ルカの福音書24章 「みことばを信じる」

アウトライン

1A イエスのことばを思い出す 1−12
  1B 問題 − 死人を捜す 1−8
  2B 結果 − 報告 9−12
2A 聖書の説明を受ける 13−35
  1B 状況 − 論じ合う(失望) 13−16
  2B 問題 − すべてを信じない 17−27
  3B 結果 − 燃える心 28−35
3A 心が開かれる 36−53
  1B 問題 − 心の疑い 36−43
  2B 確認 − 宣教命令 44−49
  3B 結果 − 大喜び 50−53

本文

 ルカの福音書24章を開いてください。ここでのテーマは、「みことばを信じる」です。24章はキリストの復活を信じることではないのですか、と思われるかもしれません。けれども、復活のキリストに出会う事と、みことばを信じることには密接な関係があります。それでは本文を読みましょう。

1A イエスのことばを思い出す 1−12
1B 問題 − 死人を捜す 1−8
 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。

 この文は、実は23章の一番最後の文の続きになっています。「安息日には、戒めに従って、休んだが、週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。」となります。23章とか24章と言う区切りは、後世の人が聖書の引用を助けるために付け加えたものであり、原文には存在しません。したがって、ルカは、十字架の記事のあとにすぐ、復活の出来事を描いています。それは、復活なしに十字架の話しを記しても意味がないからです。復活がなければ、それは福音、よい知らせではありません。パウロが言いました。「キリストが復活されなかったら、私たちの宣教は実質のないものであり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。…もし、キリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。…もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(1コリント15:14,17,19)


 したがって、私たちは、日々、キリストの十字架の尊さを味わいながら、さらに復活のいのちにあずかる必要があります。私たちは、自分の罪がキリストの十字架において処理されたことを知っています。けれども、また、キリストの復活にあって、新たないのちと新たな歩みが与えられたのです。でも、クリスチャンになったのに、生活の中で大きな違いを見出す事ができない人が多くいます。クリスチャンになっても、新たな生活、新たないのちを体験していない人たちがいます。それは、復活の事実の中にいないで、依然として十字架の出来事にとどまっているからです。これから出てくる人物も同じです。十字架の出来事にとどまり続け、キリストの復活を信じていませんでした。

 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。

 
ここでは、「見る」という言葉が3回繰り返されています。女は、石がころがしてあるのを見ました。そして、イエスのからだがなかったのを見ました。これは、紛れもなく、キリストがよみがえられた事実を示しています。ですから、喜ぶべきはずなのに、逆に、「途方にくれてい」ます。つまり、彼女たちは目で見てはいるが、本当の意味では見ていなかったのです。私たちにも、そのようなことが起こります。ある出来事を見てはいるけれども、見ていない。神が意図されているように見ていない。そのため、この女たちのように途方にくれ、行きづまってしまうのです。けれども、3回目に出てくる「見る」という言葉は、「見よ」という呼びかけ、命令形になっています。本当に見なさい。神が意味しておられるように見なさい、という呼びかけです。


 けれども、女たちは、呼びかけに応えていません。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、と書かれています。その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。

 これが、彼女たちの問題でした。死人の中にイエスを捜す、つまり、死んだイエスに仕えようとしていたのです。けれども、もちろん、死んだイエスは存在せず、実体のないものに仕えようとしていたのです。ここに、クリスチャン生活の問題が示されています。生きたキリストとの交わりがないのに、自分はイエスに仕えていると思いこんでしまいます。途方にくれ、行きづまり、落胆しているのに、自分はイエスを拝んでいると考えるのです。そこで、御使いは言いました。

 まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

 
イエスは、主にガリラヤで活動されていました。病人を直し、悪霊を追い出され、恵みのことばを語られました。弟子たちの心は期待と希望に満ちあふれ、イエスのみことばを自分たちの心にたくわえていたのです。そのことを思い出しなさい、と御使いは言っています。

 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。

 
ここで女たちはピンと来ました。あのイエスは、過去の方ではない。まだ生きておられるのだ、ということに気づいたのです。彼女たち、また弟子たちがとらえていた十字架は、失望以外の何物でもありませんでした。彼らが考えていた神のご計画とは、まったく違うことが起こったのです。しかし、真実は逆でした。罪人に引き渡されることと、十字架につけられることは、神が予め定めておられたことであり、今や、それが実現したことを確認できるわけです。したがって、彼らは、3日目によみがえるという将来の出来事にも確信を持てるはずでした。イエスが予告されたことがみな現実のものとなったのだから、これから起こることも必ず実現するだろうと信じることができたのです。女たちは、自分たちがその過ちをおかしていたことに、ようやく気づいたのです。


