コリント人への手紙第二5章 「新しく造られた者」

アウトライン

1A 天からの住まい 1−10
   1B 幕屋の中のうめき 1−5
   2B 主から離れた歩み 6−10
2A キリストの愛 11−21
   1B キリストのための人生 11−17

   2B キリストにある和解 18−21

本文

 コリント人への手紙第二5章を開いてください。ここでのテーマは、「新しく造られた者」です。私たちによく知られている、有名な聖句がここにあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。私たちキリスト者が、新しく造られた者として、どのように生きていけばよいのかについて学びます。

1A 天からの住まい 1−10
 それではさっそく、1節をごらんください。

1B 幕屋の中のうめき 1−5

 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

 パウロは今、この地上の肉体と、復活したときに受け取る新しいからだのことを話しています。地上の肉体を幕屋すなわちテントとたとえ、復活のからだを神の建物であるとたとえています。


 私たちは先週、4章の学びにおいて、私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされることを学びました。パウロは、肉体の多くの苦しみを負いました。けれども、この肉体の弱さの中で神の力が働いておられるのを経験していました。キリストのいのちを持っているので、自分の外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされます。そして、パウロは、目に見えるものは一時的であるが、目に見えないものは永遠に続くことを話しました。そこでパウロは、この目に見える肉体と、まだ見ていない復活のからだについて話しています。

 私たちのコリント書第一において、復活のからだについて学びましたね。復活のからだは決して死ぬことはなく、朽ちないものであり、栄光があり、天国で住む環境に適したからだであると学びました。そして、この地上おのからだは、やがて衰え、朽ちていくものであります。またアダムから引き継いだ罪を宿しています。このような違いがあるのですが、パウロはこの違いをテントと建物にたとえているのです。テントに住むのは、遊牧民族でないかぎり、一時的であります。登山に行ったとき、キャンプをするとき、テントがなければ寝泊りができませんから、これはとても大切です。けれども、このテント生活が2週間、3週間続いたらどうなるでしょうか?不便極まりない生活ですね。もろいし、激しく雨風が吹いてきたら、吹き飛ばされてしまいます。パウロは、これまで肉体に受ける苦しみについて話してきましたが、肉体の中で生きる生活はまさに、テント生活であるとたとえているのです。

 けれども、建てられた家に住むことはどうでしょうか。電気・ガス・水道があり、食べること寝ること、すべてにおいて快適であります。同じように、復活のからだは、私たちにもっとも適したからだであると言えます。イエスさまが弟子たちに言われました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。(ヨハネ14:2」イエスさまが用意してくださる住まいとは、まさにこの新しいからだ、復活のからだなのです。天において永遠を過ごすのにもっとも適したからだを、受け取ります。

 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

 
私たちは、天から与えられる住まいを着たいと強く願っているので、この幕屋にあってはうめいてます。クリスチャンは、この地上において、つねにうめいている存在であります。けれども、どうしてこの幕屋に満足できないのでしょうか?それは、私たちが、霊において新たに生まれたからです。私たちは霊・魂・体のあるものとして造られました。霊は神から離れて、死んでいました。けれども、神の御霊によって、霊が新たに生まれ、そして神のものとなりました。ですから、私たちの霊は、神のうちにあって、もっとも喜んでいるのです。神を礼拝することを、もっとも願い、慕い、神のみもとにいることによって安きを得ます。ところが、この肉体は、地上に属しているものです。アダムの罪による影響力をかかえた体であります。ですから、私たちはちょうど、不自然な着物を身に着けさせられている状態にいるのです。
100メートル走の選手が、アメリカンフットボールの選手が身に着けるウェアーを着ながら、100メートルを走らなければいけないようなものです。霊が死んでいれば、このような心配は入りません。からだは地上のものであり、霊は死んでいますから、思いはつねに地上のことを考えていればよいのです。けれども、霊が神との交わりによって生きていると、この肉体は、引きずるようにして抱えていなければいけないものになってしまいます。それをパウロは、「うめいている」と表現しているのです。

