ヨハネの手紙第一3章 「神の子ども」

アウトライン

1A 義を行なう者 1−9
   1B キリストの現われ 1−3
   2B 律法に逆らう罪 4−9
2A 兄弟を愛する者 10−24
   1B 死といのち 10−15
   2B キリストにある愛 16−24
      1C 行ないと真実 16−18
      2C 真理への所属 19−24

本文

 ヨハネの手紙第一3章を開いてください。ここでのテーマは、「神の子ども」です。前回学んだ2章の、最後の節を見てください。「もしあなたがたが、神は正しい方であること知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。(29節)」とあります。神から生まれることについてヨハネが話し始めました。3章では、私たちが神から生まれること、または神の子どもであることが書かれています。

1A 義を行なう者 1−9
1B キリストの現われ 1−3
 私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。

 父なる神が私たちを愛してくださり、ご自分の子にしてくださいました。ヨハネの福音書1章12節には、「この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。私たちは、神によって生まれ、神の子どもとされました。このようにして神は、私たちを愛しておられ、私たちにとってこの方がすでに父となっておられます。

 昨日、いつものように子どもたちに英語と聖書を教えましたが、クラスを始めるときに祈りをしました。私はいつも、彼らの聖書の知識に合わせて、「天と地を造られた神さま」という呼びかけをするのですが、時々、それが言いずらくなりました。そうではなく、「天にいるお父さま」と呼びかけました。単なる創造主ではない、この方を父と呼ぶような、愛の関係を神が与えてくださっておられます。かなり前のことですが、実家に戻ったときに、食事の前、小声で祈ったときに、父がその祈りを聞いていて、「お前は、お父さんのことをどう思っているのか?お前には私のほかに、父がいるのか?」と聞いて来たことを覚えています。父との関係はとても親しいものですが、しかし、それ以上の霊的な関係を、神と持つことができているとうことは、何とすばらしいことでしょうか?自分が御父から愛されており、安心することができます。

 そして、「世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」とあります。今の食前の祈りにもあったように、私の父は、私が天に父がおられることを理解できずにいました。ここで書かれているのはそのことです。御霊によって生まれた者は、自然に生まれた人からは、その親密な関係を理解してもらうことはできません。パウロは、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(1コリント2:14)」と言いました。その人自身が、御父を知ることなしに、私たちを理解することはできないのです。

 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。

 イエス・キリストの御名を信じる人はすでに、霊的に神の子どもになっています。けれども、後に、目に見えるかたちでも神の子どもなることが約束されています。ローマ人への手紙8章で、パウロは被造物が、滅びの束縛から解放されるために、うめいていることを話しています。そこに次のように書かれています。「被造物も切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。・・・被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。(ローマ8:19,21)」神の子どもたちの現われ、とか、神の子どもたちの栄光の自由というのは、御霊によって新たに生まれた人々が、自分たちのからだも贖われることを意味しています。つまり、復活のからだが与えられること、栄光のからだに変えられることを意味します。

 そのことが起こるのはここに書かれているとおり、「キリストが現われ」るとき、主が教会のために戻って来られるときです。主が戻ってこられる時に、私たちは「キリストに似た者」になります。ああ、なんとこの日が待ち遠しいことでしょうか!神が人をご自分のかたちにお造りになった姿に、私たちは回復されます。御霊によって私たちの霊が生きて、そこで神が願われることを行ないたいと自分も願い、この地上で残された日々を生きているわけですが、この時にはキリストに似た者、つまり罪がなくなり、神さまがデザインされたとおりの姿になります。

 なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 第一コリント13章にて、「今、私たちは鏡にぼんやりと映っているものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。(13:12)」とあります。イエスさまの栄光の御姿をありのままに見るのですが、見ることによって、私たちの姿が変えられます。ここで言っている「見る」とは、単に物理的に見ることだけではありません。「出会う」という言葉がふさわしいでしょうか。コリント第二3章16節には、「人が主に向くなら、その覆いは取り除かれるのです。・・・私たちはみな、顔の覆いが取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。(3:16,18)」とあります。主に私たちが出会うとき、そこにはきよさが流れ出ます。私たちは、キリストの御霊に触れれば触れるほど、その姿に変えられていきます。

 人はみな、自分が拝んでいる者に似てきます。自分がもっとも情熱をもって取り込んでいるものに、似てきます。その人にとって、例えば、コンピューターが最も大事になれば、その人の心もコンピューターみたいな、機械的なものになります。私たちは、キリストを礼拝することによって、キリストのかたちに変えられていくのですが、キリストが現われるときは、その姿を完全なかたちで見るので、私たち自身も完全に変えられるのです。

