ルカの福音書19章 「小さな事」

アウトライン

1A 救い 1−10
2A 報い 11−27
3A 災い 28−48
  1B 原因 28−40
  2B 内容 41−44

本文

 これからルカの福音書19章を学びます。ここでのメッセージの題は、「小さな事」です。私たちは、これから、イエスがエルサレムへと近づき、実際にエルサレムの中に入られる場面を読みます。それでは、早速本文に入りましょう。

1A 救い 1−10
 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。

 それから、とありますが、イエスがエリコに入られるときに、盲人にお会いになった出来事がありました。盲人は、通りかかっておられる方はイエスだと知ると、叫んで、自分をあわれんでくださるようにお願いしました。でも、人々はたしなめました。それは、イエスが間もなくエルサレムで、ローマ帝国を倒し、神の国を立ててくださるという期待でいっぱいになっており、イエスさまがこのような盲人に関わる暇などない、という思いがあったからもしれません。同じような態度に、弟子たちが出たことを思い出してください。子どもがイエスにさわろうとするのを見て、しかりました。同じように、これから神の国を立てるという大事業に関わりなさるのだ、という切迫感からしかったのかもしれません。それに反して、イエスは、このような小さな者を受け入れられました。社会的に見捨てられ、気にも留められていなかった盲人も助け、人々の期待に反して、イエスは小さな者、小さな事に心を留めておられたのです。それから、イエスはエリコに入られますが、続けて同じ姿勢を取っておられます。


 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

 
取税人のかしら、ユダヤ人に忌み嫌われている存在です。私たちは前回、パリサイ人の祈りと取税人の祈りのたとえを読みましたが、実際の取税人が現われています。そして、「金持ち」だったとあります。私たちは前回、金持ちの役人がイエスについて行くことができなかった話を読みました。

 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。


 この金持ちは背が低く、しかもいちじくの木に登ったとあります。何とも滑稽な光景ですが、彼は、イエスをぜひとも見たいという好奇心から、無邪気にも木に登ったのです。イエスが、「神の国は、このような子どもたちのものです。」と教えられたことを思い出します。このザアカイ、イエスが話されたいろいろな教えに、ぴったりと来るような人物です。でも、彼もまた、盲人と同じように、人々から見向きもされなかった人物です。


 ところが、イエスはザアカイに声をかけられました。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

 面白いですね、イエスは、「あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言って、すでに予定を立てられていたようです。

 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。


 イエスの言われたとおりに、急いで降りて来て、しかも大喜びで迎えました。それと対照的な反応が次に記されています。

 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。

 
人々は、つぶやきました。罪人のところに行って客となった、と言っています。けれども、次に、喜ばしい出来事が起こります。

 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 ザアカイは救われました。つまり、神の国に入る者とされたのです。アブラハムの子どもなのに、神の国を相続できない失われた者が、見つけ出されました。面白いことに、ザアカイは、金持ちの役人ができなかったことを行なっています。すなわち、財産を貧しい人に施し、だまし取った物を4倍にして返そうとしています。イエスは、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがむずかしい。」と言われましたが、ザアカイは針の穴を通ってしまったのです!なぜなら、イエスがおっしゃったように、人にはできないが、神にはできることだからです。ザアカイは、生ける神に出会い、神によって財産を捨てる力が与えられたのです。


 ですから、ザアカイが救われたのは、彼が行なったことではなく、神のみわざでした。ザアカイが、子どものようにイエスを求めたところに、それが証明されています。好奇心という非常にささいなことから、神の国に入るという非常に大きな事へと導かれたのです。「先生。永遠のいのちをもらうには、どうすればよいですか。」と、自分のことを重大に考えてイエスのみもとに来た、役人とは対照的です。私たちは、日々の生活のなかで、ザアカイになっているか役人になっているか考えなければいけません。

 そして、ザアカイがイエスを見る前に、イエスがすでにザアカイの家に泊まることにしておられたところにも、神のみわざを見ることができます。ザアカイが救われようとする決断よりも、イエスがザアカイを救おうとする決断のほうがはるかに大事なのです。私たちが、自分は救われていると言うとき、どのような意識はあるでしょうか。自分がイエスのことを考えて、自分が神の救いの計画について理解して、それでイエスに従いはじめた、という意識がありますか。それとも、生ける主が自分のほうに来てくださって、主が自分を呼び出してくださったという意識がありますか。自分が神を選び取ることよりも、神が自分を選び出してくださったという確信があるとき、私たちは生ける神との交わりを持つことができるのです。

