ヨハネの手紙第一1章 「御父と御子との交わり」

アウトライン

1A 永遠のいのち 1−4
   1B 私たちが見たもの 1−2
   2B 全き喜び 3−4
2A 光の中を歩む 5−10
   1B 光なる神 5−7
   2B 罪の告白 8−10

本文

 ヨハネの手紙第一1章を開いてください。ここでのテーマは、「御父と御子との交わり」です。さっそく本文に入りましょう。

1A 永遠のいのち 1−4
1B 私たちが見たもの 1−2
 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

 ヨハネは手紙を書き出すにあたって、「いのちのことば」について紹介しています。同じヨハネによる福音書の冒頭部分と似通っているので思い出すと良いでしょう。ヨハネによる福音書1章は、「はじめに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は初めに神とともにおられた。(1−2節)」との書き出しがあります。続けてこうあります。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(3−4節)」いのちのことばです。

 「初めからあったもの」とありますが、これはもちろん、天地創造の前からずっとあったものということです。イエス・キリストが永遠の昔から存在されているということです。そして、永遠の昔からおられる神が、人となって私たちの間に住まわれたというのが、偉大な奥義です。パウロがテモテに、「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。『神は肉において現われ』(1テモテ3:16)」と言いました。

 ですからヨハネは、イエスさまがお話になっているのを聞き、イエスさまの姿を見て、またイエスさまの体に触れたのですが、それは、永遠の昔からおられる、天地万物の創造者がお語りになり、創造主の姿が今ここにあり、そしてヨハネがイエスさまの肩に手を触れたら、それは天地万物の主の肩に触れているということになります。このようなとてつもないことが起こっていたことを、ヨハネは今証言しているのです。とくに、「じっと見」という言葉は、注目に値します。ただ見えるのではなく、この言葉は研究対象をじっくりと見て、観察する意味を持っています。イエスさまをじっくりと見て、そして触ることさえした、ということです。これはおそらく、イエスさまが復活された後に、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。(ルカ24:39)」と言われたところを言及しているのでしょう。

 ・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・

 永遠のいのちとはイエスさまがご自身のことであり、イエスさまご自身を持つことが、永遠のいのちを持つことになります。しばしば、永遠のいのちが、天国に行くための切符のように語られますが、イエスさまはヨハネの福音書で、「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。(17:3)」とお語りになりました。ヨハネの手紙にも、「御子を持つものはいのちを持っており、神の御子を持たないものはいのちを持っていません。(1ヨハネ5:12)」と書かれています。

2B 全き喜び 3−4
 こうして、初めからおられ、父なる神とともにおり、天地万物を創造した方を、聞いて、見て、さわることさえできるほど、神と人との距離は狭まりました。受肉によって、神と人とが交流できるようになりました。そこでヨハネは、私たちを、御父と御子への交わりの中に招き入れます。

 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 ヨハネが見て、聞いたイエスさまとの交わりを、あなたがたも経験することによって、お互いの交わりをしましょう、ということをここで話しています。「交わり」という言葉は、私たちが普段使う「交流」というような浅い関係ではありません。ギリシヤ語の意味は、「一つになる」ということであり、私たちが神と一つになるということです。もちろんそれは、私たちが神になるとかそういうことではありません。男と女が一心同体になると創世記に書かれていますが、同じように、神と人が親密な関係において結びつくということです。

 私たちは、人と人の間でも親密な交わりをすることができずにいます。それぞれ隠すべきことがあり、それを分かち合うことは難しいです。ましてや、聖なる神との交わりは不可能です。シナイ山において主が現われたときに、山のふもとには杭があり、人々は神の声を聞いて、自分たちが死んでしまうのではないかと恐れました。けれども、イエス・キリストが人となって現われてくださいました。火と炎をもって焼き尽くすようなかたちで現われたのではなく、人々がすぐに近づくことができるように、へりくだり、優しい姿で現われてくださいました。そして、主が、ご自分の血を流していのちをささげてくださったことにより、私たちと聖なる神との間にある断絶は、完全に埋められました。キリストの流された血によって、私たちの罪はすべて赦され、きよめられました。今は神とキリストにあって、一体となるほどの交わりを持つことができるようになっているのです。

 ただ、この「交わり」は私たちがイエスさまを信じた後に、具体的なかたちで、経験として楽しむことができます。クリスチャンであるのに、イエスさまとの交わりを楽しんでいないのであれば、それは非常に残念なことです。人が造られた目的は、罪を犯す前のアダムのように、神との交わりだったのです。そこでヨハネは、キリストにあって神と一つにされた私たちが、本当にその交わりを楽しむことができるように招いているのです。そして、この交わりに導くことが、この手紙が書かれた一番の目的であります。

