"In" Christ 2001/03/26

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3)」

昨日から、エペソ人への手紙の学びに入りました。1章の前半部分を学びました。ここの手紙全体の鍵となる個所は、上の1章3節になるでしょう。この手紙は、私たちクリスチャンが、いかに霊的に裕福であるかを教えてくれます。

初めに、「ほめたたえられますように」とあります。神への賛美を始めています。原語のギリシヤ語では、なんと14節まで一文になっています。つまり、パウロは神を賛美し始めてから、心から次々と湧き上がり、ついに14節まで途切れることがなかったのです。この霊的祝福のすばらしさに圧倒されているパウロの姿を見ることができます。

そして、父なる神が「キリストおいて」祝福を注いでおられることに気づいてください。これから読む個所にも、何回も何回も、「キリストにあって」とか、「キリストによって」とか、「御子のうちに」とか、キリストにあることが強調されています。これがガラテヤ書にも語られていた「キリストのうちにある者」です。英語では、”In Christ”でありますが、このたった2つの単語に、あらゆる、すべての霊的祝福が隠されているのです。

そして、パウロは、この霊的祝福が「天にある」ものであると言っています。このエペソ人への手紙では、天にあるものがかなり意識されています。例えば、堕落した天使たちとの霊の戦いにおいて、この手紙をしめくくっています。私たちの霊的祝福は「天における」ものなのです。

このことをクリスチャンが、もっともっと分かる必要があります。日本に住むクリスチャンの問題は、この地上のことしか思わないことです。仏教思想があるからでしょうか、ソロモンが書いたところの「空の空」「日の下には新しいものはない」というような、地上にある目に見えるものがほとんどであり、付け足しのように天国のことを考えます。しかし、現実は逆なのです。天にある目に見えない事柄が自分の思いを占めており、そして、この世は仮住まいの身、ひとときの生活なのです。これさえ分かってさえいれば、いささかの悩み、苦しみなども、すべて主にあって耐え忍ぶことができるのです。

そして、「祝福してくださいました。」と時制が完了形になっていること注目してください。父なる神は、私たちをこれから祝福するのではなく、すでに祝福されたのです。私たちの過ちは、これから神から祝福されようと思って、それで自分の行ないに頼ろうとすることです。(この過ちについては、ガラテヤ書において細かく学びました。)けれども、神はすでに私たちにすべての霊的祝福を与えられました。この完全な状態から私たちは出発します。この霊的祝福がいかに私たちの現実の生活に現われ出るか、というところが勝負どころなのです。


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