ヤコブの手紙4章 「へりくだる者」


アウトライン

1A 戦いに対して 1−10
   1B 満たされない貪り 1−5
   2B 神の豊かな恵み 6−10
2A むなしい誇りに対して 11−17
   1B 兄弟へのさばき 11−12
   2B 自分の計画 13−17

本文

 ヤコブの手紙4章を開いてください。ここでのテーマは、「へりくだる者」です。

1A 戦いに対して 1−10
1B 満たされない貪り 1−5
 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。

 前回の学びを思い出してください。ヤコブの手紙3章の最後の部分において、ヤコブは、ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあることを指摘しました。そして、上からの知恵は純真であり、平和であり、寛容、温順であり、あわれみと良い実に満ちている、と言いました。秩序の乱れに対して、平和があり、神の義は平和の種を蒔く人によってもたらされることを話しました。

 それに対比して、なぜ争いや戦いがあるのか、ヤコブは尋ねています。争いや戦いがあるその原因は、戦いたいという欲望があるからだと言っています。個人レベルにおいて、私たちは人と敵対関係になります。悪口を言ったり、二度と口を聞かなくなったり、物理的にも危害を加えるかもしれません。また世の中には人種的な争いもありますし、国家間の戦争もあります。戦争が起こり、また敵対的な関係が出来てしまうのは、そこに争う欲望があるからです。

 そして次に、どのようにしてこの争う欲望が出てくるのかをヤコブは話しています。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。

 欲しがったり、うらやんだりするのが、争うことの根になっているようです。私たちは争うときに、いろいろな大義名分を掲げます。そして、自分たちの正当性を語ります。けれども、根っこには、争っている相手が持っているものがあって、自分にはそれがないために、それをうらやんでいるという動機があるのです。相手が置かれている地位をうらやんでいるかもしれません。相手が持っている力をうらやんでいるかもしれません。相手が持っている才能、相手が持っている財産など、自分が欲しがっていて、けれどもそれを得ることができないので、それで争うのです。

 戦争の話しが出てきたので、少し戦争のことを考えてみたいと思います。先月の8月、私は妻といっしょに長崎に行く機会がありましたが、長崎はキリシタンの歴史を長く持っているところです。長崎に被爆した人々の中に、大ぜいクリスチャンの人々がいました。その有名な人に、永井隆医学博士がいましたが、彼は、平和を望むものは針一本さえも持ってはいけないと言った徹底的な平和主義者でありましたが、と同時に、「原爆は、神の摂理、神の恵み。神に感謝。」という発言をしています。けれども、大抵、日本の中で平和運動と称される運動では、アメリカが行なったことはいかに酷いことか、また今も武力行使をしているアメリカはなんとひどいかという、怨念というか憎しみのようなものが前面に出てきます。これは、言い換えますと、日本がアメリカのような武力を持っていない、アメリカが持っているような戦争に勝利したことの栄光を持っていないところから出ているのです。相手のものをほしがっていることの裏返しでしかありません。けれども、神の前でへりくだり、厳粛にこの出来事を受けとめるならば、そこには恨みや怒りは出てこないし、ヤコブが言ったように、平和の種を蒔く人になるのです。

 あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。

 何かをほしいを思い、うらやむのは、その根底に自分が願って、自分で願っているものを手に入れようとするところにあります。そこには、「神」が存在しません。けれども、神は惜しみなく与えてくださる方です。ですから何かを願うときは、それを神に願うことが必要です。神に祈って、神に願い、神に拠り頼むのが本筋ですが、それを行なわないために、願っているものが手に入りません。私たちが、争いの心や、戦いの心を持っているときに、一度、心の中を点検してみれば良いかもしれませんね。そこには、「祈り」がないことに気づくでしょう。神に願っていないことに気づくでしょう。

 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

 これは、争っている人が、「神に祈れば、それでいいのでしょう。」と言って、自分で人のものを取ろうとする欲望を捨てていないことを意味しています。「願いましたよ。でも、受け取っていないではないですか!」と怒り心頭しているのは、本当の意味で願っていなのです。願うときには、満足している心があります。主がともにおられることに満足しています。それでも、主に祈り、願いを申し上げて、それが与えられるのを待ち望みます。そこには焦燥感はありません。焦燥感があるところに、願いはありません。