 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。

 
ここは、私たちが死んだあとにどのような状態になるのかを知るのに、とても大切なことばになります。なぜなら、私たちは、裸の状態、つまり霊だけの状態になることはない、という真理です。私たちが死んだら、その瞬間に、私たちは新しいからだが与えられるのです。霊だけの状態で浮遊することはありません。それは、おかしいではないか、死者の復活があるのは、キリストが戻って来られるときではないか、と言われるかもしれません。テサロニケ人への手紙に、「キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」と書いてあるではないか、といわれるかもしれません。キリストがまだ戻ってこられていないのに、彼らが復活のからだを持っているのなら、もうキリストが戻ってきているのでしょうか、という質問です。

 次から話すことは、みなさんを完全に混乱させてしまうと思いますが、お語りします。神は時間という制約の外におられる永遠なる方です。神にとって、昔も今も未来もありません。昔も今も、未来も、神にとっては、一点にしぼられています。つまり、神にとっては、今、アダムがエバから、禁じられた木から取った実を食べようとしているのをごらんになっており、また、反キリストが世界中の軍隊がハルマゲドンに集まって、キリストが再臨し、彼らを打ち負かしておられるのを同時にごらんになっておられます。過去、現代、未来という時間の区分けは、神には存在しないのです。同じように、天においては時間の制約を受けていません。永遠の領域に入るので、過去も未来も、現代も、なくなってしまうのです。したがって、仮に今日、老齢のクリスチャンの方がお亡くなりになったとします。そして、仮に私たちが3年後に教会の携挙を経験します。この老齢のクリスチャンは、すでに私たちにとって3年後の携挙を経験されることになります。私たちにとっては、未来のことなのですが、キリストにある死者にとっては、死んでから直後の出来事になるのです。ですから、裸の状態であることはありません。

 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

 パウロは、幕屋の中でうめいているのは、幕屋を脱ぎたいからではなく、天からの住まいを着たいから、と言っています。私たちは、天国に行きたい理由として、今の生活があきあきしたから。もうここでの生活が嫌気がさしたから、はやく天国に行きたい、とよく思います。けれども、それは間違った動機ですね。この幕屋を脱ぎたいから天国に行きたいのではなく、天国において新しい住まいが与えられるから、この幕屋の中でうめいているのです。もっと積極的な見方をしています。例えば、いま毎日、カップヌードルばっかり食べる生活を送っているとします。カップヌードルはもうごめんだと思っています。そこで、カップヌードルから解放されるなら、何でもいいからくれ!という態度を取ることができます。けれども、同じカップヌードルを食べていても、間もなく豪華なフランス料理が用意されていることを知ります。フランス料理はまだかな〜と指をくわえながら、待ちつつカップヌードルを食べます。奥さんが、「私、こうこのカップヌードル食べたくないわ。」と言っているとき、旦那は、「ほらほら、間もなく豪華フランス料理が食べられるんだ。どんなに美味いか、お前知らないだろう。」なんて話していたりします。この違いがわかりますよね。パウロは、この幕屋を脱ぎたいと思うからうめいているのではなく、天からの住まいを着たいからうめいています。そして、これが新しく生まれたクリスチャンの、生きる姿勢なのです。


 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

 私たちが天からの住まいを着ることができる保障として、神は私たちに御霊を下さいました。エペソ書にもこう書いてあります。「聖霊は私たちが御国に受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ
1:14」私たちは、罪に売られた奴隷状態であったところから、神に贖い出されました。神は、ご自分の子のいのちという高い代価を支払われて、私たちを買い取られたのです。けれども、今の段階では、私たちは霊のみが贖われています。からだは今もって、アダムから受け継いでいるものであり、贖われていません。しかし、神は、私は必ず贖いを完了させることを意図しておられます。神が本当に私たちを買い取られる保証として、頭金を払ってくださいました。これが聖霊です。私たちが、秋葉原に行って、とってもお得な値段の新しいパソコンを見つけたとします。「あっ、これぜひ買いたいです。」と言います。でも、今、お金がありません。そこで、「明日、またここに来ますから、このパソコンを私のためにとっておいてください。」と言います。お店の人は、「頭金を出してください。他にも買いたい人がいるのに、あなたのためだけにとっていくのですから。」と言います。お店の人は、とっても正しいことを言っていますね。お客さんが「買いたい」と言っても、あとで買うのを止めてしまうかもしれません。だから、頭金として、代金の一部をいただくのです。

