教会=夫と妻の関係 08/03/2001

「「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ5:31−32)」

ここは、結婚式でも読まれる、有名な聖書箇所です。けれども、パウロは、この箇所は男女の結婚だけではなく、実はキリストと教会の関係をさしている、と言っています。パウロが、自分の手紙のすべてをとおして話している中心テーマが、ここに書かれていると言っても過言ではありません。

ローマ書から始まった、信仰による義認の教え。そして、神の恵み。キリストの死と復活にあずかること。御霊に導かれること。キリストにある自由。キリストにある相続。そして、隔ての壁を壊すキリストの平和など、これらすべての真理は、「女が男に結ばれるように、教会がキリストに結ばれた」と一言に集約されます。

神と人間との関係は、普通に考えれば、主人としもべの関係になってしまいます。神が言われたことを行ない、行なえば報酬が与えられ、行なわなければ罰が与えられる、という関係です。この考えが、あまりにも根深く私たちの思いの中に横たわっているので、信仰によって義と認められることも、神の恵みも、御霊に導かれることも理解できないという問題があります。例えば、神の恵みによって、信仰によって救われる、という話を聞くと、「それでは良い行ないをしなくても構わないのですね。」と反応したり、「罪を犯していても、天国に入ることができるのですね。」と考えてしまいます。それは、依然として、主人と奴隷の関係の中に自分を置いているからなのです。

しかし、パウロがここまで感動して、ここまで変えられて、命をかけて福音を宣べ伝えていたのは、この主人としもべの関係が大変革して、夫と妻との関係になってしまったというところにあります。私たちはキリストに結びつけらえて、キリストのからだの部分になってしまいました。それゆえ、キリストの義が、私たちの義と数えられ、キリストの死といのちが、私たちの罪に対する死と、よみがえりになり、キリストが神の右に座におられるというところから、私たちも天において着座し、キリストが神のものを相続されているから、私たちも相続人となっています。もはや、神のために何かを行ない、それに対する報酬を得るような関係ではなく、結び付けられてしまった関係なのです。

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