 そこで、私たちが祈りの中でさえ自分を欺いている、その悪い動機を、ヤコブははっきりと、「世への愛」として断罪しています。

 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

 貞操のない」というのは、姦淫を犯している者、とも訳すことができます。ずいぶん過激な言い方です。その理由は、神から離れて、世に不倫をしている、ということです。自分が争ったり、戦ったりしているのは、欲しいものが手に入らないからであり、祈りなしに自分で得ようとしているからですが、その欲情は、この世を愛する愛なのです。ヨハネは、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(1ヨハネ2:16)」と言いました。イエスさまは、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。(マタイ6:24)」と言われましたが、この世を愛しているなら、そのときに神を敵としていることになります。自分が神の国にいるか、それとも悪魔の国にいるかのどちらかしかないのです。どちらにも属することはできません。

 それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。

 このような聖句を聖書の中から見つけることはできないのですが、「神はねたみの神である」ということばは見つけることができます。神の御霊がねたむ方であり、私たちのうちで世を愛しているなら、それは内に住まれる神に対して姦淫の罪を犯していることになる、ということです。

2B 神の豊かな恵み 6−10
 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。

 ここです、私たちが戦う欲望から解放されるみことばは、「神が豊かな恵みを与えてくださる」という確信です。神が、ご自分が望まれるままに、私たちに惜しみなく恵みを与えてくださいます。この信仰があれば、私たちは、自分がなくて、他の人にあるものをうらやむことなく、ただ神に願い、神から与えられることを待ち望みます。神にあって満足しているその霊は、争いたいという気持ちを起こさせません。先ほど、長崎で被爆しているクリスチャンが、それを神の恵みと受け取って、感謝することができているを話しましたが、神がおられるということで満足しているからです。このような平和の種、平和の実が、クリスチャンから結ばれるのです。

 ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 私たちが神の恵みを受け取るためには、へりくだることが必要です。争いごとが起こるのは、自分に高ぶりがあるからです。ある牧師のところに、妻がきちんと自分に食事をつくってくれないとか、妻の欠点を話している男に対して、こう言ったそうです。「あなたと5分間いっしょにいてくれる女の人がいるだけでも、幸せだと思いなさい。」これは真実だなあと思います。「あれがない」「これがない」と思って、そして妻に対して不満を言っている夫は、自分がどうしようもない者であり、ただ神の恵みによって妻が与えられていることを忘れているからです。

 パウロは、サタンから送られたとげを、取り除けてくださるように、三度主に願ったと言いました。けれども、とげが取り除かれるのではなく、「主の恵みは十分にある」という回答を得ました。自分にあるものの中に主の恵みを認めて、そしてその弱いと思われる領域をも、誇りにしていくときに、私たちは、主の前でへりくだっていくことができます。

 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

 世の友になるのではなく、神の友になります。神に従います。へりくだります。そして、世の神である悪魔に立ち向かいます。これがクリスチャンが行なうべき日課です。自分がへりくだって、神のもとに置き、それから、悪魔の誘惑に抵抗します。ヘブル書には、「血を流すまで抵抗したことがありません(12:4)」とありますが、私たちが罪に陥ってしまうのは、実に抵抗していないことが多いです。「そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」という約束どおり、私たちはキリストにあってすでに勝利者ですから、抵抗すれば悪魔は逃げ去るのです。問題は抵抗していないことです。

 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

 「神に近づきなさい」というのは、神との交わりを持ちなさい、ということです。へりくだって、神の恵みを受ける立場に自分を置きなさい、ということです。そうすれば、神との親しい交わりを持つことができます。神が近づいてくださいます。

 罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

 私たちが神との交わりを持てなくしているその理由は、一つに「罪」があります。「手を洗いきよめなさい」とありますが、実際に、手を使ってやってはいけないことをしているかもしれません。行動の中で、まだ罪を犯しているかもしれません。それを捨て去ります。そして、心の中で神か、この世か、定まっていない二心がもう一つの理由です。神との親しい交わりを持つことができませんから、それを清くしなければいけません。

 あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

 私たちが自分の手を洗い、また心を清めるときに、与えられるのは、悲しみです。自分自身の心の貧しさを悲しみます。福音書に出てくる罪人で、悲しんでいる人を思い出してください。例えば、神殿のところに来た、パリサイ人と取税人の対比をしたたとえを思い出してください。罪人は、顔を上にも上げずに、胸をたたいて、「私は罪人です。あわれんでください」とだけ祈りました(ルカ18:13)。自分の至らなさ、自分の罪、自分の汚れを悲しんで、熱心に悔い改めることが必要です。

 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

 人間的には、自分の至らなさを悲しみ、涙することは格好の悪いことでしょう。ダビデのように、自分の前につねに罪があることを認めることは、本当に卑しい行為です。けれども、主はそのような人をあわれんでくださいます。へりくだった人を高く上げてくださいます。

2A むなしい誇りに対して 11−17
 高ぶりについての話題は続きます。

1B 兄弟へのさばき 11−12
 兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。

 ヤコブは、ねたみや敵対心についての話題を続けて話しています。互いに悪口を言っているときの私たちの姿は、ヤコブによると、律法の悪口を言い、律法をさばいているということです。これは、イエスさまが、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と言われているその戒めでしょう。私たちは、律法の下に自分を置いて、自分自身をさばくべき者ですが、その立場から離れて、一定のものさしで人をさばく立場に自分を置きます。

 律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。

 兄弟の悪口を言うことは、あたかも正当であるように聞こえます。確かにその兄弟に非があるからでしょう。けれども、そのような非に対して、だれがさばくのでしょうか?神がおさばきになります。神が行なわれることを、私たちは平気で行なっているのです。これは越権行為であり、実にずうずいしいことです。

2B 自分の計画 13−17
 神のさばきにゆだねず、自分自身でさばくという、「自分」を前面に出す行為は、計画を立てるときにも現われます。

 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。

 日本語では出てきませんが、ここでの主語は「私」です。私が、時を定め、場所を定め、期間を定め、そしてもうけることを定めます。いろいろ計画して、それをもしかしたら実行できるかもしれません。けれども、ヤコブは反論します。

 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。

 自分が計画したことが神さまのみこころでなければ、それはことごとく失敗します。永続せず、なくなってしまいます。一生が過ぎて、晩年に、自分のことを振り返って、「私は何をしてきたのだろう」と後悔して、むなしくなるような人生では、いったい何になるのですか、というのが、ここに書かれているところの問いです。

 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

 「主のみこころなら」という言葉は、本当に大事ですね。すべてのことに主を認める、と言い換えても良いかもしれませんが、私たちが振り返ったときに、主の軌跡を見ることができれば、それは実に楽しいことです。主がこのようにして自分を導いてくださった、とはっきりと言えるでしょうか?そのためには、「主のみこころなら、私たちは生きていて」という姿勢が、朝ごとになければいけません。この息さえ、主によって支えられているのだという実感は、私たちを主の臨在で満たし、この世に対する執着をなくしてくれます。

 ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。

 私はこれこれをして…という誇りは、すぐなくなってしまうかもしれないものですから、むなしいものです。そして、自分で計画を立てて神を考慮しないこと、また兄弟の悪口を言うこともすべて、「高ぶり」という問題に集約されます。さばきを主に任せないで、自分で行なおうとすること。計画を主にゆだねないで、自分で行なおうとすること。主が行なわれることを、自分で果たそうとすること。これが高ぶりです。

 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

 私たちは、「これはやならければいけない」と思いながら、それを行なっていないことが多いです。そしてそれは「罪」であると、ヤコブははっきり言っています。迷っている心、それそのものが罪なのです。ですからヤコブは、悔い改めなさい、実行しなさい、行動しなさいと勧めています。


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