ルカの福音書18章 「神に近づく」



アウトライン

1A 祈りをとおして 1−17 (2種類の祈りの性質)
   1B しつこさ 1−8
   2B へりくだり 9−17 (2つの例)
      1C 罪人 9−14
      2C 子ども 15−17
2A 捨てることをとおして 18−30 (3つ捨てるもの)
   1B 偶像 18−23
   2B 人の可能性 24−27
   3B 借り 28−30
3A 叫びをとおして 31−43 (2つの乗り越えるべきこと)
   1B イエスの使命 31−34
   2B 人のたしなめ 35−43

本文

 ルカの福音書18章を開いてください。ここでの主題は、「神に近づく」です。前回の17章で、私たちは、らい病をいやされたサマリヤ人が引き返して来たところを読みました。10人がいやされたのですが、イエスのみもとに戻ってきたのは彼ひとりだけでした。そこでは、イエスのところに来ることの大切さが説かれていましたが、18章で学ぶところは、これが主題になっています。神にところに来る、あるいは、近づくことです。この章には、神への近づき方が3つ書かれています。1つ目の方法は、祈りをとおして来ることです。祈りによって神に近づきます。2つめの方法は、自分を捨てることによって来ます。自分を捨てて、神に近づきます。そして、3つ目の方法は、叫びによってです。心にある私たちの叫びをもって、神に近づきます。

1A 祈りをとおして 1−17 (2種類の祈りの性質)
 それでは、まず、祈りによって神に近づくことを見ていきましょう。

1B しつこさ 1−8
 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

 失望しないでいつまでも祈る、執拗に祈ることについて、イエスは教えられます。イエスは、先ほどまで、人の子の日について教えられました。イエスは、世をさばかれるために再び来られるのですが、それは、この世に罪と不法がはびこるからです。イエスは、終わりの日について、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。(マタイ24:12)」と言われました。また、同じ理由でパウロは、終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。(2テモテ3:1)」と告げています。ですから、キリストの弟子は、この世においては苦難があります。ますます、この地上で自分は寄留者であることを告白しなければなりません(へブル11:13)。そのため、私たちはこの世において、失望させるようなことが多く出てきます。希望をなくさせるような出来事が起こります。でも、失望しないように祈りなさい、神を信じる者は決して失望に終わりません、と、イエスは教えられるのです。


 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。」

 
「人を人と思わない」とは、人を敬わないと訳すこともできます。神を恐れない者は、人を尊重しません。なぜなら、神を恐れる者は、かの日に、人に対してしたことについて、申し開きをしなければならないことを知っているからです。ここでは神を恐れないため、人を敬わない裁判官がいました。

 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。

 
やもめは未亡人のことですが、当時は福祉制度が整っていませんから、社会的に地位が非常に低い存在でした。不当に扱われることも、多かったと思われます。彼女は、公正を求めて、裁判官のところに行きました。

 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

 
これを言いかえると、裁判官は、「気がおかしくなる!」と言っているのです。新共同訳では、「わたしをさんざんなめにあわすに違いない。」と訳されています。彼女は、毎日、毎日、ひっきりなしに法廷の前に来て、裁判を願い出ました。


 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

 
ここでは、「まして」という言葉が大切になります。たとえの多くは、比較することが多いですが、ここでは対照です。不正の裁判官と、正しい神とが対照されています。人を敬わない裁判官と、人を敬う神とが対照になっています。ですから、確かに、神は、なおさらのこと夜昼呼び求める私たちの祈りを聞いてくださるのです。

 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」


 この世に不法がはびこるので、私たちは苦しみますが、神はすみやかにさばいてくださいます。キリストが再び来られるとき、正しいさばきが行なわれます。けれども、実際にさばかれるときに、信仰をもって生きる人々が少なくなることを、イエスは預言されています。イエスは、「努力して狭い門から入りなさい。」と言われました。また、終わりの日に、多くの者が、「主よ。主よ。」と言うが神の国に入れません。私たちはどうでしょうか。神がすみやかにさばいてくださることを信じているでしょうか。それとも、主人の帰りはまだ遅いと思い、この世のことに目を向けているでしょうか。


2B へりくだり 9−17 (2つの例)
 こうして、祈りにはしつこさが必要であることがわかりました。次は、祈りにはへりくだりが必要であることについて、イエスは教えられます。

1C 罪人 9−14
 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

 
自分自身を信じて生きている人たちに向けられたたとえです。日本人の多くの人が、「私は自分を信じて生きる。」と言いますが、そのような人がどのような心の状態になっているかを、イエスは次から描かれます。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。ここでも、また、対照的な人物が現われます。パリサイ人と取税人です。


