コリント人への手紙第二4章 「土の器にある宝」

アウトライン

1A 宣教において 1−6
   1B 宣べ伝える姿勢 1−4
   2B 宣べ伝える内容 5−6
2A 生き様において 7−15
   1B 計り知れない力 7
   2B キリストの死といのち 8−12
   3B よみがえり 13−15
3A 見方において 16−18

本文

 コリント人への手紙第二4章を開いてください。ここでのテーマは、「土の器にある宝」です。

 パウロは、3章において、使徒たちや牧者たちの務めは御霊の務めであることを話しました。旧約においては、モーセが神にお仕えすることにより、神の栄光が現われたのですが、パウロたちが与えられている務めは、モーセの務めよりもさらに栄光に輝いていることを語っています。パウロたちの宣教によって、人は御霊によって新たに生まれ、義と認められて、永遠に主とともに生きるようにされます。このようなすばらしい働きの中に自分が入れられているのですが、その資格は自分自身のものではなく、神から来ています。パウロの肉体は、迫害や困難の中で痛めつけられていました。また、コリントにある教会の問題で、彼の心も擦り切れていました。けれども、パウロは、心を失いませんでした。なぜなら、自分たちが苦しんでいても、神が自分たちの苦しみの中で働いてくださって、人々を永遠のいのちへと至らせるみわざを成し遂げてくださるからです。

 そこでパウロは、4章において、このような御霊の働きの中に入れられている自分自身を「宝を中に入れている土の器」と表現しています。自分は弱い存在だけれども、主が、その弱さの中に力強く働いてくださり、そしてご自分の栄光を現わしてくださる、というものです。

1A 宣教において 1−6
1B 宣べ伝える姿勢 1−4
 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

 
パウロは、主の御霊によって、人々が解放されていく務めにたずさわっていることを知って、それでは自分自身はどのような姿勢で福音を宣べ伝えていくべきなのかを語っています。第一に、「あわれみを受けてこの務めに任じられている」ということです。自分が何か霊的にふさわしいものになったから、宣教の働きをするのではなく、神のあわれみによって、福音を宣べ伝える、ということです。私は自分のことを考えると、このことを強く思います。一度、私が日本で通っていた教会の牧師とともに、コリント人への手紙第一
13章を開いて、愛の定義のところをいっしょに読みました。そこで、これら愛の定義の中で何がもっとも自分に迫ってくるか、と聞かれました。そこで私は、愛は情け深い、という言葉であると言いました。そして牧師は、おそらくそれが、貴方がもっとも欲していることでしょう、と教えてくれました。そうなんです、神のあわれみを私はもっとも欲していたようです。神のあわれみなしには、第一にクリスチャンとして生きることも許されないでしょう。ましてや、福音を宣べ伝えるわざに加わることは決してできません。けれども、神は自分の弱さを用いて、ご自分のみわざを行なってくださいます。ですから、自分が弱いということは、福音宣教をしていかないという理由にはならず、むしろ、その弱さとともに前進していくことが必要なのです。

 そして、パウロは、「勇気を失うことはない」と言っています。パウロは、多くの人から憎まれ、拒まれ、殺されそうになり、また、信者たちから批判を受けました。自分とともに働いてくれる同労者、また自分を愛し支えてくれる信徒たちはいましたが、それと同じくらい、いやそれ以上の反対者がいたのです。このような目に見えるところに従えば、自分は惨めな思いになります。落胆します。なぜ、自分はこのような務めを任されているのだろうか、と思います。しかし、3章において、御霊の務めがいかに栄光に富んでいるものであるかを話しました。自分ではなく、神がご自分の御霊によって、自分を通して事を行なってくださるのだ。だから、大丈夫だ、勇気を失わない、と言ったのです。

