近づけられた私たち 2001/05/25

 「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。(エペソ2:13)

 聖書の学びの一言を、エペソ書2章で頓挫しておりました。続けて掲載していきたいと思います。
 2章後半部分(11−22節)からですが、これは、実は以前に受けた質問に関わっています。すなわち、私たちと神さまとの間にある隔ての壁が、なくなってしまったという真理です。

 イスラエルの民は、神殿に行かなければ、神との人格的な関わりを持つことは許されず、しかも祭司を通してでなければ、礼拝をすることはできませんでした。しかし、それでも、イスラエルの民の間には神がおられ、彼らは生きるための指針である律法が与えられ、さらに、さまざまなすばらしい約束と契約が与えられていました。

 しかし、イスラエル人でない人たちには、そのような外枠さえも与えられていませんでした。「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」とあります。私もイエス・キリストを信じるべきかどうかを考えたときに、なぜ日本人の20世紀に住む自分が、イスラエルの地に生きておられたイエスを、ユダヤ人のイエスを信じることができるのか、また、イエスがこのような異教徒(異文化の中に生きている、創造主を知らない人という意味で)と交わりを持つことができるのか、と考えたことがありました。

 けれども、キリストの十字架は、これら文化的、宗教的、人種的な壁をすべて壊してくださったのです。キリストが十字架につけられていたときに、神殿の垂れ幕が、上から下へ真っ二つに裂けました。これは、とてつもなく驚くべき出来事でした。神殿の垂れ幕とは、神殿でも聖所の中にある幕です。聖所はさらに至聖所と聖所に区切られており、至聖所には、年に一回だけ、大祭司だけが入ることができる、神ご自身が臨在されている場所です。その場所との仕切りが避けてしまったのです。しかも「上から下」に避けました。つまり、人間ではなく神ご自身が、人間との壁を取り壊してしまいました。

 しかも、パウロが生きていた時の神殿には、外庭の周りには異邦人の庭があり、ユダヤ人しか入れないところの「壁」には、異邦人がここから入れば死ななければいけないと書かれていました。この二つのものを隔てる壁は、キリストによって打ち壊されたのです。

 この壁がない状態が、2章後半に書かれてあるところの「平和」であり、私たちが、キリストにあって互いに分かち合うことができる状態であります。

 こう考えると、私たちが考える「平和」というのは、聖書が語っているものと少し違います。平穏な状態や静寂な状態を私たちは「平和」と受け止めてしまいますが、もし神と自分との間になんらかの距離を置いてしまったり、他の人々と距離を置いているのであれば、それは「敵意」なのです。教会の中に内輪意識があり、形にとらわれた見方をしていれば、それは、キリストの平和を実現させていないのです。

 キリストの十字架の血は、神が両手を大きく広げて、「ほら、わたしのところに走り寄ってきなさい。」と言われているメッセージであり、また、私たちが互いに、キリストにあって開かれた交わりを可能にさせるものなのです。


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