ヘブル人への手紙5章 「大祭司イエス」

アウトライン

1A 人となられた方 1−10
   1B 弱さへの同情 1−6
      1C アロンの祭司職 1−4
      2C キリストの祭司職 5−6
   2B 苦しみよる従順 7−10
2A 霊的成熟 11−14

本文

 ヘブル人への手紙5章を学びます。ここでのテーマは、「大祭司イエス」です。私たちは前回、4章後半にて、イエスさまが大祭司であり、人の弱さを知っておられる方であることを学びました。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(4:15)」とありました。そして5章は、この話に続きになります。大祭司とはどのような存在なのか、そしてイエスさまが大祭司となるために、どのような苦しみを味わわれたのかを学びます。

1A 人となられた方 1−10
1B 弱さへの同情 1−6
1C アロンの祭司職 1−4
 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。

 旧約聖書を信じているユダヤ人たちにとって、大祭司はもっとも大きな務めの一つでした。出エジプト記、レビ記、民数記を読めば、祭司の務めがいかにたくさん出てくるかにすぐに気づきます。祭司は、主が住まわれるところの幕屋で奉仕をする人たちです。イスラエル人たちが持ってくるいけにえを、祭壇の上で焼きます。洗盤で手足を洗って、聖所の中に入ります。そこには、燭台がありますが、日々、その火を絶やすことのないようにします。パンを供える台がありますが、そのパンの整えます。また香壇があり、そこで香を炊いて、主の前への香りとします。このような祭司の務めは、彼らがイスラエルの民に代わって、神の前に出て行って、神に礼拝をささげる人たちだからです。

 そして、モーセの弟アロンが、神から任命されて大祭司となり、その子孫が代々大祭司となっています。大祭司は、聖所の中にある至聖所の中に年に一度入ります。至聖所には、契約の箱と贖いの蓋があり、贖いの蓋には御使いケルビムがいます。そのケルビムの間に、主がおられて、主の栄光によって、輝いています。大祭司は年に一度、贖罪日のときに至聖所に入って、動物のいけにえの血をたずさえて、イスラエルの罪の贖いをします。こうしてイスラエルの罪がきよめられ、赦されて、神に受け入れられた者となります。このように、大祭司は、神と人との間に仲介役の務めを行なっています。

 そしてこの大祭司は、「人々の中から選ばれ」なければならないと書いてあります。当たり前のように聞こえますが、これが大事な条件なのです。というのは、大祭司は人の弱さや罪をにないながら、神の前に出る存在であり、もし弱さを持っていなかったら、人の代表となることはできないからです。イエスさまは御子でありましたが、大祭司となられるために、人の弱さを身にまとわれました。

 これは、神に対して祭司となっている私たちクリスチャンにも当てはまります。私たちはとかく、自分たちがクリスチャンらしくならなければいけないと思って、いろいろな取り繕いをしてしまいますが、そのために、人間味がなくなってしまいます。一定のプロトコールを教会の中に作ってしまい、一種特殊な雰囲気を教会の中にかもし出してしまうことがあります。しかし、私たちは人間なのです。先日、私の母親が上京して、私たちとともに近くにある教会の礼拝に参加してくれました。その後、彼女は私に電話をかけてくれて、「近所の教会に通いたい」と連絡してくれました。その理由は、「とても自然体でいられたから」ということです。彼女は父もそうですが、私たちが以前連れていった教会のことで、嫌悪感を持ってしまいました。みなが同じように動き、話し方も不自然であり、いわゆる「宗教臭かった」と言うのです。世の中の人は、そういう私たちクリスチャンにあるプロトコールに敏感です。私たちは、喜怒哀楽のある、普通の人間として生きなければ、そこにキリストの香りを放つことができないことを知る必要があります。

 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

 大祭司は人ですから、もちろん人としての弱さを持っています。弱さを持っているので、無知な人や迷っている人を思いやることができます。イエスさまは、罪は犯されませんでしたが、人としての弱さをもって、あらゆる試みにあわれました。したがって、私たちが弱くなったり、無知なことをしたり、迷ったりしても、思いやることがおできになります。

