罪のもたらす悲しみ 2000/10/27

「あのような手紙を書いたのは、私が行くときには、私に喜びを与えてくれるはずの人たちから悲しみを与えられたくないからでした。それは、私の喜びがあなたがたすべての喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからです。(コリント人への手紙第二2:3)」

明後日に行なう聖書の学びの準備が整いました。コリント書第二2章からです。パウロは、前の手紙で、近親相姦の罪を犯していた兄弟を、交わりから取り除きなさいと教会の人々に命じました(1コリント5章)。コリントの人たちはそれに応じて、彼を処罰したようです。そのため、教会の人々が悲しみ、また本人は罪責感で押しつぶされそうになっていたようです。

この罪を犯した人を受け入れ、慰め、また交わりに戻しなさい、とパウロは勧めました。それは、罪による悲しみが悲しみに終わるのではなく、悔い改めによる罪の赦しを経験して、喜びをともにしたい、と願ったからです。

私たちも罪によって、さまざまな悲しみを経験します。罪を取り除かなければ、喜びは偽物となり、礼拝は心のこもらない、口先だけのものとなってしまいます。けれども、罪を犯して、悲しんだ人々を、他のクリスチャンが優しく受け入れ、慰め、暖かく交わりに迎えるときに、その悲しみは本物の喜びに変えられます。

この悲しみの中を通るのを恐れず、主にある真のいやしと喜びを経験したいです。


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