 神は、私たちを必ず神の御国に入れてくださいます。私たちを必ず、天に引き上げてくださり、点からの住まいを与えてくださいます。どれだけそう本気で思っているのかは、私たちのうちに住んでおられる御霊によって分かるのです。私たちが罪が赦され、きよめられ、神の愛と平和に満たされます。喜びが心の中からあふれます。「ああ、クリスチャンってなんてすばらしいいのだろう。」と思います。けれども、それは単なる頭金にしか過ぎないのです。主が来られるとき、神はすべての契約取引を終えてくださいます。そのときの喜びは、御霊による喜びと比べられないものなのです。

2B 主から離れた歩み 6−10
 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。

 パウロは心強くなっています。思い出せますか、パウロは2章において、トロアスにいるときに心に安らぎがなかったことを言い表しました。そして、3章においては、「私は勇気を失いません。」と言っています。今は、「私たちはいつも心強いのです。」と言っています。天から与えられる住まいを思うことで、パウロの心はどんどん強くされているのです。

 ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。


 そうですね、今は御霊によって主がともにおられますが、からだを持った主ご自身は父なる神の右に座しておられます。つまり、今の自分は主から離れています。

 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

 まだ、主と顔と顔を合わせて見ていないので、見えないものを見ているようにして歩みます。信仰によって歩んでいます。ペテロも同じことを言いました。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。(Tペテロ
1:8-9私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そうですね、パウロは贖いの保証であられる御霊を受けて、それによって心強くされています。けれども、この肉体を脱いで、主のみもとに行きたいと強く願っています。

 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

 パウロは、新しい天からの住まいを与えられることを強く願っていました。そして、その住まいが与えられるときに、キリストによって報いが与えられることを知っていました。この地上で行なっていることにしたがって、キリストが褒美を与えてくださいます。「良くやった、忠実な良いしもべよ。あなたは小さなことに忠実であったから、大きなものを任せよう。」とおっしゃってくださるのです。ここにキリストのさばきの座、とありますが、これは大きな白い神の御座のことではありません。白い大きな御座は、不信者が復活して、その行ないに応じてさばかれ、火と硫黄の池に投げ込まれるところの御座です。けれども、キリストの御座は異なります。御座の言語はビーマでありますが、これはオリンピックの審判席のことを意味します。審判から、金メダル・銀メダル・銅メダルをもらいますが、賞を与えるところのさばきです。だから、パウロは、賞を得るために一心に走ります、とピリピの手紙で話しているのです。私たちが、キリストを信じて、その信仰によって現われた行ないがあります。その行ないにしたがって、キリストは報いを与えてくださるのです。


2A キリストの愛 11−21
 こうして力づけられたパウロは、この手紙を読んでいるところのコリント人たちに語りかけます。

1B キリストのための人生 11−17
 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

 パウロは、主の恐れを知っているので、人々を説得しようとしている、と言っています。主は信じる者には報いてくださいますが、不信仰な者には容赦ないさばきを与えられます。このことへの畏れから、パウロは、後で出て来るところの神の和解のメッセージを人々に伝えているのです。

 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。

 
パウロは、今、これを読んでいるコリントの人たちの良心に訴えています。偽教師の存在によって、教会が乱れ、パウロの使徒職としての信用が落ちていたからです。あなたがたは、私たちがどのように生きてきたか、またどのような福音を語っていたかをよく知っていますね。だから、推薦状のような紙面による推薦など必要ありませんよね。あなたの良心では、よく私たちのことを知っているはずです。ですから、うわべで誇る偽教師たちに、大胆に答えることができるようになってほしいのです、と言うことです。


