ルカの福音書16章 「会計の報告」



本文

 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。

 イエスさまは今さっきまで、パリサイ人たちに対して語られていました。パリサイ人たちはイエスが罪人と収税人と食事をとられていたことに腹を立てていました。その腹を立てた態度を見て、イエス様は3つのたとえを話されたわけです。いなくなった羊のたとえ。なくなった銀貨のたとえ。そしていなくなった弟息子のたとえです。いずれもいなくなったのが見つかったのだから喜んで当然ではないかというのが、イエス様がパリサイ人たちに話したかったことなのです。そしてこの最後に出てくる弟息子のたとえですが、これはまさに集まっていて食事をしていた収税人と罪人の姿をあらわしていました。つまり放蕩して湯水のように財産をつかってしまうような姿ですね。けれども彼らは罪を悔い改めて神に受け入れられた者となりました。ここに神の恵みがあって、神の恵みが彼らから溢れ出ていました。そしてパリサイ人たちがこの罪人と収税人から神の恵みを学び取らなければならなかったのです。

 ここで次にイエス様が弟子達に話しをされます。ここに出てくる人物は放蕩息子と同じようにお金を乱費する人です。抜け目のない不正の管理人、つまり収税人のような罪人のような人です。そしてイエス様は彼らのような人たちから、また学びなさいと話されます。実際のたとえを見てみましょう。


 「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』

 主人はクビにするぞ、と言っているわけですね。そして今までの歳出と歳入を計算して、私に提出しなさいと命じています。

 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。

 
彼は失業した後のことを考えています。昔も土方の仕事がありました。私が大学生のときにお金がなくて「ちょっと土方は無理だな、乞食もいやだな。」と思ったことがありました。すごく気持ちはわかります。ですから失業した後にどうすればいいかあせっているわけです。

 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』

 いい案が浮かんだようです。どのような案でしょうか見てみましょう。

 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。

 ここで彼が何をやっているかわかりますか。借りをつくっているというか友だちをつくっているわけです。主人に証文がある人の借りを安くしてあげることによって失業した後に、その人の家にお世話になることができるようにしたわけです。彼は最後の最後まで主人の金を不正に用いていますが抜け目のない用い方をしています。失業した後に自分を助けてくれる友をつくるために用いています。このことを後で主人が聞きました。次を見て下さい。

 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。

 
何とほめました。怒ったのではなくほめたのです。ちょっと変な主人ですね。先ほど読んだ一節を見ますと主人が金持ちだったことが書かれていました。どうやらこの主人はあまりにも金持ちなので、お金が奪い取られたことを気にするより、クビにした管理人があまりにも抜け目なくやり遂げたことに目をとめました。奪われたことよりもこんな抜け目なくやったものかとほめるほど余裕があったのです。お金があったのです。

 実はこれは父なる神の姿をあらわしています。父なる神はすべての富の源です。神には何も乏しくなる事はありません。無尽蔵に富を持っておられるので、どんなに奪い取られてもそのことで怒られることはありません。放蕩息子の父親の時も同じでした。弟息子に全財産の三分の一を奪われました。これを遊女とかその他のものに全部つかわれてしまったのにも関わらず、その息子が戻って来たらどうでしたか、息子の地位に戻しました。これを物理的に考えたら不可能なことです。もう三分の一はなくなっているわけです。弟は息子の地位に戻れるわけがないのです。ですから普通の父親だったら「息子にしたいところだけれどお金はもうないよ。」と言うかもしれません。


 しかし、彼にはそれができたのです。ここには普通ではないところがあるということに気付いてください。金持ちといっても普通の金持ちではありません。限りがない金持ちなのです。このようにイエス様は神がどのような方かをあらわしてくださっています。つまり大らかな、気前の良い、恵みに富んだ方です。そのような神が紹介されています。マタイの福音書20章15節には「それとも私がいいのであなたの目には妬ましく思われるのですか。」と書かれています。そしてこの主人はこの管理人の抜け目のなさをほめています。賢さとも言い換えられますが将来の生活のために現在あるものを賢く利用しました。そしてこの姿が光の子以上のものであるとイエス様は言われています。光の子というのは誰ですか?イエス様の弟子のことです。弟子達が今ある財産を用いているよりもさらに賢く抜け目なく彼らは用いているんだよ、ということなのです。

