テモテへの手紙第一4章 「教える務め」

アウトライン

1A 教えるべき事 1−11
   1B 信仰のことば 1−5
   2B 敬虔のための鍛錬 6−11
2A 教える人 12−16

本文

 テモテへの手紙第一4章を開いてください。ここでのテーマは、「教える務め」です。

1A 教えるべき事 1−11
1B 信仰のことば 1−5
 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

 パウロは4章を、「しかし」という言葉から始めています。これは、3章16節からの続きになっています。「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。『キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。』」敬虔の奥義、つまり、神のかたちが私たちの中で形成されて、神により似た者になっていくための奥義です。これは、神が肉において現われ、この方が義と宣言され、栄光のうちにあげられ、また全世界に宣べ伝えられているという内容です。この敬虔の奥義があるのだけれども、しかし、御霊が明らかに言われるように、信仰から離れるようになる人々がいると続きます。「信仰から離れる」というのは、ただ信じているのを止めるということではありません。英語ですと「信仰」の前に定冠詞が付きます。これは、イエス・キリストの福音そのものです。これから離れて、ということです。

 信仰から離れるのは、「惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われる」からです。テサロニケ人への手紙第二で学びましたが、終わりの時にはまず背教が起こり、それから罪の人が現われるということが預言されていました。悪魔が終わりの時に猛威をふるって、偽りの教えを吹き込むことによって人々を惑わします。使徒ヨハネも、終わりの時のことについて話しながら、「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。(1ヨハネ4:1)」と言っています。惑わす霊と悪霊の教えがあります。

 テモテがいたエペソの教会では、このような教えを言い広める者たちが出てくることを、パウロによって警告されていました。使徒行伝において、パウロはエペソの長老たちにこう言いました。「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。(使徒20:29-30」にせ預言者、にせ教師たちが外から入り込むだけではなく、なんと指導者の中からも出てくる、とパウロは予告しています。はたして、その通りになったのです。これは、エペソの教会だけではなく、今日の教会においても起こりえることですし、実際に起こっているでしょう。具体的な適切な例を思い出せませんが、私たちは、いつでもこの悪霊の教えが教会に入り込みえるのだ、ということを知っておくべきでしょう。

 それは、うそつきどもの偽善によるものです。

 惑わす霊と悪霊の教えの特徴は、もちろん「偽り」にあります。エバを惑わしたのは蛇であり、神のみことばを曲げたのがあの悪魔です。悪魔は偽りの父であり、彼から真実を聞くことは絶対にありません。そして具体的には、悪霊どもの教えに心を奪われた者は、偽善によってうそをつきます。自分が言っていることと、行なっていることが異なっています。

 彼らは良心が麻痺しており、

 ここの「麻痺」という言葉は、アイロンで自分のからだをやけどさせ、焦がしてしまい、ついに無感覚になってしまう状態を指しています。パウロは、テモテへの手紙で、「良心」という言葉をたくさん用いています。1章5節では、「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています」と言い、1章18節には、「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです」と言っています。この良心が麻痺してしまうほど、つまり罪意識を感じないほどにまでなってしまい、平気で真理に反することを故意に教えていくことを言います。

 結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。

 彼らが教えていた具体的なことは、結婚を禁じたり、ある食物を断つことでした。結婚は、神の創世において、初めに立てられた制度であり、祝福されたもの、聖なるものです。そして食物については、次のようにパウロは言っています。

 しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

 食物は、神がお造りになった物です。これは真理のことばを受け入れて、そして、今、自分の前に置かれている食べ物も、神がお造りになったことを信じることであります。そうすると、感謝の思いが出てきます。そしてこの感謝の中で食べるのです。

 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。

 神はただお造りになっただけではなく、ご自分の良い意図をもってお造りになりました。天地創造のときに、神は、「よしと見られた」と言われました。ですから、悪いものは何一つありません。現在の社会の中で、私たちはしばしば、「自然食品」とか「環境保護」という題目を聞きます。神は環境をご自分でお造りになったのですから、クリスチャンが環境を大切にすることは喜ばしいことですが、これが度を越えて、自分が食べるものをいちいち詮索し、また神との関係の中で語ることなどは、ここでまさにパウロが警告していることに該当します。

