいことだが、それはあくまでも、人の命の根源に対する解答が得られて、確立されているからこそ得られるもの。」と心の中で考えましたが、そこで伝道の時間は終わりました。でも、私なりに、日本人の精神の基になっている神道を意識的に信じている人に福音を伝えることができ、満足しました。

 その人とまた会えるかどうか分かりません。また会えたとしても、どれほど伝道し、関心を持っていただけるかも分かりません。救いに至るには、あまりにも距離があります。けれども、それらの難題は主のお心の中に任せて、私たちは自分の心の中にある希望をいつでも説明できるようにすれば良いのではないでしょうか?

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。(1ペテロ3:15-16


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