ヘブル人への手紙11章17−40節 「全うされない約束」


アウトライン

1A イスラエルの子孫 17−22
   1B ただひとりの子 17−19
   2B 晩年の預言 20−22
2A 約束の地 23−31
   1B キリストとの苦しみ 23−27
      1C 恐れぬ心 23
      2C 永遠の報い 24−26
      3C 潔さ 27
   2B 神のさばきからの救い 28−31
3A ふさわしくないこの世 32−40
   1B 敵からの救い 32−34
   2B さらにすぐれた約束 35−40
      1C 拷問 35−38
      2C 私たちのためのあかし 39−40

本文

 ヘブル人への手紙11章を開いてください。今日は11章の後半部分、17節から40節までを学びます。ここでのテーマは、「全うされない約束」です。約束が全うされないというのは、神の約束のように聞こえないかもしれません。けれども、11章の最後に、「彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」とあります。

 11章前半、「信仰とは何か」のメッセージにおいて、私たちは、アブラハム、イサク、ヤコブの生涯、とくにアブラハムの生涯について触れました。いろいろな人が、同じ信仰によって、いろいろな取り扱いを神から受けましたが、アブラハムの場合は、祝福の約束を受け取っていたところに特徴がありました。けれども、その約束の実現を自分の生涯の中で見ることはなく死んでいった、ということを学びました。そして18節からも、アブラハムの生涯について読んでいきますが、ここではさらに、彼の信仰が試されている部分が出てきます。約束がかなえられていないように見えるどころか、約束とは正反対のことが起こることについて、アブラハムは信仰の試練を受けたのです。

1A イスラエルの子孫 17−22
1B ただひとりの子 17−19
 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。

 アブラハムとサラは、あなたの子孫によって祝福されるという約束を受け取っていました。けれども、サラには子を宿す気配はなく、二人とも年老いていました。途中でサラは、女奴隷ハガルをアブラハムに与えて、ハガルをとおして子を産むようにさせました。はたして子が生まれて彼の名はイシュマエルと言いますが、彼がもとで、家族の中が混乱しました。神はアブラハムに、「サラから生まれる子があなたの子となる。」と言われました。そこで与えられたのが、イサクです。アブラハムが約束の地に向かってから、実に25年後のことです。念願の子が与えられました。しかも、それは神の約束による子供でした。ところがイサクがおそらく20歳弱ぐらいだったのでしょうか、主は、その時に、「あなたの愛するひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」と命じられました。

 もし私がアブラハムだったら、「イサクによって祝福する」と言われた神の約束と、「イサクをささげなさい。」という命令によって、その矛盾した二つの約束を自分の中で消化できずに、気が変になったことでしょう。しかし、アブラハムは後で、「神を恐れることがよくわかった」と主の使いにほめられます。つまり、自分の悟りに頼らず、心を尽くして主に拠り頼んでいたのです。自分で考えることをせず、ただ主が仰せになることだからという理由で、その命令に従いました。

 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

 主を恐れて、主に拠り頼んでいるときに、私たちには神の思いが与えられます。アブラハムは、神のみことばを疑うのではなく、どちらも受け入れたので、また別の信仰が彼のうちに生まれ出ました。それは、「イサクがよみがえる」という信仰です。イサクによって子孫がふえる、というのは神が言われたことだから、絶対に実現する。そして、「イサクをほふりなさい」と言われるのだから、ほふられたイサクがよみがえることによって、約束が実現するだろうと考えたのです。イサクは実際のところ死ななくて済んだのですが、アブラハムの心の中ではイサクはよみがえったものと同じです。

 そして、このような信仰の試みによって、アブラハムは、自分でも意図していないことを行なったのです。それは、「キリストの証し」です。父なる神が、ご自分の愛するひとり子キリストを、いけにえとしてほふられることを、アブラハムが前もってイサクをとおして行なったのです。しかも、父なる神が死者の中からイエスをよみがえらせることも、アブラハムはイサクによって行ないました。神がキリストによって行なわれる罪の贖いを、アブラハムは自分自身の生活の中で見事にあかししました。

