コリント人への第一の手紙11章 「秩序ある礼拝」

アウトライン

1A かぶり物 1−16
   1B 土台 − 言い伝え 1−2
   2B 根拠 − 神の創造 3−12
      1C 権威 3−6
      2C 順序 7−12
   3B 結論 − 自然自体 13−16
2A 主の晩餐 17−34
   1B 内容 − 分裂 17−22
   2B 根拠 − 主の制定 23−32
      1C 新しい契約 23−26
      2C 吟味 27−32
   4B 結論 − さばき 33−34

本文

 コリント人への第一の手紙11章を開いてください。ここでのメッセージ題は、「秩序ある礼拝」です。私たちの第一コリント書の学びは11章まで来ましたが、11章から14章までは、礼拝についての事柄です。今までは、教会の中身というよりもクリスチャン生活全般についての問題が取り扱われていました。不品行や偶像礼拝などです。けれども11章からは、教会の中の活動、つまり、礼拝において問題が起こっていたので、それについて使徒パウロが彼らの過ちを正しています。第一コリント書を一言で表現すると「肉的クリスチャン」です。幼いクリスチャンと言っても良いかもしれませんが、知識や賜物を誇っているクリスチャンが、クリスチャンとしての基本的なことについて知りませんでした。その基本をパウロが教えてあげて、それで、彼らが成長することを願っていました。

1A かぶり物 1−16
 それでは本文に入ります。
1B 土台 − 言い伝え 1−2
 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

 このパウロの言葉は、実は
10章から続いています。10章において、不信者の家に招かれて、その出された肉を食べるべきか食べないべきかについて論じられていました。出された肉は何でも食べなさい。けれども、もしその人が、「これは偶像にささげられた肉です。」と言うなら、その出した人のために、食べてはいけません。彼らをつまずかせてはいけません。食べるにも飲むにも、神の栄光を現わすためにしなさい、と言いました。そして、私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください、と続きます。

 つまり、パウロは、異教社会の中で、どのように福音の中に生きていけばよいのかを、自分の生活をとおして示していました。ペテロは、長老たちに対して、「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(Tペテロ
5:3」と言いましたが、模範がいることはとても大切です。そして、私たちが模範にならうこともとても大切です。前にも話しましたが、私は、カルバリーチャペルにおいて、教会の奉仕について命じられたことはありませんでした。むしろ、教会の中に必要があると、副牧師たちが率先してその必要を満たしていくので、私はその牧師の背を身ながら、「仕えていくというのはこういうことなんだ。」ということを学びました。支配することによって指導するのではなく、模範になることによって指導する方法が、カルバリーの、いや聖書で教える方法なのです。

 ですから、私たちはキリストから示されたことを、まず自分が実行する必要があるのです。そして、その教えを自分の生活で示すことによって、初めて、他の人々がそのキリストの歩みを真似することができます。また逆に、私たちは、他のクリスチャンの模範にならうことを学ばなければいけません。例えば、とても与えるのに長けている人がいるとします。人々に与えるその兄弟の姿を見ていると、ほんとうにキリストのようであると思います。そのときに、私たちは、ただすばらしいと他人事に済ませてはいけないのです。パウロが、「ならいなさい」と言ったように、自分もそこからキリストに従うことについて学んでいかなければいけないのです。互いに模範となって、互いに学ぶ合う、これが教会であり、クリスチャンの集まりなのです。

 そこでパウロは、ならうことに関連して、言い伝えについて話します。さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。

 
コリントの人たちが、パウロの言い伝えを固く守っていることについて、パウロは彼らをほめています。なぜ言い伝えを守ることが、ほめられるべきかというと、キリストの福音の具体的な適用であるからです。ローマ書に記されているように、キリストの福音、信仰の義は、論理的な体系であります。けれども、その論理を実際の生活でどのように当てはめればよいのかが、分からないときがあります。どのように福音の中に生きればよいのか。例えば、礼拝に出るときに、その人はどのような服装をすべきなのか、という具体的な疑問が出てきます。そこで使徒たちは、その時代と文化背景の中で、このような様式であれば、福音の中で生きているという具体的なアドバイスを与えました。それが、言い伝えであり、それはキリストにならうための具体的な指針であります。


