ヤコブの手紙1章 「試練に遭うとき」


アウトライン

あいさつ 1
1A 試練を喜ぶ 2−11
   1B 忍耐が生じる 2−4
   2B 知恵を求める 5−8
   3B 富に頼らない 9−11
2A 誘惑にだまされない 12−18
   1B 自分の欲から出る誘惑 12−16
   2B すべての良い贈り物 17−18
3A みことばにしがみつく 19−27
   1B 怒りを捨て去る 19−21
   2B みことばを実行する 22−27

本文

 ヤコブの手紙1章を開いてください。私たちは今日から、ヤコブの手紙を学びます。1章のテーマは、「試練に遭うとき」です。さっそく1節を読んでみましょう。

あいさつ 1
 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。

 この手紙を書いたのは、「ヤコブ」ですが、新約聖書には、何人かのヤコブが出てきます。イエスさまの12弟子の一人に、ヤコブがいました。彼は、ゼベダイの子で、もう一人の弟子であるヨハネの兄弟です。彼は、この手紙の著者ではありません。なぜなら、彼は、教会が誕生してから初期の段階で、王ヘロデによって殺されているからです(使徒12:2)。このヤコブは、イエスさまの半兄弟のヤコブです。彼は初め、イエスさまを信じていませんでした。イエスさまの半兄弟はみな、イエスさまを信じていませんでした(ヨハネ7:5)。けれども、イエスさまが復活されて、ヤコブに直接、現われてくださったようです。パウロは、コリント人への手紙に、「その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。(1コリント15:7)」と書いています。ヤコブはこの時から信者になり、またキリストの弟子となりました。

 ヨハネの兄弟ヤコブが殺されてから、イエスさまの半兄弟であるヤコブが、教会指導者の一人として認められていたようです。彼は使徒行伝15章に出てくる、異邦人と律法との関係について、最終的な決議を出した人物であり、パウロがペテロと並んで、ヤコブを教会の柱として重んじられている人であるとガラテヤ書で言っています(2:9)。そして、この手紙は新約聖書の書物の中で、かなり初期の段階で書かれたそうです。

 このヤコブが、自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべ」と言っています。「しもべ」のギリシヤ語はデューロスであり、奴隷、しかも最下位の奴隷を指しています。イエスさまの半兄弟なのですから、「イエス・キリストの兄弟」と言っても差し支えないのですが、ヤコブは、自分がだれなのかを、よくわきまえていました。自分の環境が、自分の霊的位置とは何ら関係がなく、ただ、主のしもべという認識のみがあったのです。

 そして、「国外に散っている12部族へあいさつを送ります。」と言っていますが、ヤコブは、エルサレムやユダヤ以外の、世界中に散らばっているユダヤ人信者にこの手紙を書いています。面白いのは、ヤコブが生きていた時代に、イスラエルの12部族が存在していたという事実です。キリスト教会の中ではやっている、「失われたイスラエル10部族」という説があります。それは、アッシリヤ帝国が北イスラエルを滅ぼしたときに、捕え移されたイスラエル10部族は、歴史の中で消えて行ってしまった、というものです。そして、日本人がその失われた部族であるかもしれないとか、アングロ・サクソン人種は、失われた10部族であるとか、果てしのない迷宮入りの議論をしている人たちがいます。しかし、北イスラエルにいた10部族でアッシリヤに捕え移されたのは、一部であり、多くの者、とくにヤハウェなる神を信じていた人々は、南ユダに移り住んでいました。彼らは、南ユダのイスラエル人とともに、後でバビロンに捕え移され、またユダ族とともに、バビロンからエルサレムに帰還しています。そして、ヤコブが生きていた時には、だれがどの部族であるか、その区別が付いていたことが、このヤコブ1章1節から分かります。

1A 試練を喜ぶ 2−11
1B 忍耐が生じる 2−4
 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

 ヤコブはこの手紙を、試練に耐えることについての勧めから始めています。試練、すなわち信仰の試練に会うときは、この上もない喜びと思いなさい、と勧めています。私たちには、本当に神がいるのか、生きているかと疑わせるような出来事を体験します。ある人が交通事故にあったり、家に泥棒に入られたりと、その被害に会った人が直接的に罪を犯しているのではないのに、人間的には悲劇と思われることが、その人の身にふりかかります。そのようなとき、「なぜ、主よ、あなたは神を愛する人に、このようなひどいことをするのですか。」と思うのではなく、喜びなさい、と勧めているのです。

 
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

 神さまのご性質には、「忍耐」があります。ペテロは、「(主は)、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:9)」と言いました。ですから、新しく生まれて、神のご性質にあずかるようになったクリスチャンも、「忍耐」がその生活の特徴となります。

 では、「忍耐」が私たちのうちに培われるのは、どのような時でしょうか。すべてが順風満帆に動くときに、忍耐は培われるでしょうか?いいえ、逆境があるときにこそ、忍耐がその人のうちに生まれます。だから、神は、クリスチャンたちに、試練を送ります。クリスチャンが試練を通ることによって、神さまの語性質である忍耐が造り上げられるのを望んでおられます。パウロも、ヤコブと同じように、試練について喜ぶことを、次のように話しました。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:3−5)

