コリント人への手紙第二11章 「愚かな誇り」

アウトライン

1A 自己推薦をする愚かさ 1−15
   1B 清純な処女への心配 1−4
   2B にせ使徒の告発 5−15
      1C 大使徒とのつながり 5−6
      2C 無報酬の宣教 7−12
      3C サタンの手下 13−15
2A やむを得ない自慢話 16−33
   1B 愚か者に対する対処 16−21
   2B 自分の弱さ 22−33
      1C ヘブル人ルーツ 22
      2C 度重なる困難 23−27
      3C 教会への心づかい 28−31
      4C 卑しい出発 32−33

本文

 コリント人への手紙第二
11章を開いてください。ここでのテーマは、「愚かな誇り」です。先週もお話ししましたように、パウロはこの第二の手紙を書かかなければいけない背景となっている、にせ教師たちの正体を、10章、11章、12章において暴いていています。11章に入り、パウロは、熱情をもって、心から流れ出てくるように彼らの欺きについて告発していきます。

1A 自己推薦をする愚かさ 1−15
1B 清純な処女への心配 1−4
 1節をご覧ください。私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです。

 これからパウロは、やむを得ず自分を愚かにして、自分が本物の使徒であることを弁明していきます。
10章において、彼は、このようなことをするのは知恵のないことである、と話しました。自分がどれだけすばらしい主の働きをしているのかを大げさに語り、話しぶりや、エルサレムの教会とのつながりや、金銭的援助を受けているとか、そう言った自己推薦をするのは愚かであると言いました。本当の主のしもべは、任されたことに忠実であることが要求されており、もしだれかが自分を信頼してくれるのであれば、それは主がしてくださる、ということを話しました。10章の終わりで、「誇る者は、主にあって誇りなさい。自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」と言っています。

 したがって、自分が使徒として見合うだけの働きをしていることを話すことや、コリントの教会を欺いているにせ教師たちと自分を比較することも、あまりにも馬鹿げていることをよく知っていました。しかし、ここで大きな問題があります。このようなくだらない議論に入り込まないのも一つの手ですが、コリントにいる信徒たちは、これらにせ使徒たちの巧みな言葉によって、イエス・キリストの福音から離れて行ってしまう、という危険です。パウロはそこで我慢ができなくなりました。彼らが、キリストから離れていってしまうぐらいなら、今、自分が愚かになって、彼らの自分に向けられた批判に答えなければいけない、と思ったわけです。そこで、「少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。」と言っています。

 2節です。というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

 
ここの「熱心」という言葉は、熱情とかねたみとか訳すことができるでしょう。これが、パウロがコリントの人たちに抱いている感情でした。彼らのことを神にあって、ねたむほどに愛していたのです。神はご自分のことを、何回も、「わたしはねたむ神である。」とおっしゃっています。聖書の神は、知識の中に納めておくことができるような、観念的な神、理念的な神でもありませんし、また、便利なので、そのときはお願いします、と言うようなご利益的な神ではありません。聖書の神は、人格をもった神なのです。ですから、私たちの神は、一対一の関係を持つことを、熱情をもって願っておられます。私たちが、忠実で真実な関係を他者に対して求めるように、私たちの神も同じなのです。パウロも、この神のねたみを持っていました。とくにコリントにいる信者たちに対しては、彼の宣教の働きによって、彼らがイエス・キリストを信じたのですから、彼らがキリストから離れていくようなことがあるようなものなら、その心は熱情で燃え上がり、何とかして彼らを引き戻したいと願っています。


 パウロは、自分がコリントの人たちをキリストに導いたことを、自分の娘を花婿にささげる父親になぞらえています。当時の結婚は、両者の親どおしの取り決めによって行なわれました。両親が花婿にふさわしい者として娘を整えます。同じように、パウロの働きによって、コリントの人たちはキリストを花婿としました。教会は、キリストを花婿としている花嫁です。花嫁として、自分自身をすべてキリストにささげ、花婿の中に入って結婚するのを待っています。主イエス・キリストが、天から来られて、私たちが主とお会いするときに、私たちはキリストとの婚姻関係に入ることができます。ですから、教会は、清純な処女として、その純潔を保つのですが、コリントの人たちはその貞潔が汚されるという危険な状態にあったのです。

 3節です。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。エバが蛇に欺かれたように、コリントの人たちもにせ使徒たちに欺かれて、汚されるのではないかと心配しています。


