コリント人への第一の手紙2章 「神の御霊」

アウトライン

1A 神の力として 1−5
2A 神の知恵 6−16
   1B 奥義 6−9
   2B 御霊による理解 10−16

本文

 コリント人への第一の手紙2章をお開きください。ここでのテーマは、「神の御霊」です。

 私たちは、前回から、コリント人へ書いたパウロの手紙を学んでいます。彼らは、主イエス・キリストを信じるクリスチャンでしたが、教会の中で争いと仲間割れをしている問題を持っていました。そこでパウロは、仲間割れをしているのは、この世の知恵により頼んでいるからだとして、十字架につけられたキリストについて語りました。十字架のことばは、滅びる者によっては愚かであっても、救われる私たちにとっては、神の力であり知恵です。キリストこそが、私たちのすべてであり、キリストにあって私たちは一つになることができます。ですから、仲間割れは間違っているのです。

 パウロは2章において、続けて、この世の知恵について語っています。パウロは十字架のことばを語りましたが、そのことばは、神の御霊の力と知恵に裏打ちされていることを話しています。

1A 神の力として 1−5
 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。

 
パウロは、コリントにいたときに、神のあかしを宣べ伝えました。イエス・キリストにある罪の赦し、またキリストのよみがえりについて話しました。そのときに、彼は、雄弁に語っていません。単純に、平易に、福音を宣べ伝えました。コリント人への第二の手紙では、コリントにいる一部の者が、パウロのことをこう批評しています。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいに彼は弱々しく、その話ぶりは、なっていない。(Uコリント
10:10」このように、コリントにいる人々は、キリストご自身のことを話しているのではなく、パウロの話ぶりという関係のないことについて話していました。今日にも、クリスチャンの中で、「この人はすばらしいメッセージをするが、あの人はダメだね。」という批評をする会話をよく聞きます。このような批評や比較は、まさにコリントにいる人々が行なっていたことなのです。

 けれども、世界でもっとも偉大な福音宣教者と呼ばれるパウロ本人は、名説教家ではなかったのです。彼は、すぐれたことばではなく、神のあかしを耽々と宣べただけなのです。裁判のときに、証人が証言をします。そのときに、その証人が巧みなことばを使って証言しようが、単純に物事を語ろうが、証言している事実は事実であり、話ぶりは関係なのです。その事実によって、裁判の行方が定まります。同じように、いかに雄弁に説教しようが、単純平易に語ろうが、キリストはキリストであり、この方が十字架につけられたという事実は変わらないのです。そして、まさにその事実によって、人々は救いにあずかります。

 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

 パウロは、コリントにいる人々がよく知っていたギリシヤ哲学について、とくに言及しませんでした。話そうと思えば話せたのですが、そのような知識は知らないように決心したのです。それだけではありません。

 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。

 パウロは、コリントに来るまでに、数々の迫害にあいました。暴動が起こり、死の危険にも直面しました。そして、同行していたテモテとシラスはまだコリントに到着しておらず、彼は独りぼっちだったのです。だから、パウロは、肉体的に精神的に弱まっており、恐れさえ抱いていたのです。そのような状態であったのにも関わらず、コリントの町で、大ぜいの人が主を信じました。そこでパウロはこう言います。

 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。

 話ぶりはなっていない、語ることは十字架につけられたキリストのみ、そして弱々しかった。なのに、多くの人が信じたということは、それは、パウロが何かを行なったからではなく、神の御霊と神の御力の現われだったのです。コリントにいる人々が、説得されてクリスチャンになったのではなく、十字架のことばを聞いて、それを信じて、その生活が変えられたのです。不品行のど真ん中にある町にあって、聖なるものとされたのです。


 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

 もし、彼らがパウロに説得されてクリスチャンになったのであれば、彼らは他の人がやってきて、知的に彼らを説得したのであれば、彼らは信仰をすぐに捨ててしまいます。けれども、人間の知恵ではなく神の力に支えられていれば、そんなことは起こりません。救いを知的に理解したのではなく、生活の中における力として、経験として知ったからです。だから、その信仰は、人のまことしやかな議論によって失われるものではないのです。


