エペソ人への手紙5章1−21節 「神にならう」


アウトライン

1A 愛のうちに歩む 1−7
   1B 愛されている者として 1−2
   2B みだらなことを避ける 3−7
      1C 程度 − 口にもしない 3−4
      2C 理由 − 神の怒り 5−7
2A 光の子どもとして歩む 8−14
   1B 仲間入りをしない 8−10
   2B 明るみにする 11−14
3A 賢い人のように歩む 15−21
   1B 機会を十分に生かす 15−17
   2B 御霊に満たされる 18−21


本文

 エペソ人への手紙5章を開いてください。今日は、エペソ人への手紙の5章前半部分1節から21節までを学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「神にならう」です。

1A 愛のうちに歩む 1−7
 それではさっそく1節をご覧ください。

1B 愛されている者として 1−2
 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

 パウロは、「ですから」という言葉を使っています。つまり、5章1節は、4章からの続きになっています。4章の最後である32節を読みますと、「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」とあります。私たちが苦みを捨てて、互いに赦し合って、心の優しい人となりなさいという勧めですが、どのように赦すかという基準が、ここには書かれています。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」という基準です。そこで、パウロは、「ですから」と言っています。「ですから、神にならう者となりなさい。」と続くわけです。つまり、私たちクリスチャンの歩みは、「ほどほどに」とか、「他の人たちがやっているから」という基準によるのではなく、「神のように、キリストにように」という基準です。

 ここでパウロが使っている「ならう」は、ギリシヤ語では、「模倣する」とか「真似をする」という意味になっています。「物まね大会」とか「日本人は模倣することが上手だ」という言い回しで使う「まねる」という言葉が使われています。「神を基準として、キリストを基準として」というと、到底自分にはできない高尚な生き方だなあ、と感じてしまうかもしれませんが、実は、「神の物まねをしなさい」と言っているのです。

 そして、「愛されている子どもらしく」とありますね。パウロは、両親に愛されている子どものことを話しています。幼い子どもは、親から愛されていることによって生きています。そして、親が言うこと、行なうことを真似しながら生きています。私たちのところに、英語を習いに来ている子たちは、年齢が低ければ低いほど、英語の発音が上手です。THの発音を、「舌を上下の歯でかんで」と言わなくてもその発音を出します。Vの音を、下唇を噛みながら出して、と言われなくてもその発音をします。子どもはまねが上手いのです。人が言うこと行なうことをいっぱいに吸収して、それをそのまま行なおうとするからです。

 そして、私たちは神に愛された子どもです。神が、キリストによって自分の罪をすべて赦してくださったのを知っています。ですから、この神を父としてあおぎ、幼子のように神の姿を観察し、それを真似てみることができるのです。

 そこでパウロは、神にならう者として、次の勧めを行ないます。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

 愛のうちに歩みなさい」と勧めています。キリストが愛してくださっていることを知っている人は、その愛に満たされて、他の人にもキリストの愛を分かち合うことができます。キリストがどのように愛してくださったかというと、「ご自分を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」とあります。

 ここのささげ物とは、レビ記1章において学んだ「全焼のいけにえ」のことです。レビ記1章3節を開いてください。「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

 ここの、「なだめのかおり」というのが、「香ばしいかおり」と同じです。イエスさまご自身がほふられた傷のない雄牛であって、ほふられて、血を祭壇に注がれました。罪を負われた主は、十字架において、神の聖なる火によって焼かれていたのと同じでした。イエスさまは、このような犠牲を、私たちを愛する愛のゆえに、行なってくださったのです。このことを知れば、自ずと、自分が神に対して、また隣人に対して、どのように接すればよいかを知ることができます。

2B みだらなことを避ける 3−7
 そしてパウロは、次に興味深いことを話しています。

1C 程度 − 口にもしない 3−4
 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。

 今、愛のうちに歩みなさい、と勧めたのに、不品行や汚れを避けるように勧めています。これは、話がつながっていないように見えるかもしれませんが、実は、つながっています。つまり、不品行や、性的な汚れやむさぼりは、愛とは正反対のものである、ということです。(ここの「むさぼり」というのは物欲というよりも、性的な欲望の意味のほうです。)

