ペテロの手紙第一4章 「肉体における苦しみ」

アウトライン

1A 罪との断絶 1−6
   1B 自分自身の武装 1−2
   2B 異邦人がしたいと思っていること 3−6
2A 互いの奉仕 7−11
   1B 万物の終わり 7−9
   2B さまざまな神の恵み 10−11
3A 栄光の御霊 12−19
   1B 燃えさかる火の試練 12−16
   2B 神の家からのさばき 17−19

本文

 ペテロの手紙第一4章を開いてください。ここでのテーマは、「肉体における苦しみ」です。私たちは、ペテロの第一の手紙で、「クリスチャンが受ける苦しみ」について学んでいます。罪を犯すために受ける苦しみなら、もっともなことですが、正しいことを行なっている苦しみについてはどうなるのか、それは不公平なことではないかという疑問に対して、この手紙は答えてくれます。

 第一章は、「生ける望み」について書いてありました。私たちには天に、朽ちず、消えず、汚れることがない資産がたくわえられており、今受けている信仰の試練は、後に大いなる報いを受けるための、その信仰をきよめる役目を果たすものであることが書かれていました。第二章においては、私たちはキリストにあって選ばれた種族であり、異邦人の中にあってりっぱなふるまいをすることは良いことであり、そのことで、ののしられたり、馬鹿にされたりしても、神によろこばれることであるという内容でした。そして前回学んだ第三章では、キリストが正しい方であったのに、悪い者たちのために苦しみ死なれたことから、私たちも義のために苦しむことは良いことであることが書かれていました。そして第四章です。 

1A 罪との断絶 1−6
1B 自分自身の武装 1−2
 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。

 キリストが肉体において苦しみを受けられたというのは、もちろん、十字架へ向かう道に受けられた苦しみと、十字架の上で受けられた苦しみです。その時にイエスさまが持っておられた思いを知って、私たちも同じ心構えでいなさい、とペテロは勧めています。

 ペテロはここで、キリストが、「肉体」において苦しみを受けられたと強調していますが、イエスさまご自身が、十字架に向かわれる道の中で、肉と霊の分離を行なわれていました。イエスさまがお生まれになったときから、それは始まっています。東方の博士からの贈り物に、死体を埋葬するときに使う乳香がありました。それから、ヘロデ王によって殺されそうになり、ヨセフとマリヤはエジプトに逃れました。成年になられてからは、ユダヤ人宗教指導者との確執があり、多くの弟子たちがご自分から離れて、エルサレムでは、弟子たちから見捨てられて、群集からは、「十字架につけろ」と叫ばれて、そしてもちろん、イエスさまも私たちとまったく変わらない肉体を持っておられましたから、十字架を受けるときの言語に絶する痛みは、当然耐え切れないものであったでしょう。

 このように、その全生涯が、十字架につけられるための備えとでも言うことができ、ゲッセマネの園において、「できますならば、この杯を、わたしから過ぎ去らせてください。」という血のしたたるような祈りをささげられたのです。肉体における苦しみを受けるために、主は祈りをもってご自分を武装され、ついに、「わたしの願いではなく、あなたのみこころのままになりますように。」という祈りをおささげになるほど、父なる神にご自分をお任せになることがおできになりました。

 私たちも、肉体において苦しみを受けるときに、同じような心構え、つまり、心の中のいろいろな葛藤やもだえ苦しみがあろうとも、祈りによって、自分のたましいを主イエスさまにおゆだねすることを学び、歩んでいくことが必要なのです。

 肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。

 肉体における苦しみは、私たちに罪からの断絶、つまり聖めをもたらしてくれます。キリストの思いに自分が近づいていくことができるとうことです。ダビデの生涯を思い出してください。彼がサウル王から追われていく中で、詩篇の中に、さまざまな苦しみの思いをそこに書き表しています。彼は苦しみや戦いがあるときには、罪を犯しませんでした。けれども、戦いがようやく終わり、安住していたときに、バテ・シェバとの罪、ウリヤを殺す罪を犯したのです。同じように、私たちが肉体に苦しみを受けている時は、罪とのかかわりを容易に断つことができます。

