ハバクク2章4節 2001/02/24

預言者ハバククは、ユダ王国が暴虐を行なっているのを見、主がそれに対して何もしておられないのではないかと思い、そのことを主に訴えました。主は、「いや、わたしは確かにユダにさばきを行なう。バビロンを起こし、バビロンによってさばく。」と答えられました。ハバククは驚きました。「バビロンは、彼らよりもさらに悪いですよ。なぜ、もっと悪いバビロンによって、ユダをさばかなければならないのでしょうか。」ハバククは、主の御思いが分からずに、見張り所に立ち、主が何を語られるかを見ていました。すると主は答えられました。「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク2章4節)」神は、ご自分が行なわれることを信じて生きる者が、正しいと認めておられる、ということです。

この個所が、新約聖書において、三つの手紙に引用されています。ローマ人への手紙(1:17)、ガラテヤ人への手紙(3:11)、そしてヘブル人への手紙(10:38)です。この三つの手紙はすべて、「義人が信仰によって生きる」ことについて語っていますが、それぞれの力点が異なります。ローマ人への手紙では、「義人」に力点が置かれています。つまり、人がどのようにして救われるのか、どのようにクリスチャンになることができるのか、について語っています。ヘブル人へ手紙では、「信仰」に力点が置かれています。イエスさまが死なれて、よみがえらえた後も、神殿における犠牲のいけにえは続いていました。そこで、ただ一度ささげられたキリストのいけにえこそが、私たちの信じるべき対象であることを語っています。そして、ガラテヤ人への手紙では、ハバクク書2章4節の「生きる」という部分に力点が置かれています。つまり、キリストを信じたクリスチャンが、それからどのように生きていくべきなのかに焦点が当てられています。

パウロは、3章のはじめにおいて、「あなたがたが御霊を受けたのは、信仰によって聞いたからでしょう。律法の行ないによって御霊を受けたのではありません。あなたがたは、御霊で始まったのに、いま肉によって完成させようとしているのですよ。」と言って、ガラテヤ人を責めました。ガラテヤ人たちは、御霊を受けるところのすばらしい体験をしていましたが、そのとき、彼らはただ福音のことばを聞き、信仰をもって聞いていただけだったのです。何か行ないをしたから、その祝福にあずかったのではありませんでした。しかし、自分が神から祝福を受けるのは、自分たちの行ないによるものであるという間違った教えを受け入れてしまっていたのです。

私たちは、初めに福音を聞き、それを信じてから、同じように信仰によって生きます。「あなたはクリスチャンになったのですから、これこれ、このようなことを行ないなさい。」という教えは、キリストの弟子として生きていくために必要なことであります。しかしそれらによって、自分が良いクリスチャンになろう、神から好意を得よう、と思うところに大きな間違いがあります。私たちは、すでにキリストにある者にされているのです。これ以上完全になることはできません。キリストのうちにあることこそに、あらゆる霊的祝福があります。キリストのうちにあること、このことを掘り下げ、深みにまで漕ぎ、また、そこから生ける水を飲んでいくのです。


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