ヨハネの福音書16章 「悲しむとき」


アウトライン

1A 患難 1−6
2A 励まし 7−33
  1B 真理の御霊 7−16
  2B 産みの苦しみ 17−22
  3B 父の愛 23−28
  4B 勝利 29−33

本文

 ヨハネの福音書16章をお開きください。ここでの題は「悲しむとき」です。14章においては、「心が騒ぐとき」という題で、弟子たちの心が騒いでいるときに、イエスがどのようなみことばを与えてくださっているかを、学びました。ここでは、弟子たちが、心が騒がせるのを通り越して、心が悲しみでいっぱいになっているのを見ることができます。今度は、この悲しみに対するイエスの励ましのことばを聞いてみましょう。

1A 患難 1−6
 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。

 
これらのこととは、世が弟子たちを憎み、彼らを迫害することについてです。イエスは続けて、この迫害について話を続けられます。

 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。


 これは事実、起こりましたね。ユダヤ人たちは、クリスチャンを迫害することによって、神に奉仕していると思っていました。パウロがその典型的な人物です。「多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、賛成の票を投じました。(使徒26:10)」と彼自身が言っています。知識に基づかないで熱心になることは、非常に危険です。パウロは、「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。(ローマ10:2)」と言っていますが、宗教ほど恐ろしいものはありません。私たちクリスチャンも、つねにこのことに気をつける必要があるでしょう。自分の肉の力で教会の活動に参加し、神に奉仕していると思って、実は神の働きを妨げるということは十分起こり選るからです。


 彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。

 私たちは、宗教活動に熱心な人、よく祈る人、伝道する人を見て、「やっぱり、彼らは神を知っているのかなあ。」と思いたくなります。けれども、熱心であることは、イコール神とキリストを人格的に知っていることではありません。

 しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。

 その時とは、実際に迫害されるときです。今は悲しませることばですが、後になって励ましのことばとして思い出されます。

 わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。


 イエスは、直面する迫害のことを、今にいたるまで弟子たちに明かしませんでした。それは、彼らがそれを聞くに耐えられずに、押しつぶされてしまうからです。神は私たちを愛して、聞く力に応じてご自分を啓示してくださいます。イエスは、「聞く耳のあるものは、聞きなさい。」と言われました。ですから、聖書について、キリストについてすべてを知らないからといって、がっくりする必要はありません。神は、必要だと思われた時に、私たちに理解を与えてくださいます。


 しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。

 ここは少し、難しい箇所です。なぜなら、ペテロが前に、「主よ。どこにおいでになるのですか。(13:36)」と聞いているからです。おそらく、彼らは主に直接、聞くことをもう止めてしまったからでしょう。イエスに直接、「あなたは、どこに行くのですか。」と聞くことができなくなっている、ということが考えられます。事実、17節では、弟子たちが質問を持っているのに、イエスに言わずに互いに言い合っているからです。それは、心が悲しみでいっぱいになっているからです。イエスが自分たちを置いて去って行ってしまう、そしてその後には、迫害があるのか、ということを思っていたかもしれません。また、あまりにも混乱してしまい、何も分からなくて、心が沈み込んでしまっているという可能性もあります。こうして悲しみが彼らの心を満たしてしまいました。私たちにも、悲しみはよく訪れますよね。状況について見定めがつかなくなり、悲しくなる。不幸なことが起こって悲しくなる、いろいろなことがあると思いますが、この悲しみについて、イエスは励ましのことばを与えてくださいます。


2A 励まし 7−33
1B真理の御霊 7−16
 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 聖霊が彼らに遣わされるとき、イエスが彼らとともにいてくださり、彼らのうちにいてくださいます。イエスがからだをもって地上におられるうちは、人として制限が加えられていますね。一つのところにしかいることはできないし、時間を超えることはできません。しかし、今、イエスは東京の私たちとともにいてくださり、かつ、アメリカにいる兄弟姉妹たちとともにいてくださるのです。したがって、イエスは、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。」と言われました。ですから、私たちにとっての最初の励ましは、御霊がおられるということです。


 そして、次に助け主の、とても大切な働きをイエスが語られます。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