 パウロは、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ6:6)」と言いました。私たちが、キリストの苦しみと同一化させることによって、罪からの分離をすることができます。いや、もうすでに、私たちは死んでいます。私たちのいのちは、キリストにあって、神のうちに隠されています(コロサイ3:1−3参照)。死んでいるとみなすことによって、私たちには決してできなかったことを、聖霊によって神が私たちのうちで行なってくださいます。

 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。

 地上の残された時」とは、主イエスさまが間もなく来られて、私たちを引き上げられるからです。「私たちがここに生きているのは、わずかなのだ。」という認識は、私たちを肉の欲望から守ってくださり、情欲のためにこのからだを用いようと思わなくさせてくれます。そして、「神のみこころのために過ごす」というのは、イエスさまが、ゲッセマネの園で、「あなたのみこころのままに」と祈ることがおできになったように、自分のたましいを神に任せるようにするということです。

2B 異邦人がしたいと思っていること 3−6
 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。

 神のみこころと対比されて、異邦人たちがしたいと思っていることがここに列挙されています。パウロが、「古きものは過ぎ去りました。」と言ったように、これらのことはもう過ぎ去ったと考えるのです。

 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。

 飲み会などで、自分が酒を飲まず、また下ネタに耳を貸さずにいることは、彼らをいらつかせます。そこで不思議に思い、私たちを馬鹿にします。

 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。

 肉の欲望の中で生きている人々は、その一つ一つの行ないによって、神にさばかれます。ペテロが言及しているのは、黙示録20章に出てくる、白い大きな御座のことです。大きな者も、小さな者も、死とハデスから出されて、神の御前に引き出されます。そこで、行ないの書が開かれて、そこに書かれている記録にしたがってさばかれ、火と硫黄の池に投げ込まれます。

 ここの「申し開き」という言葉は、英語では、「会計報告をする」というニュアンスもある、”give account”という言葉が使われています。現代的な言葉に直すと、「説明責任」です。説明責任というと曖昧になるでしょう、今の会計報告を例に取ります。お金の出し入れについて、会計には、一切の曖昧さが許されません。一円たりとも、そのずれが認められず、帳尻が合っていなければいけません。完全な透明性が要求されるのです。ヘブル人への手紙では、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(4:13)」とありますが、すべてがさらけ出されて、はだかなのです。自分が行なったこと一つ一つが記録されており、それに対して自分が全責任を負わなければいけません。自分に甘えをもって、「今、こんなことをしているけれども、だれも見ているわけではないし、大丈夫だろう。」と思っても、それは神の前では許されないのです。ペテロは、このようなさばきが、間もなく来ると宣言しています。

 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。

 これは面白い個所です。福音が宣べ伝えられている死んだ人々とは、罪と罪過の中で死んでいる人々のことですが、彼らが肉体においてさばきを受ける、とあります。けれども、霊においては神によって生きます。私たちは、この地上において、肉体に対して神のさばきを受けるときがあります。自分が犯している罪のために、神にさばかれるときがあります。個人レベルだけでなく、社会レベル、国レベルのさばきもあるでしょう。けれども、そのさばきは、罪定めのためのさばきではなく、神が私たちを愛する愛のゆえに、私たちを神に近づけさせるためのさばきなのです。肉体ではさばかれるのですが、そのさばきによって、御霊によって新たに生まれる、あるいは信仰が復興することが起こるのです。ですから、私たちに悲惨なことがふりかかったときに、それをただ災いがふりかかったとするのではなく、へりくだって、神の前に出て、悔い改めることも必要なのです。

2A 互いの奉仕 7−11
 ですから、肉体における苦しみによって罪とのかかわりを絶つ、あるいは聖められることが分かりました。次に、そのような中にあって、私たち兄弟姉妹が互いに仕え合うことの重要性について書かれています。