 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

 食事を取ること自体が、「聖められる」もの、つまり礼拝になります。レビ記において、和解あるいは「平和のいけにえ」というものが出てきますが、それは基本的に、祭司が肉を神にささげ、またその一部を自分も食べることです。私たちは今、キリストにあって神に対する祭司ですから、日々の食事を神への礼拝とすることができます。

 そして、ここの「神のことばと祈り」という言葉がとても大切です。先ほどの「良心」という言葉、また「信仰」という言葉とも密接に関わり合っています。私たちは、神から良心が与えられています。その良心によって、何が罪であり、何が良いことであるかを知ることができます。この良心が、神のみことばによってきよめられます。つまり、自分が正しいとか悪いとか思っていることではなく、神にとって正しいことが何かを知ります。こうした、神のことばによる啓示によって、私たちの心に「信仰」が与えられます。これは正しいことである、と神のみことばに太鼓判を押すのです。そこから「祈り」が生まれます。信仰はみな、神のみことばから出て来るものであり、祈りはこの信仰から出てきます。ですから、私たちの祈りは、自分の感じていること、思っていることによって導かれるのではなく、良心に語られた神のことばと、それに応答する信仰によって導かれるのです。

 ですから、何かが正しくて、何かが絶対に間違っているということは、あり得ないのです。例えば、「伝道」をするにしても、それが自分の心をともなっていない義務的なものとなっていれば、それは良いものではなく、むしろ罪でありえるのです。また、異性に対して感じる性欲は、それが、神が結婚を祝福しておられるというみこころを知った上で抱くことは、これは罪どころか聖なるものとなります。パウロは、ローマ14章22節で、このことについて説明しています。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」この、神のみことばと祈りの中にある信仰の営みが、私たちをいよいよ聖なる者へと導きます。

2B 敬虔のための鍛錬 6−11
 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。

 パウロは、キリスト・イエスのりっぱな奉仕者となるためには、「教え」が必要であることを教えています。神のみことばを教える務めが、教会の牧師に与えられています。そして、それを聞く務めも、聖徒たちに与えられています。この「教えの務め」によって、教会は成長します。

 ここに出て来る「信仰のことば」とは、今説明した、祈りと神のみことばの中で培われていくものです。私たちが日々、祈りの中で、また聖書の学びの中で語られることば、これが信仰のことばです。ただ、それだけではありません。「あなたが従って来た良い教えのことば」とパウロは言っています。これはおそらく、テモテがまだ信仰を持つ前、幼いときから母と祖母によって教えられた聖書のことばでありましょう。この教えが、テモテの中に宿っているのですから、その健全な教えによって養われなさい、と言っています。

 私たちにもそれぞれ、この「良い教え」が与えられています。私は初めにイエスさまを信じてから、しばらくして紆余曲折し、けれども、やはり初めに聞いたことが真実であったことに気づき、その中にとどまることがいかに大切であるかを知りました。皆さんにも、そのような経験があるかもしれません。聖書のことばにある、健全な教えが私たちを養います。

 キリスト教会の中には、しばしば「新しい教え」「新しい啓示」「新しい幻」など、いろいろ新しいものが出てくるのですが、そこには有益となるもの、真実はないのです。つねに、キリスト・イエスの奥義が真実であり、それ以上のものには決してなりません。

 俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。

 これは、パウロが先ほどから話している、偽りの教え、悪霊の教えのことです。これらのものは避けなさい、とパウロは命じています。これもみことばを教える者が示さなければいけないことです。むろん、キリストのみことばを教えることが主になっていなければいけませんが、「こうした教えは間違っているから避けなければいけません」と言わなければいけないときがあります。私も大学入学当時、ミッション系の大学でしたから、キリスト教概論という授業がありました。そこの先生が、初めにエホバの証人、モルモン教、統一協会の教えを、かんたんにまとめて説明してくれました。その6ヵ月後ぐらいでしょうか、私がアンケート受けて連れて行かれたその一室で見たビデオは、統一協会のものだったのです。あの授業がなければ、私は、統一協会だと知る由もなかったのです。偽りの教えを避けることも、教える者の務めの中に入っています。

 むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。

 パウロは、信仰のことばと良い教えによって養われることを、「敬虔のための鍛錬」と呼んでいます。肉体の鍛錬、すなわちボディービルディングのような肉体トレーニングと類比させています。肉体トレーニングが、ある食物を断ち、きまった運動をこなしていくように、霊のトレーニングもあることをここで教えています。空想話を避けることは、霊のトレーニングの一つです。これは有害な霊の食物だからです。そして、神のことばと祈りの中で日々を過ごすこと、また、健全な聖書の教えを学ぶこと、これらが欠かすことができません。

 そして、パウロは、肉体トレーニングは、一時期は有益だけれども、霊のトレーニングは永遠のいのちを培うものであると、霊のトレーニングのほうがすぐれていることを話しています。私たちはとかく、永遠のいのちを持つということを、天国への切符と受け止めてしまいます。イエスさまを信じれば、それですべて必要なことをした、と考えます。しかし、永遠のいのちとは、キリストのいのちそのものであり、キリストのいのちを持っていることは、絶えず、意識的な作業をこちら側がしていることになります。祈ることになるでしょうし、みことばを思い巡らすことになるでしょうし、伝道することになるでしょうし、いろいろな形で現われますが、競走選手のように非常に能動的な営みをしているのです。ですから、敬虔のための鍛錬は、今と未来のいのちが約束されているのです。

 このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。私たちはそのために労し、また苦心しているのです。

 パウロたちは、偽りの教えが入り込んでくることを懸念し、そのために祈り、手紙をおくり、多大なエネルギーと時間を費やしてきました。私たちが読んでいる、使徒たちの書簡、また福音書と使徒行伝は、まさにその苦心の産物と言っても過言ではないでしょう。彼らが書いたものには、何か異端の教えを意識しながら書いているものが多いです。この涙を私たちは彼らの手紙を読んでかんじないでいることはできません。

 それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。これらのことを命じ、また教えなさい。

 このような労苦の中でも、パウロたちは生ける神に望みを置いて耐えていました。そして、この神が、「すべての人々、ことに信じる人々の救い主」と呼ばれています。すべての人の救い主というのは、神は全人類のなだめの供え物として、御子を世にお遣わしになった、ということです。神はすべての人が救われるのを願われています。しかし、イエスさまは、「多くは呼ばれるが、選ばれる者は少ない」と言われました。すべての人に救われる機会は提供されていますが、救いは信じる者にしか与えられていません。ですから、「ことに信じる人々の救い主」とパウロは言っています。

2A 教える人 12−16
 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。

 テモテは若い牧者でした。おそらく30そこそこだったであろうと考えられます。そして、教会でしばしば起こることが、テモテにも起こっていました。年が若いということで、軽く見られていたことです。私自身は、自分より若い年の牧師にあったことが一度しかなく、またその人はとてもできた人だったので、この「軽く見る」ということろが理解できません。けれども、おそらく年上の人が、自分よりも若い牧師に対して抱く感情でありましょう。しかし、これは、霊的職務についての理解が履き違えていることから起こっていることです。

 第一に、牧師は、その人生の経験によって図られるものではなく、人々をキリストに導き、キリストがその人のうちに形造られるべく、みことばを説き明かす務めにいる人であります。一つのプロフェッショナリズムであり、例えると「医師」と同じです。若い医師が診療をし、処方箋を出す時に、「あなたはまだ若いから、私の体のことなどわかっちゃおらんよ」と言う人はいるでしょうか?いいえ、その職務を信頼しているので、そんなことは言いません。けれども、これを牧師に対しては行ないます。結婚生活で問題が起こるときに、牧師がカンセリングをして、「あなたは私たちのことが分かっていないのよ」と言い返すのは、その人が祈りとみことばに専念している職務にいることを忘れているからです。

 第二に、牧師の資質は、他の信者と変わりなく、その主との歩みとの中で培われていくものです。人生の経験ではなく、その人が主の中に生き、またその成長している姿を見せていることが、その判断材料であります。