 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

 「完全」という言葉が繰り返し出てきますね。これは、「十分」と言い換えられます。忍耐を十分に働かせたら、成長して、十分に成熟した人となります、ということです。試練が与えられることによって、クリスチャンは忍耐が与えられ、その忍耐を十分に働かせれば、自分のうちにキリストのご性質が十分に身につくことになる、ということです。

 私たちが試練を受けるとき、いつも、分岐点に立ちます。その分岐点とは、一方の道が、「なぜ、主よ、このようなことを起こすのですか。」と自分の思いを優先させて、人や神に対する不信、そして苦みを抱くところの道です。もう一方の道は、試練を、忍耐を働かせる機会とすることです。一方では、苦みと苦しみと、また罪に陥る道を歩むのに対し、もう一方では、クリスチャンとして、さらに信仰が練り清められ、成長する道となります。

2B 知恵を求める 5−8
 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

 知恵を主に求めることについて、箴言3章に有名な聖書の言葉があります。6節からです。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。(6−8節)」自分の悟りや理解に頼って生きてゆく生き方は、その人を疲れさせますが、自分の理解ではなく、主に拠り頼み、主を恐れて悪から離れる生活は、その人を元気にさせます。これは、先ほどの、試練のとらえ方にも関連します。試練に会うとき、私たちは、「なぜ、こんなことになるのか。」という自分の理解に頼ることをしません。そうではなく、力を尽くして主に拠り頼みます。主が道をまっすぐにしてくださり、主がすべてのことを益に計らってくださいます。このように、自分に知恵があると思わず、神に知恵を求めるのが、私たちクリスチャンが元気で、喜びのある生活を送る秘訣です。

 そして、「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神」とあります。私たちに、このような神概念が身についているでしょうか。神は自分から取っていくのを願っているように思っていないでしょうか?しかし、神はだれにでも惜しげなく、とがめることなく与えてくださる方です。ローマ8章32節にも、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」とあります。

 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

 ここは、箴言のことばの、心を尽くして主に拠り頼むことを勧めているに他なりません。「少しも疑わずに」というのは、一度祈ったら、何もしないで、棚ボタ式に願いがかなえられるのを待つのではなく、自分が行動している中で一心に主を求め、主が道をまっすぐにしてくださると確信しながら、求めていきます。「知恵」というのは、もともと、行動している中で与えられるものです。何をしなければいけないか、次のステップを、主は瞬時瞬時に与えてくださいます。

  そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

 二心、すなわち、ある時は、神の世界の中で生きているけれども、他の時は自分の世界の中で生きる人のことです。ある部分では、祈りを積んでいますが、他の部分では、まったく祈っておらず、自分の判断や理解で動いている人のことです。このような二心は、まったき心をもって主に拠り頼むことをしていないので、その道すべてに安定さを欠いています。道がまっすぐにされません。

3B 富に頼らない 9−11
 貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。

 貧しいことも、一つの試練でしょう。けれども、これは喜ばしいことであり、ヤコブは、「高い身分」であると言っています。おそらく、イエスさまのみことば、「低い者は高くされる」ということばを意識しているのでしょう。

 富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。

 貧しい人が、低いところから高くされるのに対して、富む人は、高いところから低くされます。イエスさまは、「天に宝を積みなさい」と言われました。地上で宝を積んでも、盗人がやってきたり、虫やさびが付いてしまいます。

2A 誘惑にだまされない 12−18
1B 自分の欲から出る誘惑 12−16
 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 試練に耐えて、最後まで信仰を貫いた人には、「いのちの冠」が約束されています。パウロは、自分の死期が近づいているとき、義の冠が用意されていることを話しました。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(2テモテ4:8)

 このように、試練は神から与えられたものですが、これとよく混同されるのが、「誘惑」であります。ヤコブは、誘惑は神からではなく、人のうちから出たものであることを話しています。だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

 自分が誘惑に負けて、あとで、「これは悪魔が行なったのだ」とか、「神がなぜ、このようなことをなさるのか」と言い訳する人たちがいます。けれども、誘惑は神から出たものではありません。悪魔かそれを引き起こしており、神はその悪魔のしわざを、お許しになっていますが、悪を誘惑させるようなことは、神はなさりません。

 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

 誘惑は人の欲から出てきます。悪を行なうようにする誘いかけは、自分の欲に訴えてきます。イエスさまは罪を持ってはおられませんでしたが、悪魔から誘惑を受けられました。イエスさまは神の御子です。その全能の力を、自分のために用いることを悪魔は誘い込みました。石をパンに変えることがそれです。けれども、イエスさまはその誘惑を否みました。同じように、悪魔は、私たちの内にある欲に訴えます。

  誘惑そのものは罪ではありません。けれども、誘惑に屈するときに、それは罪となります。さらに、罪をもてあそんで、それを自分のうちに抱き続けていると、それはいつか「死」をもたらします。罪から来る報酬は死です。また、自分が蒔いたものを、私たちは必ず刈り取ります。