 日本語において、「愛」という言葉には、いやらしささえ感じるときがあります。男の人が男の人に向かって、「私はあなたを愛している。」と言ったら気持ち悪いでしょう。それは、「愛」という言葉が、男女間の恋として用いられているからです。また、結婚外での性的関係においても、愛ということばを使っています。しかし、キリストの愛を知った私たちは、このように「愛」と呼ばれているものが、いかに愛から遠ざかった行為であるか、いや正反対のことであるかを知ることができるのです。

 聖書の中で、主が愛しておられることが最初に述べられているのは、申命記4章37節です。「主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。」とあります。主は、イスラエルの民を愛しておられたので、この民を選ばれました。それゆえ、彼らがどんなに不従順になっても、彼らを決して見捨てることなく、ご自分の契約を破棄することはなさいませんでした。むしろ、神は、ご自分がご自分の立てられた約束にご自分を縛りました。そして、ご自分も契約の中に生きていることをお示しになりました。そして、いろいろな預言者をとおして、ご自分がどのような存在で、どんなことを考えておられて、何を行なっておられるかを、みな明かされました。そして事実、そのとおりに行なわれました。このように、神は、私たちに分からないような方でもなく、また勝手気ままに動いているような存在ではなく、ご自分をおささげになり、ご自分のことを明かされ、真実を尽くされ、ご自分のものを分かち合うようなお方であることが理解できます。そして、これが聖書で言うところの「愛」なのです。

 したがって、不品行、汚れ、むさぼりが、いかに愛から離れたものであるかを、私たちは知ることができます。いや、これらの類のものは、愛と反対語なのです。そこで、そのようなものは、口にすることさえしてはいけません、と話しいます。

 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。

 不品行や汚れを行なってはいけないだけではなく、冗談として話すことさえも避けなければいけません。むしろ感謝の言葉を話すべきです。

2C 理由 − 神の怒り 5−7
 そしてパウロは、なぜ性的汚れから離れるべきであるか、その理由を次に話しています。

 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。

 不品行と汚れとむさぼりのゆえに、キリストと神の御国に入ることはできません。だから、とても深刻なことであり、口にすることさえいけないのです。パウロは、「だまされてはいけません」と言っています。私たちは、不品行、汚れ、むさぼりは、相手が同意しているかぎり無害ではないかと思ってしまいます。しかし、神の目には違うのです。

 救いは神の恵みにより、信仰によるのではないか、と言う人々がいます。だから、不品行を行なっている人だって、イエスを信じていれば救われるのではないか、と言います。しかし、ここのパウロの言葉から、それは偽りであることが分かります。信じれば、それにともなう良い行ないの実が結ばれます。また、信じるとは、キリストにあって聖なる神に近づくのですから、そこには悔い改めがあります。なのに、それでも不品行を行なっているのであれば、その人は本当の意味で信じていなかったのです。マタイの福音書7章21節には、「『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」というイエスさまご自身の言葉があります。私たちは、この警告のことばに耳を傾けなければいけません。

 ですから、彼らの仲間になってはいけません。

 このような行ないをしている者たちと行動をともにしてはいけない、ということです。

2A 光の子どもとして歩む 8−14
 そこでパウロは、また新たな勧めをしています。それは、「光の子どもとして歩みなさい」というものです。

1B 仲間入りをしない 8−10
 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

 ここの暗やみは、4章18節に出てきた「知性において暗くなり」ということであります。神についての知識がないので、いや、その知識を拒んだので、心がむなしくなり、神のいのちから遠く離れました。そして、道徳的にも無感覚になり、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになったのです。これが「暗やみ」です。しかし、今は、「主にあって、光となりました。」とあります。キリストによって神の知識に至り、神のいのちを得て、新しい人に変えられました。

 ・・光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。・・

 私たちが光である神とキリストを知って、それによって、善意と正義と真実という実が結ばれます。光というと、知識を持っていること、悟りを得たことと私たちは考えてしまいますが、聖書では、このような道徳的な行ない、良い行ない、聖い歩みを指しています。