 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

 心の中で祈っているとありますが、英語ですと、「自分の内側
(within himself)で祈った。」と訳されています。つまり、これは祈りではなく独り言です。先ほどの、神を恐れない裁判官も、同じように心の中で話していましたが、パリサイ人もまったく変わりのないことをしています。最初は、「神よ」と言いますが、その後はみな、「私」になっていることに注意してください。自分のことで思いがいっぱいになっています。

 神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

 
他人と比較しています。他の人々のように悪い者ではないと思っています。これが、自分を信じている人は、外側はどんなに謙虚に見えても、このような心の状態になっています。なぜなら、神という絶対的な基準がないので、自分を見定める基準を他人にするしかないのです。あるいは、宗教的になって自己実現しようとします。次を見てください。

 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。

 これは、なんと神に対して高ぶっています。神は、律法の中で、贖いの日に年に1度断食することを命じられました。また、収穫の十分の一をささげるように命じておられます。けれども、年に一回以上に断食をし、収穫だけでなく自分の財産のすべてをささげているので、自己満足に陥っているのです。自分は神の要求されたこと以上のことをしている、ほら見てご覧、神よ、と言っているのです。


 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」

 彼は、神殿の中に入りませんでした。遠く離れて立っています。また、神のおられる天を仰ぎ見ることもしませんでした。なぜなら、彼は神の聖さを認めているからです。これは、旧約の聖徒たちにも見られる姿勢です。モーセは、燃えている柴の中におられる主を見ないで、その場でひれ伏しました。イザヤは、主を見てしまったので、「ああ。私は、もうだめだ。」と言っています(6:5)。そして、自分の胸をたたいています。これは、自分のいたらなさを認めているのです。ヤコブはこう言いました。「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。(4:9)」そして、神のあわれみを求めています。あわれみとは、本当はさばかれなければいけないのに、そのさばきを受けないことを意味します。本当は、ゲヘナに投げ込まれて、暗やみの中に閉じ込められなければならないことを、彼は知っていたのです。この認識があるときに、私たちは真にへりくだることができます。


 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。

 パリサイ人は、自分を義人にしようとしたのに対し、取税人は神から義と認められました。行ないではなく、信仰によって義と認められるのです。

 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」


 この真理は、聖書の至るところで強調されています。イエスも、いろいろな場面で、このことを何回も繰り返されました。ペテロは、「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。(1ペテロ5:5)」と言われました。ヤコブも、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(4:10)」と言いました。こうして、罪人と呼ばれる人のなかに、へりくだるとは何かを見ることができました。


2C 子ども 15−17
 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。

 今日のイスラエルにいくと、嘆きの壁の近くで、よく似たような場面に出くわすそうです。ラビがいて、人々が彼から祝福をいただこうとして、彼にさわろうとします。

 ところが、弟子たちがそれを見てしかった。


 弟子たちは、イエスを守るつもりだったのでしょう。「先生は、お疲れなのだから、こんなことをさせてはいけない。」と思ったに違いありません。けれども、マルコの福音書では、イエスが憤られたと書かれています(10:14)。

 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。


 教会の指導者の中で、すぐに近寄れそうな人と、そうでない人がいます。その人のそばにいるとホットする、愛を感じる、受け入れられていると思わせる人もいれば、威圧的で、さばかれているような気がする人がいます。イエスは、前者でした。イエスは、ご自分に近づく人を、喜んで受け入れられました。


 子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

 
私たちは先ほど、罪人のなかにへりくだりを見ましたが、ここでは子どもの中に見ます。子どもは、身体的に、社会的に、低い立場を取らなければいけないような存在です。また、子どもたちほど、権威というものを理解している存在はありません。私たちは、子どもたちに英会話を教えていますが、妻が言った英語の発音を、見事に正確に真似ます。なぜなら、彼らには固定概念がなく、言われたことをそのまま受け取る能力があるからです。聖書の話をしても、そのまま真理として受け止めていきます。ここにへりくだりを見ることができます。神の国は、このような者たちのものです。

 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」


 神の国に入る、つまり救われるためには、神の御前にへりくだる必要があります。


2A 捨てることをとおして 18−30 (3つ捨てるもの)
 こうして、祈りについて見てきました。神に近づくために、執拗な祈り、へりくだった祈りが必要です。それでは次に、捨てることをとおして神に近づくことを学びます。

