ヤコブの手紙3章 「口の失敗」

アウトライン

1A 教師に対するさばき 1
2A 舌の制御 2−12
   1B からだ全体への影響 2−8
   2B 賛美とのろい 9−12
3A 上からの知恵 13−18

本文

 ヤコブの手紙3章を開いてください。ここでのテーマは、「口の失敗」です。私たちは、この手紙を学んで、ヤコブがとても実際的なことを取り扱っていることに気づいています。教会堂の中に入ってきた人の中で、貧しい人と金持ちの人がいたら、案内人のあなたは、金持ちを良い席に導いて、貧乏人を自分の足もとにすわらせているが、あなたは悪い心で、人を差別しているのです、と言いました。また、食べる物がない兄弟に、「食べられるようになれれば良いですね。」と言っても、何も与えないなら、そのあなたの信仰は死んでいるのです、とヤコブは言いました。きわめて実際的です。

 これから読む3章も同じように実際的なことであり、「ことばにおける失敗」について語っています。

1A 教師に対するさばき 1
 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

 ヤコブは初めに、教師が多くいてはいけないという勧めです。聖書では、神のことばを教える働きとその賜物があることを教えています。「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧者また教師として、お立てになったのです。」とエペソ書4章11節に書いてあります。ローマ書12章には、「奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。(7節)」とあります。神のことばを教えることは、神の教会を整えるときの最も大事な働きの一つであり、これがなくて教会も、一人一人の信仰も成り立たないという必要不可欠なものです。

 けれども、その大事な働きのゆえに、そのような大事な立場に自分を置きたいと思う人たちがたくさん現われます。当時、ユダヤ人信者の中に、ラビのような教師の務めにつきたい人々が、とくに新しい信者の中から出てきたのではないでしょうか。今日でも、牧者や聖書教師が教えるだけでなく、だれでも平等だと言うことで、教えたい人が教えているようなことがしばしば起こります。皮肉なことに、牧師あるいは牧者の働きや、教師の働きを否定するような群れやグループほど、その傾向が強いです。「私は示されました」と言っていろいろなことを仲間に分かち合うのですが、その人はあたかも「教師」であるかのようです。みなが教師になりがたっています。

 本当に教師になるような人は、逆に自分が教師になることを恐れます。自分が教えたいからではなく、主に教えるようにゆだねられているという確信があります。7月と8月に、ミュリエッタのカルバリーチャペル・バイブルカレッジに通っている現役の学生が、私たちロゴス・ミニストリーのところにも、子どもたちのほうの伝道で手伝ってくださいました。彼は、ある教会で午後の礼拝でメッセージをするように頼まれたのですが、かなり躊躇したようです。そこで引用した聖書個所が、ここヤコブ3章1節でした。教師には大きな責任がともっていることを彼は知っているのでしょう。

 ヤコブは私たちに、「教師は、格別にきびしいさばきを受ける」と伝えています。その理由は、自分が誤ったことを教えているならば、自分自身だけにとどまらず、聞いている人々をもさまよわせてしまうからです。イエスさまが、律法学者たちを「忌まわしいものだ」と言われたことがありましたが、その理由をこう言われています。「改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。(マタイ23:15)」つまり、偽りの教えを聞いてそれを信じた人が、教えている人よりも熱心にその偽りの中に生きていく、ということです。

 そして教えている人に限らず、神のみことばの知識を知っていれば、それだけ神に対する責任が増えます。イエスさまは、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:48)」といわれました。私たちはこのようにして聖書を学んでいますが、学んでいることによって、神から与えられたその知識に責任を持っています。知っているのに応答せず行なわないのは、知らないで行なわないよりも、ずっと悪いです。

2A 舌の制御 2−12
1B からだ全体への影響 2−8
 私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。

 今ヤコブは、教師が格別にきびしい神のさばきを受けることを述べましたが、その理由の一つが、「ことば」が持つ力です。人はことばで失敗することが多く、その失敗によって甚大な被害をもたらすことがあるのです。

 ことばを注意して用いて、適切なことをいつも語っていることは、とても難しいことです。もしことばを制御することができたら、自分のからだ全体も制御することができる、とヤコブは言っています。箴言13章3節に、「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」とあります。たった一言のことばが、私たちのいのちを決めます。生活も大きく変わるし、一生涯を変えることさえあります。そして永遠の運命も、ただ一つのことばで決めてしまいます。