 女たちはイエスのみことばを思い出した。

 これが、とても大切です。みことばを思い出すことによって、途方にくれていたのが、喜びに満たされました。イエスのみことばを思い出すだけで、彼女たちの心が生き返ったのです。これが、復活のキリストにお会いする第一歩です。私たちの、実際の生活の中で、聖霊が神のみことばを思い起こさせてくださいます。イエスは、「聖霊は、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26)」と言われました。その瞬間に、私たちは、生けるキリストに出会うことができるのです。


2B 結果 − 報告 9−12
 ここから彼女たちは一変します。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。

 
こんなすごい話しを、他の人に、とくに使徒たちに話さないではいられなくなりました。一部始終を報告しました。これが、福音宣教の原型です。福音宣教は、こんな良い知らせはない、と思って他の人々に伝えることです。

 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。

 
ここの「たわごと」は、気がおかしくなった人に使われる言葉です。ですから、女たちは気が変になったのだと考えました。こうして、彼らは信じませんでした。あまりにも失望してしまい、落胆してしまい、もう信じることが恐くなったのです。信じることで傷ついた彼らは、もうこれ以上傷つくたくないという気持ちがあったのでしょう。

 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕


 ペテロは見に行きました。彼のこの性格によって、イエスを3度否定するような派手な失敗をしましたが、その一方、神との関わり合いを深めるのに手助けになったのです。


2A 聖書の説明を受ける 13−35
 けれども、このペテロとは対照的に、不信仰になっている二人の弟子たちが次に登場します。

1B 状況 − 論じ合う(失望) 13−16
 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

 彼らは、エルサレムを離れています。そして、イエスが十字架につけられたことについて話し合っています。彼らは、この女たちの証言があったのにもかかわらず、失望し、エルサレムにいる必要を見失いました。エルサレムというのは、神の国が立てられるときの都であります。多くの神の約束がエルサレムに対してなされています。そのエルサレムを離れ、どこか分からないところに行くということは、神への希望や信仰を失って、さまよい始めていることを示しています。私たちの心にも、それぞれエルサレムがあります。そして、ふたりの弟子のように、そのエルサレムからさまよい出ることがあるのです。


 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

 この日は、過越の祭りが終わったばかりなので、他にも多くのユダヤ人が故郷に帰るために歩いていたかもしれません。イエスは、その歩いている人たちの中に入って来られました。イエスは、この落胆した二人に近づいてくださっています。神は、同じように私たちにも接してくださいます。私たちがさまよい出たとき、ご自分のもとに引き寄せようとされるのです。

 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。


 目がさえぎられるのは、彼らが不信仰だったからです。イエスは目の前におられるのですが、自分が見えないでいるのです。私たちは、希望を失い、これから行くべき方向がわからないと、神はどこかに行ってしまったと感じてしまいます。しかし、真理は逆です。自分が神から離れて行き、神は近づいて来られているのに、それが見えないでいるのです。


2B 問題 − すべてを信じない 17−27
 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」

 
イエスさまには、ユーモアがおありです。もちろん、この質問は、彼らが自分自身で何を考えているのか、気づかせるためのものです。

 すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。

 
暗い顔つきになって立ち止まる、これが十字架しか見ていない人の姿です。

 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」

 あなた、もぐりですね、ということです。およそ100万人のユダヤ人が過越の祭りに参加し、イエスが十字架につけられた事を見聞きしていました。


 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。

 
ここから、彼らのイエスの見方が述べられています。イエスについての紹介がみな、「でした。」という風に過去形になっていることに注意してください。まず、行ないに力のある預言者であったと紹介しています。病人をいやす、悪霊を追い出す、5千人に給食を与える、水の上を歩かれる、こんな力強いわざをした預言者はだれもいませんでした。そして、ことばにも力がある預言者でした。イエスの山上の説教はとくにそうでしょう。私たちの世界で、イエスのみことば以上に大きな影響を与えたことばはありません。

 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。

 
イエスは、正しい方でした。でも、罪に定められたのです。それは、私たちの罪のため、全世界の罪のためです。

 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。


 望みをかけていました、となっていますね。だから、今は望みをかけていないのです。そして、このイスラエルの贖いは、栄光に輝く神の国の設立であります。争いがない。不正がない。荒野は緑地に変えられる。神の正義と平和が支配している国であります。それを期待していたのに、起こらなかったということです。