 
世に誤りを認めさせる働きです。間違っていることを理解させるための働きです。

 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

 
一つ目は、罪について誤りを認めさせてくださいます。けれども、理由が少し変ですね。罪と言えば、私たちは、嘘、盗み、姦淫やまた心の中の悪いことを思い起こしますが、イエスは、「わたしを信じないからです。」と言われました。イエスは、人の犯すすべての罪のために、十字架の上で死なれます。すべての罪を負ってくださいます。ですから、私たちは罪をすべて赦していただき、きよめられることができます。けれども、イエスを信じないで、イエスを受け入れなければどうなるでしょうか。それは、神が私たちに与えてくださった唯一の贖罪の方法を拒否してしまうことになります。イエスがここでお話しになっているのは、その罪のことです。イエスは他の箇所で、こう言われました。「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。(マタイ12:31)」ですから、聖霊は、イエスの十字架のみわざが、私たちを救ってくださることを教えてくれるのです。


 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

 これまた面白い理由です。イエスが昇天されることが義であると、おっしゃられています。私たちが天の御国のことを考えるとき思い出していただきたいのは、そこは完全に正しい者しか入れないということです。神と完全に調和した者がそこにいることができますので、少しの欠陥でもあれば、そこから追い出されます。しかし、イエスは昇天されました。これは、「イエスのように正しくなければ、天の御国には入れない。」ということを示しています。したがって、私たちは、みな天国に行けない、不可能だということに気づくはずです。ところが、神は、信仰による義を提供して下さいました。この正しい方であるイエスが、私たちの代わりに罰を受けてくださることによって、私たちが正しい者と認められるような義です。この義によって、神はキリストにあって私たちを見てくださり、天に迎え入れてくださるのです。ですから、ここでも、十字架のことを御霊は教えてくださるのです。

 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

 
このさばきは、終わりの時にある白いさばきの大きな御座のことではありません。なぜなら、「この世を支配する者が」と書かれているからです。これは、悪魔が十字架のみわざにおいて、完全な敗北を帰したことを示しています。十字架のみわざによって、神と人を引き離す悪魔の仕業を完全に断ち切られたのです。ヘブル書にこう書かれています。「主は、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼされました。(2:14参照)」ですから、さばきについても、十字架のみわざのことを示しているのです。つまり、罪について、義について、さばきについてとは、みな十字架のみわざであり、御霊がしてくださる働きは、この十字架のみわざの意味を人々に悟らせることなのです。


 ですから、私たちが悲しむとき、この御霊の働きが必要です。十字架のかげにとどまるとき、大きな励ましを受けます。けれども、それは自分ですることはできません。御霊の助けが必要なのです。

 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。

 イエスが、直接的に十字架の話しをされないのは、今、耐える力がないからだと言われています。似たようなことを、パウロがコリント人に言いましたね。「私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。(コリント第一3:2)

 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。


 真理の御霊が来れば、彼らは真理に導き入れられるのです。私たちも同じです。御霊が書いてくださった聖書は、御霊の働きによって説き明かされます。また、私たち自身についてのこと、周りの状況についても、御霊の働きによって知ることができます。ですから、御霊が私たちのうちで働いてくださるように、という祈りはとても大切です。「すべての真理に導き入れます。」とありますが、これはむろん、教会にとって必要なすべてのことであります。私たちには今、新約聖書があります。使徒たちが、このことについてみな聖霊からの導きをいただきました。また、「やがて起ころうとしていることを示す」とありますが、書簡には復活のこと、携挙のことの啓示を受け、また、とくに黙示録には、イエスの再臨について啓示されました。


 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

 これもとっても大切ですね。御霊が働いてくださるところでは、イエスの栄光が現れます。このことは、聖霊のことを強調する集会にも、また聖霊のことを語るのをさける集会においても、共通に欠けるところです。聖霊のことを強調する集会では、イエスの栄光よりも聖霊の栄光のことが前面に出てきます。また、聖霊のことを語るのを避ける集会においては、人のすばらしさ、善行、あるいは神学的な知識など、人の栄光が前面に出てきます。ある姉妹と話して、面白いことを言っていました。あるキリスト教の団体で指導的な働きをしている人で、とても古いアパートで、非常に質素な生活をしているそうです。また、自分にはとても厳しく、人には優しい方だそうです。そういう姿を見て、「ああ、なんてすばらしい人なんだ。」とは思うけれども、「イエスさまは、すばらしい。」という風にはならない、と言っていました。良い点を突いています。これが日本の教会が陥っているわなです。その人の人柄が良いとか、品行方正な生活をしているとかで、クリスチャンとしての良し悪しを決める雰囲気があります。でも、それは肉なのです。御霊が働くときは、その人ではなくて、イエスがなんとすばらしい方なのか、イエスがなんと自分を愛してくださっているのか、イエスはなんと聖い方なのか、そうした驚きに満たされるのです。それが真の御霊の働きです。


