キリスト教界のトレンド 2003/03/03

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き20:24)


祈りのチェーンメール

 先日、ある数名の方から、3月3日、つまり本日、世界的規模の祈りを要請する知らせを、Eメールやウェブサイトを通して受け取った。それは、米英の軍隊がイラクを攻撃する危機にある中で、中東における霊の戦いのための祈りである。


ワールド・プレヤ−・センターでは世界中のすべてのクリスチャンに2003年3月3日の月曜日を「世界規模の祈りの日」とすることを呼びかけています。

テッド・ハガード(ワールド・プレヤ−・チーム代表)によると、「03年03月03日に祈るよう備えをせよと神に強く示された」というメッセージが、オフィスが溢れんばかりに世界中から寄せられているそうです。「この信徒たちはお互いに知り合いでもなく、なんの関係も無い人たちです。彼らは、自分たちが同じことを言っていることを知りません。明らかに、聖霊がご自身の教会に語っておられ、主の民である人々に祈ることを呼びかけています。」

ハガードは言います。「これらの報告が届くにしたがって、私たちは、神が、この特別な日に祈りの巨大な流れを興し推し進めるよう、私たちに望んでおられると心に感じました。多くの人は、この日付けには重要な意味があると信じています。なぜならば03ー03ー03という数字の列は多くのクリスチャンに三位一体を思いおこさせるからです。さらに、聖霊はエレミヤ書33:3(これも三つの3)を示してくださいました。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた、大いなる事を、あなたに告げよう。』」

この日の重要性はクリスチャンではない人たちの間でも認められています。グローバル・コンシャスネス・ムーブメント(ニューエイジ)は、世界規模での「今まででもっとも大きな、世界的意識(グローバル・コンシャスネス)に関する試み」をこの03年03月03日に行うことを、何年にもわたって計画してきました。彼らのこの努力の成果は、第三ミレニアムの第三の月の第三日の3時33分(フィジー時間)に始めると予定されています。それは、ニューエイジの間では広く知られている有名なことです。

クリスチャンにとって、祈らなければならない理由はこれだけではありません。アメリカが、まさにちょうどそのときにイラクに対して、またリーダーであるサダム・フセインに対して、戦争を起こすかもしれないという今、03-03-03の重要性は、さらにもっと差し迫ったものになっています。そのサダム・フセインはごく最近になってイスラム世界からの支持を得るために、イスラム教に入信しました。最初の湾岸戦争の場合とは状況が違います。イスラムの暦では、2003年3月3日はイスラムの新年の前日なのです(イスラム暦の1424年は、2003年3月4日に始まる)。

これらのことすべては、この世のニュースメディアでは水面下に隠れていますが、多くのクリスチャンのリーダーにとって世界がとてつもない大きな霊的戦いが今まさに始まらんとしていることは明らかです。この戦いの震源地は中東です。聖書が表す霊的な光とやみの中心地、エルサレムとバビロン(イラク)の間で戦いが進んでいるのです。

それゆえ、ワールド・プレヤ−・チームは、すべてのキリストの教会とひとりひとりに、それぞれの時間帯での03年03月03日の午後3時33分に少なくとも3分間は祈りの時間を確保するよう呼びかけます。

祈りの焦点:

天の軍勢が中東の暗闇の力を押し戻すように。

サダム・フセインの権力を取り去るために戦争が命ぜられる前に、彼が国を去るように。

もし、戦争が避けられないのなら、霊的盾が交戦をイラク国内に押しとどめ、イスラム世界中に広まるようなことがないように。

大規模破壊兵器が、戦いの中で、どこかに配備されたとしても、その破壊力をなくすように。

この日が、暗闇に焦点が置かれるのではなく、主の人々による世界中での祈りを通して、神の光によって打ち勝たれる日となるように。


 私個人は、この内容を見て、ニューエージもこの日を特別な日と定めているから、重要な日なのだという理由付けはおかしいと思ったが、その他の、中東危機が世界中に広まらないようにという祈りは、現実に被害を受ける現地(イラク、イスラエル、周辺中東諸国など)の人々のことや、米英軍で命を落とすかもしれない兵士たちのことを考えれば、もっともな祈りであると思った。