 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

 
ここでの意味がわかりますか。この箇所を理解するために大事な言葉は「永遠の住まい」です。もちろんこの主人は彼の不正をほめたのではありません。抜け目なさをほめたのです。そしてイエス様はその抜け目なさについて焦点を当てられて将来に備えて今の財産を使っていくということを話しています。不正の管理人は失業した後の将来を考えて今ある財産を用いたのです。キリストの弟子は永遠の住まい、死んだ後のことを考えて神の国のことを考えて今ある財産を利用していくのです。この永遠の住まいのために今持っている財産をいかに利用していくか、それが、今ここでイエス様がおっしゃっていることです。

 けれどもまだそこでもわからないところがあります。イエス様は「彼らはあなたを永遠の住まいに入れるのです」と言われます。この彼らというのは不正の富で自分のために友をつくった、その友である人々です。これはいったいどういうことでしょうか。これは言い換えると私たちがこの世の財産を利用したことが永遠の御国で記録されてそれをもとに報いが与えられるということです。パウロは「私たちは皆キリストのさばきの座にあらわれて善であれ悪であれ各自その肉体にした行為に応じて報いを受けることになるからです。」と言いました。ですから、私たちが今どのように自分たちが持っているものを神の国のために使うかということが全部記録されてそして神の国、イエス様の御座において会計報告をするのです。自分がしたことを申し開きすることになります。もちろんこれは私たちの負債、罪の負債を報告するのではないです。私たちは皆神の御前で申し開きをしなければならないということを聞くと、「ではクリスチャンは悪い事も全部記録されていて神様に全部話さなければいけないのか。」と思うかもしれませんが、そうではありません。それはキリストの血によってすべて帳消しにされています。全部消し去られています。だから」これは罪の申し開きをすることではなく、私たちがどのように今ある財産を御国のために用いたかを報告していくのです。報酬をもらうために報告するのです。または自分の時間とかエネルギーをどのように主のために用いたのかということを私たちはキリストのさばきの御座で申し開きをしていくのです。それに基いてイエス様が永遠の報いを与えてくださるのです。


 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

 
ここで語られているのは成果ではなくて忠実さということです。例えばお金をどうやって用いたか1千万円のお金を献金した人が神の国で報いられて、10円しか持っていない人はあんまり報いられない、ということではありません。忠実さです。与えられたもの、任されたものに対していかに用いていくかということです。外側の成果ではなくて心の動機がここで強調されています。

 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。

 
イエス様はこの世の財産を小さなこととし後に来る神の国を大きなこととおっしゃられています。この世のことはちいさなこと、そして大きいことというのは後の永遠の住まいにおける報いなわけです。11節は自分の財産、私有の財産について忠実になりなさいといわれています。12節では他人が持っているもの他人の財産について忠実でありなさいということです。

 
財産、財産といっていますが神の国に入るということは財産を持つということです。ペテロがこう言っています。「神はご自分の大きなあわれみのゆえに、朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために天に蓄えられているのです。」私たちが救われるというのは神の国を相続するということですが、相続するということは資産を持つということです。資産を持つ身なのにもかかわらず今ある財産をキチンと管理しなかったらどうやって資産を持つのですかというのがイエス様のここでの意見です。これから神の国で莫大な財産を受け取ってそれを相続するのに、今持っているものをちゃんと管理できなくてどうするのですか、ということです。ちゃんと管理しなさいということです。

