ヘブル人への手紙9章 「血によるきよめ」

アウトライン

1A 良心のきよめ 1−22
   1B 地上における礼拝 1−10
      1C 幕屋 1−5
      2C 大祭司 6−10
   2B まことの聖所 11−15
2A キリストの現われ 16−28
   1B 契約の成立 16−22
   2B ただ一度のいけにえ 23−28

本文

 ヘブル人への手紙9章を開いてください。ここでのテーマは、「血によるきよめ」です。私たちは、

1A 良心のきよめ 1−22
1B 地上における礼拝 1−10
1C 幕屋 1−5
 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。

 「初めの契約」とありますが、これは8章からの続きになっています。8章には、モーセを通して与えられた律法は古い契約であり、神はエレミヤを通して、新しい契約を約束されていることを学びました。シナイ山においては、主の命令に聞き従えば宝の民になるという契約内容でしたが、イスラエルはことごとく、主の命令に聞き従うことに失敗しました。もうイスラエルが何かを行なって、それで祝福が与えられるという条件付きのものではなく、神が一方的に、キリストにあって私たちの罪の問題を処理してくださいます。この契約が与えられたとき、神の律法は私たちの心の中に置かれて、私たちは神を自分たちの神と呼び、また神も私たちのことを、ご自分の民と呼ぶことができます。罪はもはや思い出されることがなく、私たちの不義は怒りの対象ではなく、あわれみの対象となります。

 こうした古い契約と新しい契約には大きな違いがあるのですが、礼拝の規定にも根本的な違いがあります。初めに、古い契約における礼拝の規定と地上の聖所についての説明があります。

 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。

 読者がヘブル人ですから、幕屋の中に何があるかよく知られていますから、ここで「今いちいち述べることができません」と言っているのでしょう。幕屋についての詳細は、出エジプト記25章以降に書かれています。図をお渡ししたので、それをご覧ください。「幕屋」と呼ばれているのは、これが幕によって出来ているものだからです。ほぞがあり、ほぞに板が差し込まれます。板は、捧によって一つの壁をつくり、四方の壁が出来たところで、上から幕をかけます。

 幕屋は東側から入ることができます。入ると、左手に燭台があります。ヘブル語ではミノラ−と呼ばれているものです。祭司は絶えず、その火がともされているように油の調整を行ないます。そして、右手にはパンを供える机があります。12のパンは、イスラエル12部族を表しています。週ごとに新しいパンに取りかえます。祭司はそれを食べて礼拝をささげます。そして、正面には金の香壇があります。香がたかれて、それは主への祈りとなります。この場所が聖所と呼ばれるところです。そして分厚い垂れ幕があります。垂れ幕をくぐると、そこは至聖所です。そこには、契約の箱があります。契約の箱の中には、マナのはいったつぼ、アロンの杖、そして十戒が刻まれている契約の板が二枚ありました。その上に、純金で出来た贖いの蓋があります。二人のケルビムがちょうど翼を交差させるような形で向き合っています。そこは燭台のような照明器具がないのにも関わらず光り輝いています。なぜなら、主がそこにおられるからです。

(注:幕屋の中身については、以下のサイトが参考になるでしょう。
http://www.harvesttime.tv/Israel/Tsunobue/Sum01TB2.htm (日本語)

http://www.domini.org/tabern/tabhome.htm (英語))

 他のどのような民族にも、このような形で主がご自分の栄光を現わしておられるような民族がありませんでした。主をこのように近しく礼拝できるような民はいませんでした。ユダヤ人は、このことを誇りに思って、礼拝をささげていたのです。しかし、今や、それよりもすぐれた礼拝が与えられているというのが、ヘブル書の主旨です。

2C 大祭司 6−10
 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。

 聖所と呼ばれているところは、祭司たちがいつもはいって、礼拝を行ないます。けれども、至聖所には大祭司が年に一度だけ入ります。この日は、贖罪日、あるいはヨム・キプールと呼ばれる日です。レビ記16章にて、この日に行なう大祭司の務めが書かれています。またレビ記23章にて、いつ贖罪日が守られるのかが記されています。だいたい9月か10月ごろに当たります。

