ヨハネの福音書19章 「完了したわざ」


アウトライン

1A 人の罪 1−22
   1B 政治的駆け引き 1−4
   2B 圧力 5−16
      1C 律法から 5−11
      2C 法律から 12−16
   3B 王殺し 17−22
2A 神の義 23−42
   
1B 十字架にて 23−30
      1C 兵士 23−24
      2C 家族と神 25−30
   2B 死にて 31−37
   3B 埋葬にて 38−42


本文

 ヨハネの福音書19章を開いてください。ここでのテーマは、「完了したわざ」です。イエスが成し遂げようとされたわざが完了することが描かれています。

1A 人の罪 1−22
1B 政治的駆け引き 1−4
 そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。

 
そこで、とありますが、群集が、「バラバを釈放しろ。」と叫んだときのことです。ピラトは、ユダヤ人が、暴動と殺人の罪を犯しているバラバではなく、イエスを釈放するよう要求してくるものだと思っていましたが、予期に反してバラバを釈放するように彼らは求めました。彼らのうちに暗やみの力が働いています。善よりも悪を愛し、真理よりも偽りを愛しました。そして、このむち打ちですが、これはローマが考え出した、自白を強要させる手段でした。むちにガラスや鉛の破片が入っていて、むち打つと、背中の肉がちぎれ飛びます。このむち打ちのほかに、そばで犯人の自白を記録する人が立っています。犯人が自白したら、むちの勢いは軽くなります。自白しなければ、さらに勢いよくむち打たれます。たいてい、犯人はむち打ちによって死んでしまいました。けれども、イエスは口を閉ざしておられ、39回のすべてのむち打ちをすべて受けられました。そして、奇跡的に死んでおりませんでした。

 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」


 ピラトは、イエスが無罪であることを確信していました。イエスが何も罪を犯しておられないことを知っていました。けれども、彼はイエスをむち打ちにして、兵士たちがイエスを卑しめるままにしました。罪を何も犯していないのに、なぜそのような行為をしているのでしょうか。ピラトはなだめようとしているのです。ユダヤ人のイエスの対するねたみと憎しみを、このような仕打ちによってなだめようとしています。

 私たちは前回、ピラトは、固く真理に立たない罪を犯していることを学びました。真理はないと思っていたピラトは、相対的な価値観に立っており、人々の意見を聞いてあげることによって裁判を執り行なっていたのです。政治的なバランス、政治的な駆け引きによって判決を下すような人物でした。したがって、無罪である方をむち打ちにして、兵士たちによって卑しめるという悪を行なっているのです。使徒行伝では、ペテロが、「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。(2:23」と言って、ピラトとローマ兵たちを不法な者と呼んでいます。ピラトのしたことをもっと押し並べて考えると、人を喜ばせるのではなく、神を喜ばさなければいけないという教訓があります。人々から心理的な圧力がかけられて、それを満足させようと思って行動しても、結局、満足させることはできません。その代わり、大切な真理を犠牲にすることが実に多くあるのです。箴言には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)」と書かれています。人ではなく、神を恐れなければいけません。

2B 圧力 5−16
1C 律法から 5−11
 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」

 ピラトは繰り返し、イエスをユダヤ人たちのところに引き取らせようとしています。「あなたがたがこの人を引き取りなさい。」と言っています。自分たち異邦人には関係がないことだ、ということです。

 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。

 
ピラトが恐れたのは、イエスがユダヤ人の王であるとおっしゃっているだけでなく、神の子であるとおしゃっていることであります。自称王さまならユダヤ人だけの問題であるし、たいして大きな事柄ではありませんが、自称神さまはどうにもできない、と思ったのでしょう。


 そして、また官邸にはいって、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。

 あなたは、彼らが言うとおりに、神から来ていると言っているのか、ということであります。

 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」


 イエスが、ピラトの権威が上から来ているとおっしゃっているのは、裁判をする権利は神から来ているということであります。ローマ書13章には、「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(
13:1」とあります。だから、ピラトがイエスを十字架につけたとしても、それは裁判官として行なっていることであり、大きな罪ではないとおっしゃっているのです。もちろん、今、私たちが読みましたように、罪がないと言うことではありません。政治的な駆け引きをしている罪がありました。しかし、ユダヤ人たちがイエスを十字架に引き渡そうとしているのは、まさしく人殺しの罪、いや神殺しの罪を犯しているのです。

 けれども、これはユダヤ人だけが犯しているのではなく、すべての人が犯している罪であります。イザヤは、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。(53:5)」と預言しました。私たちの罪が、イエスを十字架につけたのです。私たち人間には二つの選択があります。自分を殺すか、神を殺すかです。自分によって、自分の方法によって生きる道を捨てるか、それとも自分の方法を選び取って、神の働きを殺してしまうか、どちらかの選択があります。けれども、ユダヤ人は神を殺すことを選びました。

