ヨハネの福音書15章 「実を結ぶ」


アウトライン

1A 私たちの責任 「とどまる」 1−15
   1B イエスにとどまる 1−8
      1C ぶどうの木 1−3
      2C 枝 4−8
   2B 愛にとどまる 9−15
      1C 戒め 9−12
      2C 友 13−15
2A イエスの主権 「選ぶ」 16−27
   1B 世の憎しみ 16−21
      1C 愛の実 16−17
      2C イエスへの憎しみ 18−21
   2B 世への証し 22−27
      1C 理由なき憎しみ 22−25
      2C 聖霊の助け 26−27 

本文

 ヨハネの福音書15章を開いてください。ここでのテーマは「実を結ぶ」です。イエスは、ご自分が世を去られるまえに、新しい戒めを与えられました。それは、「互いに愛し合いなさい。」というものです。これは新しい戒めなので、イエスはいろいろな説明を与えてくださっています。14章では、この戒めを守るための、「もうひとりの助け主」について説明されました。私たちが愛することができるように、その力を御霊が与えてくださいます。そして、15章に入ります。15章では、「実が結ばれる」ことについて説明されています。これは、互いの間にある愛の実です。

1A 私たちの責任 「とどまる」 1−15
1B イエスにとどまる 1−8
1C ぶどうの木 1−3
 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

 イエスと弟子たちは、過越の食事の席を立って、今、ゲッセマネの園のほうへと向かっておられます。そのときに、ぶどう園があったのかもしれません。イエスは、このぶどう園をたとえにして、弟子たちを教え始められます。イエスは、ご自分のことを「まことのぶどうの木である。」とおっしゃられました。まことの、ということは、偽物もあるということです。イスラエルは、聖書において、ぶどう園にたとえられています。イザヤ書5章、エレミヤ書2章21節、ホセア書10章1節、そして新約聖書ではマタイ21章に出てきます。いずれの個所も、イスラエルは良いぶどうを多く実らせるために選ばれたのに、まったく別のものが生えてしまったということを話しています。それは、彼らが偽物のぶどうの木につながっていたからです。イエスが地上におられたころは、パリサイ人やサドカイ人などがぶどうの木として受け入れられていました。しかし、そこから出て来るのは酸っぱいぶどうであり、神が忌み嫌われるものだったのです。そこで、イエスは、「わたしこそが、ほんとうのぶどうの木である。」と話しておられるのです。イスラエルはイエスにつながることによって、実を結ぶことができるはずでした。

 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

 
ここでイエスは、私たちの救いについて語っておられます。救いの目的は、私たちが実を結ぶことです。もし実を結ばないのであれば、父なる神がそれを取り除き、実を結ぶのであれば、さらに多く実を結ばせるために神は働きかけてくださいます。ここで、「それなら、クリスチャンのなのに実が結ばれなかったら、その人は救われないのか。」と尋ねる人がいます。けれども、「クリスチャン」という定義を考えてください。クリスチャンとは、キリストにつながったものです。キリストとの個人的な関係を持っている人です。もしキリストと関係を持っているのであれば、必ず実が結ばれます。たとえ少しであっても、必ず結ばれます。もしそれが一つもないとしたら、その人はクリスチャンということはできません。ですから、取り除かれるのです。


 けれども、少しでも実が結ばれていれば、その人はれっきとしたクリスチャンです。その人に対して、神は、さらに多くの実を結ばせる働きをしてくださいます。新改訳では、「刈り取る」と訳されていますが、口語訳・新共同訳はともに、「手入れをなさる」と訳されています。とくに、口語訳では、「手入れしてこれをきれいになさる」と訳されています。神は、私たちをきれいにする働きをしてくださるのです。どのようにしてきれいにしてくださるかは、次に述べられています。

 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

 
イエスは、みことばによって私たちをきれいにしてくださいます。ただ、ここではイエスが、「もうきよいのです。」と言われていますので、最初に信じて救いを受け入れたときの話をされているのでしょう。イエスのみことばを信仰をもって聞き入れるときに、私たちのすべての罪はきよめられます。イエスは、弟子たちの足を洗っておられるとき、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。(ヨハネ13:10)」と言われました。けれども、もっと多くの実が結ばれるために、私たちはみことばを聞き続ける必要があります。みことばの中にいるときに罪から離れることができ、罪の中にいるときに、みことばから離れています。ダビデは、「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(詩篇119:11)」と言いました。