 御霊は、このようにして、私たちが人間の知恵ではなく、神の力にささえられるように導かれます。十字架のことばを聞いて、信じるとは、単に知的に理解することではなく、救いに至る力を受けることなのです。そこで私たちは、自分自身の生活を省みなければなりません。キリストについて、理解しているかもしれません。キリストについて、その多くを語ることができるかもしれません。けれども、キリストを生活の中で経験しているでしょうか。ある方が、会社で働いているクリスチャンが、教会の中でビジネスマンのクリスチャンたちの集まりをしたいと牧師に申し出たそうです。けれども、その牧師は、彼が会社の中で、自分がクリスチャンであることさえも話していないことを知りました。キリストについて、口ではいろいろ論じることができるのですが、実際の場面においてキリストを信じているように生きていません。人間の知恵ではなく、御霊に拠り頼むクリスチャンとなりましょう。

2A 神の知恵 6−16
 けれども、パウロは、クリスチャンは知恵がないとは言っていません。むしろ、クリスチャンは知恵に富んだ神を信じています。そこでパウロは、神の知恵について語ります。

1B 奥義 6−9
 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。

 
パウロは、成人の間で、つまり成熟した人々の間で知恵を語る、と言っています。成熟するとは、キリストにあって成熟することです。言いかえれば、生活のいろいろな場面において、キリストにどのようにして拠り頼めばよいかを心得ている人です。パウロはここで、この知恵は、この世の知恵ではないと言っています。

 私たちは、キリストを信じていても、ある具体的な場面において、どのように自分が信じていることを当てはめたらようか分からずに、この世の知恵に拠り頼んでしまいます。自分が信じているキリストが、今、自分が置かれているところにおいて、どのように関わってくださっているのかが分からないのです。そこで、人々の意見を聞いたり、この世にある本などの知恵により頼んだりします。けれども、私たちが人格的に、深くキリストを知っていくことによって、実際の具体的な場面で、何が良いことで悪いことなのかが分別できるようになってきます。キリストが支配される領域というか、キリストの思いをいろいろな場面で抱くことができるようになるのです。これが、成熟するということであり、キリストにいかに拠り頼んでいくのかを知っている人であります。


 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

 
クリスチャンが与えられる知恵は、この世のものとは違うとパウロは言いましたが、それは隠された奥義であり、また世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。つまり、神ご自身がすでにお持ちになっている知恵であり、私たちは、神がその知恵を私たちに示してくださらないかぎり、知ることはできないのです。この世の知恵は、自分自身の経験によって体得することができます。けれども、神の知恵は受け取ることしかできないのです。ですから、クリスチャンの資質は、どのような経験を積んでいるかではなく、いかに神が示してくださっていることに順応しているかに掛かっています。


 隠された奥義とありますが、これは、今でも隠されているということではありません。昔は隠されていたが、今は、明らかにされている神の真理のことです。神がご自分の御子を遣わして、私たちを愛するために、御子を死に渡されました。このことは、昔は知られていませんでしたが、今は、現われています。神の、このことを、この世が始まる前からお考えになって、定めておられたのです。

 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

 この世の支配者、つまり、ローマ総督のピラト、ユダヤ人の王ヘロデ、そしてサンヘドリンのメンバーは、だれひとりとして、神のこの奥義について知りませんでした。ですから、イエスさまを十字架につけることに荷担したのです。

 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」


 この、備えてくださったものとは、キリストの十字架に他なりません。人は、このような形で神が救いを備えられるなどとは、思いも寄らなかったのです。だれにも想像できませんでした。けれども、私たちが、キリストの十字架にある神のみこころを知れば知るほど、この出来事がいかに知恵に富んでいるか、人を救うために十分かつ完全であるかを知ります。


 このように、神の知恵は、「目で見たことのようもの、耳で聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの」であります。私たちが目で見ること、耳で聞くこと、心に思い浮かぶことでは、神のみこころをはかり知ることはできません。主は、預言イザヤをとおして、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。(55:8」と言われました。ですから、私たちはつねに、意識的に、神の御顔を求めなければいけないのです。私たちは日々の生活を歩んでいます。そこで、自分が身につけた経験、知識があります。これらは良いものです。けれども、それらの経験や知識によって、神に近づくことはできないのです。コリントにいる人々は、そうした経験や知識によって神に近づこうとしたので、自分を誇り、争いになり、仲間割れをしていたのです。けれども、神のみこころはつねに逆説的です。ですから、私たちは、神のみこころを知るためには、へりくだって、幼子のように、主を待ち望まなければいけないのです。