 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。

 とてもわかりやすいたとえを、ヤコブは話しています。ヤコブは、イエスさまのたとえ話のように、だれでも理解できる話しから、一つの真理を語ります。一つは馬のくつわです。馬の口にかかっているくつわを制御すれば、あのからだ全体をすべて制御することができます。もう一つは船です。かじは非常に小さいものですが、小さなかじによって、あの巨体が大きな風に押し流されることなく、舵取りの言いなりになっています。

 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。

 舌という小さな器官が良く用いられるとき、そのことばは、人に希望と慰めを与え、恵みを与え、力となります。ある時は、世界の流れさえ変えてしまう時があります。けれども、舌が悪いように用いられれば、この影響力も甚大なものとなります。それは、ちょうどマッチの火によって、広大な森全体を燃やし尽くすことができるほどのものなのです。

 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。

 ことばによる害はあまりにも大きいため、自分を汚すだけでなく、他の人々にも悪影響を及ぼし、ある人の評判を落とし、その人の人生をだいなしにさえします。したがって、その悪いことばを話した人は、そのことばによって、神にさばかれます。イエスさまは、「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。(マタイ12:36)」と言われました。

 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。

 そうですね、サーカスを観に行くと、このことが良く分かります。あの巨大な象が、サーカスの人によって上手に飼いならされています。猛獣であるライオンも、飼いならされています。私が実家に戻ったときに、間もなく3歳になる甥っ子といっしょに水族館に入りましたが、アシカショーがありました。アシカがまるで小学校の授業を受けているように、いろいろなことをしましたが、あのように、人間は動物を制御することができます。

 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

 私たちは獰猛な動物を制御することができるのに、なんとこの小さな舌は制御することができません。じっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

 次は教会の中で起こった話です。牧師について、あるうわさが流れました。そのうわさがあまりにも広がり、浸透していったので、その牧師はその教会から離れなければならないほどになりました。けれども、牧師がその教会を離れるときに、うわさを流した張本人が彼のところに来て、あやまりました。「私は何と言うことをしたのでしょうか。どうやって謝ればよいのでしょうか。あなたのうわさを消すために、するべきことを何でもします。」と彼女は言いました。牧師は言いました。「それでは、羽毛の枕を持って教会の屋上に持っていきましょう。そしてその枕を引き裂いて、風に吹かれるままに羽毛を吹き飛ばせることにしましょう。それでは、再び枕にするために、羽毛をかき集めなければいけません。町中に飛んでいった羽毛を、あなたはかき集められますか。」舌から出たことばは、私たちには考えられないほどひろまり、毒となって広がっていきます。

2B 賛美とのろい 9−12
 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

 ヤコブは8節までに語っていたことが、教会の中で起こっていることの不一致を、ここで話しています。教会の礼拝において、私たちは神を賛美します。人間の舌が最大限に良いものに使われるものとして、神への賛美ほど適切なものはないでしょう。けれども、私たちは日常生活の中で、自分に気に食わない人をののしり、悪口を言います。これほど矛盾したことはない、ということです。ここでヤコブは、人を「神にかたどって造られた」と言っていますが、人をののしることは、神をののしっているのと同じことだ、ということです。

 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。

 一方で神を賛美して、他方で人をのろうのは、同じ泉から甘い水と苦い水が出てくるようなもので、決してあってはならないことです。完全に矛盾しています。

 私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。

 一つの口からは、賛美と感謝の実がなるべきであり、そこからのろいの実が結ばれてはいけません。

3A 上からの知恵 13−18
 そこでヤコブは次から、これら口から出てくることばの源になっている、「心」について取り扱います。あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。

 私たちが何かを話すときは、自分が知っていると思っていて話しています。何かの意見を言ったり、主張したりするときに、そのことについての知識があるからそのように言います。けれども、そうした意見の主張や、議論や論争の中で、人々が犯す過ちがあります。それは、自分が知っていると自負しているため、その態度が誤っていることがあることです。高慢になり、敵対的になり、相手の意見を尊重する余地がなくなります。