 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。

 このにせ教師たちは、異端の教えを持っており、そしてオカルト的な性質を持っていたことがわかります。異なった霊を受ける、と書いてあるからです。ここで大事なのは、「別のイエスを宣べ伝えている」ということです。「イエス」という言葉は使いますが、私たちが信じている、聖書に啓示され、使徒たちが宣べ伝えたイエスではないのです。私たちは、ここにおいてだまされやすいのです。クリスチャンの間で、「みなイエスを信じているのだから、一致しなければいけない。論争するのはよしましょう。」という反応を、数多く目にします。キリスト教会の中に入り込んでいる異端の教えに取り組んでいるときに、そのような反応を聞きます。しかし、その発言は大きな落とし穴があります。私たちにとってもっとも大切なのは、一致なのでしょうか。もちろん一致は大切です。しかし、それよりもさらに大事なことは、聖書が啓示しているようにイエス・キリストを知っていることなのです。イエス・キリストがどのようなご性質を持っており、どのような御業を行ない、そして、どのような関わりを私たちに持っておられるのか、それらを人格的に個人的に知っているかどうかなのです。このキリストにあって、私たちは初めて一致できるのです。同じ「イエス」という言葉を使っても、異なるイエスであります。


2B にせ使徒の告発 5−15
 5節から、パウロは、にせ使徒たちが行なっていたパウロへの批判に対して応じています。

1C 大使徒とのつながり 5−6
 私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。

 大使徒たちというのは、12使徒たちのことです。彼らが、イエスが地上におられるときから共にいて、イエスの復活を見た人たちでした。むろん、パウロもダマスコの途上で、復活のイエスご自身にお会いしていたのですが。にせ使徒たちは、そこでパウロは本物の使徒ではない、と言いふらしました。一方、彼らは、エルサレムの教会の何らかの推薦状を持っていて、私たちこそが使徒であると言って、12使徒たちとの結びつきを誇っていたわけです。しかし教えていることは、福音をだめにしてしまうような異端の教えでした。このように、人々から信頼され、柱のようにされている教会指導者との結びつきを吹聴している一匹狼のような存在だったのでしょう。


 したがって、私たちは、正統的な教会の中にいるからといって、このような偽教師たちが入ってくることはできないと考えるべきではありません。むしろ、正統とされる既存の教団名、正統的な教会、著名な教会指導者の名前を利用して、忍び込んでくるのです。日本においても、エホバの証人やモルモン教などの他に、キリスト教の異端は数多くあります。その多くは、既存の正統的な教団や教会との結びつきを持っていて、存在し、活動しています。したがって私たちは、教団、教会、名称などに振り回されることなく、実際に話していること、行なっていることによって判断する目を養わなければいけません。それは、みことばをよく学んでいること、そしてキリストとの歩みを確かなものにしていることによって養われます。

 たとい、話は巧みでないにしても、知識についてはそうではありません。私たちは、すべての点で、いろいろなばあいに、そのことをあなたがたに示して来ました。

 ここから、パウロはそれほど雄弁ではなかったことが分かります。にせ使徒たちは、彼の話しぶりについても批判していたのです。けれども、福音は、語る人がどのようにダイナミックに語るか、セールスマンのような説得力があるかどうか、というものによって変わるのではありません。福音は、話し手によって変わることのない内容を持っているのです。そこでパウロは、「話しは巧みでないにしても、知識についてはそうではありません。」と言っています。キリスト教会にも、話し方のうまい人たちがいるのを私たちは知っていますね。その中にはすばらしい伝道者、説教者もいるのですが、話し方に巻き込まれて、誤った教えを受け入れてしまう誘惑もあるのです。


2C 無報酬の宣教 7−12
 そして次に、パウロは、一風変わった批判に対して、自己弁明をしています。

 それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことが、私の罪だったのでしょうか。

 パウロは、コリントの教会の人たちから報酬を受け取らないで福音を宣べ伝えていたことで、非難を受けていたのです。たくさんのお金を巻き上げているほうが、非難を受けると思うのですが、その逆の批判がありました。けれども、ある意味でうなずけます。「きちんとした使徒であれば、教会によって支えられるのは当然である。自分で働いているのは、教会の信頼を得られていないからであり、自作自演をしているのではないか。」というような批判が成り立つでしょう。また、教会の指導者は、信者から金を受け取って当たり前である、もっともっと信者から搾り出さなければいけない、という非常に横柄な態度を、このにせ使徒たちは持っていました。その態度に対して、コリントの人たちは反発するどころか、影響されてしまっていたのです。ですから、パウロの地味な奉仕の仕方を見て、コリントの人たちにも、さげすむ心があったかもしれません。高慢な心になっているときには、地道に、人々に与え、愛を示している奉仕が不愉快になります。そこでパウロは、「自分を低くして報酬を受けずに、福音を宣べ伝えたのが私の罪だったのでしょうか。」と言っているのです。