 さらに、ザアカイは、大喜びで自分の財産を捨てたところにも、これが神のみわざであることを見出すことができます。財産を捨てなさい、とイエスが言われたとき、悲しんだ役人とは大違いです。私たちは、自分を捨てなさいというイエスの命令を聞くとき、どのような反応をしますか。「こんなことは、できない。神さまに喜ばれる生活をしていない。苦しい。」と感じますか。それとも、夢中になってイエスを求めているうちに、何時の間にか自分を捨てているようになっていますか。ですから、木に登ったというとても小さな事に、神の偉大な働きが始まったのです。


2A 報い 11−27
 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。ザアカイの家の中で、たとえを話されます。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。

 
イエスがエルサレムに入られたら、すぐにローマ帝国が倒し、ご自分の国を立てられると考えていました。このような大きなことを考えていたので、ザアカイにイエスが目を留められたのを見て、「罪人の客になられた。」というつぶやきが出たのです。ですから、イエスは、小さな事に目を留めない者に対して語られます。


 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。

 このたとえは、エリコに住民にとってよく知られた話でした。というのは、その地域の領主であるアケラオが、王位を受けたいと願って、ローマに赴いたからです。けれども、アケラオを気に入らない国民は、アケラオがローマに到着する前に使いを送って、アケラオを王にしないように申し出たという記録が残っています。


 イエスは、このよく知られた出来事を用いられて、ご自分についてのたとえを話されました。まず、この「身分の高い人」は、イエスご自身のことです。イエスは、遠い国、すなわち天に昇られて、神の右に着座されました。今、イエスは、王であります。そして、イエスが天に昇られるとき、弟子たちにそれぞれ賜物をお与えになりました。ひとりひとりに1ミナを与えられました。ところで、このたとえは、タラントのたとえとは異なることに注意してください。タラントのたとえでは、ひとりひとりに与えられた金額が異なりました。けれども、ここでは一定です。また、タラントのたとえでは、2タラントもうけた者も、5タラントもうけた者も、同じ報酬を受け取っていますが、ここでは異なります。つまり、タラントは私たちに与えられた異なる能力を表していたのに対し、ミナは、勤勉さを表しています。あるいは平等に与えられている時間や機会を表しています。イエスは、「商売をしなさい。」と言われました。イエスが間もなく来られることを正しく理解している人は、多くの奉仕へと導かれます。強いられてではなくて、イエスの愛に駆り立てられて奉仕をするのです。

 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、これは、イエスが空中に再臨される出来事です。金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。

 私たちが空中に引き上げられたとき、まずキリストのさばきの御座に着きます。さばかれるといっても、罰を受けるのではなく、逆にご褒美をもらうためです。

 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』

 1ミナが10ミナになりました。確かに、商売をしたのはこのしもべですが、もうけは主のなされたことです。神のみことばは、蒔かれた種のようであり、30倍、60倍、100倍に成長することを思い出してください。私たちの仕事は、キリストにとどまり、キリストのみことばが私たちのうちで生きて働くようにゆだねていくことです。


 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

 褒美として、町が与えられます。報いが土地を支配することなんて、あまり魅力を感じない人がいるかもしれません。けれども、神は何度もアブラハムに、「この土地はあなたのものである。」と言われて、祝福の基が土地の所有であることを教えられました。アダムもそうです。神は、「地を従えよ。」と言われて、彼を祝福されました。ですから、私たちが神の国で受ける祝福は、主に土地を支配することです。そして、ここで「ほんの小さな事にも忠実だから」とあります。イエスは、小さな者、小さな事にいつも目を留められていたのを、私たちは学びました。それは、小さな事が後の状態に大きな影響を与えるからです。

 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』

 
先の者は10ミナで、ここの人は5ミナです。私たちが、平等に与えられた機会をいかに賢く用いるかによって、報いの度合いが変わってきます。


 そして次に、このような小さな事に不快感を抱いていたしもべの話が出てきます。もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。