 パウロはピリピ人への手紙の中で、「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(3:10−11)」と言っています。キリストのうちにとどまり、主にある交わりの中で、キリストの苦しみとキリストの復活の交わりにもあずかる、ということです。つまり、自分のうちから、キリストの死といのちが現われる、ということです。私たちは、「あかし」という言葉を聞くときに、自分がクリスチャンらしくふるまうことによって、人々にキリスト教について、イエスさまについて良い印象を与えることができる、と考えてしまいます。けれども、しばしば、それが見かけだけのものであり、世の人からは見透かされることがあります。なぜなら、私たちが外側で行なうことがあかしなのではなく、私たちの生きているその姿そのものが、あかしになるからです。自分では、ただ神と格闘し、神に取り扱われて、砕かれているだけの生活かもしれない。しかし、その中に生きていることそのものが、人々を動かします。なぜなら、そこには偽りのない、真実のキリストの姿を見ることができるからです。アブラハムは、イサクをささげるときに、まさか将来のキリストの十字架のことを思ってささげたのではないでしょう。けれども、結果的に、人々にあかしするものを残しました。それは、彼の信仰のゆえです。

2B 晩年の預言 20−22
 信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。

 アブラハムの後の子どもたち、イサクとヤコブとヨセフの信仰のあかしが書かれています。イサクは、初め、ヤコブではなくエサウを祝福しようとしました。けれども、神はヤコブを選ばれており、イサクが行なおうとしたことは、神のみこころに完全に反します。けれども、リベカがヤコブをエサウに変装させて、ヤコブがイサクから祝福を受けることになりました。そして、エサウがやって来ます。イサクは、「もう祝福は残されていない」と言って、エサウの子孫がこれからどうなるのか、その未来を預言しました。その時、イサクは信仰をもって預言しました。なぜなら、気持ち的にはエサウを祝福したいのに、それに反して神から与えられた啓示を語ったからです。私たちも、自分の感じていることに反して、神に示されていること、神に語られていることを語らなければいけないときがあります。

 そしてヤコブですが、彼は死ぬ間際に、ヨセフの息子二人を祝福して、また12人の息子に、終わりの日に起こることを預言しました。彼は、杖によりかかって神を礼拝したとありますが、それが信仰によるものだ、とあります。なぜなら、彼は、肉体が弱り、衰えているのに、そのことに反して、神に言われていることを行なったからです。私たちには、肉体が弱いとき、それでも神に行なえと命じられることがあります。しばしば、病床の中にいる人が、本を書いたり、あかしをしたりして、なおも主のために働いている人の話しを聞きますが、それは信仰によって行なうことができるものなのです。「私は弱いのだから、神さまから何も用いられることはない。」ではないのです。

 そしてヨセフは、自分が死ぬ前に、その遺体をエジプトから連れ出してほしいと指図しましたが、ヨセフは本当に、父が住んでいたカナン人の地を欲していたことでしょうか。彼はまだ17歳ぐらいのときにそこを離れて、エジプトに来ました。しかし、彼は神を愛し、神が与えてくださったその土地に行きたいと強く願ったのです。けれども、死期が近づきました。そこで遺体を持っていってくれと指図したのです。事実、出エジプト記にて、イスラエルがエジプトを脱出するときに、ヨセフの遺体も運んでいったことが書かれています。ここから私たちは、自分たちが見ない約束があるということです。自分が生きているうちに、神に示されたものを見ることはない。けれども、必ず実現することを信じて生きていくのです。

2A 約束の地 23−31
 そして話しは、族長からモーセへの移ります。
1B キリストとの苦しみ 23−27
1C 恐れぬ心 23
 信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。

 モーセの生涯は、生まれたときから終わるときまで、信仰によるものでした。赤ん坊として生まれたとき、両親のうちに信仰が与えられていました。パロは男の子はナイルに投げ込まなければいけないと命じていたのに、勇気をもって養い育てました。私たちも、恐れるときがあります。パロのように力のあるものから何かをされるかもしれないと思うときに恐れますが、その時に勇気を与えるのは「信仰」です。

2C 永遠の報い 24−26
 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、

 ここから、信仰について大切なことが書かれています。それは、「優先順位」あるいは「選択」についてです。モーセは、40歳になったときに、エジプトのすべてのものを手にしていたのも同然でした。なぜなら、「パロの娘の子」だったからです。しかし、彼はその地位を信仰によって捨てました。

 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

 彼は「罪の楽しみ」つまり、快楽も捨てるようになりました。そして、地位も捨て、罪の楽しみも捨てたのは、禁欲的になるからではなく、エジプトの生活に飽きたからでもなく、むしろ、「神の民とともに苦しむ」ためでした。神の民であるイスラエル人を彼は助けました。けれども、そのために、エジプトを出てゆくという苦しみにあいました。私たちも同じように、兄弟姉妹として、ともに苦しみ、ともに喜ぶという交わりの中に入っています。そのときに、自分だけが楽しい思いをして、自分と他の兄弟姉妹とは切り離そう、自分だけで生きてゆこうと考えるならば、それは信仰から出たものではありません。信仰は、私たちと愛で結ばせて、ともに生きるように促します。