 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。イエスが昇天されてから、御霊が彼らに降ってくださいます。しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。

 
イエスは十字架のみわざから、復活のみわざへと話を移しておられます。

2B 産みの苦しみ 17−22
 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。

 弟子たちは、もはやイエスに尋ねなくなっています。イエスが何度も説明されているのに、まだ分かっていないので、照れくさいのだろうと思われます。

 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。


 イエスは、彼らのひそひそ話が聞こえたのか、あるいは、すべてのことを知っておられるので、その能力をも用いられたかのどちらかでしょう。


 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

 弟子たちは、十字架の出来事によって嘆き悲しみます。そのとき、世は喜びます。祭司長は、十字架にかけられているイエスを見て、「神の子から、十字架からおりてみろ!」と叫びました。けれども、この十字架のあとで、イエスが復活されます。弟子たちの悲しみは、喜びに変わりました。ここで、悲しみが取って代わって、喜びになったのではなく、悲しみがそのまま喜びになったことに注意してください。英語ですと、
Intoになっています。つまり、悲しみを突き抜けて、喜びになったのです。ここが大事です。悲しみがない喜びは世が与えるものであり、いつか過ぎ去ってしまいますが、悲しみから変化した喜びは過ぎ去っていきません。イエスが言われましたね、「いま泣いているものは幸いです。あなたがたは笑うようになりますから。…いま笑っているあなたがtらは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。(ルカ6:21、25)

 このことを、イエスは女性の陣痛にたとえられます。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。

 
実は、このたとえは、旧約聖書によく用いられています。終わりの大患難のことを、産みの苦しみにたとえています(イザヤ13:8など)。彼らは、今までにかつてない患難と迫害を受けますが、それによって彼らはメシヤを求めるようになり、最後は、天から来られるイエスをメシヤとして受け入れます。ですから、悲しみが喜びに変わるのであり、産みの苦しみなのです。この同じ考えが、十字架と復活においても言えるわけです。弟子たちは十字架によって、砕かれ、絶望し、恐れ震えましたが、復活において、その苦しみを忘れてしまいました。

 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。


 そうです、復活に出会ったことの喜びは、だれも奪い去ることはできません。私たちも、復活のキリストに出会い、その生ける望みはだれも奪い去ることはできません。なぜなら、その喜びは、状況にはなくて主にあるからです。これはとても大切ですね。自分の状況に対して喜べば、その喜びは過ぎ去ってしまいます。なぜなら、状況は変わるからです。けれども、主を喜び、主にあって喜べば、決して過ぎ去ることはできません。主はいつまでも変わらないからです。
ですから、私たちが悲しむとき、主にあって悲しめばそれは必ず喜びに変わります。悲しんだその分、主は報いてくださいます。

3B 父の愛 23−28
 そして、イエスは、さらなる喜びを与えてくださいます。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。

 弟子たちは、イエスとともに湖の岸辺で食事をしたとき、イエスに、「あなたはどなたですか。」と尋ねるものはありませんでした(ヨハネ21:12参照)。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

 
イエスは励ましておられます。求めなさい。求めなさい。そうすれば喜びが満ち満ちます。喜びが満ちるだけでなく、満ち満ちます。ダブルに満ちるんですね。どうか、これが私たちの喜びとなるように祈りましょう。イエスの御名によって祈って、それがかなえられる経験をしましょう。


 これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。

 イエスは、十字架という言葉も復活という言葉も使わずに、先ほどから説明しておられます。他の福音書では、イエスがエルサレムへの旅を始められてから、数回、はっきりと告げられた箇所があります。けれども、そのとき弟子たちはまったく理解することができず、逆に悲しくなってしまいました。そこで、イエスは、たとえに戻して彼らに語っておられるのです。はっきり告げる時が来ます。