 まず私有の財産に関しては、他の聖書の箇所で、具体的に献金というものがあります。有名な箇所でマラキがこう言っています。「十分の一をことごとく宝物倉に携えてきてわたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたのために天の窓を開き溢れるばかりの祝福をあなたがたに注ぐか試してみよ。」そして献金だけではなくて困った人、貧しい人にほどこしをするということもあります。使徒ヨハネがこう言っています。「世の富を持ちながら兄弟が困っているのを見ても憐れみの心を閉ざすような者にどうして神の愛が留まっているでしょう。こども達よ、私たちは言葉や口先だけで愛することをせず行いと真実を持って愛そうではありませんか。」つまり私たちクリスチャン生活というのは単に精神的なことだけではないということです。愛とか喜びとか平安というのは、もちろんかかすことのできない財産ですが、もしそれを実際の富によって見せることがなかったら、どうやって愛を示すことができるでしょうか。

 そして他人の財産についてですが、教会における奉仕というものがあります。パウロが大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」と言いました。つまり具体的にYさんがここでの集まりの会計を預かってくださっていますが、それは彼自身の財産ではないです。またわたしは平日は午前中仕事をして午後は時間が空いていますその空いている午後の時間は自分の時間ではなく一人一人のために祈って、御言葉で養うために学びをする時間です。こうして今の財産を管理することによって将来与えられる御国の資産を保有する準備をするということです。

 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

 
先ほどから財産を管理するということを話していますが、財産を管理する際に大切なことは、神を主人として生きる、神を第一にして生きるということです。わたしたちは自分の所有する財産を管理しているつもりなのがいつの間にか財産の奴隷になっていることがあります。教会に献金をするために一生懸命働くといいながら、実はお金を貯めるために心を奪われるということがあります。ですから、毎日の生活の中で神を第一とする決断をしていかなければなりません。このことについてヤコブが手紙の中で次おように説明しています。「聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」 毎日主の御心を求めるということです。

 つまり、私たちが何かお金を貯めるといっても自分の計画で一杯になっていると財産やお金の奴隷になってしまいます。なぜかというとお金には力があります。ここでイエス様はおもしろいことにお金を人格のあるもののようにおっしゃっていますが、お金が主人になってしまうのです。けれども、ヤコブのところは毎日生きているということは主の御心なのだから神さまが今から何をされるか御心がなりますようにと祈っていくのです。それで仕事が出来たのであればその日に仕事が与えられたのです。そうやって毎日毎日生きていって主の御心を求めていれば失業中になったとしても問題ないのです。そのように神を第一にしていくのです。毎日主の御心を求めていくことが大事になっていくのです。けれどもこの話を聞いていてあざ笑った人たちがいます。パリサイ人たちです。


 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

 
金好きです。富に仕えて神に仕えることはできないと今イエス様は言われましたが、富に仕えていました。そして神を軽んじていました。金を愛するということについて聖書はものすごく大きな罪だと話しています。パウロが次ぎのよう説明しています。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 (第一テモテ6:9-10)」 すごいですね。でもパリサイ人たちは金持ちになるということは神から祝福を受けているしるしだと思っていました。自分たちが律法の正しい行いをしているからお金が貯まっていると考えていました。現在でもそういう教えがありますね。あなたが信じれば神様はあなたを祝福してお金がたくさん入ってくるとか。パリサイ人たちもそう考えていました。そこでイエス様はこう言われています。

 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。

 
パリサイ人の義というのはあくまでも人々に対するものでした。宗教的になることによって自分が正しいものと認められるということです。けれども神様は彼らがお金を貪っていた、お金を欲しがっていたということをご存じでした。この心を神様が憎まれて忌み嫌われていました。ここから神様は彼らの心の問題を取り扱われて話を進めていかれます。

 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。 しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。

