コリント人への第一の手紙4章 「キリストにある生き方」

アウトライン

1A キリストのしもべ 1−5
2A キリストのための愚かな者 6−13
   1B 高慢な態度 6−8
   2B へりくだり 9−13
3A キリストにある父 14−21
   1B 模範としての指導者 14−17
   2B 権威のある指導者 18−21

本文

 コリント人への第一の手紙4章を開いてください。ここでのメッセージ題は、「キリストにある生き方」です。

 私たちは今、コリントの教会における仲間割れの問題について読んでいます。ある人は、「私はパウロにつく。」といい、また別の人は、「私はアポロにつく。」と主張していました。キリストにあって、彼らは思いを一つにしなければいけないのに、彼らは分裂していました。そこで使徒パウロは、彼らがなぜ分裂しているのかを説明しました。分裂しているのは、彼らが、あたかも指導者につながっているかのようにふるまっていたからです。3章の最後のところで、「すべては、あなたがたのものです。そしてあなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」とあります。キリスト教のすべては、キリストを通した神との一対一との関係です。キリストを通した神以外に、他にいっさいの人や物をさしはさんではいけません。けれども、コリントにいたクリスチャンは、一つのグループに属することを第一としていました。そこでパウロは、彼らが依存していた教会の指導者たちが、どのような存在であるかを説明して、彼らの過ちを正しています。

1A キリストのしもべ 1−5
 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。

 パウロは、自分を含む教会指導者たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者であると言っています。キリストのしもべ、というのは、ローマのガレー船という船の底で、オールを漕いでいた奴隷のことを言います。ローマ社会には大ぜいの奴隷がおり、この種類の奴隷はもっとも低い位の奴隷でした。パウロは、コリントにいる人たちに、「あなたは、教会の指導者のことで議論したり、分裂したりしていますが、私たちは、一番下にいる奴隷なのですよ。」と言っているのです。「キリストの」しもべ、と言っていますが、パウロにとって、また他の指導者にとっても、キリストが主人なのです。キリストがすべてであり、キリストが中心なのです。


 そして、自分たちを、「神の奥義の管理者」とも呼んでいます。この管理者ということばも奴隷のことを話しています。家の主人の財産を管理して、必要なときにお金を引き出す働きをしていた奴隷です。光熱費の請求書が来たら、この奴隷が支払いをします。したがって、パウロのような教会の指導者たちは、自分たちの教えや考えを広めるのではなく、あくまでも神のことを忠実に伝えることが役目でした。この聖書が、私たちにとって神の奥義であります。神の知恵と富はすべて、神のことばに隠されています。ですから、教会の指導者は、この聖書に何か書かれているかを、自分の意見をさしはさまずに、忠実に解き明かすことがすべての役目となります。だから、「あの先生は、このようなことを話した。なんてすばらしいのでしょうか。」とか、「この先生のメッセージはどうしようもないね。」などという批評は、実に的外れであることがわかります。

 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

 パウロは、いろいろな批判や批評を受けていました。パウロ派ではない他の分派の人たちが批判していたのです。けれども、パウロは、そのような批判を受けることは、非常に小さなことである、と言っています。「パウロは、手紙には重みがあるが、実際に会ってみると、弱々しい。」とか、「話ぶりはなっていない。」などと批判されていましたが、彼は、そうしたことに気を留めていませんでした。また、自分自身でもさばきません。「あのとき、私はこうやっておけば良かったのだろうか。あのときはどうだっただろうか。」など、自分自身で自分のことを評価しようとも思いませんでした。なぜなら、パウロが自分のことを知っている以上に、自分のことを知っている方がいらっしゃるからです。次をごらんください。

 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。


 主イエス・キリストが、パウロを正しくさばいてくださいます。評価してくださいます。

 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。

 
主が、私たちを正しくさばくことがおできになるのは、私たちについて、そのすべてを知っているからです。自分が一人でいるとき、だれも見ていないときも、主がそれを見ておられます。また、私たち一人一人の心の中も、人間はだれも知りません。けれども、主は、私たちの心の中もみな知っておられます。このように、やみの中で隠れた事、心の中の動機にしたがって、主はさばかれるのです。パウロは、この主のさばきに、自分の身をゆだねているので、他の人の批判や批評が気にならなかったのです。