 そこでヤコブはまず、「その知恵を、柔和な良い行ないによって、示しなさい。」と言っています。クリスチャンの間でよくなされることは、自分が何か真理について新しいことを発見したりすると、ほかの人たちに話して、その人を説得させようとすることです。自分が今まで知らなかった新しい体験をしたと思ったら、なおさらのこと人々にそれを話して、その人たちも自分と同じような体験をするように説き伏せようとします。けれども、そのような人に対して、ヤコブは基本的に、「まず、その新しい知識が、いったいどのようなものかを、あなたの生活の中で示してください。あなたがその真理の中に生きているのを見て、私たちもその真理について、考えてみることにしましょう。」ということを話しています。

 例えば、もし自分に異言が与えられたら、それを人に話すまえに、自分で使って神さまとの交わりを豊かで深いものにしましょう。そこから出てくる、クリスチャンとしての喜びと平安、そして愛が他の一歩とに見えるようにしましょう。

 また、私は、イエスさまがすぐにでも戻って来られること、再臨が近いことを強く信じていますが、それを信じることができたのは、聖書に書かれていることだけではなく、再臨の希望を持って生きている兄弟たちが、私の周りにたくさんいたからです。彼らは、イエスさまが戻って来られることを、拍手をしながら、喜びをもって聞いています。そして、生活の中では、日々を主に感謝して、いつでもその日が地上での最後の日であるかもしれなくても、この世に何の未練もないという、この世に対する執着がなくなっていました。苦しいときにも、すぐに慰めが来ることを信じており、喜びに満ちていました。こうした柔和な良い生き方があるから、神の知恵が本当にその通りであることを知ることができます。

 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。

 私たちが議論をしたり、何かを話しているときに、大事なのは、その話している内容や知識よりも、その態度です。もし苦いねたみと敵対心があるなら、その語っている内容は知恵ではなく、神の真理に逆らっていることになります。「これこそが正しいことだ」と言い張っているときに、私たちは要注意です。

 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。

 知恵には、上から来たものは、この地上のものに分けられます。上から来たものというのは、もちろん天からのものであり、神からのものです。神さまからの贈り物として与えられる、良いものです。その反面、苦みや敵対心が心の中にあるときに、その知恵は地上から出ているものであり、生まれつきの古い性質から出ているものです。区別をするのに、「これは天からの贈り物か、それとも生来、自分が持っていたものか。」と点検してみると良いでしょう。自分の心が平安で占めているなら、それは自分ではなく、上から来たものだと認識することができます。逆に、自分がそのまま出ていると感じるなら、それは肉に属することです。

 そしてヤコブは、「悪霊に属するもの」と言っています。敵対心や苦みは悪霊に利用されます。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。

 いろいろことばが錯綜して、教会の中を駆け巡っているとき、それによって全体の秩序が乱れたとき、それは、「ねたみや敵対心」が存在しているからです。また邪悪な行ないがあります。秩序や平和があるか、そうでないかは、そこに何の心があるかを知るためのものさしです。

 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

 私たちが何かを話すときに、どこから始まっているかを吟味してみましょう。第一に「純真」な動機から話しているでしょうか。自分の良心から出ていることを話しているとき、それは純真です。そして「平和」があります。純真な心から出ても、自分が知っているかぎり、すべての人との平和を求めるようなかたちでの平和な状態が保たれていることを気をつけることが必要です。これは、人に迎合することではありません。むしろ、へりくだって、物事を語っている姿です。そして、「寛容、温順」とあります。寛容は言いかえれば、がまんすることです。細かいことでいきり立つのではなく、我慢します。そして温順は、柔和とも言いかえることができますが、自分の主張をごり押しで通すのではなく、曲げられても良いという姿勢です。

 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

 「義の実」つまり、正しさの実は、自分が正しいと思っていることをなんとしてでも通すことによってもたらされるのではなく、平和のうちにまかれて、平和をつくる人によってもたらされます。

 私たちが、「平和」で支配されているか、柔和さで支配されているか?また、ことばは、人を切り裂くようなものではなく、塩味のきいた恵み深いものになっているか。私はまだまだ、とげがあると痛感しています。主によってもっともっと、砕かれなければいけない身です。お祈りしましょう。


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