コロサイ人への手紙1章 「かしらなるキリスト」


アウトライン

1A 祈りの中で 1−14
   1B 福音の望み 1−8
      1C あいさつ 1−2
      2C 世界への広がり 3−8
   2B 神の知識 9−14
      1C 願い 9−11
      2C 贖い 12−14
2A 神のことばの中で 15−29
   1B 第一なるキリスト 15−23
      1C 創造において 15−18
      2C 和解において 19−23
   2B 中におられるキリスト 24−29
      1C キリストのからだ 24−25
      2C 奥義 26−29

本文

 コロサイ人への手紙1章を開いてください。今日から、コロサイ人への手紙を読みます。ここでのテーマは、「かしらなるキリスト」です。

1A 祈りの中で 1−14
1B 福音の望み 1−8
1C あいさつ 1−2
 神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 パウロのいつもの、あいさつの書き出しからこの手紙は始まっています。神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、そして兄弟テモテから。コロサイにいる聖徒たちへ。そして、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように、とあります。

 コロサイという町は、小アジヤ地方にあります。エペソの町の東にあります。パウロはこの町に、行ったことがないようです。4節には、「あなたがたのことを、聞いたからです。」と書いています。パウロは、エペソの町で宣教の働きを行なっていました。エペソは貿易中継都市でしたから、小アジヤ中から人が集まっていました。そこで、「アジヤに住む人はみな、・・・主のことばを聞いた。」と使徒行伝にはあります(19:10)。その中の一人に、エパフラスという人がいたようです。彼の働きによって、コロサイの町に教会が建て上げられたようです。パウロは、この教会にいる人々に手紙を書いています。

 そして、パウロは、この手紙を、ローマの町で監禁状態の中から書いています。パウロは、私たちがすでに学んだエペソ人への手紙と、ピリピ人への手紙も、皇帝ネロの前に立つまだ拘留されているところから書きました。とくに、コロサイ人への手紙は、エペソ人への手紙と同じテキコという人によって、教会に手渡されています。もしかしたら、パウロは、テキコが小アジヤに行くときに合わせて、同じような時期にこの二つの手紙を書いたのかもしれません。というのは、エペソ人への手紙と、コロサイ人への手紙がとても似ているからです。コロサイ人への手紙を読んでいくと、エペソ人への手紙に出てきたような表現や内容がたくさん出てきます。エペソの手紙のテーマが、キリストのからだなる教会であったように、コロサイ人への手紙も教会がそのテーマです。

 けれども、大きな違いもあります。エペソ人への手紙は、教会とは何であるか、その定義のようなものが書かれていました。教会とはキリストのからだであり、からだなる私たちクリスチャンは、キリストにあって豊かにされています。私たちは、キリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されているのです。このいのちの現われが教会です。コロサイ人への手紙では、教会が教会として成り立つための基を崩してしまうような教えが入り込んできていることが、背景となっています。2章にそのことが詳しく書かれています。知識や知恵を重んじるグノーシス主義、肉の割礼や安息日や祭りなどを守り行なおうとするユダヤ主義。そして、天使礼拝などの神秘主義。さらに、食べるな、飲むなと命じる禁欲主義などの教えが入ってきていました。しかし、私たちが祝福され、豊かになっているのは、あくまでも「キリストにあって」なのです。キリストにあって、すべての霊的祝福があり、キリストのうちにすべての良き物が満ちあふれており、キリストがすべてなのです。しかし、キリストだけでは満ち足りず、キリストの外にある何かによって自分たちを満たそうとするとき、それはもはや、教会ではなくなってしまうのです。

 そこでパウロは、この手紙において、キリストが「かしら」であることを明確にしています。キリストがすべてのことにおいて第一であり、キリストのうちにすべての知恵と知識、また力があることをパウロは力説しています。そこでコロサイ人への手紙のテーマは、「かしらなるキリスト」であります。

2C 世界への広がり 3−8
 それでは、3節を読みます。私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。

 パウロは、福音がコロサイの町にまで広がっていることを知ってから、彼らのことを祈りの中でいつも感謝していました。感謝しているのは、キリスト・イエスに対する信仰と、またすべての聖徒に対する愛を彼らが抱いているからです。信仰だけではなく聖徒たちへの愛がありました。私たちは、だれかがイエスさまを信じたことを喜びますが、けれども本当の感謝は、その信仰から結ばれる聖霊の実を見るときです。

 それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。

 パウロは、信仰と愛は「望み」に基づいているものであると、言っています。コリント第一13章にあるように、「信仰と希望と愛」がワンセットになっています。天にたくわえられている望みが福音のことばの中には隠されており、この望みを抱いていなければ、信仰もまた愛も本物でなくなってしまいます。パウロは後で、「すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。(23節)」と言っています。

 福音の富は、天にたくわえられています。使徒ペテロも、「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(Tペテロ1:4)」と言いました。ですから、天を思わずして、信仰生活も、愛によって生きることもできなくなるのです。天を忘れるときに、その望みから得られる満たしを受け取ることがなくなるので、地上のもので代用しようとします。それが人間の哲学であったり、伝統やしきたりであったり、神秘体験や禁欲生活であったりするのです。ですから、パウロは、ここで福音の望みについて強調しています。

 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

 小アジヤにおける福音は、エペソの町から一気に広まっていきました。同じように、他の世界の地域においても、勢いよく福音が広まっていました。ここでパウロが、その原因が、「神の恵みを聞き、それをほんとうに理解した」と言っていることに注目してください。福音が実を結びながら広まったのは、だれかの熱心な伝道活動によるのでもなく、神の恵みを理解したことによります。私たちキリスト教会は、どのようにしたら日本にリバイバルが起こるのか、とか、福音化することができるのかを模索し、いろいろなテクニックを編み出していますが、そのような人間の行為が主体となっているかぎり、福音は広まらないのです。神の恵み、つまり神の行為であることをわかったときに、福音は勢いをもって広められていきます。チャック牧師は、"Why Grace Changes Everything"(恵みはなぜ、すべてを変えるのか)という本を書きました。神の恵みを知ることが、すべてを変える鍵なのです。

 これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。

 先ほども説明しましたように、エパフラスによって教会がコロサイの町に建て上げられました。そして、彼がパウロに、コロサイの人たちの愛を知らせています。

2B 神の知識 9−14
 こうしてパウロは、コロサイの人たちについて、父なる神に感謝をささげましたが、今度は願いの祈りをしています。神に感謝して、次に願っています。

1C 願い 9−12
 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

 パウロはここで、主に三つの祈りをしています。一つは、9節、「神のみこころについての知識に満たされる」ことです。神を知っていくことです。もう一つは、「主に喜ばれ、善行のうちに実を結ぶ」ことです。主にあって良い行ないの実を結ばせることです。そして三つ目は、「忍耐を尽くして、神に感謝をささげる」ことです。この三つの祈りは、私たちクリスチャンとして、求めなければいけない三つの事柄でもあります。

 一つ目は、神を知ることであります。私たちは、キリストを信じると、その次に何をするべきなのか疑問に思います。そこで教会では、「しっかりと伝道しなさい。教会で奉仕をしなさい。礼拝もきちんと守って。」と言われます。しかし、それはクリスチャンが求めるべき第一のことではありません。第一のことは、パウロがここで言っているように、「神のみこころに関する真の知識に満たされる」ことなのです。これは、ただ教理を知る、神学を知るということではありません。「あらゆる霊的な知恵と理解力によって」とパウロが言っているように、いろいろな場面で応用がきくような、真の霊的理解力です。

 そして二つ目の、善行のうちに実を結ぶことでありますが、神への真の知識に満たされると、キリストの愛に満たされ、その愛に駆り立てられて、主にある良い行ないをしたいと強く願うようになります。神の知識は、知識のうちで滞ることはありません。そして、パウロは「主に喜ばれ」と言っています。黙示録には、「あなたの悦びのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。(4:11参照)」とあります。主がご自分を楽しませるために、私たちを創造されたのです。ですから、主を喜ばせるために生きるときに、被造物である私たちにも喜びが与えられます。

 三つ目の、忍耐を尽くして感謝をささげることですが、これはクリスチャンには必ず訪れる困難があるからです。イエスさまは弟子たちに、「あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)」と言われました。そこで、神は、その患難に耐えることができるための力を与えてくださいます。パウロが、「神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、」と言っているのは、そのことです。そして、この苦しみの後にある栄光、聖徒の相続分があるので、私たちは、その苦しみの中にあって、父なる神に感謝をささげることができるのです。

