コリント人への手紙第二8章 「与える恵み」

アウトライン

1A 聖徒の交わり 1−7
   1B 惜しみない施し 1−5
   2B わざの完了 6−7
2A 富の分与 8−15
   1B キリストの模範 8−12
   2B 平等 13−15
3A キリストの栄光 16−24
   1B 公正明大 16−22
   2B 諸教会の使者 23−24

本文

 今日は、コリント人への手紙第二8章を学びます。ここでのテーマは「与える恵み」です。恵みというと、私たちは受け取ることを考えますが、この章においては、与え施すことを恵みであると言っています。分け与えることがなぜ恵みなのか、その理由をこの章から学びたいと思います。

 私たちはこれまで、1章から7章まで、コリントの人たちが悔い改めたことによって、使徒パウロが慰めを受けたことについて学んできました。パウロは、コリントにある教会に対して、何通かの手紙を出しています。その一つがコリント人への第一の手紙です。パウロは、コリントの信者たちが犯していた過ちを指摘し、それを正すように促していました。その手紙にコリントの信者たちは肯定的に反応して、罪を悲しみ、悔い改めました。コリントの人たちをこよなく愛し、慕っていたパウロは、彼らとの間に信頼関係が回復して、深い慰めを得ます。7章の終わりには、「私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます。」と書いてあります。そして、8章に入りますが、パウロは、彼らとの信頼関係を確認したので、私たちクリスチャンにとって微妙な話題である献金のことについて話すことができました。8章と9章は、献金について書いてあります。

 この献金の話題も、他の話題と同じように、パウロはすでに、以前の手紙で言及していました。コリント人への手紙第一16章をご覧ください。16章1節からです。「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。」エルサレムにおいて、聖徒たちが金銭的に困窮していました。パウロは、物質的な援助をしなければいけないと思いました。そこで、自分が巡回した小アジヤ地域とマケドニヤとアカヤの地域に、醵金すなわち献金を募りました。コリントの教会の聖徒たちは、当初、自分たちから献金することを願い出ていたようなのですが、偽使徒や偽教師がその教会に入り込み、パウロの信用を引き落とすようなことを行ないました。そこで、彼らは使徒パウロから距離を離すようになり、暫定的に集めていた献金も、中断させていたようです。しかし、今パウロとコリントの信者たちとの間には信頼関係があります。そこで、パウロは、あなたがたが願い出て、途中まで行なってきた献金の貯蓄を再び開始させてください、と勧めています。それが8章と9章の内容になります。

1A 聖徒の交わり 1−7
1B 惜しみない施し 1−5
 それでは1節をごらんください。さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

 パウロは今、テトスらとともにマケドニヤにいます。コリントの町があるアカヤ地方の北に位置する地域です。私たちが知っている有名な町としては、ピリピとテサロニケがあります。

 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。

 マケドニヤの諸教会が、激しい試練の中におり、それゆえ極度の貧しさの中にあったとあります。使徒行伝のことを思い出してください。テサロニケにおいて、ねたみにかられたユダヤ人たちが暴動を起こして町を騒がせ、信者であるヤソンの家の者たちを引っ張り出して、町の役人たちに引っ張り出しています。パウロたちがベレヤにいるときも、このユダヤ人たちは、しつこく町の群集を煽り立てました。概してマケドニヤの諸教会は、このような迫害の中にあったと考えられます。テサロニケ人への手紙には、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主にならう者になりました。(Tテサロニケ
1:6」と書いてあります。迫害があったのですから、その当然の結果として、彼らは経済的に困窮していました。その貧しさの中にあっても、彼らは惜しみなく施しました。ピリピ人への手紙の中にも、彼らがパウロに施しをしたことが記録されています。パウロが書いています。「ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。(4:15-16

 なぜ彼らは、激しい困難にあいながら、極度の貧しさの中にいながら、それでもささげていたのでしょうか?そしてパウロは、このことを1節で「神の恵み」と呼んでいます。恵みというのは、ふつう、自分たちが多くを持っていることを意味しますね。たくさんのものを受け取るときに、私たちは恵みと呼びます。けれども、ここでは反対の意味で用いられているのです。与えているのに、なぜ神の恵みを受けているのか。そのヒントは、2節の、「彼らの満ちあふれる喜び」ということばに隠されていると私は思います。分け与えることによって得ることのできる喜びを彼らは心得ていたのです。

 具体的には次のように書いています。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

 
聖徒たちとの交わりです。エルサレムで困窮している聖徒たちに、自分たちも施すことによって、その聖徒たちとの交わりをすることができる、ということを彼らは知っていました。この交わりの喜びを、マケドニヤにいる人々はよく知っていました。私たちは、独り独りが孤立しているとき、いのちを失います。人間が人間として生きるための原動力をなくします。私たちは第一に、神との交わりを必要とし、第二に、人との交わりを必要としています。分かち合い、同じものを共有することによって、その中に、愛と、喜びと、平和が注がれるのです。