 言い伝えというのは、とても大切なものです。私たちが、この特定の時代の中に生き、またこの特定の国や地域に住んでいるなかで、キリストの福音の中に生きるにはどのようにすればよいかを学ぶことができるからです。私は、アメリカから日本に戻ってきてから特に、それを感じるようになり、クリスチャンの歴史に興味を持ちはじめました。先代の日本人のクリスチャンは、この異教社会の中で、どのようにキリストに従っていたのだろうか、彼らが血を流すまでに保ちつづけた真理は何であるのか、そのようなことを考え始めました。また、日本に限らず、欧米には多くの信仰の先輩がいます。その時代の中で、彼らがどのように具体的に福音を適用させてきたかを知ることは、私たちが独り善がりの信仰を持たないため、高慢にならないためにも必要なことです。

2B 根拠 − 神の創造 3−12
 そこでパウロは、コリントの教会で起こっていた一つの現象について取り扱います。

1C 権威 3−6
 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

 
コリントの教会では、礼拝の中で、女がかぶり物をかぶらないという現象が起こっていました。当時の社会では、ユダヤ人もギリシヤ人も、女性は、家から外出するときにかぶり物を身につけていました。けれども、彼女たちは、教会においてかぶり物を取ってしまいました。祈りや預言をするときに、女性たちがかぶり物をせずに預言をし、祈っていました。ただ、かぶり物について、使徒たちはだれも、それが聖書的にどのように捉えるべきなのか考えていませんでした。どの教会でも、どの地域でも、当たり前のように行なわれていた習慣だったからです。けれども、コリントにおいて、このような問題が浮上したので、使徒パウロは、キリストの福音に照らして、かぶり物についての位置付けをしたのです。かぶり物は、神が定められた権威を示していました。パウロは、「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」と言っています。女は、男の権威の下にいるので、あたまをおおうかぶり物を身につけなさい、と言っています。


 神が権威の神であることを知ることはとても大切です。ローマ13章1節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」とあります。パウロは、「キリストのかしらは神です。」と言っていますが、キリストは神の御子である神ご自身であられる方で、父なる神と全く同質にして、同等である方です。しかし、キリストがご自分の姿に固執することをせず、人の姿を取り、しもべとなって、十字架に至るまで従順でありました。キリストは神ご自身であられるのに、父なる神のみこころに従うことがご自分の生涯になっていたのです。これほど、神ご自身の中に、権威に服従するという性質が含まれているのです。

 この神を礼拝しているのですから、私たちの間にも権威と秩序、指揮系統が自ずと重んじられるようになるのです。私たちは、神の前でみな平等です。だれかがより神に近くて、他の人が遠くにいるようなことは、決してありません。だれかがより霊的であり、他の人が劣っているようなことは決してありません。キリストの十字架のみわざは、すべての人を同じレベルにし、神のみをあがめるようにしました。けれども、そのキリストの名によって集まるときに、だれが責任者であり、だれの指揮にしたがわなければいけないのか、その指揮系統がはっきりします。それを、「すべての人が神を礼拝しているのだから、だれにも従いたくない。」というような態度で臨むと、すべての人が教える者、指導者となってしまいます。そして、その集会は混乱して、秩序の主である神の栄光が現われなくなるのです。


 パウロはここで、礼拝において、女のかしらは男であると言っています。教会においては、男のリーダーシップが必要であります。男が責任ある務めを担うことによって、キリストの権威に従うことを学びます。女性は、男の働きを助けることによって、同じようにキリストの権威に従うことができます。これは、上下の差ではなく、働きの違いなのです。女性も、男と同じように、預言や祈りをすることはできるのですが、その時は、権威のしるしであるかぶり物を身につけます。

2C 順序 7−12
 パウロは、権威だけではなく創造された順番からも、女はかぶり物をかぶるべきであると言いました。男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

 
男と女はどちらも神に似せて造られましたが、造られるとき、女が男のわきから造られました。また、男がひとりでいるのはよくない、と神が考えられ、それで助け手として女が造られました。したがって、創造の順序においても、男に権威があります。

 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。


 御使いが、礼拝に出席しています。私たちは、礼拝とは実に霊的な儀式であることを知らなければいけあせん。ただ私たちが歌って、祈って、話を聞いているのではありません。まず、この礼拝の主はイエスさまご自身であり、私たちはその周りに座して、この方にひれ伏すのです。そして、御使いがともにいます。私たちは、自分が聖書を学び、自分が主体であると考えがちですが、それは大きな間違いであり、神が霊の目を開かせてくだされば、そこにはイエスさまが真ん中におり、御使いが飛び交っているという霊的世界を見ることができるのです。ですから、私たちの礼拝は厳かであるべきです。


 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。

 パウロは、男がかしらであることを強調したので、間違えないように女性の重要な役割についても話しています。エバはアダムから造られましたが、その後の子はみな、女から生まれました。したがって、男は女を必要としており、教会においても女性の働きは尊いものであり、女性の奉仕を敬わなければいけません。