 そして、この思いやりは、私たちクリスチャンも持ち合わせなければいけないものです。ガラテヤ書6章1節にはこう書いてあります。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(ガラテヤ6:1)」だれかが罪を犯したときは、私たちはすぐに人をさばきやすいものです。そして、なぜあんなことを彼はするのかと、上から下へ見下ろすような態度を取りがちです。しかし、それは、自分自身が弱い存在であることを忘れているためです。自分も、似たような状況の中に置かれれば、同じように罪を犯すことを知っているならば、さばくことはできません。だれかがあやまちに陥ったなら、柔和な心でその人を正しなさい、とパウロは言いました。

 そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。

 大祭司は、贖罪日のときに、イスラエルの罪のために至聖所に入るのですが、その前に、自分の罪のためのいけにえもささげます。レビ記16章6節には、「アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。」とあります。自分の罪の贖いをしてからではないと、至聖所に入ったときに彼はすぐに神に打たれて死んでしまいます。この部分は、イエスさまとアロンと異なる部分です。イエスさまは人となられましたが、罪は犯されませんでした。罪はないのですから、ご自分のためのいけにえは必要となさいませんでした。

 まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。

 アロンは自己推薦をして、大祭司となったのではありません。神がアロンを召し出して、彼を大祭司に任命されました。民数記において、アロンの祭司職をねたんで、モーセとアロンに挑みかかった者がいました。レビ人のコラです。彼は人々から人気がある、有能な奉仕者であったようです。そこで、アロンのことを、「彼はイスラエルの民の上に立って、やりたい放題をしている。我々を約束の地に導き入れることもできなかったのに、何が祭司であろうか。みな聖なる民は平等なのだから、あなたはその地位から降りるべきだ。」というようなことを言いました。すると、彼とまた共謀者は生きたまま地の中に落ちてしまい、神にさばかれました。また、イスラエルの民までが、コラを殺したと言ってつぶやき、多くの者がさばかれました。そこで神は、イスラエル12部族の指導者をそれぞれ呼び出され、レビ族からはアロンを呼び出されました。それぞれの杖を契約の箱の前に置かせました。そして翌日、アロンの杖からアーモンドの芽が出て、花がさき、実が結ばれました。神はアロンを、大祭司の務めとして任じておられたのです。

 新約聖書には、私たちは、賜物を用いて、恵みの管理者として、互いに仕えていきなさいと勧められています(1ペテロ4:10)。そして、自分に与えられた恵みにしたがって、思うべき限度を超えて思い上がることなく、慎み深い考え方をしなさいとも勧められています(ローマ12:3)。私たちはアロンと同じように、神によって何かに任じられており、その分をわきまえて、賜物を用いて、恵みを分かち合っていかなければいけません。神が自分に与えてくださった召しを知らないと、その人はでしゃばったことをしたり、またおくびょうになってしまったりします。教える者ではないのに人を教えようとしたり、指導者ではないのに人の上に立とうとしたり、思い上がることもあります。私たちが神の恵みのうちにとどまっているのであれば、自分の分を知ることができ、そこから度を超えて思い上がることはなくなるのです。むしろ、人々に恵みを分かち合うことができます。ですから、アロンのように、神から何に任じられているかを知るのは大切です。

2C キリストの祭司職 5−6
 ここまでが、アロンの祭司職の説明でした。次に、キリストも大祭司として任じられていることが説明されています。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。

 ヘブル人への手紙の中で、この詩篇の聖句が何回も引用されています。イエスさまが、父なる神から、「あなたは、わたしの子」と呼ばれている、つまりイエスさまが神の独り子であることの宣言です。イエスさまは、メシヤであり、かつ御子であり、神ご自身です。そして、イエスさまが御子であることは、「わたしがあなたを生んだ」とあるとおり、イエスさまが死者の中からよみがえられたことによって、公にされました。

 イエスさまは、ご自分で働きを進められたのではなく、父なる神から任じられて宣教の働きをされたことを私たちは知っています。イエスさまがバプテスマをお受けになられたとき、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。(ルカ3:22)」と神が上から声をかけられました。また、高い山でイエスさまの御姿が変わったときは、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5)」と弟子たちに語られました。