 ところが、もし私たちが、自分が何かを受け取ることを第一目的として、人と交わろうとするならば、どうなるでしょうか?私たちは、その人から自分が期待しているものを得ることができないと、落胆し、その人を非難し、その人を憎みます。相手を建て上げるのではなく、むしろつぶしてしまうようなことをします。けれども、私たちがしばしば使っている「交わり」という言葉には、何と、自分たちが得られることを期待していることが多いことでしょうか。教会に行くのも、得ることを期待して、祝福を受け取ることを期待して行きます。神と人に仕え、神にささげて、人に分け与えるために教会に来ることはあるでしょうか?けれども、実は、聖書が使っている「交わり」というギリシヤ語コイノニアは、もともと分け与える、というのがその意味なのです。与えることによって、その与えている相手と私たちは交わることができます。ですから、与えるところに神の恵みがあるのです。

 そしてマケドニヤの諸教会は、今まで自分たちが見たこともない、エルサレムにいる兄弟たちのことを思って、ささげていることに注目してください。私たちが、このような視点でキリスト教会を見ているでしょうか。私たちは自分の教会、自分の地域、自分の国、自分の教派、というように、自分に直接関わる人たちとの交わりを交わりと呼んでいます。しかし、それは、聖書的に正しい教会の見方ではありません。キリストのからだは、世界にあるすべての地域教会をもって成り立っています。ですから、私たちは自ずと世界に目が向き、その世界にいるクリスチャンたちに目が向くはずなのです。チャックは、自分の教会と自分自身が世界中の人から祈られていることを話していました。チャックのメッセージを聞いているシベリヤにいる兄弟姉妹が、チャックとその教会のために祈り、そして献金までしていると、申し訳なさそうに、恥ずかしい思いになりながら話していました。それは、アメリカという裕福な国の教会が、貧しい兄弟姉妹から献金を受け取っているからです。このように、私たちは、世界の教会の一部としての自分を見ていかなければいけません。そして、分け与えるところに交わりがあることを知らなければいけません。そして、この交わりこそ、私たちの心に喜びをもたらしてくれるのです。

 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

 
パウロたちは、貧しいマケドニヤのクリスチャンたちから、献金を受け取ることは期待していませんでした。貧しいのだから献金しなくても、とくに非難されることはありません。あなたたちが施しを受け取る側ではないか、と思っていたことでしょう。けれども、彼らはささげました。私はふと思ったのですが、必要がある人たちに集まる献金や献品は、同じ必要を持っている人たちによって与えられることがむしろ多いのではないか、と思いました。金持ちが、貧しい人たちをささえるのではなく、貧しい人たちが、同じ貧しさの中にいる人たちを助けるのです。それは、その貧しさの痛みを自分自身が知っているからです。同じ痛みを持っている人が、他の人たちの痛みを感じることができるように、多くの必要は同じ必要を持っている人によって満たされることが多いようです。


 そして、パウロは、マケドニヤのクリスチャンが、「まず自分自身をささげ」たと言っています。これは、ささげるときの大前提ですね。自分自身はすべて神のもの、ということです。すべては神のものなのですから、神のご用のためにお返しするのです。

2B わざの完了 6−7
 こうしてマケドニヤの諸教会のことを話して、パウロはコリントの教会の人たちに勧めています。それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。

 パウロは、今マケドニヤにいますが、自分がコリントに行く前に、テトスを先に送ろうとします。この章の後半部分を読むと、テトスの他にも何人かの兄弟たちを先にコリントに行くように勧めているのが分かります。

 あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。


 パウロは、コリント人への手紙第一においても、コリントの信者たちとこのようにほめていました。すべてのこと、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、また愛にも富んでいます、と言っています。彼らの富にしたがって、施しにおいても霊的富を蓄えてください、と勧めています。


2A 富の分与 8−15
1B キリストの模範 8−12
 こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。

 
マケドニヤの諸教会の人たちの施しを話したのは、「彼らがそのように行なったのだから、あなたがたも行ないなさい。」というような命令ではなかった、とパウロは弁明しています。そうではなく、これをあなたがたの愛を表現する機会としてみたらどうでしょうか、と勧めているのです。


 そしてパウロは、分け与えることについて、模範として私たちの主イエス・キリストについて話しています。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 
あなたがたは富む者となったのです、とパウロは言っていますが、私たちはキリストのみわざによって、霊的に富むものとなりました。エペソ書1章には、「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と書いています。けれども、これほどまでに富むことができたのは、その富を施した人がいるからです。その方が私たちの主イエス・キリストです。富を施したのですから、施した本人は貧しくなります。イエスさまは、私たちにご自分の富を与えられたので、貧しい者となられたのです。