3B 結論 − 自然自体 13−16

 そしてパウロは、別に聖書を取り上げるまでもなく、普通に考えても、かぶり物を身につけないのは、おかしいではないか、と訴えます。あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。

 
かぶり物は、女性が外を歩くときに、あまりにも当たり前とされていた習慣です。それは、女性が長い髪をしているのが普通であるように常識的なことでした。コリントの町で、かぶり物をしていない女性を見かけたら、それは売春婦だったのです。ですから、女がかぶり物をしないのは、恥ずかしいことでしょう、と話しています。

 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。

 他の教会でも、女性はみな、礼拝においてかぶり物をしていました。


2A 主の晩餐 17−34
 このように、コリントの教会では、礼拝という意味を履き違えていました。家の中でかぶり物をしなかったので、みなが集まって預言をしたり祈ったりするときにも、同じ気持ちでかぶり物をしなかったようです。けれども、礼拝は主ご自身が真ん中におられるところであり、御使いが在席しているところであり、私たちは、畏れかしこんで、公の場として礼拝に臨むべきであります。そこで、パウロは、礼拝における最も大切な儀式である主の晩餐についても、コリント人たちが同じ過ちを犯していることを指摘します。

1B 内容 − 分裂 17−22
 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。

 
クリスチャンが集まるときは、それは教会の益のためであり、また互いの益のためです。けれども、集まったときに害になるようなことが起こっていたので、パウロは、「かえって害になっているからです。」と言っています。

 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。

 
害になっているとは分裂のことでした。先ほども学びましたが、髪の権威と秩序を軽んじるところには、混乱があり分裂があります。ただ、パウロは、分派が起こるのはやむを得ない、と認めていますが、それはコリントの教会の中に、偽教師や偽兄弟がいたからでしょう。偽教師や偽兄弟とまで一致を保つことはできません。だれが偽なのかがはっきりするために分裂が起こった、とパウロが言っています。


 けれども、彼らの分裂は、そのほとんどが悪い動機で起こっているものでした。しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。

 
コリントの教会では、いっしょに食事を持っていました。現代の教会では、聖餐式と愛餐会がありますね。聖餐式はパンを裂いて、ぶどう酒を飲んで、主の死を記念するのですが、愛餐会は、礼拝の後に、ともに食事を取ります。コリントの教会は、この二つを同時に行なっていたようです。つまり、食事をしているときにパンを裂き、また食事の終わりに指しかかったころに、ぶどう酒を飲んでいました。まあ、ユダヤ人の過越の食事も同じ順番なので、コリント人は同じ順番を踏襲していたのでしょう。そこで、彼らは、お腹を空かせており、がつがつ食べたり、また追っ払ってしまっている人たちもいたのです。

 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。

 
飲食をするなら、自分の家でしなさい、と言っています。ここが彼らの誤りだったのです。教会に来て、まるで自分の家であるかのように、振舞っていたからです。「教会は愛があるところだ。交わりのところだ。だから、自分らしくふるまっていいではないか。」と思っていたかもしれません。けれども、大事なことを忘れていたのです。それは、そこは「主の晩餐」であることです。彼らが食事をするとき、そこには生きておられる主ご自身が真ん中におられて、イエスさまがそのテーブルの主なのです。イエスさまが主としてご臨在されているのですから、自ずとその食事は、最初から最後まで目に見えない主を意識して、主を心の中であがめながら、厳粛な思いで食事を取るはずです。ふだん、家で取っている食事も、もちろん主に感謝をささげて取るのですが、教会は主ご自身が着座されているということで、意味合いが変わってくるのです。


 それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。

 
彼らは主のことを忘れていただけではなく、貧しい人たちを忘れていました。貧しい人は、奴隷の身分の人で、ずっと仕事をしており、遅く教会にやって来たのかもしれません。そうすると、そこには食べる物が残されていません。彼らは、そこでしか食事を取ることができないほど貧しいのにも関わらず、先に来た人々がとってしまったので残されていないのです。イエスさまを主体としていないので、他の人々に対する配慮もなくなってしまいました。

 今日の教会で、「教会は人々に仕えるところである」と思っているクリスチャンがたくさんいますが、それは間違っています。人々が主にお仕えすることろが教会です。けれども、自分が牧師のメッセージを聞くため、自分が賛美をして心が満たされるため、自分が他の人にあってお話ができるために教会があると思っている人が多いのです。けれども、そのような人たちばかりが集まるので、初めて来た人、悩みを持っている人、本当に必要を持っている人が、だれからも挨拶されずに独りぼっちでいることが、教会の中で起こります。自分が満たされることを求めてくるときに、主をないがしろにするだけではなく、弱っている人を無視してしまうことになります。