2B 御霊による理解 10−16

 そこでパウロはこう言います。神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

 パウロは、「啓示」という言葉を使っています。啓示は、神が私たちに示してくださることであり、私たちは、それをそのまま受け入れるしかできません。神はこの啓示を御霊によって与えられます。先ほどは、御霊に力についてパウロは話しましたが、ここでは御霊の知恵について話しています。私たちはとかく、このような聖書の学びは知的作業だと思っています。そして、御霊とは経験すること、何かを感じることであると考えがちです。福音派と呼ばれているところは、そのために御霊の働きについて調べようとはせず、聖霊派と呼ばれている人たちは、経験を追い求めます。しかし、聖書の学びは知的なことではなく、霊的なことなのです。御霊が力強く働かれて、それで初めてその目的が達成されるのです。


 御霊は、三位一体の神のうちで、私たちの霊と直接的に交わっておられる方です。この御霊は神ご自身であり、神の深いところもすべて知っておられます。ですから、御霊が私たちに教えられるときに、私たちは神のことを知ることができるのです。

 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

 だれかが何を考えているか、何を思っているかは、その本人しか分かりません。その人のうちにある霊のみが、その人の心を知っています。同じように、神のみこころは、神の霊である聖霊のみが知っておられるのです。ですから、私たちが自分自身で神を理解しようとすることは、他の人の心の中にあることを知ろうとするようなものであり、それは不可能なことなのです。


 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。

 神の御霊は、神の恵みを私たちに知らせます。神が私たちにどのようなことをしてくださったかを知らせます。不信者の人も、キリストの、「隣人を愛しなさい。」という教えには同意することがいるかもしれません。なぜなら、それは人が行なうことだからです。けれども、神が行なわれること、神が人間にしてくださっていることは、不信者の人はどうしても理解できないことが多いのです。神の恵みを知るのは、御霊の働きが必要なのです。

 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。

 
ここが大事な聖句です。私たちに与えられた神のことばは、御霊によって与えられました。そこで、私たちが神のみことばを理解しようとするときに、みことばを与えた御霊ご自身が解き明かしてくださらないといけないのです。あまりにも多くの人が、自分たちの知識や知恵で、聖書のことばを理解しようとします。しかし、私たちは、まず祈らなければいけません。聖書を読む前に、ご聖霊が私たちに、みことばの理解を与えてくださるように祈らなければいけません。使徒は、「私たちは、祈りとみことばの奉仕に専念します。」と言いましたが、みことばを学ぶには、祈りが必要なのです。そして、ご聖霊に導かれなければいけません。そして、その与えられるところの理解によって、みことばを理解するのです。


 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

 生まれながらの人とは、御霊によって新たに生まれていない人のことを指します。この人は、神が発信されている信号を受信する器具を持っていない人です。新生していない人は、どんなに頑張っても、聖書に書かれてあることが分からないのです。みなさんも、聖書のことを未信者の方に分かち合うときに、葛藤をおぼえることがよくあると思います。そこにはっきりと書かれているのに、なぜわからないんですか、と思ってしまいます。私たちにとっては、あまりにも明らかなのに、論理的なのに、その人は理解することができないのです。それは、御霊が私たちのうちにおられるからであり、その人のうちにはおられないからです。御霊によって、御霊のこと、つまり神のみことばをわきまえます。


 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。

 御霊を受けている人、つまり御霊の支配を受けている人は、これらの霊的な事柄を理解します。けれども、他の人は、その人のことを理解することができません。その人が、なぜそんなに喜んでいるのかが、分からないのです。その人が、なぜそんなに落ち着いていられるのかが、分からないのです。なぜ、金もうけにならないことをそんなに一生懸命できるのかがわからないのです。自分のことが、他の人にはわきまえられません。

 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

 御霊によって支配されている人には、キリストの思いがあります。自分たちではなく、キリストが自分の思いを占めており、キリストがますます自分の願いや思い、判断の中で占めてくるようになります。


 みなさんはどうでしょうか。物事を判断するときに、キリストの思いになっているでしょうか。自分が見るようにではなく、キリストが見ておられるように見ているのでしょうか。それとも、コリントにいる人々のように、自分たちの判断に任せて、自分の思いや気持ち、自分の経験を頼りにして、教会のこと、聖書のことに取り組んだりしていないのでしょうか。私たちが理解することもみな、御霊によって導かれなければいけません。これから求めましょう。主が考えておられるように、自分たちも考えることができるように、また単にことばで語るだけではなく、実際の生活でキリストを信じているでしょうか。御霊に導かれる必要があります。


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