 イエスさまは、父なる神のふところにおられるひとり子の神です。この方には何も欠けるものがなく、すべての富、栄誉、力、尊厳がありました。けれども、イエスさまは、神の身分でありながら、「神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられ」ました(ピリピ2:6)。イエスさまは、人の姿を取られただけではなく、人の中でも貧しい生活を送られました。イエスさまは、貧しい家庭の中で生まれ育ちました。生後8日目に、ユダヤ人はエルサレムに上って、神殿にて幼子を主にささげるのですが、そのときのいけにえは鳥でした。鳥は、犠牲の牛や羊を持つことができない貧しい人のために、神が備えてくださったいけにえです。ですから、ヨセフとマリヤは貧しかったと考えられます。また、イエスさまが公生涯の中におられたとき、ペテロの家に宮の納入金を徴収する人たちがやって来ました。彼らにはそのお金もなかったようです。そこでイエスさまは、ペテロに釣りをするように命じ、その魚の口から硬貨が見つかる、とおっしゃられました。このように、イエスさまは貧しい方としてこの地上を歩かれましたが、これらはみな、私たちに永遠のいのちを与えるため、ご自分のいのちをおささげするためでした。イエスさまが、私たちが施しをするときの模範であられるのです。

 そこでパウロは、コリントの人たちに問いかけます。この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それはあなたがたの益になることだからです。あなたがたは、このことを昨年から、他に先んじて行なっただけでなく、このことを他に先んじて願った人たちです。

 実は、エルサレムの貧しい聖徒たちに対する献金は、コリントの人たちがもともと願っていたことでした。それを中断してしまったのが事実なのです。そこでパウロは勧めます。

 ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。

 パウロは、持たないものをささげましょう、と言っているのではなく、持っているものでささげましょう、と言っています。各々の能力に応じて、今あるもの、余っているものをささげようではありませんか、と言っています。ここに「熱意」という言葉が出て来ていますね。この章には、「熱意」とか、「熱心」とかいう言葉がたくさん出てきます。これは、「途中であきらめることなく、怠らずに励む」と言い換えたらよいでしょうか。その場の気持ちではなく、継続的に、しかし義務的にならず、主との交わりの中で喜びつつささげていく、ということです。熱意をもってささげます。


2B 平等 13−15
 私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。

 
パウロがここで、「ささげましょう」と言っているときに、「私たちに刳ろうが強いられるのか。私たちが、いつも損するようにされるのか。」とコリントの人たちが感じてしまうのではないか、と察して、「他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労させようとしているのではない」と断わっています。

 今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。


 苦労させているのではなく、平等にさせるためであるとパウロが言っています。出エジプト記の、
1618節のことばを引用しています。イスラエル人らが天からのマナを取り集めているとき、一人当たり一オメルずつ集めるようにと命じられました。けれども、それよりも多く集まるものがいたので、他の人は一オメルよりも少なく集めました。ところが、量ってみるとすべての人が一オメルであった、という話しです。そこから、あなたがたは今、自分の余裕をエルサレムの聖徒たちの欠乏を補うことになるのです。あなたがたも欠乏したときには、彼らが補うことができるのです、と言いました。このように、神は、教会全体で、私たちが事足りることのないように必要を満たしておられます。

 けれども、個々人の間では、このように分け与えることによって、平等をはかる責任があるのです。私たちは資本主義社会に生きているので、どうしても私有財産の概念を持っています。そして、困っている兄弟、貧しい兄弟を見ても、神はその人に必要を満たしてくださる、と思って、自分たちが助けようという思いにならないことがあります。これは間違った考えです。神は、イスラエル人全体に必要を満たされたように、教会全体に必要を満たしておられます。したがって余裕のある人が、欠乏している人を補うことをしなければ、やはりその人は欠乏しているままなのです。使徒ヨハネが言いました。「口先だけではなく、行ないと真実をもって互いに愛し合おうではありませんか。」神と個人との関係を強調するあまり、私たちはお互いがお互いを必要としていることを忘れてしまいがちです。しかし神は、私たちがキリストにあって一つとなるように召しておられます。そのために、余裕のある人が欠乏している人を補う義務があるのです。


3A キリストの栄光 16−24
 そしてパウロは、テトスと他の二人の兄弟を先に、この醵金のためにコリントに行かせます。

1B 公正明大 16−22
 私があなたがたのことを思うのと同じ熱心を、テトスの心にも与えてくださった神に感謝します。彼は私の勧めを受け入れ、非常な熱意をもって、自分から進んであなたがたのところに行こうとしています。

 
パウロは、前もってテトスをコリントに送ろうと思っていたのですが、テトス自身がもともと、ぜひコリントに行きたいと願っていたのです。パウロが思っている同じ熱心を、テトス自身も持っていました。