1B 偶像 18−23
 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 彼は、イエスが神の国について話されたのを聞きました。それで永遠のいのちについて質問しています。彼らは、永遠のいのちとは、神の国にある祝福であると考えたからです。そして、彼は、「尊い先生」と呼んでいます。イエスがどのように子どもに接しておられるのかを見て、触発されたのかもしれません。

 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」


 このイエスの発言は、2つの捉え方ができます。一つは、「なぜ、わたしを尊いと言うのですか。私は尊くない。」という捉え方です。もう一つは、「なぜ、わたしを尊いと言うのですか、それはわたしが神だからです。」という捉え方です。おそらく、イエスは後者を話されていたのではないかと思われます。わたしが神であり、わたしのうちに永遠のいのちがある、とおっしゃりたかのでしょう。


 戒めはあなたもよく知っているはずです。「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。」

 これは、十戒の後半部分の戒めです。十戒は、2枚の石板に書かれましたが、一枚目は神と人との関係が取り扱われており、二枚目は人と人との関係が書かれています。イエスは、この二枚目についてお聞きになりました。

 すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」


 これは威張っているのではありません。イエスは、「偽善者よ!」とおしゃっていません。むしろ、マルコの福音書では、イエスは彼をいつくしまれた、と書かれています。彼は実にまじめな人で、誠実な人だったのです。


 イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。

 不思議ですね。金持ちだったから、彼は悲しみました。人は、金持ちになれば幸せになると思います。けれども、ここでは逆です。


2B 人の可能性 24−27
 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」

 イエスは、ここで清貧を教えているのではありません。イエスは、この役人が神に従うのに妨げになっていたものを指摘されたのです。彼にとっては、お金が邪魔になっていました。石板の二枚目の掟は守っていましたが、一枚目は破っていました。「あなたがたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト20:3)」とあります。お金を神としていたのです。ですから、イエスはそれを捨てなさいとおっしゃられたのであって、貧しくなることが神の国にはいることではありません。それでは、イエスは、私たちに何を捨てるように命じられているでしょうか。これは絶対に手放したくないものはありますか。お金であろうと、何であろうと、イエスはそれを捨てなさいと言われているのです。


 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。

らくだは、彼らが見なれた動物の中で、もっとも大きなものです。ですから、これは不可能であるというのが、自然な読み方ですが、そう読まない人がいます。町の大きな門の端には、その小さな門がありました。それを、「針の穴」と呼ぶと言う人たちがいます。つまり、一生懸命頑張れば、らくだを通らせることができるという考えです。けれども、弟子たちはそう受け取りませんでした。

 これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
それでは、不可能ではないかという反応です。イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 神の国に入るのは、人にはできません。不可能です。神の国に入るために、自分を改善することは不可能なのです。したがって、神に近づくには、自分の可能性を捨てる必要があります。


3B 借り 28−30
 捨てるのは、自分の可能性だけではありません。次を見てみましょう。すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」

 この役人が財産を捨てることができなかったのに対して、ペテロや他の弟子たちは自分の家を捨ててまでイエスに従いました。けれども、説明しましたとおり、それをイエスがおっしゃりたかったのではありません。次をご覧ください。

 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」


 ここでは、「幾倍か」とう言葉が大事です。自分が家まで捨ててイエスに従ったとしても、その報酬は何倍にもなり、決して借りをつくることはできないのです。確かに、私たちは報いを受けます。けれども、その報いでさえ恵みであり、私たちの行なったことよりもはるかにまさったものをいただくのです。そして、永遠のいのちも私たちの犠牲的な献身によって与えられるのでなく、神からの賜物なのです。したがって、私たちが神に近づくには、神に借りをつくろうとする考えを捨てなければいけません。天国でいいところに行けるように一生懸命奉仕するというのは、明らかに間違っています。この前学びましたように、「なすべきことをしただけです。(17:10)」と言わなければなりません。


3A 叫びをとおして 31−43 (2つの乗り越えるべきこと)
 こうして、神に近づくには、自分を捨てなければならないことを知りました。それでは、最後に、叫びをとおして神に近づくことができることを見ていきましょう。

1B イエスの使命 31−34
 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。

 イエスと弟子の一行は、いよいよエルサレムに近づきました。ピリポ・カイザリヤで、ペテロが、「あなたは神のキリストです。」と告白した後から、エルサレムへの旅が始まりました。6ヶ月もかかっています。サマリヤとガリラヤの境を通ったりして回り道をしながらも、少しずつエルサレムへと向かっていました。そして、今、最後の最後の道のりを歩き始めます。エリコに行き、それからエルサレムへと歩きます。