 したがって、パウロの姿勢は一言でいうと、「キリストを相手にした信仰生活」です。キリストのしもべとして、キリストがどのようなことを願われているかに、もっとも関心があります。神の奥義の管理者として、人が言っていることではなく、神が言われていることに最も関心があります。そして、キリストがさばく方なので、自分の評価を主にゆだねています。みなさんも、私も、このような生活を送ることができれば、とても楽になります。イエスさまは、「わたしの重荷は軽いからです。」と言われました。人を相手にして生きるのではなく、主を相手にして生きる生活です。人を喜ばせるのではなく、主を喜ばせようとする生活です。そして、まだクリスチャンでない人にも当てはまります。自分が、どこかの宗教に属さなければいけないと考えたりする必要はありません。周りのクリスチャンを喜ばせるようなことを話さなければいけないとか考える必要もありません。教会は、ただ、キリストが何を自分の心の中に語りかけているのかを聞く場所です。他の人の意見に左右されることなく、他の人の顔色を気にするのでもなく、ただ一心に、神とはだれか、キリストととはだれか、そして自分がどのような存在かを考えていけばよいのです。

2A キリストのための愚かな者 6−13
 そしてパウロは、コリントの人たちを叱りはじめます。彼は、コリントの人たちを個人的に、親密に知っていました。パウロの働きによって、この教会が建て上げられました。近しい者として、彼は、率直に、自分の今の気持ちを彼らに分かち合います。

1B 高慢な態度 6−8
 さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。

 パウロが初めにコリントに来て、教会を建て上げました。そして、アポロがあとに来て聖書を教えました。この二人は、決して競争する対象ではなく、むしろ、それぞれ神に任せられた役目を果たしたに過ぎません。パウロは、自分とアポロを例にとって、彼らの過ちを正しました。「書かれていることを越えない」とありますが、これは以前にパウロがコリントにいる人々に手紙を送ったのかもしれません。あるいは、聖書全般のことを話しているのかもしれません。いずれにしても、書かれていること以上のものを求めないように、と戒めています。今日の教会の中にも、書かれてあることを越えている動きがたくさんあります。今の教会はこういうところがダメであると批評して、「これからは新しい動きが必要である。」と言います。そして、聖書に書かれていないことを行ない始めます。けれども、ほんとうに私たちに必要なのは、新しい動きでもなく、新しいアイデアでもなく、基本に立ち返ることなのです。私たちが見失っていること、それを聖書の中で再び見出して、そこに立ち戻ることが必要です。


 そして、彼らのもう一つの問題は、「一方にくみして、他方に反対する」ことでした。これは先ほどお話したとおり、自分の居場所をキリストご自身に置かないで、教会の指導者であったり、一つのグループであったりすると、こういうことが起こります。キリスト教のABCは、キリストをとおした神との一対一の関係、個人的な関係です。これからずれると、コリントにいた人々のように言い争いが起こります。そしてパウロは、このような争いの元になっている罪を指摘しています。「高慢」です。自分のプライドによって、相手を引き下げ、こきおろそうとしてしまうのです。

 そこでパウロは、彼らの高慢な態度にメスを入れます。いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。

 コリントにいる教会は、自分がどこから出発したのかを忘れていました。罪と汚れの中から、キリストの十字架のみわざによって救われて、きよめられました。そして、御霊の賜物が与えられ、さまざまな知識と知恵が与えられました。けれども、これらはみな、神からいただいたプレゼントにしかすぎなく、彼らが自分自身も持っていたものは何一つありません。それなのに、「あの人は、あのようなことを行なっていない。」とか批判して、自分たちが持っているものを誇っているのです。私たちも、この高慢に気をつけなければいけません。いつも、自分がどこからスタートしたのかを忘れてはいけません。私自身、このように聖書のことばを取り次いでいますが、本当の自分を見ると、みなさんには決して話すことのできない恥ずかしいことを行なったり、思ったりしてきました。けれども、神の恵みによってここで話させていただくことができるわけです。みなさんも神から与えられた賜物がありますが、それはみな神の恵みによるものです。ですから、誇ることはできないのです。