 ふろしきに入れてしまいました。小さな事には、何も携わりたくないと思っているからです。今きいている、神の国がすぐにでも来るだろうと考えている人の心の状態です。ザアカイに対して、嫌悪感を抱いた人々の心の状態です。

 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』

 これは、悪魔が私たちに与える神さまのイメージです。サタンは、大らかで、与えて惜しまない恵みの神の姿を、私たちをすぐに罰し、私たちのものを取り上げる姿に変えてしまいます。私たちがイエスの命令を聞くときに、自分たちを縛り、好きなことをさせないような印象を持つなら、それは悪魔が与える印象です。そうではなく、イエスが私たちを罪から解放し、自由にしてあげようとお考えになって命令を与えてくださっていると受けとめているなら、それは、10ミナ、5ミナもうけたしもべたちが見た主イエスの姿です。どのように、イエスの命令を聞いているか、その聞き方が、なんと将来の報いを決めてしまいます。小さな事、それは、主イエスを、サタンの与える偽のイメージではなく、ありのままの姿で見つめることであります。


 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。

 あなたのことばによってさばこう、とあります。神の怒りは、相手がしたいようにさせてしまうところに現われます。ローマ書1章18節に、「不義をもって真理をはばんでいるあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されるのです。」とありますが、「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。(1:24)」とあります。私たちは、懲らしめを受けると意地悪されていると感じてしまいますが、何もしないことこそ、最も恐ろしいことなのです。

 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』

 このしもべは、銀行に預けることさえ嫌がりました。そうとう、主人を嫌がっていました。


 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています。』と言った。彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。

 ここには、恵みの世界で生きるか、行ないの世界で生きるかの違いが出ています。持っているものがさらに与えられるのが恵みです。私たちは、幾倍もの報いを受けることを前回学びました。そして、行ないの世界では、どんな努力もみな取り上げられてしまいます。こうして、イエスは、ザアカイの客となるご自分の姿をつぶやく人々の最期を述べられました。

 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。

 
これは、イエスが地上に戻ってこられたときのことが話されています。イエスが地上に再臨されるとき、この世をさばかれます。また、メシヤが来られたのにその方を拒む宗教指導者たちやユダヤ民族全体がさばきを受けることも意味します。


3A 災い 28−48
 この、ユダヤ人がさばかれることは、次の話で鮮明になります。

1B 原因 28−40
 これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。弟子たちは、「主がお入用なのです。」と言った。そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。

 イエスが、エルサレムに入られる様子が詳しく記録されています。エルサレムをただ歩いて入られたのではなく、いろいろな用意をして入られました。なぜでしょうか。イエスは、王としてエルサレムにお入りになるからです。神から油そそがれたメシヤとして、神の都エルサレムにご入場なされるからです。ろばの子に乗られますが、まだだれも乗ったことのないろばでした。つまり、何の汚れもない神の聖さを表しています。イエスが言われたとおりに、ろばがつながれていました。神の予知を表しています。そして、「主がお入用なのです。」と言うだけで、ろばが手渡されました。これは、神の権威です。そして、ふたりの弟子は上着をろばに敷きました。神の尊厳を示しています。そして、ろば自体は、ゼカリヤ書9章9節の預言の成就です。つまり、ご自分のことばどおりに事を行なわれる神の主権を表していました。つまり、イエスは、自らご自分がメシヤであることを公にされたのです。


 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」

 弟子たちがイエスを賛美しました。そして、メシヤ詩篇と呼ばれる詩篇118編を引用して歌ったのです。今まで、人々がイエスのことを言いふらそうとすると、決まって、「ことことをだれにも話さないように。」とおっしゃられたイエスが、今は、その賞賛をお受けになっています。なぜなら、この日は、永遠の昔から永遠の未来という時間の中で、神がお定めになった日だったからです。神は、ご自分のメシヤを人々に示されるために、全宇宙の中からエルサレムという町を選ばれて、そして、紀元32年3月14日という日を選ばれました。詩篇118編には、「この日は、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(24)」とあります。


 けれども、この日は全人類で祝われたどころか、ユダヤ民族の間でも祝われることはありませんでした。ごく少数の弟子たちの間で喜ばれただけでした。他のユダヤ人のグループは、まったく逆の反応をしています。

 するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言った。


 彼らは、弟子たちがイエスを神のキリストとして賛美しているのを理解しました。人を神と同じレベルに置くのは、とんでもない神への冒涜であることは、聖書を知っている人ならわかります。それで、しかってくださいと言ったのです。

 イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」


 石さえも叫ぶ、つまり、この日には必ずメシヤを喜ぶように神がしてくださっていたのです。


2B 内容 41−44
 パリサイ人の態度に表れているこうした姿を嘆いて、イエスは次のことを話されます。エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。

 先ほど、弟子たちは、「天には平和。」と叫びました。救い主が来られることによって、神と私たちの間に平和がもたらされます。

 しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」


 これは、文字通り、起こりました。ユダヤ人の敵であるローマが、エルサレムに塁を築き、それを包囲しました。ヨセフスは、そのときに起こったエルサレムでの惨状を伝えています。飢餓のため、ユダヤ人たちは互いに殺し合いました。生まれてくる子どもを食料にしました。そして、紀元70年、神殿は一つの石も積み残されないままになりました。少数の弟子たちだけで喜ばれたこの日、多くのユダヤ人はこれを小さな出来事として見過ごしましたが、この小さなことで大きな犠牲を払わなければならなくなったのです。


 同じように、すべての人は、イエスを自分の救い主と信じる機会が与えられています。だれかがギデオン聖書を渡してくれたかもしれません。友人がイエスについて話していたかもしれません。自分にとっては、ささいなことのように見えますが、それを無視した場合、その犠牲を永遠に負わなければいけなくなります。へブル書10章29節には、こう書かれています。「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰を受けるに値するか、考えてみなさい。…生ける神の手の中に入ることは恐ろしいことです。

 そして、キリストを信じた私たちにも、定められた時があります。神は、日々、その時々にお語りになりたいことがあります。もし、その時に聞くことができなければ、他の時に語られることはないのです。ソロモンは、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者3:11)」と言いました。また、イザヤは、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(55:6)」と言いました。ですから、私たちは、絶えず神から聞かなければならないのです。ですから、神はご自分の時を持っておられます。


3B 予兆 45−48
 宮にはいられたイエスは、

 イエスは、神殿に入られました。神が、全宇宙の中でエルサレムの町をご自分が働かれる場所として定められましたが、神殿はエルサレムの中でも、心臓部分になります。そこで何が行なわれていたのでしょうか。

 商売人たちを追い出し始め、商売がなされていたのです。それでイエスは怒られました。こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

 
神殿では祈りがなさらなければならないのです。たとえ、どんなに美しく、荘厳に造られた神殿でも、祈りという小さなことがなされていなければ、無意味であります。私たちの生活ではどうでしょうか。神に語りかける祈りが、生活の中心になっているでしょうか。それとも、「これこれ、こういうことをして、ああしよう。」というような商売の心と同じになっているでしょうか。祈りという小さなことによって、私たちの生活全体が、また、私たちを取り巻く社会全体が、そして歴史そのものが変わります。


 イエスは毎日、宮で教えておられた。

 
面白いですね。イエスは祈りのことを話されてから、教えを始められました。私たちは祈りの中で、また祈りの姿勢の中で、神の教えを聞くことができます。

 祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。

 これは、イエスが十字架につけられる週の初めの出来事ですが、ここから宗教指導者たちが、イエスを殺す計画を具体的に実行し始めました。イエスを殺す、とても罪深く醜い姿ですが、実は、これは私たちの姿です。私たちの肉は、イエスが心の中で王座を占め、私たちを教えられることを拒みます。憎みます。そうしたイエスを殺したいと願います。しかし、イエスは、十字架の上でこの罪と肉を負ってくださいました。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ5:24)」とあります。

 この宗教指導者と何も変わらない私たちは、キリストにあって死んでしまったのです。これが福音です。もう死んでしまいましたから、イエス・キリストご自身が私たちのうちで生きることがおできになります。あのザアカイのように、らくだが針の穴を通るようなことを、私たちのうちでしてくださるのです。私たちの役目は、ただ信じることです。ザアカイのよういに、子どものようにイエスを求めることです。1ミナ与えられて、それで喜んで商売することです。神が日々、語ってくださることを聞いて、喜ぶことです。小さな事が、私たちを大きく変えます。



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