 私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたのです。私は、万事につけあなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。

 
パウロは、宣教地において、天幕作りをして働くことによって生活費を得ていました。しかし、マケドニヤの地方では、その兄弟たちがパウロが困窮しているのを見て、何回か彼に献金や献品をしたようです。ピリピ人への手紙に、そのことが詳しく書かれています。


 私にあるキリストの真実にかけて言います。アカヤ地方で私のこの誇りが封じられることは決してありません。

 与えるところに徹すること、「受けるより、与えるほうが幸いである。」というキリストのみことばに従うこと、これがパウロにとって誇りでした。コリントにいる人たちがパウロを批判したからと言って、その方針を変えるようなことは毛頭ありません、とパウロは言っています。

 なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。


 これは面白いですね。コリントの人たちは、パウロが与え続けているのを見て、逆に愛されていないのではないか、という錯覚を持ったようです。これはあまりにも馬鹿げていますから、パウロは、「神はご存知です。」と言っています。けれども、人というのは面白いものです。自分が利用されているだけで愛されていない人について、自分は愛されていると感じて、本当に愛してくれている人に対して、その人は自分を愛していない、と感じることがよくあります。とくに、このようなカリスマ的でカルト的な指導者のもとにいれば、そのような心理的状態に陥ってしまうのも、やむを得ないことでしょう。


 しかし、私は、今していることを今後も、し続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇るところがあるとみなされる機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切ってしまうためです。

 パウロは、断固としてコリントの人たちから報酬を受けないことを決意しています。というのも、パウロのあら探しをしている者たちがいるからです。パウロがコリントの人たちから報酬を受けたことによって、「あいつは、金を巻き上げている。」と中傷することがでてくるでしょう。あらゆる非難から避けるために、彼は報酬を受け取らない、と決めています。


3C サタンの手下 13−15
 そして、彼らの正体を告発します。こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。

 パウロは、彼らのことをサタンの手下、と言っています。そして、サタンは光の御使いにも変装できる、と言っています。イエスさまも言われました。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。(マタイ
7:15」悪魔という言葉のもともとの意味は「輝く者」です。ですから、サタンがやりをもった黒い格好をした者というイメージは間違いです。そうではなく、本当は醜いものを美しく彩ることがサタンの性質であり、また働きです。例えば、離婚をまことに好ましく麗しいように描くテレビはサタンに操られています。実際に離婚した人は、その現実をよく知っています。ですから、私たちが気をつけなければいけないのは、最初から醜いものではなく、魅力的なもの、いかにも美しく見えるものであります。最初から汚いものは、私たちは寄り付きません。しかし、いかにも好ましく思われるところに誘惑があるのです。コリントにいる信徒たちは、にせ使徒たちの話しぶり、12使徒とのつながりなどに引き込まれて、彼らの存在を受け入れてしまったのです。

2A やむを得ない自慢話 16−33
 パウロは、コリントの人たちを愛するその熱情に動かされて、彼らがにせ使徒であることを告発しました。この熱情に動かされて、今度は自分のことを話していきます。

1B 愚か者に対する対処 16−21
 くり返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません。しかし、もしそう思うなら、私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます。これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。


 箴言
26章5節に、このようなことばがあります。「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。(箴言26:5」パウロがここで話していることは、このみことばと同じことです。たとえ自分が正しいことを話しても、コリントの人たちは愚かな議論の中の渦中にあり、自分の言っていることが耳に入りません。そして、パウロがどのような人物なのか、その信用証明書のようなものが、どうしてもほしかったのです。キリスト教会の中に、「あの人は、どのような学歴を持っているのですか。卒業した神学校はどこですか。学位はあるのですか。」というような質問をよく耳にします。その人が属している教団も気にします。また、その人の年齢も非常に重視されます。その人が何を発言し、何を行なっているかによって評価するのではなく外見によって判断すること、これが愚かなことなのです。

 パウロにとって、そのようなことはどうでもよく、また、そのようなことを語るのは恥ずかしいと思っていました。主にあって誇るのではなく、肉によって誇ることになるからです。けれども、コリントの人たちが、彼らが判断する基準で、使徒としてどのような資格をパウロが持っているかを知りさえすれば、それがきっかけとなって、彼らがキリストの清純な処女として、その純潔を守ることができるのです。そこでパウロは、「愚か者としてする思いきった自慢話です。」と言って、これから自分のことを話していきます。

 あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。

 
かなり皮肉を込めた言い方ですね。コリントの人たちは賢い、と言って、彼らがもっている高慢な態度を指摘しています。

 事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。

 
これが、にせ使徒たちの実態です。彼らは、信徒たちを奴隷のように酷使していました。また金を巻き上げて自分たちの腹を肥やしていました。真実を語らずだましていました。いばりちらしていました。そして信徒に対する暴力も行なっています。