1B 万物の終わり 7−9
 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

 ペテロの手紙には、何度も、終わりの時について書かれています。キリストの現われが近い、神のさばきがすぐに来るなどについて書かれていましたが、ここでは、万物の終わりのこと書かれています。私たちは、自分の思いから、「この地上はこのままに続く」という幻想から守られる必要があるでしょう。ペテロの第二の手紙で、この地球が昔から何事も変わっていないではないかと、あざける者たちに対する警告が書かれていますが、この世では、「この地球はいつまでも、今までのように続く」と教えられています。しかし、聖書は、ペテロがここで言っているように、万物に終わりの時があるのだ、そして新しい天地に創り変えられるのだ、と宣べているわけです。

 このことを思いながら、祈りによって心を整え身を慎みなさい、とありますが、ここは「祈りの中で心を整え、慎みなさい。」とも訳すことができます。つまり、祈りによって、私たちの心がキリストに向けられて、万物の終わりについて、キリストの再臨について真剣に考えていくことができるのです。私たちは祈っているでしょうか?次の節には、「互いに愛すること」が書かれていますが、クリスチャンの交わりとして、教会として祈り合っているでしょうか?これが、終わりの日に生きるキリスト者に求められていることです。

 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

  何よりもまず」とありますね。これは、もっとも優先すべきこと、ということです。それは、熱心に愛し合うことです。「熱心」とは、情熱とも言い換えることができますが、私たちの情熱はいったいどこにあるでしょうか?自分が心燃やされること、没頭して自分を忘れてしまわせるようなもの、他のことは抜きにしても行なうことができるものは何でしょうか?ペテロはそれを、「愛すること」に向けなさい、と言っているのです。私たちの情熱が、キリストによって与えられた愛以外の何か他のものに向けられていたら、それを修正しなければいけません。

 互いに」という言葉が次の節にも、次の次の節にも出て来ます。互いに祈りあう、互いに語り、賛美を歌う、互いに訓戒する、互いに仕える、互いに親切にする、互いに愛し合うなどです。これは、クリスチャン同士の交わりと人間関係がなければ、決してできないことです。自分だけでクリスチャンとして生きていれば大丈夫というのは、終わりの時に生きるクリスチャンとして、まったくふさわしくありません。

 そして、「愛が多くの罪をおおう」とありますが、私たちが愛し合っていないところでは、相手の欠点や肉の弱さ、罪などが、どんどん見えてきます。そこで、その人たちとは距離を離そう、あまり近づかないようにしよう、心を開くのはよそう、ということになります。しかし、愛は、信じ、望み、すべてに耐えるのです。その人を愛することに専念していれば、その人の過去、その人の素性などあまり気にしなくなり、ただキリストの戒めに従うことだけが、念頭に置かれるのです。

 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

 兄弟を愛する一貫として、互いに親切にもてなし合うことがあります。私たちは最近、韓国から来た兄弟たちを、日本で開かれるカルバリーチャペル牧者会議に参加するために、家に泊まっていただきました。もてなすことは、ヘブル13章1節にあるように、御使いを受け入れるように、丁重に、尊敬して受け入れることです。そこで、「こんなにたくさん買い物して、お金がなくなって・・・」などと、ぶつぶつ言っているならば、それは、本当にもてなしていることにはなりません。与えることに喜びを抱く。ただ与え、見返りを期待しないささげものを、主は喜ばれます。

2B さまざまな神の恵み 10−11
 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

 互いに愛し合い、互いに親切にもてなすなかで、私たちはさらに、互いに与えられた賜物をも用いることが命令されています。ここで、賜物が「神のさまざまな恵み」から出てくるものとして書かれています。多くの人が、能力を一つの賜物であると勘違いして、音楽の能力がある人が音楽の賜物があり、語学のできる人が語学の賜物がある、という使い方をします。しかし、ゼカリヤ書には、「能力によらず、権勢によらず、わたしの霊によって」という言葉があります。教会は、自分の能力を披露する、自己実現の場ではありません。

 賜物とは、神の恵みによるものです。自分の能力ではなく、御霊がご自分が思うままに、信仰によって私たちに与えてくださるところの、教会の益のために、すべての人の益のために与えられる力のことです。賜物を用いることによって、他の人が神の恵みを知り、キリストを通して、神をあがめるようになります。賜物を通して、その賜物を持っている器があがめられるのではなく、キリストのことが、もっともっとよく分かり、神をさらに愛し慕うようになるのです。