2C 法律から 12−16
 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。ピラトは、イエスを殺すことに恐怖をおぼえたのでしょう。イエスを釈放する努力をしました。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」

 ユダヤ人は、自分たちの律法を使ってイエスを訴えただけではなく、ローマの法律を使って訴えました。イエスは、カエザルへの反逆罪を犯しているということです。

 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」

 
ピラトは挑戦しています。王を十字架につけるのか。しかも、異邦人の支配者にあなたがたの王を十字架につけてもらうのか、と聞いています。自分の王としなければならない方を、逆に殺してしまうのです。

 祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」


 これは、偽善極まりない発言です。ユダヤ人の宗教指導者たちは、キリスト以外の何者をも王としてはならない、主以外の方を神としてはならないと信じているはずであり、そう教えているはずでした。しかし、今、カエザル以外には王はいない、と言っています。


 このように、彼らは、宗教の中ではカエザルのことを憎みながら、世俗的にはカエザルを王と言ってへつらっています。二心です。キリスト教の中では、これこれ、こういうことは間違っている、と言いながら、世の中ではまったく反対の意見を持つことは、私たちも陥りやすいわなです。いや、私たちはつねに、この戦いの中にいるのでしょう。教会の中の自分と、世の中における自分とを使い分けているので、教会に来ることがしだいに苦痛になっていき、とうとう教会から離れてしまうということがあります。逆に、喜んで、主にお仕えするために教会に来るはずなのに、義務的に、さらに仕事をこなすかのように教会に来てしまうことがあります。ですから、ユダヤ人が「カエザルが王です」と叫んでいるのは、まさに私たち自身が日々の生活の中で戦わなければいけないことなのです。

 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。


 ピラトはとうとう、彼らの圧力に屈してしまいました。

3B 王殺し 17−22
 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。

 私は、ここの「彼ら」という主語が気になりました。「彼ら」とは、前をたどって行きますと、祭司長たちであります。あれっ、イエスを十字架につけたのはローマ人ではなかったのか、と思いますが、ここに、ヨハネの霊的洞察があるのではないかと私は思います。たとえ死刑を執行したのがローマ人であっても、ユダヤ人は自分たちの犯した罪によってイエスが十字架につけられた、ということです。たとえ、他の人が実際に罪の行為を行っても、間接的にその罪に貢献しているのなら、それは自分にとっても罪なのです。ユダヤ人が罪を犯したことは、次の箇所でも同じです。


 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。

 
過越の祭には、世界中からのユダヤ人が集まってきますから、大ぜいのユダヤ人がイエスがユダヤ人の王として殺されたのを見ました。つまり、宗教指導者だけではなく、一般民衆も同じようにイエスを十字架につけた罪があるということです。

 
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。

 ここでは、もしかしたら、暗に異邦人の罪も問われているかもしれません。ヘブル語だけではなく、ラテン語も、ギリシヤ語も書いてあったということは、異邦人も読むことができました。したがって、ヨハネは注意深く、イエスの十字架は他人事の話ではなく、私たち一人一人の罪に直結していることを記しています。


 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」

 ここに、ピラトの嫌悪感が示されています。これらユダヤ人に対して嫌気をさしています。「しつこいなあ。もう書いたのだから、勝手にさせてくれ。」と言っているのです。けれども、面白いのは、先ほどまでユダヤ人の圧力に屈していたピラトが、ここで彼らの要求を拒んでいます。私は、これも主のご計画の中に入っていると思います。なぜなら、イエスは、自称ユダヤ人の王ではなく、本当に王だったからです。ですから、自分たちの王を十字架につけるという罪をユダヤ人が犯しました。また、カエザルが王であると彼らは言い張りましたが、皮肉にも、紀元70年には、カエザルであるティトスがエルサレムを滅ぼしたのです。彼らの選んだ王は、平和ではなく荒廃をもたらしました。


2A 神の義 23−42
 このようにして、私たちは人間の罪の暗い側面を読みました。イエスが十字架にかけられるところには、人間の罪の根本、人間の罪の究極の姿が表れています。神に背き、神を憎んで殺そうとし、神を中心にして生きるのではなく、自分たちを中心にして、自分たちを王さまにして生きている姿です。けれども、聖書には、この十字架は神のご計画の中で定められていたことである、と宣言されています。イザヤは言いました。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(53:10」子孫を末長く見ることができる、つまり、人々が滅びることなく、永遠のいのちを持ち、神の子どもとされる、ということであります。私たちは、この神のみこころの側面を、次から読みとっていくことができます。