 そして、御父と御子との交わりをするからこそ、他のクリスチャンとの交わりも可能となります。私たちはお互いに異なる性格、背景、性別、学歴、国籍、民族を有しています。同じ性別、同じ背景、同じ学歴などでつながることを求めて教会に来るのであれば、教会ほどつまらないところはないでしょう。職場でも、いろいろな人と付き合って、人間関係で疲れるのに、なぜ教会に来てまでその摩擦を味わなければいけないのか、と思います。けれども、教会では、キリストとの交わりをする目的があるのです。キリストとの交わりを目的とすれば、他のクリスチャンからもそのキリストが分かち合われます。お互いにお互いを知り合うというよりも、お互いをとおしてキリストを知り合っていくという現象が起こります。教会にて期待するのは、唯一、「イエス・キリスト」なのです。

 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 私たちが御父と御子との交わりをしていく中で、喜びの実が結ばれます。イエスさまは、弟子たちにこう語られました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:11)」と言われました。

 私たちは、「幸せ」という気持ちは、キリストから離れても抱くことができます。何か良いことが起これば、私たちは幸福な気持ちになります。けれども、幸せは、すべてその状況によるものであり、状況が変われば、幸せも過ぎ去ってしまいます。けれども、イエスさまが与えられる喜びは、どのような状況の中にあっても、変わることなく与えられるものです。神は御座におられて、キリストは昔も今も、これからも変わることはありません。主がともにおられることを知り、主が今どのようなことをしておられるのかを知り、またこれから何をしてくださるのかを知るときに、私たちは、たとえ感情的には悲しんでいても、自分の霊では深い、静かな喜びをかみしめることができます。その典型的な例が、愛する家族の一員が、キリストにあって天に召されるときです。目からは涙が流れ出ますが、霊においては、「ひと時の間、離れているにしか過ぎない。またすぐに会えるのだから。」という確信が与えられています。そこに、ことばには言い尽くすことのできない栄えに満ちた喜びがあるのです。ですから、神とキリストとの交わりの中には、喜びがあります。

 ところで、この4節は、「私たちがこれらのことを書き送るのは」と、手紙を書き送る目的を、明確に述べています。実はこの個所のほかに二つ、目的を明確に書いてある部分があります。一つは、2章1節です。「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」とあります。そして、5章13節には、「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」とあります。したがって、ヨハネがこの手紙を書いた目的は第一に、私たちが喜びで満ちあふれることです。キリストとの交わりをとおして、喜びあふれるようにしたいということです。第二に、罪からの解放です。罪の罰から私たちは解放されていますが、罪の力からも解放されています。罪を犯さないようにするためにこの手紙を書きました。第三に、救いの確信です。自分は永遠のいのちを持っているのかいないのか、救われているのかどうか分からない、のではなく、確かに救われていると確信を持ってほしいと願っています。私たちが喜んで、罪から解放されて、そして救いの確信を得ているという三つの目的で書いています。

2A 光の中を歩む 5−10
 次に、御父と御子との交わりにおいて、知っておかなければいけない大切なことをヨハネは取り上げます。

1B 光なる神 5−7
 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

 「神は光である」という言葉は、神の本質を表しており、単に神に属する性質を表しているのではありません。ヨハネの手紙には、他に、「神は愛です(4:16)」という言葉があります。これは、「神は愛を持っている」とは異なって、神の本質が愛であって、愛ではないものを神は持っていない、ということになります。同じように、神は光です。「光」とは、聖書では「聖さ」を表しています。神には、いっさい罪や汚れや悪と言った暗やみの部分が何一つない、ということです。そこで、次の問題が出てきます。

 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。

 「もし・・・言っていながら」とありますが、この言い方は次の8節と10節にも出てきます。「もし、罪はないと言うなら」と、「もし、罪は犯していないと言うなら」です。私たちが言っていることと、行なっていることが異なることがしばしば起こります。ここでは、「私は、神さまとの交わりを持っています。」と言っても、交わりをしているとは思えない行ないをしていることがあります。神は光ですから、神と交わりを持っているなら、私たちもまた光の中を歩んでいるはずです。けれども、悪を行なっているなら、「交わりを持っている」と言っても、それは真実ではない、偽りなのです。

 私たちクリスチャンは、とかくこの過ちを犯します。自分は神との交わりがある、と言います。確かに、クリスチャンらしい宗教的なことを行なっているかもしれません。教会に行くかもしれません。けれども、罪を行なっているなら、その人は神との交わりから外れている、と言えます。ここで間違えていただきたくないのは、手紙の中で、クリスチャンが永遠のいのちを持っていることを確信してほしいとも言っていることです。神との永遠の交わりは約束されています。けれども、実際に、この地上にあって主と交わり、そこに喜びが全うされるためには、罪の問題を処理しなければけません。罪を犯しているときに、主の臨在を感じることはできません。自分の魂がからっからに乾きます。礼拝は儀式的なものになってしまいます。罪の悔い改めと告白なしに、真の喜びを得ることはできません。ですから、交わりがあると言いながら暗やみの中にいれば、偽りを言っているのです。