 贖罪日は、大祭司が至聖所に入って、イスラエルの罪の贖いをする日です。大祭司はいつもの装束ではなく、白い亜麻布の装束に着替えます。そして、一頭の雄羊と、二頭の雄やぎを用意します。大祭司が至聖所に入るとき、彼は罪を持っていますから、主に近づくものなら必ず打たれてしまいます。まず自分の罪のためにいけにえをささげて、きよめられなければいけません。そして、その流された血を携え、また炭火で香をたいたものを持って、至聖所に入ります。香から出て来る雲が贖いの蓋をおおうようにして、大祭司が打たれ死なないようにします。そして、携えた血を贖いの蓋の前で上と下にふりかけます。

 それから大祭司は外に出てきて、今度は先ほどの二頭のやぎのうち、くじびきによって一頭はイスラエルのための罪のいけにえとし、もう一頭はアザゼル、あるいはスケープゴートとして生かします。大祭司は罪のためのいけにえをほふって、その血を携えて至聖所に入ります。・・・ここで、贖罪日における幕屋の中での奉仕は、すべて大祭司一人で行なっていることを思い出してください。他の祭司はこの礼拝に加わることはできません。・・・そして、イスラエルの罪の告白をします。それから血を再び贖いの蓋の前で振りかけて、至聖所から出てきます。そして、残りのアザゼルに手を置いて、罪の告白をした後、荒野に解き放ちます。このやぎが荒野に遠くさまよってから、見えなくなったのを確認して、大祭司は、イスラエルの罪が、東が西から離れているように、罪が引き離されたことを宣言します。こうした贖罪の働きを、大祭司が年に一度行なうのです。

 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。

 地上の幕屋と礼拝においては、祭司たちだけが聖所に入るしかできなく、また大祭司だけが、しかも年に一度だけしか至聖所に入ることができません。すべての人が、神に近づくことができるわけではないのです。

 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。

 礼拝というのは、神に近づき、神の前にぬかずくことであります。しかし、人は罪を持っていますから、聖なる神に近づくには、自分がきよめられなければいけません。そのために、ささげ物といけにえがささげられます。しかし、古い契約による礼拝の規定は、「その当時のための比喩」であると書かれています。本物を指し示す象徴ではあるけれども、実体ではない、ということです。ですから、本当の意味で罪がきよめられているのではないのです。神に近づき、礼拝する者には罪がまだ残っており、良心が完全にきよめられていないのです。

 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。

 地上の幕屋と、礼拝の規定は、本質的にはからだに関する規定でしかありませんでした。からだに影響があるかもしれないけれども、心の中における影響力まで有していませんでした。私たちは8章において、新約時代に生きているとされるクリスチャンでさえ、外側の行ないによって信仰生活を送ることがあることを学びました。モーセの律法が石の板に書かれていたように、聖書のことばを、外側で守り行なう戒めであるかのように受け止め、それを守り行なうことができないで葛藤します。しかし、私たちには聖霊が与えられています。ご聖霊によってキリストが私たちのうちにおられ、キリストがおられるので律法がすでに私たちのうちで完成しています。律法を守り行なうのとは全く異なる原理の中に私たちは導き入れられており、神の恵みと私たちの信仰によって、肉によってはできなくなっていることを、することができるようになっています。それは、新しい契約が、「心」を取り扱う契約だからです。しかし、古い契約では、外側を取り扱う契約であり、からだに関する規定でしかないのです。

2B まことの聖所 11−15
 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 地上における大祭司が、比喩である幕屋に入ったのに対して、キリストは、まことの聖所、完全な幕屋の中に入られました。つまり、天における神の御座の中に、そのまま入っていかれたのです。そして、祭司はやぎや子牛の血をたずさえて聖所の中に入りましたが、主はなんと、ご自分の血をたずさえて、まことの聖所の中に入られました。

 この出来事がいつ起こったのか、私はあまり分かりません。たぶん、主が復活されてから、天に昇られる間に、どこかで天に入られてご自分の血を携えていかれたのかもしれません。あるいは、天に昇られた後に、ご自分の血を携えられたのかもしれません。いつであるかは分かりませんが、主は実際に、文字通り、ご自分の血を父なる神に携えていかれ、いけにえをおささげになったのです。

