コリント人への手紙第一8章 「知識よりも大切なこと


アウトライン

1A 神を知ること 1−3
2A 他の人を知ること 4−8
   1B 自分の確信 4−6
   2B 他人の確信 7−8
3A キリストを知ること 9−13

本文

 コリント人への手紙第一8章を開いてください。ここでのメッセージ題は、「知識よりも大切なこと」です。

 私たちは、コリント人への手紙を読んで、一つのテーマを学んでいます。それは、肉的なクリスチャンから霊的なクリスチャンに成長しなければならないことです。コリントにある教会は、御霊に支配されていない、肉的な幼いクリスチャンがたくさんいました。そのために、御霊の実である愛を見ることができずに、肉の行ないが目立つような教会でありました。まず、仲間割れの問題がありました。キリストにあって私たちは一つなのに、それぞれがグループに分かれて分派をつくっていました。それから不品行の問題がありました。平気で結婚外の性交渉を行なっている人がいました。そしてさらに、8章からは偶像礼拝についての問題が明らかにされています。偶像の宮に入って、そこに供えられた食べ物を出している食堂で、食事をしている人たちがいました。「私たちは、別に偶像を拝んでいるわけではない。偶像なんて、ただの石や木で造られた者だ。クリスチャンになったのだから、迷信に振り回されず、自由にふるまっても良いではないか。」と考えていました。パウロは、それがやはり偶像礼拝であることを10章の中で指摘します。けれども、その前に8章においては、そのような自由なふるまいそのものが間違っていることを指摘しています。

1A 神を知ること 1−3
 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

 
コリントにいる人々は、偶像についての知識を持っていました。4節から説明が出ていますが、神は天と地を造られた創造主だけであって、偶像と呼ばれるものは木や石で造られたものであることを知っていました。けれども、彼らはその知識に基づいて、偶像の宮の中にはいって出される食べ物を食べていました。それは、多くの人には、宗教的な意味を持ち、その偶像との交わりをしているものだと考えられていました。けれども、彼らは、クリスチャンは自由であるとの考えに立ち、そのような場所で食事をしていたのです。そこでパウロは、「みな知識を持っていますが、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」と言っています。彼らは、自分たちのことだけを考えていて、相手がどのように思おうが関係がないように振舞っていたのです。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。このことばを読んで、私は、自分が小学校高学年のことのことを思い出します。学校で習ったことを身に付けたから、自分は他に何を習う必要があるのか、ぼくは世界のことをみな知っているではないか、などと高ぶっていたことを思い出します。このように、知らない人ほど自分は知っていると思うのです。知っている人は、自分がいかに知らないかを知ることができます。


 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

 
ここがとても大切なことばです。パウロは、人間が身に付ける知識と、神を知る、あるいは知られることを区別しています。私たちが、聖書を学び、神についての知識を身に付けることと、神を個人的に、人格的に知っていくのとは別問題なのです。


 聖書では、神を信じるという信仰は、単に信条を信じることを意味していません。信仰とは、神に対する全人格的な信頼であり、子どもが親を信頼するような、全面的な依頼心です。自分で理解して納得すれば、それが信仰なのではありません。けれども、コリントにいる人々は、神についての知識を身に付けていて、神ご自身を知ることはありませんでした。したがって、神という存在は、彼らにとって抽象的な存在になってしまい、実際の日常生活に彼らが得た知識が生かされることがなかったのです。そこで、彼らは、分派、不品行、そしてここでは偶像礼拝の問題を持っていました。そこで、私たち自身のことを考えてみましょう。私たちは、このように聖書を学んでいます。けれども、聖書の知識を身につけることでここに来ているのであれば、それは間違っています。そうではなく、自分と神との関係、そして、私たち互いの関係をどのように愛の関係にしていくか、ということを課題にして来ることが必要なのです。聖書を学んでいますが、これは礼拝です。生きている神と出会う場です。自分の心の奥底で、神の声を聞くための場です。聖書のことが分かるから来るのではなく、神を愛するために来るのです。

 そして、ここに、「神に知られるのです」と書かれています。神を知るのではなく、神に知られているとあります。愛するご自分の子どもとして、知られるようになります。神ご自身がその人のうちで働かれているのを、他の人が見ることができます。「私はクリスチャンです。私は神を知っています。」と言うことから、他の人が、「あの人はクリスチャンなんだ。神があの人には付いていてくださるんだ。」と、神に知られている人に変えられていきます。

2A 他の人を知ること 4−8
 このように、知識よりも、神との個人的な、人格的な関係が大切であることが分かりました。次に、知識だけでなく、他の人のことも知ることが大切であることが書かれています。

1B 自分の確信 4−6
 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

 唯一の神、天と地を創造された主のみが存在するという知識です。確かに、お地蔵さんがあったり、神棚があったり、いろいろな神々と呼ばれるものはありますが、それは石や木にしかすぎません。その石には目はありますが、私たちを見ることはできません。口がありますが、私たちに語りかけることはできません。耳があっても、私たちの言うことを聞くことはできません。石にしか過ぎないのです。しかし、本物の神は、すべてのものを造られた方であり、生きておられます。目に見えなくても、私たちのすべてのこと、心の中のこともすべて見ておられます。また、私たちに、神のことばを通して、語りかけてくださいます。また、私たちの祈りを聞くことができます。地蔵や神棚は単なる石や木だけれども、創造主は生きておられる、という知識です。