 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

 
気が狂っているとはどういうことでしょうか。パウロが、宣教のために、どのようなことを行なったかを考えられればよろしいかと思います。エペソで暴動が起こった時に、パウロはその中に入ろうとさえしました。この手紙を書いたあとのことですが、パウロは、エルサレムにおいて、自分を殺そうとしていたユダヤ人たちに対して、福音を宣べ伝えます。小アジヤのルステラという町では、石打ちにあい、死んだかと思われたのに、彼は立ち上がって、再びルステラの町の中に入ってきました。そして、福音宣教の旅を続けています。これは、傍目から見れば、確かに気が狂っています。しかし、それは神のために気が狂っているのです。そして、同時に、コリントの人たちは、パウロの判断や処置に、思慮深い大人の見方を持っていることを知っていました。ですから、正気であれば、それはただあなたがたのためです、と言っています。


 うわべで判断するのであれば、パウロたちは気が狂っているかもしれないし、正気であるかもしれません。けれども、彼らには一貫している動機付けがありました。というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。

 彼らをそこまで突き動かしているのは、キリストの愛です。キリストの愛が、彼らを死の危険を犯してまで福音を語ろうとする動機となったのです。黙示録には、忍耐して労苦しているエペソの教会があります。けれども、イエスさまは、その教会について叱られました。それは、初めの愛から離れてしまった、というものです。キリストが罪人のために死んでくださったところに現われている神の愛を私たちが忘れるとき、私たちの忍耐と労苦は無駄になってしまいます。パウロたちは、唯一突き動かしているのは、この愛によるものでした。


 そしてパウロは、大胆な発言をします。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

 ひとりの人とはキリストのことです。キリストが死なれたということは、すべての人が死んでしまったことなのだ、と言いきっています。つまり、人にはもう希望がなく、死んでおり、どんな可能性もなく、絶望と破滅しかないのだ、ということです。もうキリストなしには、だれも救われることはできないのだ、という立場です。パウロがギリシヤの町に来て、偶像がたくさんあるのを見て、憤ったとあります。あの憤りとフラストレーションを、私たちクリスチャンは持つことができるし、また持たなければいけません。傍目から見たら、確かに気が狂っているようになるでしょう。私たちがしていることが、英会話という手段によって地域新興の手助けをすること、子供たちに英語を教えて、国際理解の目を開かせることなどが最終目的なのであれば、何のフラストレーションもたまりません。フラストレーションと言っても微々たるものです。英語がだめなら、他の稽古事もあるのですから。けれども、ここに来る人たちがもうすでに死んでいるという、あまりにも切羽詰った状況の中で、神に叫んで祈りながら、これらのことを行なっています。これがキリストの愛に駆り立てられているということです。


 そして、こう言っています。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。生きるのは、キリストのために生きるためだ、と言っています。「夫婦の問題が解決されました。親子の問題がなくなりました。よかった、よかった!」ではないのです。生きるのであれば、自分のためではなくキリストのために、キリストにあって生きるために、奉仕をしているのです。すべての人は死んでいる。生きるなら、キリストにあって生きること、それだけだ!という立場です。

 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。これは、先ほどのうわべだけで人を知る、外見だけで人を知るということであります。キリストがこの地上におられたときに、多くの人がこの方の本質について知ることがなかったように、多くの人が、外見だけの判断をします。けれども、今はもう、そのような判断を下すのではなく、内面の、霊の領域における基準で物事を判断します。そこでこう言います。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。私たちは御霊によって新たに生まれた者たちですが、ここでは、「新しい」ということに重きが置かれています。新しいいのち、新しい歩み、新しい世界です。私たちは、イエスさまを信じても、過去の生活と何ら変わらないではないか、と感じます。昔からの性格・性向、弱さは何ら変わらないではないか、と思われるでしょう。確かにそのとおりです。しかし、もし、これから過去の自分が変わっていくとしたら、それは、信じたときに起こった、全く新しい創造に基づいて変わっていくのです。自分がどんなに主張しようが、「いや、絶対にそうではない!」と否定しようが、私たちの古い人はすでに死んでしまいました。もう、私たちに何の効力も発揮できません。そして、まったく新しいキリストにあるいのちを、信じたときに与えられたのです。そう思えなくても、事実はそうなのです。自分がこれから変えられていきたいと思うなら、初めのところに戻ってくることだけが唯一の解決方法です。キリストにあって、あなたは新しくされました。すべて古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくされました。このことを信仰によって受けとめて生きていくときに、信仰だけではなく、実際に新たな思いが生まれ出て来て、新たな歩みをしていくことができます。