 事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。

 
見てください、ふたりは女たちの見たものは幻だと言っています。いいえ、女たちは実在の御使いを見たのです。彼らは失望し、不信仰になっていたので、過去の事実までをねじまげたのです。同じように、私たちも、落胆しているとき、思いの中で悪いことを増大させます。その出来事は事実以上に、誇張され記憶されます。そのため、正確に物事を見ていく能力まで失われてしまうのです。


 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

 彼らは、女たちの証言と、他の仲間の証言があったのにもかかわらず、まだ信じられていませんでした。それで、イエスは、このように彼らをとがめられています。彼らの根本的な問題は、イエスが指摘された、「預言者のすべてを信じない」ことです。彼らは聖書を信じていたのです。でもぜんぶを信じていませんでした。ここが、今でも生きておられるキリストに出会うか、そうでないかの分岐点になります。私たちも、福音主義の教会にいる人々なら、聖書をみな信じている、神のみことばだと信じていると言います。しかし、実際の生活において信じているかどうかは、また別であります。私たちは、ある聖書の箇所だけを信じて、自分の思いの中で、勝手にキリスト像を作り上げてしまいます。キリストはもっと、ずっと大きい方なのに、自分が信じやすいようにキリストのイメージを作り上げてしまうのです。弟子たちの場合は、栄光に輝く王の姿でした。それ自体は正しいのですが、それからローマ帝国を倒す軍事的な王というイメージを描いていたのです。ですから、聖書の箇所を一部だけ信じることは、生きているキリストを見えなくさせます。生ける神との関わり合いをなくしてしまいます。

 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。

 彼らが見逃していたのは、キリストの苦難についての預言です。詩篇22編、イザヤ書53章、ダニエル書9章26節など、キリストが苦しまれる部分をまともに信じていなかったのです。

 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

 すごいですね、イエスご自身が、ご自分についての聖書講解をされています。ここのモーセは、モーセ五書のことです。創世記なら、「女の子孫」、ノアの箱舟、アブラハムがイサクをささげるところ、ヤコブが戦った主の使いなど、いろいろあります。そして、出エジプト記なら、過越の小羊、幕屋などがあります。レビ記の動物のささげものもキリストを指し示しています。聖書全体を通しての説明がなされました。それで、先ほどの女たちと同じように、彼らの心は生き返るのです。したがって、私たちが生けるキリストに出会いつづけるには、聖書全体からの説き明かしが必要なのです。私たちは、一つだけの聖書の箇所にしがみついていると、自分自身で神のかたちを作り上げ、神の栄光がうすれていきます。しかし、聖書全体が説明されると、絶えず神の啓示が与えられるので、神の御姿が明らかになり、神の栄光をはっきりと見ることができるようになるのです。


3B 結果 − 燃える心 28−35
 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。

 
彼らのほうから、無理にいっしょにいるように願いました。イエスはまだ先に行きそうであったのに、無理にいっしょに泊まらせました。イザヤは言いました。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(55:6)」私たちが主に何かを示されたとき、その時に、無理にでも願うのであれば、生きたキリストと出会うことができるのです。

 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。


 イエスがパンを裂かれています。ふつう、パンを裂く人はその家の主人であります。つまり、このふたりは、イエスに主導権をおゆずりになったのです。私たちも、イエスに主人になっていただくとき、この方が私たちのうちに生きて働かれます。

 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

 
これで、彼らはついにイエスだとわかりました。5千人に食事を与えられた場面を思い出したのでしょうか、よくわかりませんが、わかるのは彼らの信仰が回復したことです。彼らが信じることができるようになったので、目が開けたのです。そして、イエスはもう見えるかたちでおられる必要はなくなりました。彼らが信じた今、見える方を必要としないのです。私たちは、イエスの御姿を見ることさえできれば、信仰が深まるのにと考えてしまいます。しかし、気をつけてください、イエスの御姿を見たダニエルや使徒ヨハネは、恐ろしくなり、倒れて死人のようになってしまいました!イエスと生きた交わりをするのに、見える必要はないのです。愛する人が遠くにいるとき、その愛が真実であれば、遠くにいても冷めることはありません。同じように、信仰と希望と愛それは決して絶えることはありません。


 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

 心が燃えていました。聖書の説明を聞いて、心が燃えていました。これが、復活のキリストに触れたしるしです。みことばが明らかにされて、キリストに出会ったのです。

 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、
見てください、エルサレムに戻っています。彼らはリバイバルを経験しています。十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。