 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。

 
これは、ものすごい約束ですね。イエスが私たちの代わりに願ってくれるのではなく、父ご自身が私たちの祈りを聞いてくださいます。また、父ご自身が私たちを愛してくださいます。弟子たちは、今、目の前でイエスを見ているのですが、物理的に目で見ているよりも、ずっと親密な、深い関係を、後に持つことができるのです。そして、これが、私たちにも与えられている関係です。私たちは、神に願いを聞いていただくのに、牧師のところに来る必要はありません。もちろん、イエスの母マリヤのところに来る必要はありません。神は、恵みによって、私たちの祈りを、そのまま聞いてくださり、私たち自身を愛してくださっているのです。


 わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。

 イエスは、もう一度、ご自分がどこから来たか、そしてどこに行くかを話しておられます。こうして、イエスは、さらに深い交わりを約束してくださいました。私たちが悲しむとき、主にあって悲しむとき、それはもっと深い、神との交わりへ導き入れられます。このことを知っておくのは大事です。私たちは日ごとに、もっと深く神を知ることができます。1年前よりも、今のほうが深く個人的に知っています。1ヶ月前よりも、今のほうが知っています。1週間前よりも、そして昨日よりも、深い交わりが約束されているのです。そして、私たちが悲しんでいるとき、それは、もっともっと深い、親密な交わりへと変わっていくのです。


4B勝利 29−33
 弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」

 弟子たちは、イエスの言われていることをすっかり勘違いしています。イエスが、「わたしは父から出て、父のみもとに行きます。」と言われたことが、たとえではなく、はっきり語られたものとして受け止めています。いや、むしろ、彼らは分かっているふりをしたかったのでしょう。イエスが何回も何回も、説明してくださっているにまだそれが分からないから、今ここで分かったと言っておきたかったのです。私たちにも、そのような時がありますよね。分かりたいのだけれども、分からない。そうしたもどかしさが、弟子たちにはあったのです。

 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」

 イエスは、彼らが散って行くとおっしゃっています。これは、ゼカリヤ書13章7節の預言の成就です。「
牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。」と書いてあります。このことを聞いて、弟子たちの心にふたたび震えたでしょう。そこですかさず、イエスがこう言われます。

 
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

 ものすごい励ましのことばです。まず、「わたしにあって平安を持つ」と言われています。イエスにあって、私たちは真の平安を持つことができます。喜びと同じように、状況を見るときに私たちは心を騒がせ、悲しみをおぼえますが、イエスを見るときに、困難な中にいても平安を持つのです。そして、イエスは、「わたしはすでに世に勝ったのです。」と言われました。すでに勝利はイエスのものです。私たちは世で困難や恐ろしいこと、時には迫害や憎しみを受けますが、そのときにイエスがすでに勝利されていることを思い出してください。ヨハネは手紙のなかで、こう言いました。「
子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(Tヨハネ4:4)」イエスは十字架の上で、悪魔の力を砕かれました。ヤコブはこう勧めています。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(4:7)」私たちが立ち向かえば、必ず悪魔は逃げ去ります。必ず逃げ去ります。ですから、心が悲しむとき、どうかイエスに平安があること、またイエスに勝利があることを思い出してください。

 そして、最後に指摘させていただきたいことは、この章の中で、「時」とか、「日」という言葉が頻繁に出てきたことです。2節には、「あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」とあります。4節には、「その時が来れば、あなたがたは思い出します。」とあります。23節、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。」25節「はっきりと告げる時が来ます。」そして、今読んだ32節、「わたしをひとり残す時が来ます。いやすでに来ています。」とあります。つまり、神が定めてくださった時があるのです。定められた時に、彼らは必ずイエスが言われたことを思い出し、イエスが言われたことが分かるようになります。私たちも同じです。私たちは今、そのことが知りたい、今これがしたい、今はしたくない、とか「今」何かが起こらないと気がすみません。しかし、神は、ご自分が定めた時まで私たちが待つように、じっとしているように願っておられます。神が預言者ハバククに、終わりの時についてこう言われました。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。(ハバクク2:3)」また、ダビデは、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。(詩篇37:7)」と言いました。悲しんでいるとき、主の前に静まりましょう。耐え忍びましょう。主は必ず、その悲しみを喜びに変え、喜びに満ちあふれるようにしてくださいます。


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