 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。

 私たちは、この世において歩んでいますから、絶えず、暗やみのわざの影響の下にいます。ですから、私たちは、いつも、今自分がしていること、また自分が置かれている状況が、主に喜ばれていることなのかどうかを見分ける作業が必要です。ここの「見分け」は、試すとかテストするとも訳すことができます。つまり、ある特定の事柄が、はたして主が喜ばれることなのかどうかを、自分で点数をつけるのです。映画は、アメリカでは、親同伴、成人向けなどの評定をして分類わけします。同じように、私たちキリスト者は、自分自身で、主に喜ばれるものかどうかを採点するのです。喜ばれるようなものではなければ、その行ないからは離れて、遠ざかる必要があります。

2B 明るみにする 11−14
 けれども、私たちの歩みは単に避けるだけのような消極面だけではないことを思い出さなければいけません。暗やみのわざの仲間にならないだけではあく、暗やみのわざを明らかにしていく必要があります。

 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。

 明るみにする、というのは、「暴露する」と言い換えたら、その意味が理解できると思います。私たちが、主にあって聖い生き方をしていると、周りにいる人たちが、自分たちが何を行なっているかを知るようになってきます。私たちは、うちにある光を輝かせないようにするのではなく、この世に分かるように光らせなければいけません。イエスさまが、「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:15-16」と言われたとおりです。

 私が関心したある話があるのですが、再びデービッド・ホーキングの証しです。彼が床屋で髪を切ってもらっているとき、床屋が他の人と話している話が、とても下品だったということです。そこで彼は、「もう帰ります。あなたたちの話をもう聞きたくありません。」と言ったそうです。床屋さんは、「まだ終わっていないですよ。」と言いましたが、彼はお金を払って、「結構です」と言って床屋を出て行きました。私なら、「お金がもったいないから」とか、「こんなところで帰ったら、変に思われる」とか考えましたが、けれども、ここのパウロの言葉によればデービッドの行動が正しいことが分かります。自分が暗やみのわざを行なっている者たちの仲間にならないこと、そして、明るみに出すことが私たちには必要です。

 このようなことをしたら、人々に嫌われるではないか、人々が福音を信じるようになるためには、そのような行ないには目をつむるべきではないか、という人もいるかもしれません。しかし、それは逆なのです。次をごらんになってください。

 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

 暗やみのわざを明らかにすると、人は光のところに来るようになります。暗やみを愛している人は光のところに来ませんが、自分の行ないに気づき、悔い改めて、神を信じるようになるようになるのです。光によって明らかにされ、明らかにされたら光となります。そして、暗やみの中にいて眠っている人が目をさまして、神に立ち返り、光の中に入れられるようになるのです。

3A 賢い人のように歩む 15−21

 パウロは続けて、神にならうことについて述べていきます。次は、「賢い人のように歩む」ことです。

1B 機会を十分に生かす 15−17
 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。

 パウロは、5章のはじめから、エペソの信者たちが、異教的な社会の中にいることを念頭に入れながら話しています。彼らが住んでいるエペソは、不品行や汚れが充満し、口に出すことさえも恥ずかしい暗やみのわざを行なっている者たちがいます。そして、ここでも、「悪い時代」とパウロは書いています。神の御怒りを受けるような時代、主が再び来られてさばかれる時代である、ということです。

 このような時代に住んでいる者にとって大事なことは、賢く歩むということです。とくに罪でも、肉の行ないでもない事柄においても、気をつけなければいけないことがたくさんあります。悪魔がすきを見て、主のわざを破壊しようと徘徊しているからです。

 先日、韓国人の方と結婚しているある兄弟と、話すことができました。彼は北朝鮮の国境地域の方面に、宣教目的で数回訪問したことがあるそうです。そこには、韓国から来て、北朝鮮からの難民を助けて、また伝道している人たちがいます。けれども、そこで、大声で祈ったり、人目につくようなかたちで伝道するため、捕まえられる人たちがいるそうです。本人たちは、「主のために捕らえられたのだ」と思っているのかもしれませんが、それによって当局はキリスト教を邪教であり、取り締まらなければいけない宗教であると思ってしまいます。しかし、静かに行動し、また、現地の中国人に文字を教えたりする地道な働きをしているクリスチャンたちもいるそうです。これが、パウロがここで話している、「機会を十分に生かして、賢い人のように歩みなさい」と言っていることです。大声で祈ることも、伝道することも、とっても良いことです。しかし、今は悪い時代なので、主のわざをすぐに破壊してしまう要素がたくさんあるのです。