2B キリストにある和解 18−21
 そしてパウロは、この新しい命に基づいて、和解のメッセージを伝えます。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

 パウロが伝えているメッセージは、神と私たちがキリストによって仲直りするところのメッセージです。その内容を次に伝えています。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

 私たちは、罪を犯すことによって神に対して敵対的関係にいました。神は私たちの敵であり、神はご自分の正義によって、この敵を滅ぼすしかありません。しかし、あわれみ深い神は、御子をこの世に遣わし、この御子に、罪の責めを負わせました。ちょうど、私たちが犯した罰のおしおきを、自分自身に受けさせるようなものです。三位一体の神は、御子のからだにおいて罪を処罰してくださったので、今や、私たちには、「仲直りをしましょう。」というメッセージだけが残されているのです。それをパウロたちが、人々に伝えています。


 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

 
パウロたちは、使節、つまり、大使のような存在です。在外にある日本大使館の大使は、どの国にあっても日本を代表します。大使がその国の中で話すことは、日本国がその国に対して話していることと等しいです。その大使自身に権限があるのではありません。大使はあくまでも、日本国の意思を告げることのみを任務としています。パウロたちは、キリストの大使です。キリストの権限を任されて、コリントの人々に福音を伝えました。ですから、今、その権限に基づいて、懇願しています。神の和解を受け入れなさい、と言っているのです。神はご自分でご自分の問題を処理されました。反抗する私たちをさばかなければいけないという問題をです。もう両腕を広げて、「ほら、わたしのところに来なさい。わたしの子を受け入れなさい。」と招いてくださっています。


 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

 
これは、とてつもない神のご計画であり、とてつもない愛の現われです。罪のない方を罪とし、罪ある者を義とされました。こんなひどいことはない、とお思いになるかもしれませんが、けれども、神は、ご自分の深いあわれみと私たちへの愛のゆえに、この不条理なことを行なってくださったのです。何も罪を犯していないのに、全人類のすべての罪が自分が犯したこととされるなどは、あまりにもむごい事です。ひどすぎることです。しかも、神の御子です。もっとも高い位にいてしかるべきお方が、もっとも低い地位に落とされてしまいました。罰を受け、痛めつけらあれ、無情な遺棄を経験されました。このことだけでも、あまりにも辛いことなのに、神は、ひとり子をこのような目に会うことを選ばれたのです。御子なるイエス・キリストだけではなく、いや、父なる神ご自身が、大きな痛みと泣き叫びをもってこの無残な刑罰を受けられたのです。これだけの犠牲を払われたのですから、私たちが義とされない、ということはありません。私たちは、ちょっと罪が赦されて、他に赦されない罪は罰を受けると、決して思わないでください。私たちに転嫁された義は、神ご自身の義です。これ以上正しいものはない、という完全な義です。このような、とてつもない、恐ろしいまでのみわざを、神はキリストにおいて成し遂げてくださいました。これを受け入れなさい、というのがパウロたちの務めだったのです。


 新しく造られた者として、私たちは新しいからだを持っています。この肉体には弱さを持っていますが、天からのからだを身に着けるという希望をもって、この地上を歩みます。そして、キリストが死なれたことによって、すべての人が死んでおり、キリストが死なれたことによって、生きている者はみなキリストのために生きる、ということを願って生きていくのです。そして、私たちが携えているメッセージは、あまりにも偉大で、深く、だれも思いつきもしないような神側の出来事です。これを神は私たちに委ねられています。パウロと同じように、神のために気が狂っているとされ、人々のために正気であるとされる生き方をしましょう。


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