 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

 イエスさまによって変えられるという望みを持っているときに、私たちは罪の中で生きようと思わなくなります。この世のものはみな過ぎ去り、天においてはただ、神への賛美と礼拝があります。そこに参加するときに、自分が今行なっている罪を持って参加したいとは思いません。だから、主の再臨を待ち望むことは、自分が聖く生活していくための動機付けとなるのです。

2B 律法に逆らう罪 4−9
 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

 神の子どもとして生きることは、キリストに似た者になる生活です。そこでヨハネはこの4節から、神の子どもが罪の中に生きることはできないことを話していきます。

 ヨハネは罪を犯すことについて、初めにその定義を行なっています。罪とは何でしょうか?それは、神の律法に逆らうことです。神が「こうしなさい」と命じられたことに逆らうことです。私たちは、神との交わりにおいて、その交わりは、神の命令を守ることにおいて構成されていることを知らなければいけません。2章において、神の命令を守るなら、それによって神を知っていることになると書かれていますが(3節)、神の命令から離れて、感情的に、感覚的に神を知ったと思っても、それは自己満足かもしれませんが、神と交わっていることにはなりません。神の律法に逆らうこと、これが罪です。

 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。

 「キリストが現われた」というのは、再臨のことではなく初臨のことです。キリストが来られたのは、私たちがありのままで、自分が生きてきたその生き方を是認するためではなく、私たちから罪を取り除くために来られました。

 キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

 ここでの論理を追ってください。キリストには罪はありません。ですから、罪のないキリストのうちにとどまっているなら、罪を犯せません。罪のうちを歩んでいるなら、罪のないキリストを体験していないし、出会ってもいません。非常に単純な論理です。

 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

 クリスチャンが陥る過ちは、イエスさまを信じていれば、自分が罪の中に生きても、救われるだろう、ということです。しかし、「惑わされてはいけません」とあります。キリストが正しい方なのですから、キリストを信じる人は義を行ないます。

 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

 罪のうちを歩む、罪の中に生きるのは、生まれながらの姿で生きているからです。その、生まれながらの姿で生きるとき、人は悪魔の支配の中で生きています。エペソ人への手紙2章2節にはこう書いてあります。「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。(エペソ2:2)」イエスさまは、ユダヤ人の宗教指導者と話されているときに、非常に過激なことを語られました。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。(ヨハネ8:44)

 この聖書箇所を使って、従来のキリスト教徒は、ユダヤ人が悪魔の子孫であり、呪われた民族であるとしました。これは、前後関係の文脈を無視した、酷い解釈です。イエスさまがこの言葉を語られたとき、ユダヤ人指導者らは、イエスを殺そうと考えていました。彼らは、「我々の父はアブラハムである。」と主張したので、イエスさまは、「父がアブラハムなら、アブラハムのわざを行ないなさい。けれどもあなたがたは、神の真理を話しているこのわたしを、殺そうとしています。(ヨハネ8:40参照)」と言われました。彼らはイエスを憎み、イエスを殺そうと思っていたところで、人殺しの父であり、初めから罪を犯している者である悪魔から出た者である、ということです。ですから、ユダヤ人だけでなく、だれでも罪を犯しているなら、その人は悪魔から出た者であると言えるのです。

 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

 先ほどから、「罪のうちを歩む」という言葉が出てきていますが、実はこれは「罪を犯さない」という言葉になっています。神から生まれた者は、罪を犯していません、と書いてあるのです。これは、罪をまったく犯さない、ということではありません。なぜなら、1章後半と2章前半において、ヨハネは、私たちに罪がないというのであれば、偽りを言っていると言っているからです。ここの「罪を犯す」の動詞の時制は、現在進行形になっており、「罪を犯している」となっています。つまり、罪を犯して、その中にとどまっていることはできない、という意味です。神から生まれているなら、その人は新しく造られた者であり、罪の中にいつづけることはできなくなります。もし、いつづけることができるなら、その人は神からではなく、悪魔から出た者であると言うことができるのです。

2A 兄弟を愛する者 10−24
1B 死といのち 10−15
 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

 義を行なうことについて、ヨハネは、さらにつっこんで、兄弟を愛するという具体的な正しい行ないについて言及します。

 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。

 イエスさまが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」という戒めを与えられましたが、これを神の命令として私たちは聞いています。