 
彼らの心について語られるときにイエス様は律法のことについても話されました。なぜなら律法を誇りに思っていましたから。けれどもまずイエス様が言われたことは、今は福音の時代なんですよということです。律法と預言者というのはあくまでもキリストを指し示すものであり、キリストが来られた今はそれらはすでに成就されたものですから、律法を教えるということではないのです。けれども面白い事に律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです、とイエス様は言われました。律法そのものは決して廃れることはありません。パウロは「肉にしたがって歩まず、御霊にしたがって歩む私たちの中に律法の要求が全とうされるのです。」とのべました。ですから律法というのは、すたれるということではありません。この一画というのは面白くヘブル語を勉強した人だとすぐ分かるのですが、アルファベットを見ると本当にすぐに理解できます。ちょこっとはみでると、全然違うアルファベットになってしまいます。一ミリでもはみ出ると違うアルファベットになってしまいます。違うアルファベットになるとどうなるかというと、違う文字になって違った意味の文字になると、違う意味の文章になってしまうというそういう危険性が十分にある文字です。そこでイエス様は一画が落ちるよりも天地が滅びるほうがやさしいのですといわれました。そしてイエス様はその律法の一つを取り上げられます。

 だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

 これは律法の中にモーセがこのように言った箇所があります。「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」これはよく聞く話ですね。これに2つの考え方がありました。1つは、この恥ずべき事というのが妻が不倫したことだったら離婚状を出せということだという解釈です。もう1つは、とにかく気に入らなくなったら離婚状を出せというものです。帰ってきて飯がまずかったらもう離婚してもいいという解釈です。どちらが人気を博したかというとおのずとわかりますね。パリサイ人たちはこのとにかく気に入らなかったら離婚状を出すということを考えていましたけれども、そこで、ものすごい罪、先ほど言った神が忌み嫌われることが、ここのイエス様が言われたところに出てきます。

 彼らは他の女が欲しかったのです。他の女が欲しくてそれで離婚状を出したのです。欲しいから離婚状を出して、その女と結婚したのです。けれどもどうですか、外側では、私たちはモーセの律法を守っていますという風に自分たちは人の前では正しくしていたのです。ものすごい偽善ですね。こころでは姦淫の罪を犯していたのです。けれども外側では立派に律法を守っている。あなたがたは罪人だ。と言って他人をさばいていたのです。この彼らの心が神様の前で忌み嫌われているということをイエス様は抉り出したかったのです。そしてイエス様は先ほどの金を愛するということの話に戻られます。先ほどの弟子達は今の財産を管理することで死んだ後に祝福を得る事をイエス様が話されていましたが、今度話すことはパリサイ人たちが今の財産を愛したことで死んだ後で罪に定められるということを話されています。


  ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 
対照的な2人の姿が出てきています。一人は金持ちで毎日贅沢に遊び暮らしていました。もう一人は全身おできができていて見るに耐えない貧乏人の姿です。食卓から落ちるものとありますが、当時は食事を手で食べていました。当然手が汚くなります。最後に一切れパンを残しておいて、それで手を拭き取ってそのパンの一切れを、テーブルの下にいるペットの犬にあげるといいうことがありました。それを食べたいほど腹が減って貧乏だったのです。ここに「犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。」とありますが、犬と言う言葉は今のかわいい犬というイメージを取り除けてください。聖書で語られている犬とは、非常に残虐、残酷で、いわゆるゴミ捨て場にいる野良犬のようなものとして語られています。ですからこの箇所は本当に悲惨な姿をあらわしています。けれども彼の名前がラザロといわれています。ラザロの意味は「神は助け主」という意味です。つまりこの貧乏人は貧しさの中にあっても神に信頼していたということができます。

 この話は、皆さん、喩えだとお思いですか。実在の話だとお思いですか。これは実在なんですね。どうしてかというと、今言ったように、実名が入っています。喩えの中には、実名が入っていないのです。けれどもここでは実名が入っています。つまりこれは実在の話です。何で今そういうことを話すかというと、次から死後の話がでてきます。これも実在の世界なのだということです。見て下さい。

