左翼と右翼とキリスト者 2002/03/05

 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。(コリント人への手紙第一9:19)

(以下の文は、掲示板にてある方との議論をしていたときに、私が補足解説をしたときのものです。)

「国」であっても、また「家族」「夫婦」すべてにおいて共通することをお話したいと思います。それは、みことばに従わない国、親、夫がいるときに、どのようにして、自分をそれに従わせるのか、ということです。

一つの方法は、これら神のみこころにそむいている人々に、反抗し、闘うことです。これを政治的には「左翼」と呼びます。もう一つの方法は、とにかく命令されているのだから・・・と盲従することです。これを政治的には「右翼」と呼びます。

しかし、キリスト者はそのどちらをも選択しません。第一に、キリスト者は、神とキリスト以外の、いかなる権威、力ある者にも従属しない自由人です。パウロは「私はだれに対しても自由です。」と言いました。(1コリント9:19)この点がどこまで確立されているかによって、夫婦関係、家族関係、国と自分との関係への解決が与えられます。女の人が、キリストにあってその愛と必要と守りが確立されていればいるほど、夫の動きによって左右されることがない、ということです。

第二に、権威から自由にされていればいるほど、矛盾しているようですが、自分がその権威に従わせることができます。パウロは、「より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(1コリント9:19)と言いました。その時に、みことばに従わない夫に左右されることなく、むしろ「攻め」の姿勢で臨むことができ、彼に従順であることによって、彼をキリストへと獲得することができるのです。

例えば、ある婦人が、不信者の夫から、仏壇への供え物を行なうように、強く迫られたとします。そのときに、「夫に従いなさいと聖書に書いてあるから、供えなければ」と考えるでしょうか。それとも、「これは偶像礼拝なのだから、拒否せねば」と考えるでしょうか。この一見矛盾した二つの命令をどのように従えば良いのでしょうか。答えは、こうです。「あなたは、夫ですから、あなたの言われるようにします。もし、私が仏壇に供え物をしないことによって、あなたが私を離縁するのでしたら、そのあなたの命令にも従います。」信仰の良心に従いつつ、なおかつ自分の行動への責任を取ります。

これが社会レベルでは、あの有名なキング牧師の「公民権運動」でした。黒人差別を定める法律にあえて背きますが、法律を違反したことによる責任を、罰金や服役によって取りました。ですから、もっとも大切なのは、このすべての行動の源である「キリストにある自由」がいかに自分のうちに確立されているかです。これが確立できれば、その後の行動も自ずとすることができるようになります。

マザーテレサは、この確立がしっかりできていた人です。だから、人業ではない、まさに「神の慈善」を行なうことができました。けれども、同じことを行なおうとしても、このキリストとの関係が確立していないと、愛を与えなければいけない団体で逆に愛を求めるという、奉仕(=与える)とは裏腹のことを行なってしまうのです。

(詳しいことは、マルチン・ルターの「キリスト者の自由」(岩波文庫)をお読みください。名著です。)


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