 そして、「恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まない」と言っています。パウロはローマ人への手紙1章において、「私は福音を恥とは思いません。」と言いました。私たちが福音を宣べ伝えているときに受ける誘惑は、福音をそのまま伝えないで、人々の耳に聞きざわりが良いように内容を変えてしまうことです。福音の内容を、恥ずべきものであるかのように内に秘めてしまって、そして表には人々をひきつけるような話しをします。しかし、パウロはそれを行ないません、と言っています。人々をキリストに導くのは、自分自身ではなく御霊なのだ。御霊が人々を、罪の縄目から解放してくださり、キリストの支配の中に入れてくださるのだ。だから、何とかして、人々に信じてもらおうように、こちら側で細工をしなくてもよいのだ、と考えているのです。

 そこで、「神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」と言っています。パウロの役目は、忠実に神のみことばを説き明かすことだったのです。神のことばを曲げないで真理を明らかにします。パウロはコリント書第一4章において、「私たちは、神の奥義の管理者だ。」と言いました。管理人には忠実であることが要求されます。自分は、ただ正確に、忠実に、聖書に書かれていることを伝えるだけでよいのです。そして、その判断は、神にあって聞いている人々に任せてしまうのです。忠実に語ることについては、自分自身に責任があります。けれども、それをどのように受け入れてもらうかは、神の主権と、聞いている人々の判断に任されているのです。

 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。

 
もし、神のみことばをまっすぐに説き明かして、それで福音を受け入れないのであれば、それは、その聞いている人たちに責任になります。自分自身を滅びへと招いているということです。

 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

 ここは大事です。人々が福音を聞き入れないのは、その人の自由意志だけの問題ではありません。もちろん自分の選択により福音を受け入れないのですが、福音の輝きをくらましている霊的存在の仕業があるのです。それはまるで、飛行機に乗って雲よりも上に入れば、燦燦と輝く太陽のもとで青空を見ることができるのに、地上では灰色の雲の中で雨が降っているかのようです。福音が福音として伝わりません。その不信者の思いをくらましている犯人は、「この世の神」つまり悪魔です。イエスさまは、悪魔のことを「この世の君」と呼ばれました。最初は、人が地を支配するように神は命じられました。けれども最初の人アダムが罪を犯したので、その支配権は悪魔のほうに移りました。それ以来、悪魔がこの世を支配しています。この悪魔が、人々が福音の輝きをくもらせている張本人であります。


 ですから、私たちクリスチャンの役目は、神に、この悪魔の仕業を縛りつけていただくようにお願いすることです。ダニエルのことを思い出してください。ダニエルが祈りをささげていましたが、神がその願いを聞き入れて、主の使いが来ました。けれども、主の使いはペリシヤの君がいたので、ダニエルのところに来るのが遅れた、と話しています。霊の激しい戦いが、私たちの肉眼では見えないところで繰り広げられているのです。しかし私たちには、霊の武器を持っています。祈りです。エペソ書6章に、御霊の武器について詳しく述べられています。御霊による祈りによって、敵の仕業を打ち破ることができます。ですから、私たちは、神のあわれみに訴えて、特定の人が救い出され得るように祈ることが必要なのです。

 そして、パウロは、福音の光を「神のかたちであるキリストの栄光」であると言っていることに注目してください。キリストが福音の栄光です。そしてこのキリストは神のかたちであります。コロサイ書には、「御子は、見えない神のかたちである。」と書いてあります。またヘブル書にも、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」であると書かれています。そしてイエスさまご自身が、ピリポに言われました。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9」と言われました。今日のキリスト教は、人間中心になっています。いかに幸せになれるのか、あるいは反対にいかに清くなれるのか、という自分たちに焦点が当てられた話題が豊富です。しかし、キリスト教はキリスト中心なのです。キリストのすばらしさ、その愛の深さ、広さ、長さ、高さがどのようなものであるかを見つめ続けるのです。今、友人の牧師とヘブル書をともに学んでいます。みことばによって、自分が描いていたキリストのイメージが、いかにちっぽけなものだったのかを知りました。福音とはキリストの輝きそのものです。