2B 根拠 − 主の制定 23−32
 そこで、パウロは、礼拝の中心は聖餐であって、主がお定めになった大切な礼典であることを次に話します。

1C 新しい契約 23−26
 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。パウロは11章の初めに、言い伝えについて話しましたが、聖餐式はまさに主ご自身が伝えたものであります。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

 
他の写本では、「あなたがたのために裂かれた、わたしのからだです。」となっています。つまり、イエスさまがむち打たれたこと、またイエスさまの手足に釘が打たれたことを記念して、パンを食べます。ここで大切なのは、パンを食べるときに、2千年前に起こったことを思い出すだけではなく、自分たちの真ん中に主がおられることを知ることです。手足に釘穴の跡がある主がここにおられて、主が、「これは裂かれたわたしのからだです。」とおっしゃっていることを信じます。


 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

 
新しい契約、と主は言われました。古い契約は、文字に書かれた律法でした。それを守り行なうことによっていのちを得る、という契約でした。しかしイスラエルの民は、それを守り行なうことはできませんでした。けれども、新しい契約においては、律法が心の板に書き記されて、神を自分の個人的な主とすることができるようになる契約です。血によってすべての罪が赦されるという契約であります。ぶどう酒を飲むことによって、この契約が結ばれたことを、私たちは記念するのです。


 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 私たちはいつも、「主が来られる」ということを意識して歩まなければいけません。そして、限られた時間に、主の死を他の人々にも告げ知らせます。


2C 吟味 27−32
 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

 主の晩餐は、コリントの人たちが考えるような食事の時間ではなく、実に契約を結ぶ時間、契約を更新する時間であります。したがって、この契約のことを思わずに、よくわきまえずに飲み食いするのであれば、それは契約違反となりますから、罰則がともなうわけです。未信者の人が、キリストの死のことを思わないで食べることは、ここの「ふさわしくない」に該当するでしょう。また、信者の人が習慣的に食べることも、キリストの死を自分のこととして思わず食べるのですから、「ふさわしくないまま」でありましょう。自分の生活を、客観的に吟味する必要があります。自分が告白せずに、そのままにしている罪はないでしょうか?知っているすべての罪を、キリストの御前に持ってきたでしょうか?パンを食べ、ぶどう酒を受け取ることは、このように、自分のすべてをキリストの十字架のかげに持ってくることであります。


 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。

 コリントの教会では、実際に体力的に弱くなったもの、また死んだ者がいました。これは、聖餐式が単に向氏の出来事を記念する礼典ではなく、主がご臨在される出来事であることを知らなければいけません。聖餐式が、いやしのときともなるし、またさばきのときともなるのです。


 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。

 
ここは、とても大切ですね。自分をさばくことは、私たちクリスチャンが日々、行なわなければいけないことです。これは、自分を責めることではありません。私たちは、キリスト・イエスにあって、決して罪に定められることはありません。自分を責めるのではなく、冷静に、客観的に、自分の生活を点検するのです。神のことばに照らして、自分はどうなっているか見てみることです。これを行なっている人は、周りのクリスチャンをさばくことができなくなります。イエスさまは「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と言われましたが、それは、自分自身をさばくことによって可能になります。


 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。

 私たちクリスチャンがさばかれるのは、不信者がさばかれるのとは種類が違います。懲らしめのさばきをクリスチャンは受けます。ヘブル書
12章にもありますが、父が子を叱るように、神が私たちをお叱りになります。それは、私たちをご自分から引き離すのではなく、むしろ愛しているから、きよくなるために叱られるのです。だから、罪に定められないように、懲らしめを受ける、とパウロは言っています。これはもちろん、主が再び私たちのために来られるときに、起こります。

4B 結論 − さばき 33−34
 そして結論です。ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。別々の時間に行くのではなく、ある程度、決まったときに来なさい、と言っています。空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。

 
お腹が空いてしまうのであれば、家で食べてから来ます。つまり、家でのことを教会に持ち込まないことが必要です。確かに、私たちは個人生活で主を礼拝します。しかし、信者が集まるときにこそ、主はそこに特別なかたちで臨在し、私たちの真ん中で、その礼拝をお受けになるのです。私たちは、王にお会いに来るのです。クリスチャンは、そのような、畏れ多い思いを抱いて、礼拝に集い、また礼拝を重んじなければいけません。その中で、弱っている人、困っている人、必要を持って来ている人に対して、私たちは助けることができます。



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