 そして彼らの祈りの働きは、以前、日本の天皇制の問題を祈ってくれる人がアメリカにいないか探していたところ、このミニストリーのことが紹介されており、自分たちの周囲だけでなく、世界に目を向けて祈っている人々であるんだな、と思って関心した。

 だから、私はこの祈りの要請そのものがおかしいとは思わなかった。

 けれどもおかしいな、と思ったことがあった。それは、普段から、中東の人々のことを注視していない人、とくに中東地域への宣教や祈りに重荷を負っていない人、ましてや世界規模で祈りの戦士として祈っていなかった人たちが、この祈りの要請を広めようとしていることだ。その証拠に、「中東情勢についての祈り方が分からない。」「こういう霊的戦い(特にこのメッセージではニューエイジとの戦い?)の話に抵抗を感じる。」という反応を受け取った。

 宣教地のために祈ることそのものが霊の戦いであり、そして中東地域は神のご計画の中心的舞台であり、ダニエル書と黙示録によると、天使と悪魔、悪霊の激しい戦いがイスラエルと周辺諸国を取り囲んで繰り広げられており、確かに、この祈りは的を射ている。しかし、これまで、祈りとみことばによる訓練と備えを行っていない人が、急にこの領域の中に入れば、たちまち混乱や不安がともなうのは、当たり前のことである。御霊に示され、導かれたのでないのに、突然、宣教地の中に入り込んだら、たちまち悪魔の餌食になってしまうのと同じことである。

 私が予測するシナリオは、「この祈りの要請は変だ、そしてアメリカ支持の政治的意図が見え隠れする。」という批判が出てきて、そしてそれに反論する人が出て、そうこうするうちにイスラエルに矛先が向けられ、その議論が荒れ、ついにだれも、中東のために祈らなくなる、という経路である。悪魔は、混乱を好み、荒廃をもたらし、そしてイスラエルを憎む(黙示録12章)。結局、聖書の預言どおりに事が進む。

 したがって、問題は祈りそのものではなく、祈りの要請を、チェーンメールのようにトレンド化してしまうことなのだ。


トレンドは、この世の特徴

 キリスト教会の中に、ネットを通して、また他のマスコミの手段を通して、流行の風がこっちに吹き、あっちに吹いて、多くの人がそれに翻弄される。その流行に乗ることが、御霊の流れに乗っているかのように勘違いし、御霊の主な働きである、私たちのうちでキリストを形造る働き(2コリント3:17−18)、つまり、自分の生活が変えられることが看過される。

 そもそもキリスト教会は、トレンドとは無縁の存在だ。キリスト教会は、初めから最後まで、「キリスト」一本であり、そこから右にも左にも動じないのが、その特徴である。エペソ書には、トレンドの中で翻弄される姿を描き出している。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。(エペソ2:1−2)」世の流れに従い、というのがトレンドのことである。これは、罪の中で死んでいる人々、まだ救われていない人々の特徴のはずなのだが、なぜかクリスチャンの間でも起こってしまっている。

 そして、「私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:14-15)」とある。クリスチャンでも、教えの風に吹きまわされ、波にもてあそばれたりしてしまうのである。そうではなく、先に話した、キリストにあって成長し、成熟した者になるというのが、私たちに対する使徒パウロの勧めだ。

 キリスト教会は、「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。(マタイ16:18)」と主が言われたように(ちなみに、その岩は、ピリポ・カイザリアの大きな岩壁か、あるいはヘルモン山そのものを指していると思われます)、堅固な岩の上に建てられた存在である。私たちは変化する存在ではなく、― むろん、思いの一心によって自分自身が変えられる存在であるが(ローマ12:2)、― いつまでも変わらない、保守する存在であり、すでに持っているものを固持する存在である。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)

キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。(コロサイ2:7)

そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。(テサロニケ第二2:15)

ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。(黙示録2:25)

見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。 (黙示録3:8)