 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。

 コリントにいる人々は、使徒たちから教えをすでに受けたのだから、あとは自分たちだけでやっていける。彼らの教えにたよる必要はない、というような態度を持っていました。彼らの考えは原始的で、自分たちはそれから進歩しているというような姿勢を持っていました。そこでパウロは、「私たち抜きで、王さまになっています。」と皮肉を込めて言っています。具体的には、彼らは、この世における繁栄を求めていたようです。お金持ちになったり、病気が直ったり、事業が成功したり、そのような目に見える繁栄が大事であると考えていたようです。パウロは、「満ち足りています。豊かになっています。」と言いました。けれども、使徒たちの教えは、まったく異なるものでした。


2B へりくだり 9−13
 そこでパウロは、使徒たちがどのような生き方をしているかを紹介します。私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。

 自分たちのことを死罪に決まった者、行列のしんがりとして引き出された、と言っています。ローマ帝国は、どこかの国を征服すると、その国の人々を奴隷として引き連れて、ローマにおいて凱旋します。その行列のしんがりに、その奴隷が見せ物になっています。使徒たちは、事実、つねに死の危険にさらされていました。使徒たちは、ヨハネを除いてみな殉教しました。

 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。

 パウロは、自分たち使徒のことを、「キリストのために愚かな者」と言っています。先ほどは、「キリストのしもべ」であると言いましたが、ここでは「キリストのために愚かな者」と言っています。コリントにいる人たちは、イエス・キリストを信じることによって、この世において認められた賢い者になると考えました。より名誉ある地位につき、より知的なレベルに達し、この世において評価されると考えたのです。しかし、それは間違いです。パウロは、キリストを信じて、キリストに従うことによって、この世では低められた者、さげすまされた者になると言っています。


 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。

 
使徒たちは、衣食住において非常に不安定な生活を送っていました。けれども、私たちの主イエス・キリストも、このように言われました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(ルカ
9:58また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。これも、イエスさまが通られた道であるし、また教えでした。「敵をも愛しなさい。」あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)」と言われました。このように、使徒たちの歩みは、主イエスさまに従う歩みでありました。

 私たちがクリスチャンであることは、この世において愚か者になることを知らなければいけません。この世において、へりくだる道、いやがらせを受けるかもしれない道、人に認められない道です。それは、先ほど説明しましたように、私たちの国籍は天に移ったからです。後に来る神の国において、大いなる報いを受けますが、この世においては外国人であり、住みずらいところとなっています。したがって、試練を受けたり、苦しみを受けたり、迫害されるのはクリスチャンとして当然のことなのです。ですから、私たちは、目に見えないものに目を留める者とならなければいけません。この世における幸せや繁栄ではなく、むしろ、天における報い、栄光に目を留めることにより、私たちは、この世の苦しみを耐え忍ぶことができるのです。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:18」とパウロは言いました。

3A キリストにある父 14−21
 そしてもう一つ、パウロがコリントにいる人々に示した、キリストにある生き方は、「父」としての生き方です。

1B 模範としての指導者 14−17
 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。

 今、かなり強い口調でありましたが、それは愛する子どもとして、さとすためであった、とパウロは言っています。人を愛するとき、とくに自分の子を愛するとは、その子を叱り、懲らしめることも含まれます。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(ヘブル
12:6」と箴言には書かれています。パウロが何で、コリント人たちにそのようなことを言えるのか、次を読むと分かります。

 たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。


 コリントにある教会は、パウロによって始められました。その後に、数多くの教師たちが訪れたようです。その中には偽教師、偽使徒も一部いました。彼らは、自分たちがコリントにある教会で活躍することができるように、パウロの信頼を落とすようなことを言いました。パウロの教えがいかに間違っているかをとなえて、自分たちの主張を受け入れてもらおうとしたのです。しかし、彼らは所詮、養育係です。いろいろなことを話しても、それはことばだけのもの、空論にすぎませんでした。けれども、パウロは違いました。教会を始めるとき、パウロは教えるだけではなく、その教えに裏付けされた生き様を、コリントの人たちに見せていたのです。


 そこでこう言います。ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。

 パウロは、コリントにいる人たちに対して模範となる生き方をしていました。人々に命令して、自分に服従させるような主人としてではなく、自分自身が、自分が教えるところにしたがって生きる父として生きていました。支配者ではなく模範として、ということは、使徒ペテロも教会の指導者に対してこのように話しています。「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(Tペテロ
5:3」私はアメリカにあるカルバリーチャペルという教会で奉仕をしていました。私は牧師訓練校の学生として、そこで奉仕をしていたのですが、ふつう、そのような立場ですと、使いっぱしりというか、何でも命令されたものを行わなければいけない、というイメージがあります。ところが、事実は逆でした。例えばトイレ掃除、これらを牧師が率先して行ないます。だれにも命じたり、頼んだりしません。教会の窓拭き。これも、そうでした。牧師の一人は、私たち学生に命じることなく、自分でどんどん拭いて行きました。けれども、私は、「ああ、教会の中ではこのようにして奉仕をするんだ」と、彼らの姿を見て学ぶことができたのです。命じられるのではなく、模範を見て、それを真似することができるようにしてくれています。父親が子を教えるときも、そうでしょう。父は模範を示さない限り、小さな子どもは父に従うことができないのと同じように、パウロもコリントにいる人たちに、模範を示したのです。

 そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

 テモテは、いつもパウロのかたわらにいたパウロの同労者です。テモテは、パウロと同じ思いになっていたと、他の個所で書かれています。パウロは今、コリントに行くことができませんが、彼が代わりに行くことによって、パウロがどのように生活していたかを思い起こすことができました。


2B 権威のある指導者 18−21
 私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。

コリントの教会に、とくに問題を持った、使徒の教えから逸脱した考えを持っている者たちがいたようです。

しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。神の国はことばにはなく、力にあるのです。

ことばではなく、力にある。これも指導者の資質でしょう。神の真の指導者には、大きな権威が与えられています。その権威は、人がいくら、「私に従いなさい。」とまくしてても出てこないものです。自然と人々が従うことができるような、実質的な力を持ちます。そこで、パウロはコリントにおいて、霊的な父としてそのような力を持っていました。他の人たちは、ことばによっていろいろ議論し、パウロを批判し、さまざまなことを言ったり行なったりしますが、パウロが来れば、そのような批判はみなかき消されてしまい、彼らがおじげづいてしまうのです。これも、父が子に対してもっている権威です。

あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。


むち、というのは、罪を犯している者を教会から追い出すことを話していると思われます。そのような厳しい処置を取るのですか、それともそのようなことをする必要はなくなるのでしょうか、と聞いています。


 ですから、キリストにあるパウロの生き方は、父としての生き方です。人々が自分に従わせようとするのではなく、自分がキリストにならっていくことによって、模範を残したのです。それゆえ、彼の言葉や行ないには、権威がありました。それは、人をしいたげるような力ではなく、人々が自発的に従っていくような、愛に裏付けされた権威です。

 パウロは、「私にならってください。」とお願いしました。彼の生き方は、第一に、キリストのしもべでした。これは、人ではなくキリストを相手にする生き方です。第二に、キリストにあって愚かな者となる生活です。この世での繁栄、この世での名声を捨てて、栄光に輝く神の国を見上げながら生きる人生です。そして第三に、キリストにある父としての生き方です。ことばで教えるだけではなく、その教えの中に生きる生活です。キリストのみを見上げて、神の国を待ち望み、そして、キリストの中に生きる、そうした単純な、慎み深い生活を、神は私たちに求められています。


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