 ともかくも、新しい契約における土台は、こうした神の御子ご自身の血という犠牲の上に成り立っています。私が子供たちに聖書を教えるとき、創世記から教えます。そこにはアダムが罪を犯したすぐ後から、動物が殺されて血を流す個所が出てきます。だから、動物が血を流して、祭壇の上で焼かれる絵を子供たちはたくさん見ているのですが、「動物が殺されてかわいそう」という思いがあることでしょう。しかし、聖なる神に対して罪を犯すということは、代わりに命が取られるという償いがあって初めて、なだめられるのです。その犠牲が大きければ大きいほど、その贖いは大きくなるのですが、動物のいのちではなく、御子ご自身のいのちが供えられました。

 そして、罪の贖いは、永遠にまで効力が及ぶものとなっています。罪の贖いをして、効力が失われて、再び贖いのわざを行なわなければいけない、というものではなく、永遠にまで罪の赦しが及ぶ、絶対的な贖いだったのです。

 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、

 この聖めの働きは、民数記19章に出てきます。アロンの祭司職に挑みかかったコラと、その仲間が、生きたまま地獄に投げ込まれました。それを見たイスラエルの民は、「主の民を殺した」と言って、モーセとアロンにつぶやきました。そこで主は、イスラエル人が打たれて死ぬようにさせ、アロンの火皿による贖いによって、ようやくさばきが収まりました。そして主は、アロンの杖にアーモンドの実を結ばせることによって彼が祭司であることを、証しされました。このときに、主は、赤い雌牛を用意しなさい、と命じられました。これを宿営の外で焼いて、その灰を水にいれて、それを死体にふれた人々をきよめるようにしなさい、と命じられました。イスラエル人が神に打たれてしんでいたので、きよめられる必要があったのです。

 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

 血が流されると、きよめの効果があります。私たちは普段、自分の行ないによって、自分が犯した罪のなだめを行なおうとします。良心の咎めがあって、これを何とかしようと思って、善行を積もうとします。私が妻に何か悪いことをして、ご機嫌を取り戻してもらおうとして、皿を洗ったり、いろいろなことをしようとします。けれども、それで自分が行なったことが、赦されるのではありません。これと同じように、私たちは良心の咎めがあるために、それを何とかして取り除こうと思って、人は他の人にたくさん話をするし、ある人は作り笑いをするし、ある人は趣味に没頭するし、ある人は仕事で気を紛らそうとするかもしれません。そして、これが、いわゆるキリスト教的な活動によって消化しようとまでしてしまうのです。私たちが奉仕をするのは、キリストの愛に駆り立てられてなのですが、キリストの愛ではなく、強迫観念的に祈り、聖書を読み、伝道をします。しかし、これらによって自分の失敗が償われるのでは決してありません。

 私たちの良心をきよめるのは、唯一、血が流されることであり、そしてキリストの血が流されることなのです。イエスさまが十字架につけられたときに流された、あの血潮を見上げるときに、私たちの良心に完全なきよめが訪れます。そして良心がきよめられたときに、私たちは初めて、本当の意味で死んだ行ないから離れて、生ける神に仕えることができるようになるのです。私たちが神に仕えることができないのは、自分の頑張りが足りないからではありません。むしろ、キリストの血潮によってきよめられたとする確信がうすいからです。キリストの血がすでに聖所で注がれました。どうか、すべてご自分が持たれている負い目すべてに、信仰によってキリストの血潮をあてがってくださいますように。

 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。

 イエス・キリストが血を流して死んでくださったことにより、新しい契約が成立しました。だから、イエスさまが新しい契約の仲介者です。そして、この死は新しい契約を成立させるだけでなく、古い契約において要求を満たすものともなっていました。律法に違反する者は死ななければいけないのですが、イエスさまはご自分の死によって律法をも満たしてくださったのです。

 ですから、もはや罪の咎めを受ける必要はありません。私たちに残されているのは、永遠の資産を受け継ぐ約束だけなのです。

2A キリストの現われ 16−28
1B 契約の成立 16−22
 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。