 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 
金持ちは葬られたのですが、貧乏人は葬られたとかかれていないことに注意してください。葬式をあげる費用も出せないほど貧乏な人は大抵エルサレムにあるヒノムの谷という場所で焼却されました。そこがギリシャ語だとゲヘナといわれて新約聖書では永遠に苦しむ場所として紹介されています。けれどもこの貧乏人は死んだ後にどうなっていますか。御使いの手によって導かれています。地上でこんなに悲惨だったのにその苦しみとは裏腹に死後には大いなるなぐさめがありました。

 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

 この金持ちは地上での楽しみとは裏腹に死後は苦しみにあっています。死後における逆転劇が起こっていることに注意してください。低くされているものが高められて、高くされているものが低められるということです。このルカの福音書を見ると特に多く描かれています。今は苦しめられているけれども終末、あるいは死後に慰められる、そして今幸せな者が終末や死後に不幸せになるということです。例えば1章に出マリアの賛歌でこう書いてあります。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。(ルカ1:51- 53)」上にいる者が下になり、下にいる者が上になるということですね。

 そしてアブラハムのふところという言葉が出てきます。ハデスという言葉が出てきます。イエス様は先ほどから律法と預言者について語られていますが、その時代に死んだ人たちが行く所が描かれています。旧約聖書を見ると死後に行く所として何が出てくるでしょうか。黄泉ということばが出てきます。それをギリシャ語に訳すとハデスになります。英語だとHell、地獄と訳されています。じゃぁ天国はと思うかもしれませんがそれを今から話したいと思います。

 唯一神のおられるところである天におられる人というのはアダムだったのです。エデンの園にいて神とともに語り、神とともにいました。彼が罪をおかしたから神から引き離されて、彼から出てくる子孫は皆罪人として生まれてくるので、この神のおられるところには戻る事が出来なくなっています。けれどもアダムが罪を犯した直後に神は救い主が来られる事を教えられました。女の子孫という言葉が出てきます。そして神様はその後に動物を犠牲にして皮の衣をアダムとエバに着せてあげました。それは後に来る救い主をあらわしていました。救い主御自身が犠牲となって、私たちの罪を負って下さるということでした。そのことを信じる者たちが救われるわけです。


 つまり旧約の時代に生きていた人たちは、救い主が訪れる事、キリストが訪れることを信じる事によって、救われるのです。その代表的な人物がアブラハムです。アブラハムは神を信じて、義と認められた代表的な人物です。ですから救い主を信じた人々は、死後黄泉に下ってアブラハムがいるのでなぐさめられたのです。ですからアブラハムのふところと書かれてありますがあくまでもハデスなのです。天国ではありません。

 なぜかというと、まだキリストが贖いのわざを完成されていなかったからです。旧約において罪は覆われましたが、取り除かれてはいませんでした。動物の血によっては罪は取り除かれませんとヘブル書には書かれてあります。覆われはしましたが、取り除かれていませんでした。けれども天に入ることができるのは全く正しくされた者です。そのような者のみが、入ることができるから旧約の人たちは(まだ)入ることができませんでした。けれども私たちの心から罪を取り除くかた、キリストが来られるのです。それまでアブラハムはキリストの贖いを完成される方によってわたしたちは天に昇る事ができるのだといって、そこにいる人々を励まし、慰めていたのです。


 キリストが十字架につけられて死なれた時、イエス様はどこに行かれたのでしょうか。このハデスに下られました。ペテロがこう言っています。キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。 (使徒2:31)」つまりイエス様はハデスに下られたのです。そして何をされたかというと、贖いが完成されましたと宣言されたのです。解放の宣言をされました。イザヤが「主は捕われ人に解放を告げる。」と言っています。そして解放された彼らがイエス様と一緒に天に引き上げられて行きました。パウロはこう言っています。「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れた。(エペソ4:8)』」