 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

 自分の能力ではなく、神の恵みによって与えられたところの賜物では、それが用いられたときに、その器ではなく、イエス・キリストが、また父なる神があがめられます。私たちはとかく、神ではなく、神が用いられた器をあがめる傾向があります。けれども、神の恵みの中では、すべての人が罪人であり、すべての人が神のさばきに服しているのであり、すべての人が、無償でキリストの血による救いを得ており、すべての人が神にとって大切な存在です。ですから、人の栄誉が入り込む余地がありません。

3A 栄光の御霊 12−19
1B 燃えさかる火の試練 12−16
 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。

 ペテロがこの手紙を書いたときの背景を思い出してください。ローマ皇帝ネロが、クリスチャンたちを迫害する直前の時に、ペテロがこの手紙を書きました。これから、火のように燃えさかる試練を、クリスチャンたちが受けます。けれども、それを何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむのではなく、「キリストの苦しみにあずかれる」のですから、喜んでいなさい、と言っています。

 私たちが主との交わりという言葉を使うときに、何かほんわかしたような、心地よい響きを持っていると思います。すばらしい礼拝堂で、美しく奏でられた音楽の中で、賛美をしているときに、自分は主と交わっているのだと思うかもしれません。しかし、ペテロがここで言っていること、またパウロがピリピ人への手紙の中で語っていることは、「キリストの苦しみの交わり」についてです。私たちは、自分のたましいが、主にある苦しみの中で清められていきます。その中で、キリストが歩まれた道を、自分のうちにも体験するようになり、深いところにある、キリストとの交わりをすることができます。そこには、自分ではなく、キリストの思いが充満しており、キリストの香りがいっぱいに放っています。外側では、人間的には惨めな姿かもしれません。けれども、内側では麗しい香りが、霊から解き放たれているのです。

 それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

 キリストが再び戻ってきてくださる時、私たちは大きな喜びをもって、この方を迎えます。

 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

 主は、迫害される者は幸いです、と言われました。それは天の御国において大きな報いがあるからだ、と言われました。私たちが、キリストの名のゆえに非難されるようなことがあれば、それは将来の栄光につながることです。非難されているときに、聖霊が私たちに強く臨んでくださり、私たちを支えてくださいます。

 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。

 肉の行ないや罪によって苦しむことがないように、罪とのかかわりは絶つように、という勧めです。

 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。

 私たちが苦しみを受けているときクリスチャンであるからという理由であるなら、そのゆえに神をほめたたえ、喜びましょう。

2B 神の家からのさばき 17−19
 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

 「さばきが神の家から始まる」というのは、だれが本当にキリストのうちにある者で、だれがそうではないのかが、明らかにされる、と言い換えることができるでしょう。終わりの時には、敬虔に生きようとする者が迫害を受ける時期であります。主にしたがっているようで、実はそうでない人は、罪の道を選び取って信仰を捨てるか、あるいは偽りの教えや作り話を信じるようになります。こうしたふるいわけが、神の家からのさばき、と呼ばれます。

 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。

 私たちクリスチャンの間でしばしば語られることは、福音を聞いたことがない人は救われるかどうか、幼児で死んだ人は救われるか、セカンドチャンスはあるかなどのことです。そこに共通している考えは、「人は救われる」という前提です。しかし、この個所を読むと、信仰をもって義人と認められた者はかろうじて救われるというふうに、救いは奇蹟であることを忘れています。人は、地獄に行って当然なのです。地獄に行くのにふさわしい存在なのです。しかし神があわれんでくださったので、私たちはかろうじて救われるのです。

 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

 この章のまとめになっていますが、肉体の苦しみを受けているとき、私たちが行なうべきことは、「自分のたましいを、創造者にお任せする」ことです。イエスさまが、ご自分の霊を父なる神にゆだねられたように、私たちも、苦しみの中でたましいを主におゆだねします。主が真実な方であることを信じて、お任せします。燃える火の炉に入れられるダニエルの友人は、「神は私たちを救ってくださる。」と信じたと同時に、「たとえそうでなくても、王よ、私たちは像にひれ伏しません。」と言いました。ゆだねたたましいには、平安がおとずれます。


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