 別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

 イエスさまは、十字架につけられ、よみがえられ、天に昇られてから、神の右の座に着かれて大祭司となられました。それは、アロンから受け継がれるところの祭司ではなく、メルキゼデクの位と等しい祭司です。メルキゼデクについて、7章で詳しく取り扱われていますので、7章の学びのときに説明します。

2B 苦しみよる従順 7−10
 そして次に、キリストが大祭司となる前に、十字架につけられるという道を歩まれたその苦しみについて説明しています。キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

 これはイエスさまが、ゲッセマネの園において、もだえ苦しみながら祈られたときのことです。「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」とありますが、十字架につけられる前に、イエスさまは必死に祈られました。ここに、「自分を死から救うことのできる方に向かって」とあり、また、祈りが聞き入れられた、とありますが、これは死を免れたということでありません。イエスさまは、確かに十字架につけられました。この祈りは結果的に、死者からの復活によって聞かれました。イエスさまは、十字架上の苦しみを味わい、かつ、死からの救いを受けられたのです。

 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、

 イエスさまはゲッセマネの園で、「できますならば、この杯を過ぎ去らせてください。」と祈られましたが、けれども、「あなたのみこころのままになりますように」と祈られました。父なる神のみこころに従順になることを学ばれたのです。イエスさまは御子でありますから、人が行なうようなことをする必要はないのですが、けれども、人となられて、人が学ばなければいけない、神への信頼と従順をご自分で経験されたのです。

 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、

 イエスさまが、苦しみを通られることによって、父なる神にご自分の身をゆだね、神に従順な者となられたように、イエスさまに従う人たちも、苦しみの中で神に身をゆだね、神に従順な者となるように練り清められます。イエスさまは、「自分を捨て、日々、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われました。私たちは、苦しみの中で、主にゆだねること、主に従っていくことを学びます。使徒ペテロは言いました。「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。(1ペテロ4:19)」自分がまだ自分で行ないたいことを行なっている間は、私たちはまだ、主にお任せすることを知っていません。先ほど、神に召されることを話しましたが、それは言い方を変えれば、キリストの奴隷になっていくことです。自分で行きたいところに行くのではなく、キリストによって自分も行きたくないところに連れていかれる、という世界です。しかし、そこには、ゆだねた者にだけ与えられる平安と自由があります。イエスさまが、その先駆者として、多くの苦しみを受けられました。

 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

 再び、メルキゼデクのことを言及しています。そして、続けてメルキゼデクのことを話したいと思っています。しかし、この時点で、著者は、読者がこの説明を聞くことができる耳が養われていないことを思い、説明を中断させます。そして、彼らがイエスさまのことを理解するのに妨げになっている、霊的問題について指摘します。

2A 霊的成熟 11−14
 この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。

 イエスさまについて話すべきことがたくさんあるのに、それができない、という状況があります。ヘブル人への手紙は、イエス・キリストがどのような方であるかが説明されている、内容の深い手紙となっていますが、けれども、それができないことを今、嘆いています。それは、聞く人々の耳が鈍くなっているからです。

 今日、キリスト教会の中で、イエス・キリストご自身について語られることが少なくなっています。「イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」と人が言うとき、それは、「信じれば救われる」というメッセージとして受けとめています。けれどもこれは、「信じれば救われる」のではなく、イエスがあなたを救う、というメッセージなのです。「イエス」という言葉が、一つのマントラのようになっており、救い主ご自身について語られることがないのです。

 どのようにしたら幸せになることができるか。幸せな結婚生活の条件。礼拝生活を充実したものとするために。教会成長の鍵。祈りの秘訣。弟子訓練テクニックなどなど、「いかにしたら成功するか」というハウツーものが非常に流行っています。これらは、まだ福音を聞いたことがない初歩の段階にいる人のためのものであれば有益ですが、しかし、クリスチャンの間でこうしたものがもてはやされている現状を見るとき、私はヘブル書を読んでいる読者と変わらないのではないかと思っています。