2C 枝 4−8
 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 
実が結ばれるためにしなければならないのは、とどまることです。ぶどうの枝がぶどうの木にとどまるように、私たちがイエスにとどまらなければなりません。とどまることによってのみ、私たちは、互いに愛し合うという戒めを守ることができます。この点について、多くの人は二つの間違いを犯しています。一つは、自分でイエスの戒めを守ろうとすることです。神に喜ばれるために、自分でこの実を結ばせようとします。けれども、イエスは、「枝だけでは実を結ぶことはできません。」とおっしゃられています。ぶどうの木の枝は、非常に細いことを皆さんご存知でしょうが、直径1センチもあるぐらいのものではないでしょうか。ですから、他の木の枝とは違って、ぶどうの木の枝は、切り取られたら何のいのちもなく、用途と言ったら、火で燃やすための燃料ぐらいなものです。ですから、イエスにとどまらないかぎり、父なる神を喜ばせることは決してできないのです。ヘブル書11章には、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。(
11:6」と書かれています。ガラテヤ書5章には、「肉の行ない」と「御霊の実」が対比されています。行ないは、私たちの肉で造り上げていくものですが、実は、キリストにつながることによって自然と生じてくるものです。神は、キリストを信じる信仰によってもたらされる実を喜ばれるのであり、私たちが自分の行ないで作り上げたものは忌み嫌われます。ですから、イエスにとどまることが私たちの責任であり、実を作り出すことではありません。

 けれども、もう一つの間違いは、何もしないことが「とどまる」ことだと思うことです。「とどまる」という言葉を、「じっとしている」というように受け取ってしまいます。そのため、自分はイエスを信じているのだから、何をしなくても自然と実が結ばれるのだ、と受けとめてしまうのです。けれども、この「とどまる」というギリシヤ語は、ヨハネの福音書にある他の個所で、「滞在する」と訳されています。滞在したり、泊まったりするときに、私たちは何もしない、ということではありません。だれかの家に泊まるときは、主に語り合いをします。親睦を深めるわけですね。そして、食事をします。つまり、いっしょに時を過ごすのです。したがって、「イエスのうちにとどまる」というのは、じっとしていることではなく、「イエスと時を過ごす」と言い換えたら良いでしょう。そうすれば、私たちはイエスからみことばを聞き、イエスに話しかけて祈り、ともに聖餐にあずかることをします。これらによって、私たちが影響を受け、変えられて、愛の戒めを守るようになるのです。

 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 
これは英語ですと、
All or Nothingの世界です。イエスにとどまっていれば、多くの実が結ばれますが、イエスから離れたら、どんなことでも何一つできないのです。パウロは言いました。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)」と言いました。キリストによって、何でもできます。けれども、私たち自身の行ないを、神は、全く、何一つお認めになりません。カインを思い出してください。一生懸命汗水流して取った、畑の作物のささげものは、神に受け入れられませんでした。また、イシュマエルを思い出してください。アブラハムが神の約束を達成しようとして、ハガルから生んだ子ですが、神はイサクをささげるときに、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。(創世22:2)」と言われました。神はイシュマエルを、アブラハムの子どもとしてさえ数えておられないのです。したがって、イエスから離れて行なったことは、ことごとく失敗します。しかし、イエスにとどまって行なわれたことは、ことごとく全て成功します。

 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

 この聖書箇所について、二つの意見が存在しています。一つは、キリストを信じても、キリストにとどまっていなければ救いを失うと言う意見です。もう一つは、もともとキリストを信じていなかったので、もともと救われていなかったのだ、という意見です。けれども、彼らの間に一致している真理は、その人は地獄に行くことであります。その人が悔い改めて、神に立ち返ることがなければ、枝のように投げ捨てられ、火に投げ込まれ、燃えてしまいます。パウロもまた、コリント書第一、ガラテヤ書、エペソ書において、肉の行ないをしている者は決して神の国に入れないと断言しています。このところで、多くの日本人のクリスチャンは間違っています。キリストを口で告白した者は救われます、と言うみことばを引き合いに出して、その後にキリストから離れた人生を送っていても、救われていると考えます。それは、おそらく日本文化の中にある、大乗仏教の思想の影響を受けているからでしょう。お経を唱えれば、極楽に行けるという考えです。けれども、人は、「イエスは主」と唱える事によって救われません。イエスを信じなければいけないのです。


 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

 再びイエスは、ものすごく広い約束を与えてくださっていますね。けれども、これは、イエスが、「互いに愛し合いなさい。」という戒めを教えておられるところで話されている事に注意してください。これは、互いに愛し合うための祈りです。また、「あなたがたがわたしにとどまり」という条件、「わたしの弟子となる」という内容、さらに、「わたしの父は栄光をお受けになる」という目的を鑑みると、次のようになると思います。私たちは、互いに愛し合う戒めを与えられました。けれども、それを自分で行なうことはできません。自分の行ないでは、神よりも自分を愛し、他人よりも自分を愛うるようになります。ですから、これは、イエスにとどまるときに生じてくる愛によってのみ守ることができます。そのときには、私たちの願いは神の願いになっています。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
(詩篇37:4」神は、ご自分の願いを私たちの心に置いてくださるのです。そのときに、私たちが何でもほしいものを願いば、神の願いに対し心を開くことになるので、神がそれを実現してくださり、神が栄光をお取りになるのです。自分の願いがかなえられるということではありません。弟子となる条件の一つに、「自分を捨てる」というものがあるからです。けれども、私たちの心が変えられ、神の願いを願うようになります。