 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。

 カインは、弟アベルを憎んで、そして殺しました。その理由は、カインの行ないが悪く、アベルの行ないが正しかったから、とあります。アベルは、小羊の最上のものを、自分自身でささげました。神は前に、動物をほふって、その皮によってアダムとエバの着物を施されましたが、人の罪が覆われるために、神は動物のいけにえを要求されました。血を流すことなしには、罪は赦されないからです(ヘブル9:22)。ですから、アベルは、神に近づくために、神が設けてくださった方法で近づきました。それが正しいとみなされたのです。けれどもカインは、土地の作物をささげました。神は前に、土地からいばらが生え、のろわれたものになっている、と言われましたが、それでもカインは自分の行ないによる産物を、その呪われた土地から出た者を神に持ってきたのです。悪い動機があったのです。

 人々が悪いことをしていて、その中で一人だけが正しいことをしていれば、その人の存在は脅威になります。自分たちの存在を、その正しい行為によって露にされます。そこで悪を行なっている者たちが、正しい者をねたみ、憎みます。このことがカインの心の中で起こったのです。

 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。

 イエスさまは、父なる神に、ご自分の弟子たちについて、「世は彼らを憎みました(ヨハネ17:14)」と祈られました。彼らが世のものではなく、キリストが彼らを世から選び出して、神のものにされたからです。神から生まれた者は義を行なうのですが、それによって世は自分の行ないが悪いので、クリスチャンを憎みます。

 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。

 兄弟を愛していることが、自分が永遠のいのちを得ている証拠となります。次の4章に詳しく書かれていますが、神が愛であり、神が私たちを愛してくださったので、私たちは神の愛の中にいます。ですから、愛さないということは、ありえない話になります。愛さないなら、その人はまだ永遠のいのちを持たず、死の中にいることになります。

 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

 イエスさまが、山上の垂訓の中で、人殺しをしてはいけないと言っても、もし「ばか」というなら、最高法院に連れて行かれる、と言われたことを思い出してください。憎しみを持っているなら、物理的に殺していなくても、すでに心の中で殺人の罪を犯したことになります。

2B キリストにある愛 16−24
1C 行ないと真実 16−1
 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

 私たちが神の愛を知るのは、どうすれば良いでしょうか?多くの場合、神の愛は目で見ることができません。人間的に、不幸なことが起こっているときに、どのようにして神の愛を知ることができるでしょうか?その時には、「キリストが、自分のために、ご自分のいのちをお捨てになった」ことを思い出せばよいのです。友のために、自分のいのちを捨てるというそれより大きな愛はないと主は言われましたが、そのことをキリストが私たちに行なわれたのです。これによって、キリストが私たちを愛しておられるのを知りました。そこで、同じように兄弟にもすべきであるとヨハネは言っています。

 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。

 兄弟を愛することについて、実に具体的なことを挙げています。兄弟が経済的に困窮しているとき、「愛しているよ」と言っても、それは愛ではありません。行ないと真実をもって愛する必要があります。

2C 真理への所属 19−24
 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。

 先ほどから、兄弟を愛する者が永遠のいのちを持ち、憎む者には永遠のいのちがとどまっていないと言っていましたが、具体的に兄弟を愛する何かを行なっていることによって、自分は確かに神に属している、真理に属していると確認することができます。咎めを感じることなく、神の前で安らかにいることがでいます。

 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。

 この箇所は大事です。というのは、私たちの感情はしばしば、自分を責めるからです。自分を責めているときに、その感情によって神との関係が決まるのではありません。私たちの気持ちが、神よりも大きいわけはありません。自分に責めるようなことがあっても、神は私たちの心よりも大きく、私たちを知っていることを知ることは、私たちを安心させます。しかしながら、その責めがないことは幸いです。そこでヨハネは次のように言います。

 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。

 心に対する責めは、しばしば、悪魔からのものがあります。自分はクリスチャンとして生きるにふさわしくないと思っている、そのささやきは悪魔からのものです。けれども、神との関係は、自分の義ではなく、キリストの義によるものなので、そのことを知れば私たちは、心の責めを持たずに、大胆に神に近づくことができます。

 なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

 神に願うことは何でも聞かれる、という大きな約束が、ヨハネの福音書の中にも、またこの手紙の中にもありますが、それは自分が神の御心の中にいるというのが前提です。神の命令の中におり、神に喜ばれているなら、その願いは神の願いでもありますから、祈りが聞かれます。

 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

 神の命令と聞くと、数多くある規則を思い出してしまいますが、ヨハネは実にシンプルに二つだけ挙げています。一つは御子の御名を信じることです。群集から、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか?」と聞かれたとき、イエスは、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(ヨハネ6:29)」と言われました。そして、もう一つの命令は、互いに愛し合うことです。

 神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。

 神の子どもであること、あるいは神のうちに自分がいることを知るのは、御霊によります。ローマ8章には、私たちが、神を「アバ、父」と呼ぶようにさせる御霊が与えられたとあります。5章は、神からの霊と、そうではない反キリストの霊についての見分けが書かれています。


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