 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

 聖書には、神のみことばを乳飲み子のようにして摂取することが語られています。ペテロはこう言いました。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(1ペテロ2:2)」これは、救われたばかりのクリスチャンであれば、すばらしいことです。クリスチャンになったばかりの人から聞く話や祈りは、私たちをリフレッシュさせます。それは、ちょうど生まれてきた赤ちゃんのように、その生命に新鮮さをともなっているからです。赤ちゃんがおむつをしているように、新しくクリスチャンになったばかりの人は、いろいろな過ちや、また手厚い世話が必要になりますが、それはこれからの成長のために必要なことです。けれども、20年経っても同じことをしていたら、それは悲劇的なことです。パウロは、同じことをコリントにいるクリスチャンに対して語りました。「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。(1コリント3:1−2)」霊的成長がどこかで止まってしまったようなクリスチャンです。

 そのような状態にとどまっている人の特徴は、「教師になっていない」ことがあげられます。これは、別に聖書教師という役職につくことではなく、クリスチャンとして福音の希望について他の人に分かち合うことができるほど養いを受けている、ということです。けれども、多くの人が、伝道を牧師任せにしています。ただ教会に連れてくれば良いのだ、牧師が伝道をしてくれるのだから、という考えがあったりします。けれども、これは教会についての大きな誤解から来ているものです。牧師は、聖徒たちを奉仕の働きのために整える働きをしていると、エペソ書4章には書かれており、究極的には、信者たちがみことばを教えることができるようになっているという実を結ばせます。神学校に行って訓練を受けるのではありません。教会の中で、人々が養われ、そして神のみことばを教える教師となっていくことが必要です。

 そして、「神のみことばの初歩をもう一度、だれかに教えてもらう」と書いてあります。「キリストの十字架の血がどのような意味があるのか、教えてください。」と聞いたら、クリスチャンとして活動に従事している人たちの中で、何人が適切に答えることができるでしょうか?「神の恵みとは何ですか?」と聞いたら、何人の人が答えることができるでしょうか?聖書の基本的な教えが、まだ身についていないというか、その初歩的な教えから離れてしまっていることが、私たちにはしばしば起こります。私は、それを経験しました。アメリカにおいて、私は牧師訓練校と呼ばれるところに行きましたが、あるとき、「だれでもキリストにあるものは新しく造られたものです。」というみことばを聞いて、自分がこのみことばの意味を分かっていなかったことに気づいたときは、ショックでした。初歩的な教えから教えてもらう必要がありました。

 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。

 霊的に成長していないと、必然的に義の教え、つまり、正しい生き方をすることができなくなります。栄養のバランスが良く取れていないときに、私たちはイライラしたり、体調をくずしたりしますが、霊的な栄養バランスが整えられていないときに、ねたみや競争心などが容易に起こります。主にあって安息するのではなく、自分の言いたいこと、思っていることを人々に分からせようと躍起になったり、人々の間をかき乱すようなことを行ないます。それは霊的に満たされていないために、他のもので自分を満たそうとしているからです。つまり、霊的に幼子なのです。

 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

 神のみことばは、「堅い書物」です。とくにヘブル人への手紙や、その他の聖書の個所を、このように丹念に学ぶことは、能動的に考えて、瞑想して、祈り深くし、何度も何度も口のなかで噛みながら、咀嚼しなければいけません。これは面倒な作業ですが、この作業を通して私たちは、霊的栄養を摂取することができます。そして、霊的に養われると、「経験によって良い物と悪い物を見分ける感覚」が訓練されます。普段の生活の中で、何が良く悪いのかを識別できる力が身につくのです。だれかに指摘されなくても、「これは変な教えだ」と識別することができ、教えの風に吹きまわされることはなくなります。霊的に大人として生きることができます。

 ですから、私たちは成熟を目指さなければいけません。イエスさまの足跡にならって、苦しみの中でも父なる神に信頼して、従順になる、その深い関係を求める必要があります。そこからにじみ出る品性は、キリストのかおりを放ち、私たちを、良き恵みの管理者としてくれます。人々に、よりよく仕えていく、神への祭司となることができるのです。


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