 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

 モーセには、エジプトの富が自分のものとなっていました。けれども、彼はその富の代わりに、「そしり」を選びました。キリストのゆえに受けるそしりです。そして、彼はエジプトの富と、将来与えられる報いを、天秤にかけて比べています。エジプトの富は、自分が生きている間、数十年間のみ続きます。しかし、天における報いは永遠に続きます。「今が楽しくて、永遠に苦しむ」のを選ぶか、それとも、「今が苦しくて、永遠に楽しい」のを選ぶか、その選択が与えられているのです。モーセが死んでから3千年以降経ちましたが、彼は自分の選択について満足していることでしょう。今も、彼は天における報いを楽しんでいるからです。

3C 潔さ 27
 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

 これは、エジプト人を殺してしまったことがパロに伝わってから、モーセがエジプトを立ち去ったときの出来事ではなく、イスラエルの民がモーセとともにエジプトを出て行ったときの話しです。そのとき、恐れないで、淡々と旅路の仕度を整えたに違いありません。なぜなら、見えない方、つまり神を見るようにして忍び通したからです。私たちも、神がおられることを信じながら行動するときに、恐れは打ち消され、潔く動くことができます。

2B 神のさばきからの救い 28−31
 信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。

 神のさばきがエジプトに下るのですが、神はモーセに、その怒りから免れるための方法を教えられました。子羊をほふって、その血を門柱と鴨居につけて、子羊は火で焼いて食べるという方法です。これは、何のためにそんなことをするのか理解できない、と言って反発しても、一向におかしくないような命令ですね。けれども、モーセは信仰をもって、それをイスラエル人が行なうように指示したのです。これは後に、キリストが十字架につけられ、血を流されることのあかしとなることが分かりました。けれども、モーセはそのようなことは示されていません。

 このように、私たちも、自分たちには理解できないようなことを、神が指示して来られることがあることを覚えていなければいけません。例えば、献金はどうでしょうか?「与えるものが、与えられる」という約束がありますが、私たちの経験則では、「与えるものは、失う」ですね。けれども、神がそのように言われるので行ないます。また、バプテスマはどうでしょうか?これも、なんぜ「水」なんかに入れなければいけないのか、と思うかもしれません。別に他の方法でも、自分の信仰を言い表す方法はあるのに、と思うでしょう。けれども、信仰をもって水によるバプテスマを受けるのです。

 信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。

 紅海が分かれるのは、もちろん神の力を信じる信仰によります。私たちは、イエスを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰があります。それによって、罪のからだを殺して、御霊にしたがうことができます。

 
ここで興味深いのは、エジプト人もイスラエル人と同じようにして紅海をわたろうとしたけれども、のみこまれた、ということです。同じことを行なっていても、信仰がなければ駄目なのです。同じようにクリスチャンらしい生活をしていても、それが信仰によるものでなければ、いのちがありません。だれでも、これはおかしい、偽りだと気づくのです。

 信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。

 話しはモーセの次のリーダーである、ヨシュアに移っています。エリコを陥落させるときに、彼らは七日間、城の周りを回るという、面倒くさいことを行ないました。けれども、彼らは神さまが言われたその時を待ちました。私たちは、すぐにじれったくなって、行なうことをすぐに行ないたいという衝動にかられることがあります。けれども、信仰によって神の時が熟するまで、待たなければいけないときがあるのです。

 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。

 ラハブの信仰が書かれています。ここで特徴的なのは、彼女が遊女であるということです。彼女の行ないに関わらず、その信仰によって彼女は救われました。今も同じです。そして、彼女がどのように信仰を働かせたかというと、イスラエルの神を恐れていたということです。イスラエルがエジプトを倒したこと、またヨルダン川の東で、エモリ人を倒したことなどを聞いて、イスラエルはさばかれ、戦われる方であることを知っていました。それで、イスラエルの神を信じて、イスラエル人のスパイをかくまいました。同じエリコの住民がことごとく滅ぼされたのに、ラハブの家族だけが救われました。ここから私たちは、他の人々が行なっているから、ではなく、神を恐れることの必要性を知ります。他の人たちがしているのに、自分だけやらない。またしていないのに、自分だけ行なうのは勇気が要ります。けれども、ラハブのように、信仰をもって暗やみのわざから抜け出る必要があります。

3A ふさわしくないこの世 32−40
1B 敵からの救い 32−34
 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。