1B 十字架にて 23−30
1C 兵士 23−24
 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」

 他の福音書では、くじで引いた記事のみが載せられていますが、ヨハネは、くじで引いた経緯まで記しています。その下着が縫い目なしものだったからです。

 それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
ここで、主のみこころが記されています。兵士がくじを引いたことは、ダビデによって詩篇22篇で預言されていました。このような小さな場面までも、神は予めご存知で、ご計画を立てられていました。


2C 家族と神 25−30
 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。4人の女性が、十字架のところにいました。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。愛する弟子は、もちろんヨハネ自身のことです。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 当時の状況を理解してください。政府による福祉制度は存在していなかったので、家族が、やもめを世話していました。今、イエスの母マリヤは、夫ヨセフを失っていると思われます。また、イエスの半兄弟は、なんらかの理由でマリヤを世話するようになっていないようです。したがって、イエスはここで、十字架の上で死ぬ間際に、弟子ヨハネにマリヤを世話することを頼まれているのです。このように地上の家族のころを心遣いながら、天におられる父に目を向けておられます。


 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。

 これは、詩篇68篇29節の預言の成就です。イエスは、この預言のことをご存知であり、「わたしは渇く」と言われました。そして、次の節があります。

 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。


 完了しました。イエスの十字架刑についての預言は今ここですべて成就しました。父なる神のみこころのとおりに、すべての事が進み、今、完成されたのです。けれども、この「完了した」という言葉は、単に預言が成就しただけではなく、贖いが完了した、ということもできます。イエスは、その宣教活動の最初の頃から、ご自分が父のわざを成し遂げるために、この世に来られたことを話しておられました。そのわざとは、贖いのわざです。私たちが永遠のいのちを持って、神の子どもとされるために必要なわざは、イエスにあってすべて成就しました。


 したがって、イエスは私たちに命じておられるのは、「信じなさい。」です。私たちが罪から救われるために必要な行ないは、イエスを信じ、神がイエスにあってなさってくださった十字架のみわざを信じることです。私たちは自分が罪を犯したとき、とんでもないことをしてしまったと思うとき、いろいろな方法でその罪意識を取り除こうとします。ある人は自分を責めて、泣き崩れ、人々と会わなくなります。ある人は、自分が良い行ないをすることによって、罪の償いをしようとします。ある人は、無視して、他の活動を行なうことによって、自分のしてしまったことを忘れさせようとします。しかし、これらのものによっては、決して罪を償うことはできません。罪の影響を、罪意識を取り除くことはできません。私たちはただ、神の御前に出てその罪を告白し、イエス・キリストの流された血は自分のものであると信じて、受け入れることによって、罪意識から解放されます。赦しは、ただ一つしかないのです。イエスが流された血によってのみ、私たちの心はきよめられ、洗われ、赦され、いやされます。ですから、私たちはただ、完了した贖いのわざを信じて、受け入れなければいけません。

2B 死にて 31−37
 そして、聖書の預言の成就は続けて起こります。その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。

 
大いなる日とは、土曜日でなくても祭りのときにともなう安息日です。ここの場合は、種なしパンの日の初日として安息になっていました。ですから、この年は、金曜日も安息日、土曜日も安息日であったと考えられます。そして、律法の中には、死体は汚れたもの、木にかけられた者は神にのろわれているとされていましたから、次の日になる前に、とくに安息日には取り除いてほしいと願ったのです。

 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。

 十字架につけられた者は、窒息死で死にます。息をするためにはからだを持ち上げなければいけないのですが、手には釘がささっており、持ち上げるととてつもない激しい痛みが走ります。そのうちに、体力もおとろえ、からだを持ち上げられなくなり、窒息して死ぬのです。これは時間がかかることで、ある人は死ぬまでに数日かかると言われています。ですから、すねを折ることによって、肺に圧力がかかって、すぐに死ぬようになるのです。

 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。

 ここがとても、大切な箇所です。イエスは、ご自分でいのちをお捨てになりました。だれからもいのちを奪われませんでした。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。(ヨハネ
10:18」十字架に死に至るまで、神は支配されていました。御子イエスのいのちをだれも取ることはなく、イエスの自発的な父への従順によって、この罪のいけにえが受け入れられたのです。だから、兵士が来て、すねを折ろうとするころにはすでに死なれており、人からいのちを取られることなく、ご自身でお捨てになりました。