 また私たちは、テトスといっしょに、ひとりの兄弟を送ります。この人は、福音の働きによって、すべての教会で称賛されていますが、そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに携わっている私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けたのです。

 
このひとりの兄弟がだれであるかの議論があるそうです。ある人はルカであろうと言います。またある人はアポロではないか、と言います。けれども、私は、パウロは意図的に、あえてその名前を伏したのではないか、また、聖霊がそのようにパウロに言わせるように動かされたのではないか、と思います。もし必要であったなら、実名を出しても良かったのですが、匿名がここでは必要だったのでしょう。パウロが強調したかったのは、この人が福音の働きにおいて、すべての教会で称賛を受けている信頼の置ける人である、ということです。そして、コリントにて醵金するとき、その会計の奉仕に、この兄弟が関わるように諸教会から任命を受けている、ということです。


 その理由が次に書かれています。私たちがこの働きをしているのは、主ご自身の栄光のため、また、私たちの誠意を示すためにほかなりません。

 パウロは、お金についての問題ですから、とても慎重になっていることがここから分かります。お金というのは、主のために用いればすばらしい益をもたらしますが、同時に、人を破滅させる道具ともなりえるものです。お金によって、多くの奉仕者が滅びを刈り取るのを、パウロや他の使徒たちも見てきていました。昔も今も変わらないのです。そこでパウロは、この醵金について、最大の誠意を尽くすために、まず自分が行く前にテトスを送り、テトスだけでなく他の兄弟もともに送ろうとしています。さらに、この兄弟はすべての教会で評判が良い人です。この誠意によって、主の御名があがめられるように、主の名が汚されることのないように気を使っています。

 私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています。それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。

 
人の前でも公明正大なことをしようとしている、と言っています。たとえ誠実に動いていても、非難する人はつきものす。その余地も残さないために、パウロは複数名の奉仕者を立てて、非難されることがないようにしているのです。私たちは毎月、カルバリーチャペル・コスタメサの教会から、小切手によって金銭的サポートを受けています。普通、小切手は一人の署名だけで良いのですが、そこには二名の署名があります。これは、一人の人が署名による小切手の乱用をしているのではないか、という非難をなくすためです。このようにして、金銭面での信用を自衛しているのです。これが、パウロがここで行なっていることであります。


 パウロはさらに、もう一人の兄弟を送ることにしています。また、彼らといっしょに、もうひとりの兄弟を送ります。私たちはこの兄弟が多くのことについて熱心であることを、しばしば認めることができました。彼は今、あなたがたに深い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。

 
彼も、多くのことについて熱心な、評価の高い人物です。合計三人で、パウロの先にコリントに行きます。


2B 諸教会の使者 23−24
 テトスについて言えば、彼は私の仲間で、あなたがたの間での私の同労者です。兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者、キリストの栄光です。

 二人の兄弟は、コリントの人たちはあまり知らないのかもしれませんが、テトスについては彼らはすでによく知っています。そこで、パウロは彼を、「あなたがたの間での私の同労者です。」と言っています。そして、兄弟たちのことを、「諸教会の使者、キリストの栄光」と言っています。これはどういうことでしょうか。これは、この醵金の働きが、すべての教会によるものであるという示唆なのです。コリントの教会の問題を思い出してください。自分たちはパウロにつく、私はアポロにつく、私はケパにつく、私はキリストに、という分派でした。自分たちの教会、自分の仲間のことしか頭にない人たちでした。けれども、それは、間違った教会の見方です。教会全体でキリストのからだであり、そうした教会全体の物の見方をパウロはここで提示しているのです。したがって、諸教会で認められたこの兄弟たちが来ることは、キリストの栄光に他ならない、とパウロは言っています。


 ですから、あなたがたの愛と、私たちがあなたがたを誇りとしている証拠とを、諸教会の前で、彼らに示してほしいのです。

 諸教会で動くことはキリストの栄光につながることであるから、あなたがたは、この使者たちの前で、自分たちの愛を示してほしい、と願い出ています。


 これで与える恵みについてお分かりになったでしょうか。私たちは、自分たちのことばかり考えていてはいけない、ということです。神の恵みは、自分たち以外のところにある必要から始まります。私たちが、自分たちという視点からもっと大きな視点に目を移して、そこから見える必要を満たそうと動いていきます。そして、その分け与えにある交わりにあずかろうと願います。ささげることによって、私たちはその人たちと交わることができるのです。また、神は必要を、私たちが施すことによって満たされます。私たちの主キリストご自身が、施しとは何であるかの模範を示してくださいました。恵みは、「何々をしてほしい」という受け取る姿勢から、「何々をしてあげよう」という分け与えるときの姿勢に変わるときに注がれるのです。


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