 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、・・私は愚かになって言いますが、・・私もあえて誇りましょう。

 パウロはここで、一言、面白い事を言っています。「私たちは弱かったのです。」という言葉です。これから私は自慢話をします、と言ったなら、大抵、自分が何人の人をキリストに導いたか、とか、不思議や奇跡を行なって、何人の人がいやされたかとか、輝かしい業績のようなものを話しそうに思われますが、そうではなく、自分がいかに弱かったかをこれから誇ります、と言っているのです。パウロは愚かになりますと言っておきながらも、それでも本質から決してそれることなく、「弱さのうちにキリストの力が現われる。」という真理に導かれていくのです。


2B 自分の弱さ 22−33
1C ヘブル人ルーツ 22
 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。

 パウロはまず、自分がユダヤ人であることを弁明しています。他の個所では、彼はベニヤミン族のものであることを話しています。にせ使徒たちは、自分がユダヤ人であることを誇っていたようです。そして、パウロはユダヤ人ではない、というようなことも話していたのかもしれません。しかし、パウロはれっきとしたイスラエル人です。


2C 度重なる困難 23−27
 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。

 
彼らは自分たちのことをキリストのしもべと言い、自分がどのようなことを行なってきたかその成果を吹聴していました。しかしキリスト者の奉仕は数や量ではなく、質が大事なのです。しかし、コリントの人たちがこのような議論の中に入っているから、パウロはその議論の中に入っていくために、自分が狂気したようになって言います、と言っています。


 私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

 使徒の働きにおいては、ピリピにおいて牢に入れられたこと、そしてむち打たれたこと、またルステラにおいて石打ちにあったことが記録されていますが、それは実はごく一部だったようです。もっと多くの苦しみをパウロは味わっていました。

 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。


3C 教会への心づかい 28−31
 このような患難だけでも尋常ではありませんが、駄目押しのように、パウロはこう言っています。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

 各教会において問題が起こっていたから、そのことへの心づかいがある、と言っています。牧師が一つの教会において、問題が起こって、その心づかいのために倒れてしまった、ということはよく聞く話しです。けれども、パウロは、すべての教会の問題に対して心づかいをしていました。

 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

 私はここにとても感動します。すべての教会のことを気にしていて、そして死に直面するような困難に頻繁に会っているなら、普通、人がする反応は、心を冷ますことです。なるべく感じないようにしよう。人々とは距離を置いて、自分の感情が問題によって動かされないようにしよう、と思うはずです。けれども、彼は人間でありつづけました。落ち込むときには落ち込み、悲しみときには悲しみ、泣くときには泣く。喜ぶときには、はしゃぐようにして喜ぶ。だれかがつまずいてしまったときは、心が激しく痛みました。


 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。

 パウロが誇りとしていたのは、こうした弱さだったのです。彼の信仰の根幹のところにあったのは、キリストと同じような道を歩むというものでした。キリストの死とよみがえりにあずかることが、彼にとっての大望であり野心だったのです。しかし、彼はこのような道を歩むには、到底ふさわしくない罪人であると思っていました。罪人のかしらである、と彼は他のところで言っています。ですから、彼の思いの中にある中心的な事柄は、神の恵みと、主にある喜びだったのです。だから彼の手紙には、自分がいかに苦しんだかを誇るようなところは少なく、喜びと平安を特徴としています。


4C 卑しい出発 32−33
 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕えようとしてダマスコの町を監視しました。そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。

 
彼は、自分のミニストリーの出発地点について話しています。なんと恥ずかしいスタート地点でしょうか。自分のいのちをねらわれて、かごにつり降ろされて逃れたのです。こうして、パウロは自分の弱さを誇ったのです。


 こうやってパウロは、自分を愚かな議論の中に入れていきました。そして、自分もこれが愚かなことであることをよく知っていました。私たちが、どれほど愚かであるかを知っているか、よく考えてみないといけないと思います。人の話しぶりを、その内容よりも気にしていないか。既存の教団や教会、また著名な説教者のようなものを、過度に気にしていないか。慎ましく、地道に人々に与える奉仕をしている人たちを、さげずんでいないか。大きなイベント、大人数、目を見張るものがすばらしいと思っていないか。このような愚かなところにいないかどうかを考えてみなければいけません。そして、キリストの福音に単純に立っているかどうか、清純な処女のようにキリストの前に立っているかを考えてみましょう。ダビデは祈りました。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。(詩篇139:23


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