 それでイエス様がそのようにされたので、これらの人々が天国に入ることがゆるされるようになりました。けれども、ハデスにはアブラハムのふところと言われる所とまた別の場所があることに気付いてください。苦しみの場所ですね。この金持ちがいる場所です。これは黙示録に書かれています。こう書いてあります。「死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。(黙示録 20:13-:14)」わかりますか。旧約の時代にキリストを信じないで死んだ人々、あるいはキリストが来られました今の時代にキリストを信じないで死んだ人々が最後の審判まで閉じ込められている場所です。それがかねもちのいる苦しみの場所です。最後の審判のときに自分たちのおこないに応じて裁かれて火の池(ゲヘナ)に投げ込まれてしまいます。この2つの部分が一つのハデスにあります。

 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

 
彼はまずラザロのことをよく知っていました。過去の記憶があります。また熱くて苦しいという感覚もあります。つまり死んだ後にも私たちは意識があるということです。意識がなくなると教えている異端があります。有名なのがエホバの証人ですが、意識はあります。

 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 
先ほどの逆転劇がここで起こったということです。

 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

 
大きな淵があるのです。死んだら終わりです。永遠の運命が決定されます。恐ろしいことです。私たち人間的には信じたくない事です。生きているうちにしか決断をすることはできません。

 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。

 
生き返らせてくれといっています。

 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

 
再び預言者と律法が強調されています。これさえあれば十分だとアブラハムは言っています。その律法の中には貧しい人たちを大事にすることまた富を拝んで天と地とを創られた神以外を神として拝んではならないと書かれてあります。また律法と預言者を見たらキリストに関する証しが数限りなく載っていて、イエスがメシア、キリストであるということが証拠としてあるのです。イエスがメシアでないという理由を発見することが出来ないほどです。

 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

 
奇跡を見たらきっと信じると彼は言っています。

 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

 
本当かなと思われるでしょうが、実際におこりました。これは聖書に書かれています。同じ名前のラザロという人物を思い出してください。死者の中から生き返りました。ヨハネの福音書に書かれていますね。それを見たパリサイ人はどうでしたか。ラザロを殺そうと思ったと書かれています。彼らはしるしさえ見れば信じられる、目で見る事ができれば信じる、それを見なければ信じないと言っていましたがそれは大ウソです。見ても信じないのです。つまり信じたくなかったのです。また信じないと決めていました。同じ事が今の人々にも言えます。奇跡を見る事ができれば私は神とイエス・キリストを信じる事ができるという人々がいます。私たちもそう思ってしまいます。けれども聖書を信じることが出来なかったらたとえ奇跡を見る事ができたとしても決して信じません。なぜかというと心の問題なのです。信じられないのではなく、信じたくないのです。またお金を愛したい、お金が欲しいということです。ですからどんなに証拠をつきつけても決して変わるものではないのです。

 ではどうやったら心が変わるのでしょうか。それがイエス様がここで話されている、律法と預言者、つまり神の御言葉なのです。また御聖霊の働きのみによってそれがもたらされます。聖霊は神の御言葉を悟らせて人に罪を認めさせキリストを信じるように導かれます。この御わざによってはじめてその人が新たに生まれて心が変えられるのです。そして先ほどの不正の管理人のように、永遠の住まいのために今の富を用いていく心に変えられていくのです。ですから律法と預言者だけでいいのだと言いました。

 そしてイエス様は、パリサイ人たちが金を愛して不信仰になっていることを非難されました。こうやって私たちは今持っている財産に対して神に説明責任があるということを見ていきました。今行っていることは全部神さまに対して申し開きをします。それは罪を定めるために申し開きをするのではなくて、今神のゆえにやっていることを申し開きしていくことです。けれどもこの同じ財産によって地獄にいくこともできます。金を愛することによって地獄に行ってしまいます。ですからこの不正の富により将来、死んだ後のことを大事にして今あるものをどうやって利用していくかということをじっくり考えていきましょうというのがこの章のお話でしたこれで会計の報告という題名の意味がわかりましたか。お祈りしましょう。



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