2B 宣べ伝える内容 5−6
 そこでパウロは次のように言っています。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

 
そうですね、ここが大事です。自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。パウロは、自分がいかに弱いものであるかをよく知っていました。この自分の有様を人々に伝えても何の益にもなりません。そうではなく、イエス・キリストを宣べ伝えるのです。しばしば、証しと称して、自分が過去にいかにひどいところを通って来たかを細かく話す人がいます。けれども、私の教会の牧師の一人が、牧師の卵たちにこう言いました。「汚れた、愚かな罪人である私のことを話してどうするのだ。自分ではなくキリストを伝えなさい。」彼はとてもユーモアにあふれていました。牧師訓練校の学生たちのクラスに来て、「たくさんの落第者がいるなあ。(
”bunch of failures”)」と言いました。そうですね、自分のことを話してもどうしようもないのです。私たちは、キリストを宣べ伝えます。そこでパウロは、「私たち自身は、しもべなのです。」と言っています。だれも、召使いの人たちを注目することはありません。同じように、福音宣教者は注目されるような存在ではないのです。

 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

 創世記1章の個所から、パウロは引用していますね。光が創造された第一目のことですが、やみの中に光が輝き出よ、と仰せになって、光ができました。同じように、神は私たちの暗くなっている心に、キリストの御顔を輝かせてくださるのです。


2A 生き様において 7−15

 そしてパウロは、福音の輝きだけではなく福音の力によって生きる自分たちのことを話します。

1B 計り知れない力 7
 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

 
弱く衰えている自分。それに対し、自分を通して人々が永遠のいのちの中に入っていく。この一見、矛盾したような出来事を、パウロは、「土の器の中に宝を持っている」と表現しています。土の器にダイヤモンドを入れているのは、なんとも不恰好です。宝には、それにふさわしい容器が必要なのですが、しかし、神は、あえて土の器にご自分の宝を入れることをなさいました。それはなぜでしょうか。もし、容器がきらきらと輝くダイヤ付きの箱であればその輝きは箱にあるのか、それとも宝にあるのか、あまり区別がつきません。むしろ、器が質素なもの、目立たないものであればあるほど、輝きがただ宝から出ているものであると判別できます。そこで神は、あえて、弱い肉を持っている私たちの中で輝くことを選ばれたのです。私たちは、しばしば自分の器をみがくという間違いを犯します。自分をいかに愛ある人としていくべきか、そのテクニックを学ぼうとします。クリスチャンなのだから、これこれをしなければならないという戒めを自分に課していきます。しかし、ありのままの自分を見つめようとしません。しかし、私たちは、一見矛盾する二つのことを受け入れなければいけないのです。それは、「弱いときにこそ、強い」というパウロの言葉です。弱くて、そして強いのです。私たちは何とかして強くなろうとします。けれども、弱いありのままの自分を、そのまま神にぶつけていかなければならないのです。弱さの中で、キリストの力が完全に働きます。


2B キリストの死といのち 8−12
 そのことを実際、パウロやテモテなどの奉仕者たちは体験していました。次をご覧ください。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

 パウロは、自分たちが窮することはなく、生きづまることはなく、見捨てられることはなく、滅びることはありません、と言っていません。四方八方から苦しめられているけれども窮することがなく、途方にくれているけれども行きづまることはなく、迫害されていても見捨てられることなく、倒されても滅びない、と言っているのです。四方八方から苦しめられる事、途方にくれること、迫害されること、倒されることを彼らは体験しているのです。これらのものがないことが、私たちのクリスチャンの理想であると思われるでしょう。いいえ、それは見せかけのクリスチャンです。何も問題のないクリスチャンというのは、クリスチャンではありません。むろん、あえて苦しみをつくる必要はまったくありませんが、キリストに結ばれているかぎり、キリストと同じ足跡を歩むはずなのです。