 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

 先ほどは、「主の喜ばれることはなにか、見分けなさい」でしたが、ここでは、「みこころは何であるかを、よく悟りなさい。」という勧めです。この場面における主のみこころは何か、あの場面では主はどのようにお考えになっているのか、一つ一つを、みことばに照らしあらわせながら調べていく必要があります。

2B 御霊に満たされる 18−21
 そして次にパウロは、賢い人として歩むこととして、「御霊に満たされなさい」という勧めをしています。

 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 「御霊に満たされる」という言葉を、クリスチャンはよく使います。しかし、その意味について知っている人は少ないです。感情的になって理性を失うことが御霊に満たされると思っている人もいますが、それは明らかに間違いです。パウロは、「賢い人のように歩む」中で、このことを語っています。知恵と知識によって歩むのです。また、御霊がどのような方であるかが、イザヤ書11章2節に書かれています。「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」御霊は、知恵と知識の霊なのです。

 しかしながら、御霊に満たされることと、酒に酔うことにはある共通している事柄があります。パウロは、「酒に酔ってはいけません。御霊に満たされなさい。」と言っていますが、酒に酔ってしまいたいと願うその欲求が、実は御霊によって満たされるのです。

 酒に酔いたいと思うのは、簡単な言葉を使うと「はめをはずしたい」ということです。普段の生活では、自分で計画を立てて、それを実行し、人間関係においていろいろな摩擦を経験し、神経が疲れています。ですから、自分自身で考えるのではなくて、自分以外のもので支配されたいと願うようになります。だから酒を飲み、「はめをはずす」のです。

 これと御霊によって満たされることとは似ています。つまり、私たちが自分の知恵で考えていると、疲れてしまいます。伝道者の書では、知恵を尽くして労苦しても、むなしいということをソロモンが述べていますが、知恵を尽くせば労苦が増えるのです。そこで私たちは、自分たちの意志を支配する、何らかの影響力を欲します。多くの人は酒に走るのですが、私たちクリスチャンは、神の御霊に求めることができるのです。神の御霊が私たちを満たされるとき、私たちは、自分自身からではない、上からの知恵が与えられます。その知恵にしたがって生きることは、とても楽なことなのです。もちろん、それは労苦がなくなったということではありません。いろいろ労しますが、しかし、御霊から知恵をいただいているので、とても楽なのです。そこでパウロは、「御霊に満たされなさい」と勧めています。

 そして御霊の満たしの現われとして、次のことも勧めています。

 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。

 私たちが賛美の歌によって、心が満たされます。私たちは、どのような時でも、賛美することができます。寝床から起き上がったときから、トイレで用を足しているときも。皿を洗っているときも。電車の中で吊革につかまって立っているときも、声に出さなくても心の中でうたうことさえできます。私たちが御霊に満たされて、そして、賛美を心から歌うのです。

 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

 賛美だけではなく感謝します。私たちはどんなときに感謝するのでしょうか。「いつでも」ですね。どんなことについて感謝しますか?「すべてのことについて」です。ある一部のことではありません。そして、誰を通して感謝しますか?主なるイエス・キリストをとおしてです。イエスさまにあって、私たちは感謝することができます。そして誰に感謝しますか?「父なる神」です。感謝な思いになるだけでなく、神に感謝をささげる行為が大事です。

 それから、御霊の満たしの現われとして、キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

 とあります。私たちは、だれにも従いたくない肉の性質を持っています。自分の意思を貫きたい、自分が支配したいという思いを持っています。そしてクリスチャンだと、「私はキリストに従っているけれども、あなたには従わない。」という考えも持ってしまいます。けれども、ここでは、キリストを恐れ尊んで、従いなさい、と命令されています。私たちは、主に従うように、人にも従っていくのです。このことも、御霊の満たしによってしていくことができます。

 そして22節以降に、パウロは、家族関係や雇用関係において互いに従っていくことについて話していきます。それは次回学びますが、ここでは、いろいろな関係の中で、キリストに従っていくように相手にも従うということを心にとめたいと思います。

 こうして私たちは、神にならうことについて学びました。それは、愛のうちに歩むこと、光の子どもとして歩むこと、そして賢く歩むことです。不品行なことを口にさえ出してはならないこと、暗やみのわざを明るみにすること、そして、主のみこころは何かをよく悟ることでした。


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