自分の行程

 今朝、忙しい週末、日曜日の奉仕を終えて、アメリカの母教会から送られてきたDVDの礼拝ビデオを見た。その説教者は、使徒行伝20章24節から話した。これはパウロが、これからエルサレムに行こうとしているときに、話した言葉である。エルサレムに行くに当たり、「聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っている(20:23)」ことをパウロは知っていた。しかし彼は、"None of these things move me."と言った。日本語の聖書には出てこない言葉だが、日本語に訳すと「これらのことによって、私は動じません。」である。説教者は、クリスチャンになったばかりのとき、日曜日は教会に行き、そして主を愛し、また主が自分を愛してくださっていることを知っていたが、飲み会に行ったり、いつもふらふらしていた、と言っていた。いつも、動じていたのだ。ある時、トラックと衝突事故に会い、けれども全く無傷であったことから、この聖書箇所を読んで、非常に驚いたということだ。それ以来、この聖句が生涯の言葉となった。彼は、妻が流産したとき、本当に神に怒りを感じだそうだが、けれども、神は同じことばをもって、「これで、あなたは動じるのか?」と聞かれた。

 パウロは、もうすでに、いかにどんなことがあっても、自分は動じないと先んじて決めてしまったのである。

 そして、「私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」と言っている。自分のいのちすべてを主にささげたのだから、その一部が病気によって犯されても、それを惜しいと思わないと受け止めたそうだ。彼は肺を悪くし、また視力喪失という危機もあった。その時、聖徒たちの委員会があったらどうなるか、と思ったそうだ。バプテスマのヨハネは、首を切り取られ、ペテロは、逆さ十字架磔にされたと言われ(ヨハネ21:18−19)、イザヤはのこぎりに引かれた(ヘブル11:37)と言われているが、そこに彼が参加する。「うん、ドンの片目がなくなる?ペテロ、どう思う?」と首なしの、右腕に自分の首を抱えているヨハネが、逆さになっているペテロに話しかける。もう、自分の目の視力が失われることについて、何もいえなくなるだろう、と彼は言った。

 そしてパウロは、「自分の走るべき行程を走り尽くし」と言っている。他の人の行程ではない、「自分の」行程である。神がそれぞれの生活に、走るべき行程を定めておられる。私たちは、他の人の行程を見て、その行程をうらやましがったり、真似をしてみようとしてしまうが、自分には自分の行程があるのだ。それを走りぬかなければいけない。

 だから、ある人は、中東地域に重荷があって祈るだろうし、別にチェーンメールでなくとも、すでに祈っているだろう。3月3日が過ぎても祈っているだろう。― 話はずれるが、内容は良くてもトレンドになってしまっているものとして、「レフトビハインド」がある。私はその内容が黙示録を詳細に辿ったものであり、またその伝達方法が非常に未信者にも理解しやすく、高く評価している。しかし、レフトビハインドが流行っているからといって、それに飛びつき、そしてそれが廃れたら、教会の携挙も再臨もパッケージで、忘れられてしまうのではないかと懸念する。主が来られるのは、日々の信仰にとって空気みたいなものである。アメリカがイラクを攻撃しようが、しまいが、「今日、イエスさまが戻って来られるかもしれない。」と思って、慰めを得、主に任されたことを忠実に行ない、時が近いから、十分に機会を用いるだろう(エペソ5:16)。― また、世界規模の祈りに重荷を持っている人は祈るだろう。要は、「自分」に与えられた行程を走り抜くのである。

 そして、これまた日本語訳にはないが、" I may finish my race with joy"とある。「自分の行程を、喜びをもって走り尽くす」である。自分に与えられた行程を走り尽くしても、その苦しみの中で落胆したり、苦々しくなったりするのではなく、喜びをもって走り尽くす、ということだ。

 したがって、それぞれの人が、それぞれに与えられている任務を初めに知ることができるように、祈りたい。そしてその任されたものを忠実に行いたい。御霊によって、私たちの思いをはるかに超えたすばらしいことが行なわれるかもしれない。けれども、流れにいつまでも従っていって、自分の行程をいつまでも知ることができないものにならないように、祈りたい。


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