2B 愛にとどまる 9−15
1C 戒め 9−12
 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

 イエスは、ご自分にとどまるとは、ご自分の愛の中にとどまることであると特定しておられます。イエスにとどまるということは、イエスを信じるということですが、パウロは、信仰よりも愛が優れていることを話しています。「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。(Tコリント13:13)」と言いました。信仰とは、あくまでも愛によって働くものであり、愛をなくして信仰を語っても無意味です。むやみやたらに神を信じて、キリストを信じるのではなく、神を人格的に、個人的に知って、そこから生じる信仰が本物の信仰であります。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。ここに愛の定義が書かれています。愛とは、相手の戒めを守ることです。イエスは父の戒めを守り、私たちはイエスの戒めを守ります。こう言うと、戒律を守るように聞こえてしまいますが、「相手の意思を尊重する」という言い方なら、お分かりいただけるでしょうか。愛とは単に感情的なものではなく、意思的なものです。自分の意思よりも、相手の意思を優先させることが愛であります。イエスが、「わたしの願いではなく、あなたのみこころのとおりにしてください。」というのは、イエスの父への愛でした。このことを、イエスは弟子たちに分かってもらいたかったのです。


 戒めを守るというと、重々しく聞こえます。けれどもヨハネは、手紙の中で、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(Tヨハネ5:3)」と言っているし、イエスも正反対のことをおっしゃっております。次を見てください。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。戒めの中に生きることは、喜びであり、喜びが満たされることなのです。イエスは、父のみこころを行なうことを喜びとしておられました。ダビデが、キリストのことを預言して、こう言っています。「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。(詩篇40:8」ですから、私たちもイエスの命令を守るときに、喜びに満たされます。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。ふたたびイエスは、互いに愛し合うことがご自分の命令であると言われています。イエスを信じ、神を知り、神の中に生きることと、兄弟を愛することは決して切り離すことができません。ヨハネは手紙の中で、「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。 (ヨハネ第一4:7」と言いました。私たちは、神を知るために、外に出て、夜の星空を見ることができるかもしれません。そのすばらしい創造を見て、神のすばらしさを知ることができるかもしれません。けれども、私たちは、神を本当に知るには、たった独りでいることはできないのです。神は、互いに愛し合うところにご自分を現わしてくださり、生きてくださるのです。

2C 友 13−15
 イエスはさらに、ご自分の愛を別の言い方で表現されています。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

 イエスは、これから弟子たちのためにご自分のいのちをお捨てになりますが、それが愛であるとおっしゃっています。愛とは犠牲的なものです。愛は、相手のためにいのちを捨てます。自分のものを犠牲にして、相手にささげます。

 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。


 イエスが、弟子たちをご自分の友と呼んでおられるのは、いのちをお捨てになることのほかに、ご自分のことを知らせるからです。そうですね、自分のことを明かせるのは、その人が友だからです。主はアブラハムにも、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(創世18:17)」と言われて、彼をご自分の友と呼ばれました。なぜ、神の友になることができたのでしょうか。イエスは、「わたしが命じることをあなたがたが行なうから」と言われています。私たちは、自分に対する神のみこころを知りたいと願っていますが、とかく、もう知らされているみこころを行なっていません。すでにもう知っている神のみこころを行なわないで、まだ知らされていないみこころを求めるのはおかしいですね。けれども、私たちが自分の知っているみこころを行なうとき、神はご自分のことをもっと明かしてくださいます。そして、その明らかにされたみこころにさらに従うと、神はもっとさらに、ご自分のなさることを示されるのです。こうやって、私たちは神の友となることができ、神はためらうことなく、私たちにご自分のことを知らせてくださいます。


2A イエスの主権 「選ぶ」 16−27
 こうしてイエスは、実を結ぶことに関して、「とどまる」必要があることを教えられました。実が結ばれるためには、私たちがイエスにとどまり、イエスの愛にとどまる責任があります。けれども、次は、イエスの主権によって、私たちのうちに実が結ばれることが述べられています。

1B 世の憎しみ 16−21
1C 愛の実 16−17
 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