2C 贖い 13−14
 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

 ここには、私たちが聖徒の相続分にあずかる希望が与えられるまえに、神がキリストにあってしてくださったことが書かれています。それは、暗やみの圧制から、愛する御子の支配の中に移されたこと、また御子にあって罪が赦されたことです。私たちは、罪の奴隷であり、また悪魔と悪霊の思うままにされていた者たちです。しかし、神が、キリストによって私たちを贖い出してくださいました。私たちは今、神の奴隷でありますが、それは強いられて従うような圧制ではなく、神を愛するがゆえに従うところの、愛の関係の中にある支配です。

2A 神のことばの中で 15−29
 こうしてパウロは、コロサイ人についての神への祈りを終えました。次から本題に入ります。キリストが、むなしい人間の哲学、伝統やしきたり、神秘主義などを必要としない、すべての源であられる方であることが書かれています。

1B 第一なるキリスト 15−23

1C 創造において 15−18
 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

 この一言だけで、キリストの十全性が語られています。御子は見えない神のかたち、つまり神ご自身であり、人として現われたところの神なのです。ヘブル人への手紙の冒頭は、次にようになっています。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。(1:1-3)」神は、ご自分のことを現わすために、ことばをもって預言者をとおしてお語りになっていたのですが、終わりの日に完全なかたちで、御子によって現われてくださいました。「神を見せてください。」と頼むピリポに対して、「わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)」とイエスさまはお答えになりました。したがって、御子をさしおいて、他のものに満たしを求めるような試みは無意味であることが分かります。

 そしてパウロは、御子が、「造られたすべてのものより先に生まれた方です」と言っていますが、これは文字通り、物理的に父なる神から赤ん坊として生まれたということではありません。むしろその逆です。父が万物の主であられるように、御子も万物の主であり源である、という意味です。旧約聖書には、「長子」という言葉が出てきます。これは、必ずしも先に生まれたことを表すのではなく、第一の者であることを示します。例えば、ヨセフの息子のマナセとエフライムは、マナセが兄でしたが、ヤコブは弟のエフライムを右手で祝福しました。そこでエレミヤ書31章9節には、「エフライムはわたしの長子である。」と書かれています。エホバの証人などが、この聖書個所を使って、イエスが被造物であったことを証明しようとしますので、お気をつけください。

 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

 これほど、はっきりと御子が、万物の創造主であることが示されている個所はありません。御子は、天地を創造し、また目に見えない天使らも創造されました。そして御子によって造られただけではなく、御子の「ために」造られました。天地万物は、他の何の目的のためでもなく、ただ御子のために造られたのです。

 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 世界は、一度神によって造られて、その後、偶然の中に放置されているのではありません。このような考えを「理神論」と呼びますが、聖書は、「空の鳥でさえも、父の許しなしには落ちることはありません。」とあるとおり、すべての細かい一つ一つの事象を支配されている方です。そしてキリストは、これらすべての事象を成り立たせておられる方そのものであられます。私は中学校の理科の授業で、物質の最小単位は原子と習いましたが、今はもっと小さな単位であると言われているのでしょうか、分かりませんが、原子を原子として存在させておられる方はイエス・キリストなのです。キリストが、その原子をくずれないように、しっかりと固定されているのです。ペテロは、「天の万象は焼けてくずれ去り(Uペテロ3:10)」と預言しましたが、それはキリストの一存で決まることなのです。

 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

 パウロが、キリストが万物の源であることを話しているのは、おそらくキリスト抜きで万物の法則を語る哲学に対抗しているからかもしれません。同じように、天使礼拝や幻を見たと言っている者たちのうちで、キリスト抜きで、霊について語られていたのであろうと思われます。しかし、パウロはここで、その一切の考えを排除しています。「御子が教会のかしらで、初めであり、死者の中から最初に生まれた方」とパウロは言っています。これは、単に、初めに復活されたのがキリストであるということを言っているだけではありません。イエスさまがマルタに、「わたしは、よみがえりであり、いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と言われましたが、キリストに結ばれた者も、キリストに連なって死者の復活をする、ということであります。私たちはキリストとともに霊的によみがえり、またこのからだも変えられて、キリストに似た栄光のからだを身につけるのです。

 このようにして、キリストはすべてのものの先駆者であり、第一の方であり、この方からすべての知恵と力、権威が生じています。そしてこの万物の主であられる方が、教会において私たちのかしらとなられています。