 そこでパウロは、若者として軽んじられないために、牧会者としてのこの資質を前面に出しなさい、と勧めています。「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」と言っていますが、これは牧師だけでなく、一人一人の信者にも当てはまります。「ことば」とは、文字通り言葉です。下品なこと、汚らしいことばを慎む必要があります。態度は、これは行ないやふるまいことですね。そして「愛」は、人々に対する応答です。ある人が何かを言ったり、行なったりするときに、どのような態度をもって接するかが、ここでの「愛」です。そして「信仰」です。これは神のみことばや約束に対して、どれだけの信仰を持っているか、ということであります。そして「純潔」は、罪や悪の誘惑に陥ることなく純潔を保っていることです。これらの事柄について、信者の模範になります。

 ここでの「信者の模範」は、「信者に対する模範」とも読めますし、また、「信者についての模範」と読むこともできます。信者に対する模範であれば、教会の人々に対する模範でありますが、信者についての模範であれば、クリスチャンとはどのような人物であるかを知らせる模範、つまりこの世に対する模範です。どちらで取っても良いでしょう。

 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。

 次にテモテがしなければならなかったことは、聖書に専念することです。他にもいろいろすることがあるかもしれませんが、それが中心事項ではありません。聖書の朗読とは、文字通り、そのまま朗読することです。私たちが集まっているときに、みなでただみことばが読まれるのを聞くことは大切です。これは、当時のユダヤ教がシナゴーグで行なっていたことですが、これをキリスト教会も踏襲しています。そして「勧め」とは、そこに書かれていることを生活に適用させることです。そして、「教え」とは、教理とも言い換えられると思います。聖書の教えをきちんと学ぶことです。

 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。

 テモテは長老たちから按手を受けたときに、聖霊の賜物が与えられました。それは、預言によって与えられました。このように賜物が与えられて、テモテは今の務めを行なっています。しかし、もしこの賜物を用いるのでなければ、賜物はすたれてしまいます。賜物が与えられているから何もしなくても良いということでは決してなく、むしろ、それを最大限に活用することによって、さらに磨かれます。私たちは聖霊の賜物を用いていく権利があるのではなく、義務があるのです。

 これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。

 教える務めをしている人にとって、「心を砕く」ことが非常に大切になってきます。教えることは地道な作業であり、ちょうど母親が子供たちに食事を与えるようなもので、一見退屈な作業にさえ感じます。けれども、決して欠かすことができないものであり、教える務めによって初めて、会衆が霊的に成長するのです。牧師には、教会の外でいろいろ話す機会があり、礼拝さえも他の人にまかせることがある人もいますが、いや、牧師こそ、教会において霊的食物を与える忠実な良いしもべでなければならないのです。ですから、心を砕いて、しっかりやならないといけません。

 そうすると、進歩がすべての人に明らかになる、とありますが、これはギリシヤ語で、兵士がどんどん攻め入って、そのラインを拡大させている姿を描いています。この兵士のおかげで、自分たちが行くべき道しるべが与えられます。

 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。

 ここはとても面白い個所です。まず、ここの「救う」というのはもちろん霊的救いのことではありません。彼らはすでに、信仰によって義と認められ、救われています。ここでの「救い」は4章1節に書かれている、「惑わしの霊、悪霊の教え」からの救いです。この救いを得るためには、自分自身に気をつけて、また教えている事にも気をつけなさい、ということです。これは先ほどからパウロが話している、信仰のことばと良い教えによって養われること、霊的鍛錬を受けること、それから、信者の模範となり、教えることに心を砕くことなどが含まれます。そしてここでのキーワードは、「あくまでそれを続けなさい」です。終わりの時には、このような偽りの教えが猛威を奮います。いや、それが主流となり、神の家からさばきが始まります。そこで私たちはことさらに何かを行なうのではなく、雪吹雪の中で眠らないで前進することを続けるように、ただ続けていくことが必要なのです。

 そして、テモテがそのように教えることに心を砕くなら、それは聞く人々を悪霊の教えから救うだけではなく、自分自身をも救います。教えている人も、自分の救いのために、人々が救うことに従事しているのです。ここでは、教える者と教えを聞いている者が、ある意味で一体となっている作業です。教える者は、教えながら自分が救われていき、聞いている者は聞いて守られていきます。これを続ける時に、終わりの時においても、信仰から離れることなく、きよい良心を保つことができるのです。



「聖書の学び 新約」に戻る
HOME