 15節に書かれている「契約」という言葉と、ここに書かれている「遺言」という言葉は、同じギリシヤ語が使われています。契約が成立するためには、死が必要であることを、遺言という側面から説明しています。遺言は、遺言者が死ななければその効力はありません。私の父親に仮に1億円の資産があっても、彼が生きている間は相続することはできません。遺言に書かれていることは、遺言者の死によって有効になります。したがって、イエスさまが死なれたことによって、新しい契約が有効となりました。

 したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。」と言いました。

 聖書は、血だらけの書物と言っても過言ではないでしょう。モーセが神から契約のことばを受け取ったとき、それをイスラエル人に話すときに、血を取って、それを契約の書、民全体に注ぎかけました。「これが、契約の血である。」と言いました。出エジプト記24章に書かれています。神との契約が結ばれるには、血だらけになるのです。

 また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

 祭壇や、契約の箱の上に贖いの蓋に、血が振りかけられ、注がれました。きよめを行なうには、水の洗いではなく、血によるのです。

2B ただ一度のいけにえ 23−28
 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。

 地上の幕屋が血によってきよめられたのは、聖なる神が罪ある人がご自分に近づくことができるようにするためでした。先に、良心のきよめの問題が語られていましたが、ここでは神の幕屋におけるきよめの問題が語られています。私たちには良心の咎めがあるために、神に近づくことができないという問題がありますが、神も、罪人を受け入れられないという聖さの問題があるのです。罪人をご自分のところに受け入れるには、それ相当のいけにえが必要であり、天におられる神は、動物のいけにえよりもすぐれたいけにえでなければ、人を受け入れることはできません。

 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。

 キリストは、ご自分の血を携えて行かれたので、天がきよめられ、私たちもキリストにあって神の御座に近づくことができるようになったのです。私たちのためにイエスさまは今、神の御前に現われてくださり、私たちのためにとりなしてくださっています。

 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

 大祭司は年に一度、いけにえの血を携えて聖所に入りました。これを毎年繰り返していました。けれどもイエスさまは、それを行なわれませんでした。イエスさまは、何度も十字架につけられることはありませんでした。ただ一度だけ、十字架につけられたのです。

 ここに、神さまのファイナル・アンサー、最終解決があります。「今の世の終わりに」とありますが、神は永遠のご計画を持っておられて、完全な贖いを成し遂げるために、イエス・キリストを死に渡すようにされていたのです。これですべてが完了して、これ以上他に繰り返すことも、付け足すこともない贖いを用意されていました。

 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

 ヘブル書の著者は今、「ただ一度」という言葉を人間にも当てはめています。私たちは、何度も死ぬことなく、一度だけ死にます。そして死後に神のさばきがあります。東洋人ならば、また他の人となって生まれ変わると思うかもしれませんが、しかし、人の心に、その良心の中に、神のさばきが死後にあることについての知識があります。一度死んで、死後にさばきがあるのです。

 同じように、キリストが死なれたのはただ一度です。そして、キリストが次に現われてくださるのは、罪を負うためではなく、私たちを救うため、つまり携挙にあずからせるためです。

 ここにクリスチャンとしての大事な姿勢が描かれています。それは、私たちは、今の世の終わりである、キリストのただ一度の死の出来事の中にいるかどうかです。自分が今生きていることを、あたかもこれから新しい人生があって、新しいことが起こって、何か面白いことがあるという、キリストにある終末観から離れたところの人生設計をしていないでしょうか?私たちが今、キリストが死なれたその終わりの時に生きており、自分が生きているのはキリストが戻って来てくださるのを待ち望んでいるからだ、となっているでしょうか?

 私たちがしなければいけないことは、たった一つしかないのです。それは、キリストが完成してくださった十字架のみわざを信じることです。そして、完成したキリストのみわざにとどまりながら、キリストが天から現われるのを待ち望むことなのです。もちろん、この世に与えられた務めはいろいろあります。しかし、それは「キリストが死なれたのは、昨日のことにように思う。」と言ったルターのように、キリストの愛に駆り立てられて行なっていることです。私たちはいつも、主が間もなく来られることを思いつつ生きていきます。


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