 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

 これは、とても大切な教えです。キリストに結ばれた私たちは、キリストの死とよみがえりとの交わりの中に入れられているという教えです。ピリピ人への手紙においても、パウロはこう言いました。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ
3:10-11)」私たちの親友であるアメリカの人から先日、ビデオが届きました。息子の葬式のビデオです。これは3年9ヶ月という短い人生を、心筋症という心臓の病気をもって終えました。しかしお二人は、大胆にイエスさまのことを証ししていました。この子は、死ぬ前の数ヶ月間、病床でいろいろな管が付けられ、両親もさわることが許されていませんでした。私も実際にどのような表現をしたらよいのか分からなかったのですが、目を背けたくなるほどの無残な姿であったと思われます。しかし二人はその息子を見て、イエスさまの十字架を思っていたそうです。イエスさまも、このようにして身動きもできず、十字架の上で苦しまれていたのではないかと。イエスさまが、「渇く」と言われたように、カレブの喉には管が入っていたため、からからになっており、水のはいったスポンジで湿らせなければいけなかったようです。そして最後は生命維持装置が取りつけられました。それをいつかははずさなければいけない、と医師は伝えました。お父さんは彼に聞いたそうです。「イエスさまに会いたいか?」彼はうなずきました。彼はもう、自分の心にイエスさまを受け入れていたクリスチャンでした。それで、親は管をはずして、2,3時間、自分の胸の中に抱いていたそうです。そして息を引き取りました。二人とも、しばらくは涙が止まりませんでしたが、二人は顔を見合わせて、こう行ったそうです。「これで完了したのだ。この子は、このからだから解放されたのだ!」と。そして、神さまへの感謝と喜びの祈りをささげたそうです。

 たった3年9ヶ月のこの世における命でした。そして、この幼児が、立派にイエス・キリストの死と復活の交わりを行ない、そして、キリストの証しを全うしました。これが、パウロがここで言っていることです。イエスの死を自分の身にまとい、そしてイエスのいのちにあずかるのです。これは、どのようにしたら愛が伝わるかなどというテクニックではありません。私たちが一途に、いま与えられたいのちをキリストにあって全うするかという、生き様そのものです。そして、私たちを見て、私たちのことが人々に伝わるのではなくイエス・キリストが伝えられていく、これが私たちの証しなのです。

 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

 パウロたちは、クリスチャンであって、かつコリントにいる人たちに対する仕え人でした。したがって、キリストの死を身にまとうパウロたちの奉仕によって、他の人々にいのちが与えられます。


3B よみがえり 13−15
 そしてキリストのよみがえりは、今生きている私たちのうちに働く原理だけではありません。これは将来の希望でもあります。「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

 
パウロは信じているから語る、と言っています。それは、主イエスを死者の中からよみがえらせた父なる神は、イエスさまによって私たちをもよみがえらせてくださいます。そして、神の御前に、大きな喜びをもって立つことができます。私たちが、この希望を持っているでしょうか。私たちクリスチャンの間で、死者の復活についてよく話さなければいけません。そのときに、私たちは、傷のない者、汚れのない者として、キリストにあって父なる神の御前に立つのです。なんと、栄光に輝く出来事でしょうか。これを、初代キリスト者たちは、「マラナタ」と言って、互いに挨拶を交わし、互いに励ましていました。そこでパウロはこう言っています。

 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。


 このよみがえりにある神の恵みによって、私たちに感謝が満ちあふれます。感謝が満ちあふれると、そのときに神の栄光が現われるようになります。


3A 見方において 16−18
 そこでパウロは、この目に見えないところにおける希望を抱くことがなぜ益になるかを次に話しています。

 ですから、私たちは勇気を失いません。


 再び、「勇気を失いません。」と言っていますね。パウロはまだ、肉体と心の苦しみを身にまといながら、生きています。ですから、自分の思いがそのことに引き付けられます。けれども、パウロはキリストの復活の姿にあやかって、いつも神の栄光を見るように導かれているのです。私たちも同じです。キリストの死と復活というのは、一回限りのものではありません。繰り返されるものです。一度、神の栄光を見て、「万歳!主に栄光あれ!」と叫んでも、またキリストの死にあやかる道を進みます。そして、キリストのいのちにあずかって、再び「神に栄光あれ!」と叫ぶのです。その繰り返しです。ですから、パウロは再び、「私たちは勇気を失いません」と言っています。


 たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

 私たちが将来の栄光を見つめるときに、私たちの内なる人、つまり霊魂は新たにされます。3章では、「栄光から栄光へと」と書いてありましたが、同じことです。そのときに外なる人、つまり肉体は衰えます。外は衰えるのですが、内は新たにされる、こうした一見矛盾した現象が、私たちのうちに起こるのです。クリスチャン生活というのは、とらえどころのない生活ですね。幸せを最高の徳として掲げる新興宗教においては、決して受け入れられない教えです。彼らは、何とかして外なる人を新しくしようとします。いやしとか、また日常生活の向上とか、そのようなものを求めて生きます。キリスト教会にもそのような傾向を見ることがあります。朝にデボーションをきちんと守るようになったら職が見つかった、という類いの証しがあります。けれども、キリスト者として生きるときに、外なる人は衰えていくことを体験するのです。キリスト者の特権は、外なる人が衰えているときに、将来への希望を見て、内なる人が新たにされていくことです。ますます天国についてのビジョンがはっきりとしてきます。ますます、キリストの十字架への道と復活の深みを味わうようになります。そのときに、人間的にも良い事が起こるかもしれません。けれども、それが本質的なことではありません。キリストとの交わり、キリストへの希望、これが本質的なことです。


 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

 
これは凄いですね。パウロは自分が受けている患難が軽いと言っています。パウロが受けた患難は本当に軽かったのでしょうか。
11章を開いてください。1123節からですが、こう書いてあります。「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。(11:23-28」これが軽い患難です。なぜそのように言えるのでしょうか。彼は、将来の永遠の栄光と、今の患難を秤にかけているからです。パウロが受けたこれだけの患難が上にあがってしまうほどに、将来の栄光は重いのです。前お話ししたように、「栄光」という言葉の元々の意味は、「重さ」です。重いとそのに物が集められていく、という引力の法則がありますね。そこから注目が集められるという意味で「栄光」という言葉が用いられています。つまり、将来の希望があまりにも凄く、測り知れないので、患難の中にあっても勇気を失わないでいることができるのです。私たちの問題は、患難を耐えることができない、ということではありません。私たちの問題は、将来の希望をきちんと見ていないことなのです。今日の教会で、「何々セラピー」とか、「自分を愛するために」とか、自分の生活を何とか取り繕うとするための方法に強調点が置かれています。みことばを大胆に語る説教者よりも、心理学カンセラーがもてはやされています。彼らの働きは貴重ですばらしいものですが、しかし、私たちを苦難から引き上げてくれるのは、キリストのよみがえりにある、測り知れない重い永遠の栄光のみなのです。これがいかにすばらしいか、爆発的な喜びを噴出させるような栄光を、私たちはもっともっと知るべきで、そこに注目すべきなのです。

 そこで4章の結論が次に書かれています。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

 見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ、これが大事ですね。目に見えるものは一時的ですが、見えないものはいつまでも続きます。永遠のことに目を注ぐか、一時的なものに目を注ぐか、それによって苦しみに対する私たちの受けとめ方が変わってきます。私たちは、土の器の中に神の栄光を持っています。この器はいつまでもよくなることはありません。むしろ衰えます。苦しみを持ちます。しかし、苦しみをもつがゆえに、中にある宝は輝きを増します。しかも、私たちには決して理解できないような方法で、つまり弱いときにこそ強いという方法で輝くのです。パウロが言ったように、私たちも勇気を失わないでいたいと思います。



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