 ここでは、主語が大切です。「あなたがたが」ではなくて、「わたしが」選んだとイエスは言われます。イエスが主権をもって私たちを選んでくださったので、私たちは実を結ばせることができるのです。私たちではなくて、イエスの行ないに基づいているのです。この箇所もまた、救いついての論争の的になっているのですが、そのことをイエスは強調されたいのではありません。イエスが強調されたいことは、私たちが出て行って実を結ぶことであり、すべてのことがイエスの御名によって与えられることです。実が結ばれるという目的のための神の選びであり、実が結ばれていない人が神に選ばれているか、そうでないかの議論の対象とはならないのです。


 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

 イエスは、また、この戒めを繰り返されました。このことがイエスの中心的な話題です。


2C イエスへの憎しみ 18−21
 イエスは今、「行って実を結ぶ」と言われましたが、それは世に出て行くことです。世においては、愛とは裏腹に、憎しみがあります。次をご覧ください。

 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。


 世は弟子たちを憎みます。それは、彼らが憎いのではなくて、イエスが憎たらしいからです。

 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

 イエスが憎まれているのに彼らが憎まれるのは、彼らがイエスに選び出されたからです。イエスに選ばれることによって、互いに愛し合う実を結ばせるだけではなく、世から憎まれます。私たちは世に住んでいますが、世のものではなくなったのです。


 しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。

 
主人が受けていることは、しもべもそのまま受けます。だから、だれかがイエスを迫害しようとするなら、そのしもべである弟子たちも迫害します。また、イエスを受け入れたいと思うなら、弟子たちも受け入れるのです。

 それは、しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。

 
つまり、神を知らないから迫害するのだ、ということです。キリストを心に受け入れていない人は、たとえどんなにキリスト教に賛成しているかのような態度を示しても、必ず私たちに対して憎しみを持ちます。けれども、イエスが先ほどから強調されていることは、「あなたが憎たらしくて、人々はあなたを憎むのではない。わたしが憎いから、あなたを憎むのだ。」と言うことです。私たちが自分がクリスチャンであることを話し、それで嫌がられるのであれば、それを個人的に取る必要はありません。むしろ、自分がキリストにつながっているしるしですから、喜ぶべきです。使徒たちは、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行(使徒
5:41」きました。

2B 世への証し 22−27
1C 理由なき憎しみ 22−25
 そしてイエスは、その憎しみについて、弁解の余地はないことを語られます。もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。

 聖書全体に貫かれている真理は、人間は、知っていることのみに責任が問われることです。イエスは、こう言われました。「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ
12:47-48」この点について、聖書は仏教の思想と異なります。仏教では悟ることが目的になっていますが、キリスト教では受け入れることが目的になっています。悟りを与えるのは、私たちではなく神の役目です。神はご自分を啓示してくださいます。そして、私たちの責任は、啓示されたもの受け取ることです。ですから、私たちは、自分が聖書についてあまりよく分かっていない、とか、神のことがよく分からないということで、不安がる必要がありません。自分が知っているところにとどまっていれば良いのです。同時に、知っていることを行なっていないのであれば、恐れる必要があります。知っているのに行なわないところに、神は罰を与えられるからです。

 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。

 イエスは、ふたたびご自分と父なる神とを一つにしておられます。イエスを憎むなら神を憎み、イエスを見ているなら、神を見ていると言われています。

 これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。

 
理由なしに憎んだ、イエスに対する憎しみの本質です。イエスのこととか、キリスト教のことが嫌いな人に、なぜ嫌いなのかを尋ねたら、決して合理的な答えは返ってこないでしょう。イエスについての証しは、実に理路整然としており、理屈にかなったものです。ですから、イエスを受け入れず、イエスを憎むためには、非合理的になりざるを得ないのです。


2C 聖霊の助け 26−27
 こうした状況の中で、世に出て行くことはとても辛いことです。しかし、イエスは、ここにおいても聖霊の助けがあることを教えておられます。

 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。


 御霊が、弟子たちに働いてくださり、御霊がイエスのことをあかししてくださいます。ですから安心です。

 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。

 これは、私たちではなく、12使徒のことを指しています。地上におられたイエスと、そして、復活されたイエスを見た人々が、キリストをあかしして、福音書や手紙を書きました。もちろん聖霊が彼らを動かして、新約聖書を書かせたのですが、彼ら自身もイエス・キリストを目撃した証人として、聖霊とはまた別の証しを持っています。


 こうして、イエスは弟子たちを励まされました。この世のイエスへの憎しみは、十字架において極みに達します。この憎しみを見なければいけない弟子たちは、自分たちでは決して耐えることができないでしょう。けれども、イエスは彼らを励まし、互いに愛し合い、喜びに満たされるように命じられました。イエスは、私たちも励ましてくださいます。イエスにとどまり、イエスの愛にとどまるとき、私たちのうちから実が結ばれます。そして互いに愛し合って、この世の憎しみにも耐えることができるようにされます。祈れば、神が何でも聞いてくださいます。どうか、私たちから、多くの実が結ばれますように。


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