 人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。


 メシヤが受けられる苦しみについては、旧約聖書に300以上の預言があります。有名なのはイザヤ53章や詩篇22編です。そして、「すべてのことが」実現されると強調されていることに注意してください。一部ではなく、90パーセントでもなく、全てです。私たちは、聖書の預言について、このような態度を持っているでしょうか。過去を振り返って、「なんで、あの人たちは、こんなにはっきり書かれていることを信じることができなかったのか。」と思ってしまいますが、それでは私たちは、将来に起こることをみな信じているでしょうか。弟子たちは、それが出来なかったたため、後に大きな試練の中を通らなければならないことになります。


 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。

 
ルカは、イエスを苦しめるのが異邦人であることを記しています。彼がギリシヤ人を意識して書いている事に注目してください。異邦人に対しては、異邦人が加害者であることを記し、ユダヤ人に対しては、マタイやマルコはユダヤ人が加害者であることを記しました。私たちも、そのように読んでいかなければなりません。ユダヤ人って、なんて愚かなのだろう、と思いながら読むのであれば、それは福音書が書かれた意図とはずれてしまいます。

 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。

 イエスの結論は、十字架ではなく復活でした。十字架の道を通られた後で、イエスは神の栄光に輝かれます。復活は十字架によって初めて意味を持ちます。十字架なしの復活は、サタンのわなです。自分の肉を殺してしまわないで、恵みや祝福を話したり、神の力を語るのは危険なことです。イエスが誘惑を受けられたとき、サタンに全世界の栄華を見せられたのと同じです。自分に対して死ぬとき、私たちは復活の力を経験します。
パウロは言いました。「私は、キリストと復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者からの復活に達したいのです。(ピリピ10−11)」また、こう言いました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(2コリント4:8−10)

 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

 弟子たちは、ここまではっきりと語られたことを理解しませんでした。これは、もちろん、彼らが持っているメシヤ観からあまりにもかけ離れていたからです。このように、私たちの思いが一つのものに定めらていると、自分の聴覚さえ機能しなくなります。聞こえているのですが、聞くことができなのです。けれども、「隠されていて」という表現があります。主の不思議な働きです。神は、彼らが理解できないように定められました。そして、キリストがただおひとりで、十字架につけられるようになさいました。神は、ご自分の栄光を現わすために、心を開くことも閉じることもなされるのです。


2B 人のたしなめ 35−43
 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。ダビデの子は、また別のメシヤの称号です。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。

 人々はたしなめましたが、彼は引き下がりませんでした。彼は自分の悲惨な状態を知っていましたた。切羽詰っており、必死でした。イエスが通りかかったのを聞いて、この機会を逸したら、もう二度とこの機会は訪れないことを知っていました。それで、人々がたしなめても彼は、ますます叫び立てたのです。私たちが切羽詰った状態は、往々にして人々は知られていません。ですから、私たちがそのような状態からイエスに近づこうとするとき、人々は止めに入ります。多くの人が、そのために、信仰を持たないでいます。けれども、この盲人のように、私たちは他人のたしなめをか乗り越えていかなければなりません。神に近づくには、このような叫びが必要なのです。


 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。

 イエスは、エリコに近づいておられます。十字架を間近にして、壮絶な心の戦いを持っておられます。いつもは平静を乱されないイエスでしたが、「今わたしの心は騒いでいる。何と言ったらようか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』(ヨハネ12:27)」と言われました。けれども、イエスはここで立ち止まり、盲人をそばに連れて来るように言いつけられました。私たちは、このイエスを大祭司としています。イエスは、私たちが叫ぶとき、いつでも助けてくださいます。「ですから、私たちは、あわれみを受け、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(4:16)」とへブル書の著者は言いました。


 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。

 彼は、目が見えることを信じて疑いませんでした。はっきりと確信していました。

 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。


 こうして、彼は、叫びによって神に近づきました。民がこれを見てみな神を賛美したとありますが、この「これを」とはどれを指しているのでしょうか。私は、彼がそくざにいやされただけでなく、イエスについて行くところまで見て、神を賛美したのだと思います。この人は、イエスが通りかかっておられることを聞いたとき、すでに、イエスにつき従うところまで考えていました。彼の叫びは、この目標へと一直線に向っていたのです。それゆえ、神に近づくことができました。私たちも、この信仰の一歩が必要です。これだ、と思ったら、見栄も生活が変わっても、まっすぐに進む必要があるのです。


 こうして、私たちは、祈ること、自分を捨てること、叫ぶことについて学びました。ヤコブは言います。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(4:8)


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