 ヨシュアのところまで話してから、著者は、その後の旧約の聖徒たちを大雑把にまとめています。「ギデオン、バラク、サムソン、エフタ」はみな士師です。ダビデはもちろん王です。そしてサムエルは最後の士師でありかつ預言者です。「預言者たち」とは、エリヤ、エリシャ、イザヤなど、多数の人を指します。

 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

 ここに書かれていることはみな、「敵からの救い」です。敵から救われるために、信仰が必要でした。私たちにも、彼らと同じように「戦い」があります。敵との戦いがあります。その敵は、自分の恐れであるかもしれません。肉との戦いもあるでしょう。そして悪魔との戦いがあります。そして、そのときに必要なのは、「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(1ヨハネ4:4)」という信仰です。キリストがおられるから、戦いに勝つことができる、いや、すでに勝利しているという信仰が必要であります。

2B さらにすぐれた約束 35−40
1C 拷問 35−38
 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。

 預言者エリヤも、またエリシャも、女たちの子どもをよみがえらせました。

 またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。

 ここで「さらにすぐれたよみがえり」とあります。エリヤやエリシャが行なったよりも、さらにすぐれたよみがえりとは何でしょうか?そうです、死者からの復活です。エリシャとエリヤが行なったものは、「蘇生」でありました。息を吹き返しましたが、その後死んでしまいます。しかし、キリストが死者の中からよみがえられたときに、それは私たちが今持っている肉体とは違う、復活のからだを持っておられたのです。それは朽ちないからだであり、永遠に残るものです。私たちは、目に見える世界の中で起こる奇蹟に驚きます。それも神の奇蹟でありすばらしいのですが、さらにすぐれた奇蹟は、永遠のいのちを与えるところの、復活のからだなのです。

 そして、復活のからだを得るために、この世では救いどころか、苦しみを味わうこともあるのです。ここには、釈放されることを願わずに、拷問を受けた、とあります。次を読みましょう。

 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、のこぎりで打たれ、というのは、イザヤではなかったか、という人もいます。剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、・・この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。・・荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。

 天において報いを受けるために、この世で生きるにはふさわしい者ではなくなる、という苦しみが信仰者にはつきまといます。天に対するあこがれが強ければ強いほど、地上では歩みが不便になります。信仰によって、約束がかなえられるどころか、地上では正反対のことが起こるのです。

2C 私たちのためのあかし 39−40
 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。

 彼らが得なかった約束というものは、イエス・キリストご自身です。旧約時代に生きた聖徒たちは、キリストのことを信仰によってあかししました。アブラハムもモーセも、その他の預言者たちも、キリストをあかししていました。けれども彼ら自身は、キリストに出会うことはありませんでした。しかし、この手紙が書かれている時にはすでに、キリストが現われてくださっています。彼らは約束のものを得ませんでした。

 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。

 「さらにすぐれたもの」とは、キリストのことです。キリスト以上に、すぐれたものはありません。したがって、旧約時代の人々も、キリストが来られる約束を待ち望んで死んでいったほうが、他に別の約束によって生きるよりもはるかにすばらしかったのです。彼らの生き方は、何と言ったら良いでしょうか、「痒いところに手が届かない」状態と言ったらようでしょうか。約束のものはこれである、というはっきりとした確信があります。けれども、同時に、それは将来のものであって、自分が生きているうちは実現しないことも知っています。つかみたいけれどもつかめない。けれども、何か他のものをつかむよりも、このような中途半端な状態のほうが良い、と決断して生きていたのです。詩篇の中に、「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。(84:10)」という言葉があります。神の宮の中には入っていません。けれども、門口にいるほことのほうが、悪の天幕の中で快適に過ごすよりも、はるかにまさる、と告白しています。これが、旧約時代の聖徒たちの信仰でした。

 私たちは新約時代に生きていますが、それでも、天における報いにおいては変わることはありません。キリストにある天における報いを受けるために、今ここで苦しみがあります。そして自分の生活が安定せず、捉えどころのない、宙ぶらりんの状態が続くこともあります。このようなもどかしさのなかで、私たちはうめき、主が来られることを待ち望み、その中でキリストが私たちのうちで働いて生きてくださるのです。自分の目では、神の約束が実現するのを見ることはないかもしれません。むしろ、約束とは反対のことが起こるかもしれません。けれども、主のところには報いが用意されています。栄光が用意されています。朽ちることのない富が蓄えられています。約束は自分の中で全うされることがないかもしれませんが、しかし報いは大きいのです。



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