 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

 そうですね、罪を犯している人は、もっとも自分の状態がわからずに、だまされています。自分がしていることに対して、盲目になってしまっています。サムソンを思い出してください。デリラは、あそこまであからさまに、彼女がペリシテ人にサムソンを売り渡そうとしているのをサムソンに示していたのに、サムソンはそれでも彼女といっしょにいて、ついに、自分の髪の毛の秘密を明かしてしまいました。あれほど主の御霊によって強くされた男も、罪によって盲目にされてしまったのです。だから、だまされないようにしなければいけません。

2B すべての良い贈り物 17−18
 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。

 誘惑は人々を悪に引き込みますが、それは神から出たものではありません。神から出たものはすべて良いものであり、上からの贈り物です。そして、「父には移り変わりや、移り行く影はありません。」とありますが、これは神は変わらない方、不変の方である、ということです。

 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

 天からの賜物として、父なる神は私たちに、新しいいのちを与えてくださいました。「真理のことば」すなわち、キリストについてのみことばを聞いた私たちが、それを信じて、御霊によって新しく生まれたのです。そして、「被造物の初穂」とありますが、新しく生まれたものは、神が意図されている、贖われた存在です。被造物全体は、アダムが罪を犯した時依頼、滅びの束縛の中にあり、うめいています。けれども、主が地上に戻って来られるときに、天地は神の支配下に入り、贖われます。被造物の贖いの中で、私たちは初めに贖われた者として、生きています。これが、「被造物の初穂」ということです。

3A みことばにしがみつく 19−27
1B 怒りを捨て去る 19−21
 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

 今ヤコブは、真理のことばによって新しく生まれたことを話しましたが、みことばに対する私たちの態度についてここで語り始めています。その時の姿勢は、「聞く」ことであります。私たちは、自分の意見、自分の信念、自分の生き方など、「語る」ものをたくさん持っています。しかし、自分のものを語るのにはおそくなり、神が語られることに早くなりなさい、というのがここでの勧めです。もちろん、人の話も聞くのに早くなければいけません。

 そして、そのように、語るべきことをたくさん持っている自分は、何か自分の信じていることに合わないことを言われたりすると、怒りが込みあがってきます。なぜ怒るかと言うと、それは「自分」のものがたくさんあるからです。けれども、先ほどから読んできたように、主に拠り頼み、主から知恵をいただき、自分の悟りに頼らないようにすれば、怒る必要のない怒りに爆発させることはないのです。

 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

 人の怒りに対して、神の怒りがあります。神は正しい方ですから、その義にしたがって、怒られます。そのような怒りを共有するとき、私たちも怒ることは良いことです。けれども、私たちから出てくる怒りは、神の義を達成することはありません。

 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

 先ほどの誘惑も、すべて内側にある汚れや悪から生まれ出てくるものです。けれども、私たちには、心に植え付けられたみことばがあります。これを、すなおに受け取って、汚れと悪を捨て去るとき、私たちの魂に安らぎが与えられます。

2B みことばを実行する 22−27
 そこで次に、みことばに対する姿勢として、「みことばを実行する」ことの勧めがあります。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

 ヤコブ書は、しばしばローマ書と対比されます。それは、ローマ書は、「行ないによらず、信仰によって」ということが強調されているのに対して、ヤコブ書は、「信仰だけでなく、行ない」ということに強調点が置かれているからです。表面的に読めば、それは矛盾しているように聞こえますが、その矛盾は、二つの手紙の特徴の違いを知ることで解決します。ヤコブ書は、行ないによる救いを教えているのではなく、救われるための信仰は、行ないが伴うということを話しています。ただ万全と聞いているだけ、そして同意しているだけで、そこに行ないがなければ、それは本当の信仰ではない。生きた信仰は、必ず生きた証しがあるのだ、ということです。

 そこで、ここでヤコブが、ただ聞くだけの者になってはいけない、と言っているのは、聞いていて、頭の知識だけにとどめていたり、ただの理解だけにとどめている者であってはいけない、ということです。実行するのを前提として聞いていくのが、本物の信仰を生み出す力です。

 みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

 その場で聞いているけれども、家に戻ったら、すっかり忘れている。あるいは、忘れていないかもしれないけれども、真剣に、自分の生活にどう当てはまるのかを瞑想したり、祈ったりしていない。そのような人は、鏡で自分の顔を見るけれども、鏡から離れると、自分の顔がどうであったかを忘れるような人であります。

 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

 みことばを一心に見つめて離れない、つまり、具体的に生活の中でどのようにみことばが当てはまるかをよく考え、またみことばを実際に体験してみるように実行することです。このような人は、自由が与えられます。「自由の律法」とありますが、罪を犯す自由ではなく、罪から自由にされて、神に仕えることができる自由です。

 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

 具体的に良い行ないをしている。また、自分をきよくしている。クリスチャン生活の特徴ですね。これらがないのに、宗教に熱心なふりをしているのは、むなしいと言っています。次回、ここに具体的に現われている、貧しい人について、具体的な勧めを聞きます。


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