 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。

 ここは実に興味深い記事です。わき腹を突き刺して、血だけではなく水が出てきました。水が出て来るのは、心臓の周りにある膜が切れたからである、とよく言われます。ヨハネは、ここで、私がこのことを見た証人である。これは本当のことである、と強調しています。ということは、このことは本当ではないと言わせるような考えがはびこっていた可能性があります。事実、当時は、グノーシス主義やキリスト仮現説と呼ばれる異端があり、彼らはイエスは実際の肉体を持っていなかったと教えていたからです。彼らは、神が実際に人となられたことを信じることができなかったのです。しかし、このとおり、血と水が流れ出たのだよ、とヨハネは言っています。血と水が流れてきました。

 さらに、ヨハネは、自分が書いた手紙において、面白い霊的洞察を加えています。ヨハネの手紙第一5章をお開きください。5章の6節です。「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。」イエスの水と血は、御霊の働きによってあかしされるとあります。つまり、ここでは御霊によって人が新たに生まれることを示しているのです。水はいのちを表わしています。御霊によって、イエスのいのちが与えられました。さらに、血は罪の赦しを表わしています。御霊によって、キリストの流された血が私たちの心をきよめます。ですから、イエスのからだから血と水が流れ出たのは、イエスの十字架における死が、御霊の働きによって、私たちにいのちを与え、罪の赦しを与えることを意味しているのです。


 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。

 
骨が折られなかったことも、預言の成就でした。というより、予表の成就と言っていいでしょう。過越の祭りのときにほふられる子羊は、骨が折られてはいけないものでした。骨を一本も折ってはいけない、と書かれています。なぜなら、それはキリストの十字架の死において、イエスの骨が折られなかったことを指し示していたからです。

 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。


 これは、ゼカリヤ書12章10節の預言です。そこで、キリストが再臨されるとき、ユダヤ人が、自分たちが突き刺した者、主を仰ぎ見て、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く、とあります。ユダヤ人が、イエスが再臨されるときに悔い改めることが預言されています。そこの、「突き刺した方」という部分が成就するために、イエスのわき腹がやりで突き刺されました。


3B 埋葬にて 38−42
 このように、預言が次々に成就しており、十字架の出来事が神の綿密なご計画のなかで行なわれたことが実によく分かります。それは、神が私たちを愛しておられるからです。私たちが滅びず、永遠のいのちを持つために、ひとり子を死に渡されました。そして、最後に、イエスが埋葬される場面が出てきます。

 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。

 二人のサンヘドリンの議員が登場しています。アリマタヤのヨセフとニコデモです。ニコデモは、あの有名な、「新たに生まれなければならない。」とイエスに言われた人です。彼らはイエスの弟子になっていました。イエスをメシヤとして信じていました。しかし、ここに、「ユダヤ人を恐れて」とあります。ヨハネ12章42節には、「
しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」と書かれています。神に良く思われるよりも、人によく思われるほうを選んだ、人を恐れた、とあります。そのため、イエスが生きておられるときは、信仰告白をしないで、死なれた後に告白をしました。でも、私たちも、このような間違いを犯してしまいます。罪が行なわれているときは立ち向かうことをせず、罪が行なわれた後に立ち上がる間違いを犯します。ですから、反省はするのですが、生活は変化しません。悔いてはいるのですが、悔い改めていません。それは、実際の生活の中で、自分のうちにイエスが生きていただくように、へりくだって歩んでいないからです。

 でも、このような彼らでも、神に用いられ、イエスは犯罪人のようにではなく、丁重に葬られました。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。とあります。

 ニコデモは、没薬とアロエを混ぜ合わせたもの30キロほど持ってきたとありますが、これはとても高価なものです。したがって、ニコデモは金持ちであったと想像できますし、アリマタヤのヨセフも新しい墓を持っており、彼も金持ちでありました。イザヤ書には、「
彼は富む者とともに葬られた(53:9)」とありますが、預言のとおり、そうなったのです。

 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。


 日没になるまえに葬りたかったのですが、墓が近いため、それができました。


 こうして十字架の記事が終わりますが、来週はもちろん復活です。しかし、その前に、私たちは、イエスが贖いのわざを完了されたことを見ました。完了したのだから、私たちはただ、このみわざを受け入れるだけです。そのためには、自分がイエスを十字架につけたことを認めなければいけません。ヨハネは、それは、ローマ兵が殺したのではなく、ユダヤ人、そしてすべての民族が殺したことを注意深く記しています。今の問題を状況や他人のせいにするのではなく、まさに自分が罪を犯した、自分の責任である、と認めるときに、真の罪の赦しといやしと、回復が起こります。そして、神がイエスの死にあって、私たちを愛しておられることを受け入れなければいけません。このむごい死は、みな神のご計画にしたがって行なわれました。それは、私たちがさばかれないためです。ですから、私たちのとんでもない罪を、神はみな処理してくださった、東が西から離れているように、私たちの罪を離してくださったことを知ることができます。


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