2B 他人の確信 7−8

 それでは、このような偶像に対して、私たちは、神社で賽銭を投げたり、また死人に対して焼香をたくことができるのでしょうか。それは、単なる物質にしかすぎないから、偶像に対して何をしても良いのでしょうか。その答えは10章に書いてありますが、「彼らのささげる物は、神にではなく悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(20節)」と言っています。偶像の背後には悪霊が存在しており、悪霊との関係を持つことになることになります。したがって、これらの行為を避けなければいけません。

 けれども、パウロは、偶像の宮で食事をすることが偶像礼拝であるかどうかの論議は、ここでは行ないません。そうではなく、他のクリスチャンが偶像に対してどのようなことを考えているのかを紹介します。

 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。

 偶像の宮で食事をすることは、だれもが偶像を拝んでいるものであることを知っていました。そして、実際にその偶像が生きているものだと思って、その食事を取っていました。このような人たちがクリスチャンになります。確かに、そのような偶像は生きていないのだけれども、今までの習慣から、これら神々と呼ばれるものを意識して食事を取ってしまう人たちもいたのです。

 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。

 
もちろん、食べること自体は、神との関係において問題とはなりません。ある人が菜食主義者で、ある人が肉を食べても、別に菜食主義者がもっと霊的になるのでは決してありません。


 しかし、ここでパウロは、自分たちの知識の他に、他の人々の知識を紹介していることに注目してください。自分だけではなく他の人たちもいるのだ、という認識です。自分だけではなく、他の人たちもいれてキリストのからだだ。私ではなく、私たちの神である、という意識です。もしみなさんが、一人でここで聖書を学びに来ているとお思いでしたら、神さまの現実の半分も見ることはできないでしょう。自分が知るだけではなく、他の人がどのように考えているのか、知っているのかをいつも関心を寄せて、共有していくことが必要なのです。知識よりも大切なこと、それは他の人を知ることです。

3A キリストを知ること 9−13
 そこでパウロは次に、偶像の宮で食事をしていることの核心に迫ります。彼らが、他の兄弟たちをかえりみない行為は、彼らに対する罪、またキリストご自身への罪である、とします。

 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。

 つまずき、という言葉が出てきました。これは、聖書では、「罪を犯させること」という意味になります。キリストのとの歩みを、罪を犯させることによってつまずかせてしまいます。

 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。


 みなさんが、あるクリスチャンに信頼されて、尊敬されているとします。あなたが、例えば、居酒屋に行ってお酒を飲みます。実は、私は、ある教会で、そこのスタッフが教会員を連れて、キャバレーに行ったことを知っているので、これはたとえではなく半分実話ですが、居酒屋に行ってお酒を飲みます。そこで、比較的最近クリスチャンになった人が、気分がすぐれなくて、いろいろなことで疲れていて、悩みを持っていました。目の前に出されたお酒を飲み始めました。そして、ぐでんぐでんに酔っ払い始めました。その後、しばらくして、彼は教会から離れてしまいました。これが、パウロがここに書いていることであります。「信頼できるこのクリスチャンがしているのだから、自分も同じことをしても大丈夫だろう。」と思わせることです。そこで、罪を犯させて、つまずかせることになるのです。


 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

 ここが大切です。キリストはその兄弟のためにも死んでくださった、という真理です。キリストは、どこか空中におられるのでもなく、自分の頭の中におられるのでもなく、実にクリスチャンの生活のど真ん中におられます。ですから、その人の霊的生活を踏みにじることは、キリストご自身を踏みにじっているのです。イエスさまは、終わりの時に、諸国の民をご自分のところに集められます。そこで、ある者は右に、また他の者は左により分けられました。右にいる者には、「あなたがたは、わたしが空腹であったときに、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る者を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」と言われました。右にいた人たちは、何のことだかさっぱり分からなく、そんなことをした覚えはない、と言うと、イエスさまは、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」と言われました(マタイ25)。このように、イエスさまは頭の中の抽象的な存在ではなく、一人一人の兄弟の生活の中に自分も一体化させてしまわれています。したがって、私たちは、一人でクリスチャンとして生きることは、決してできないわけです。キリストを信じるということは、他の兄弟を愛することと同義語であり、自分がキリストを信じるためには、教会に来なければいけないのです。


 ですから、知識よりも大切なことは、兄弟たちを通してキリストを知っていくことなのです。神を知り、他の人たちが何を考えているのかを知り、そして、キリストご自身を知っていきます。

 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。

 パウロは、先の章で、「すべてのことは許されたことですが、すべてが益になるわけではありません。」と言いましたが、自由なふるまいは必ずしも益にならないのです。兄弟を愛する愛のゆえに、私たちはその自由を制御する、制限する必要があります。私たちが生きている日本においても、コリントにあるような同じ問題をかかえています。偶像礼拝、酩酊、不品行など、私たちクリスチャンが取り組まなければいけないことです。そのときに大切なのは、自分がどのような知識を持っているかではありません。自分がではなく、一般的に、また他の兄弟たちがどのように考えているかを意識することです。自分の信仰は自分で保ってください。そして、ここに来ているのは、神ご自身に出会うためであり、兄弟との交わりを通してキリストを知ることなのです。



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