2C 和解において 19−23
 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

 パウロはキリストが万物の創造主であることを話しましたが、それだけではなく、万物の和解をもたらす方でもあることを、説いています。万物は、アダムが罪を犯したときから、束縛の中に入ってしまいました。悪魔の支配下の中に入ったのです。しかし、キリストが十字架の上で血を流してくださったゆえに、その縄目は解かれました。実際に、万物が、神が意図されているように回復するのは、キリストが再び来られるときです。このように、被造物が神の意志に服従しておらず、それゆえ神と被造物の間には敵意があったのですが、それを御子がその敵意をすべて負ってくださったのです。

 そしてパウロは、私たち個々人の生活においても、この和解の働きが成されたことを次に話しています。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

 私たちが神から離れ、心において敵となっていましたが、キリストがその肉体にその敵意を受けてくださったので、今、父なる神と私たちの間には、なんら隔ての壁がありません。それゆえ、私たちが父なる神の前に立つとき、なんと、何一つ汚れたものがない、聖なる者、傷のない者、非の打ちどころのない者として立つことができるのです。人の前でさえ、私は非難されるべきところが、たくさんあります。ましてや神の前には、数え切れないほどの咎をもっています。けれども、キリストの十字架のみわざによって、そのすべての咎が取り除かれました。

 ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。

 パウロはここまでキリストのみわざについて語りましたが、ここで私たちが果たさなければいけない責任について述べています。それは、聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰にふみとどまることです。この責任を果たしていないとき、偽りの教えを吹き込まれる土壌を作ってしまうことになります。

 信仰にふみとどまる − これは簡単なようで、結構難しいことなのです。パウロは2章で、「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。」と言っていますが、このようにキリストを掘り起こす作業をしていきます。これを行なわずして、キリストを信じる信仰の中にとどまることはできません。すぐに私たちは、他の何かによって満たしを受けようとし、泉が湧き出でるキリストではなく、時が来れば腐って異臭を放つ水たまりの中に満たしを求めようとしてしまうのです。しかし、初めに聞いた福音の望みから離れないで、信仰のうちにとどまります。

2B 中におられるキリスト 24−29
 こうしてパウロは、キリストが第一の方であることを語りましたが、次に、この方が私たちの内におられ、私たちがこの方に結び合わされていることを説明します。

1C キリストのからだ 24−25
 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

 パウロがここで語っている「キリストの苦しみの欠けたところ」というのは、キリストが十字架の上で受けた苦しみが欠けていたということを言っているのではありません。そうではなく、キリストの苦しみは、そのからだの中に現われてくることを意味しています。

 教会というのは、神秘的な存在です。キリストが二千年前に十字架につけられ、三日目によみがえられましたが、このキリストの歩みが地上のおいて、神秘的なかたちで現われるようになります。教会というのは、日本語訳のように、単に「キリストを教えている」ところではありません。キリストが「現われる」ところなのです。教会を見た人は、「ここにはかしらにキリストがおられる」ということが分かるのです。パウロは今、監禁状態の中にいて苦しみを受けています。しかし、それはキリストの苦しみが教会をとおして現われるその一つであり、パウロはそれを喜んで受けているのです。

 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。

 「余すところなく伝える」ということばは、他の個所でも出てきます。これが彼の神からゆだねられた務めでした。

2C 奥義 26−29
 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

 パウロは、この奥義について、エペソ人への手紙において詳しく語っていました。異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかるようになった、という奥義です。けれども、ここではさらに、パウロは、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」と言っています。

 パウロはここで、「あなたがたの近くにおられるキリスト」とは言わず、「あなたがたの中におられる」と言っています。ここに奥義の偉大さがあります。選ばれたイスラエルの民でさえも、幕屋あるいは神殿という、いくつもの壁や、仲介者がいた場所の中で主がお住みになりました。しかし、キリストによって、神殿の垂れ幕が上から下に引き裂かれました。今や、私たちは大胆に、父なる神に近づくことができ、私たち自身が、神の御霊が宿るところの宮となったのです。

 この偉大な奥義を何とかして伝えなければいけない、と思っていたのがパウロです。そこで彼は次のように語ります。私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 私たちの課題は、どれだけこのキリストを知っているか、ということなのです。パウロが、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、教えているほどに、キリストについて語り尽くすことは大変なことであります。しかし、この堅い食物を食べることができるときに、私たちはキリストにあって大人になることができます。そこで、まことの成熟した信仰を持つことができ、キリストのからだとして成長していくことができるのです。


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