 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 私たちと神との交わりは、ここに書かれているとおり、「御子イエスの血」によっています。ここできよめるという動詞が、「きよめます」とあるように現在進行形で書かれてあることに注目してください。イエスさまが流された血は、私たちがイエスさまを初めて信じたそのときにだけ適用されたのではなく、私たちの日々の生活において、絶えずあてがわれているのです。絶えず、その血によってきよめられていることによって、聖なる神と私たちが一つとなることができます。

 このことを忘れると、私たちは初めに福音を信じたときは、信仰によって罪をきよめていただいたのに、その後に、自分の行ないによってきよめられようと努力してしまいます。これは実は、カトリックの教理です。過去の罪は赦されて、それからは洗礼式や聖餐式などの秘跡を通して、キリストの恵みにあずかるという行ないによるきよめを教えています。けれども、私たちの行ないではなく、キリストの血が私たちをきよめ、その一瞬たりとも離れることのない血のあてがいによって、私たちは神と交わりを保つことができるのです。

2B 罪の告白 8−10
 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 神との交わりを阻むものは、今話したように「罪」ですが、今度は、罪について、私たちが陥りやすい過ちについてヨハネは説明しています。ここでは、「罪はない」と思うことです。イエスを信じて、罪は取り除かれたのだから、私には罪はないと思うことです。これは、間違っています。私たちは、立場的にはキリストにあって正しい者とみなされましたが、罪の性質は持ったままです。

 自分はクリスチャンになったのだから、ある程度正しさは身に付いたのではないか、と考えたら大間違いです。自分の実質はイエスさまを信じたときから最後まで、何一つ変えられることはありあません。自分は腐った、汚い罪をずっとこのからだに宿したままなのです。これが変えられるのは、主が天から下ってこられて、私たちが空中に引き上げられるときです。そのときに、天からの新しいからだに変えられて、キリストに似た者となるのです。

 ですから、それまでの間、私たちは、信仰によって自分が罪に対して死んだと、みなしながら歩まなければいけません。立場として与えられている、キリストとともに十字架につけられたという真理を、信仰をもって受け入れていくのです。私たちは徐々に徐々に、自分が良くなっていくのではなく、「暗やみの中にいるか」「光の中にいるか」のどちらかでしかないのです。初めにクリスチャンになったときと全く同じような新鮮さと、素直さによって、キリストに拠り頼むことをしていかねばならないのです。

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 罪がないと言えばそれは偽りですが、罪を言い表せば、それは真実なことです。「言い表す」あるいは「告白」するという言葉は、しばしば誤って用いられています。この意味は、ただ口に出すということではなく、神が自分を見ておられるとおりに、自分を見るという意味です。神が、嘘を憎んでおられるのなら、自分も嘘を憎みます。「罪を言い表したら、それで赦されるんだろう。」という安易なものではありません。「これは罪です。だからこれからも、これをあなたが見ておられるように、自分も憎みます。」という立場の表明をします。

 そして福音は、その罪が赦されるだけでなく、すべての悪からきよめられる、ということです。私たちがどんなにがんばっても、完璧になることはできません。自分が罪を言い表しても、他に気づいていない罪があるかもしれません。しかし、それによって神から疎外されることはないのです。神は、私たちが気づいていない、知らない罪や汚れをもすべてきよめて、そうして交わりを回復してくださるのです。

 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

「私の罪はなくなった」というのが、自分を欺いているのであれば、「私は罪を犯していない」というのは、神を偽り者とすることになります。神のみことばの光によって、自分の罪が明らかであるのに、それでも「私は罪を犯していない」というのであれば、その人は神は嘘をついており、自分が正しいとしていることであり、神のみことばがその人のうちにありません。

 以上ですが、本当に実際的な主との交わりへの招待を読むことができました。いのちのことばは、初めからあったものですが、私たちがじっくりと見て、さわることができるほどのものになりました。そしてその交わりの中で私たちは喜びに満たされることができますが、それに必要なのは光の中を歩むことです。そのときに、私たちは自分に罪があり、キリストの血によって絶えずきよめられていることを忘れてはいけません。自分が罪を犯したのなら、そのときは、神が見ておられるように自分を見て、そのようにみなしつづける必要があります。神のみことばを自分のうちにとどまらせるのです。


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