 墓を見に行ったペテロにも、どこかでイエスがお会いになったようです。

 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

 
彼らも、女たちと同じように、報告しています。良い知らせ、福音を伝えています。


3A 心が開かれる 36−53
1B 問題 − 心の疑い 36−43
 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。そして、新改訳の脚注には、そして彼らに言われた。「あなたがたに平安があるように。」とあります。

 イエスはこの時をまっておられました。私たちの主が復活されたのだ、という合意が彼らの間にできるときを待っておられました。そして、話している間に真中に現われてくださったのです。教会が生きているか、死んでいるかは、この違いにあります。一人一人が生きたキリストに出会っていて、キリストが生きておられることを認めて集まるとき、教会のかしらとしてイエスが働かれるのです。

 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。

 
まだ、疑いを拭い去ることはできていないようです。もう信じてはいるけれども、疑っていたことによる恐れが影響して、イエスを霊であると誤解しました。感情は私たちをだまします。けれども、そのとき信仰にたって、神の真実を見つめることが大事です。そして、イエスは、彼らをとがめておられません。「なに、取り乱しているんだい。なにを疑っているのか!」と微笑みながらおっしゃっているような気がします。


 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」40節は脚注にありますが、イエスはこう言われてその手と足を彼らにお示しになった。とあります。

 イエスには、きちんとからだがありました。消えたり、現われたりすることはできますが、私たちの肉体と同じように肉と骨があります。キリストがからだをもってよみがえられたことを否定する異端がありますが、エホバの証人はそれに含まれます。イエスの手と足には、十字架につけられたときの釘の穴があったのでしょう。イエスが再び地上に来られるときは、使徒行伝1章によると、同じ姿で戻られるので、その時も釘の穴の跡があります。こういう歌があります。「手の釘と足の釘は、イエスがどれほど私を愛してくださったかを教えてくれる。天地が過ぎ去るとき、そのときも、その跡は残っている。永遠に、その跡は、神が私を愛してくださっていることを伝えるのだ。」


 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、彼らの目から涙がこぼれていたことでしょう。もはや恐れて信じていません。うれしさのあまり信じられていません。イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

 
確かに、イエスはからだをお持ちでした。魚を食べる事ができました。


2B 確認 − 宣教命令 44−49
 彼らの体験は、かけがえのないものになります。しかし、それだけでは不十分です。私たちは、自分の感情によって、過去の出来事をねじまげてしまうことを先ほど見ました。だから、イエスは、次にみことばを開かれます。

 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」先ほどと同じように、全部成就することが強調されています。そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。

 イエスが、彼らの心を開かれました。これが大切です。私たちが聖書を理解するのに、神が私たちの心を開いてくださらなければ、決して理解することができません。私たちはいつも、祈る必要があります。聖霊が私たちに、神のみことばを説き明かしてくださるように願うことが必要です。これで、彼らに心の疑いのいっさいが取り除かれました。そして、イエスは宣教命令を出されます。


 「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。

 イエスは、今まで起こったことを確認されると同時に、これから起こることを伝えられています。今まで、このような手法によって弟子たちは理解しませんでした。今まで起こったことが、神のご計画どおりなら、これから起こることも必ず起こる。だから信じなさい、というメッセージですが、彼らはようやく、今、それを理解しています。イエスは、これから彼らが行なう宣教について述べられました。さらに、彼らを指導されます。

 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」


 聖霊の力を受けるまで、エルサレムにとどまりなさいという命令です。これは使徒行伝の1章にも書かれていますが、使徒行伝もルカが書いたことを思い出してください。使徒行伝の1章1節には、こう書かれています。「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことまでに及びました。

 今、読んだ、「前の所」というのがルカの福音書です。だから、ルカの福音書には続編があり、それが使徒行伝なのです。


3B 結果 − 大喜び 50−53
 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。脚注には、そして、天に上られた。とあります。

 イエスは彼らを祝福されました。復活のキリストに会ったことにともなう祝福です。彼らから離れましたが、もう彼らはさみしくなる必要はまったくありません。十字架でイエスを失ったときのように、悲しむ必要はありません。なぜなら、イエスがもうひとりの助け主である聖霊を送ってくださる約束を堅く信じていたからです。イエスが見えるかたちでおられるか、そうでないかは、信じている彼らにとっては大きな問題にはならないのです。ですから、復活のキリストに出会うのは信仰によると、私たちはよくよく知っておかなければいけません。目でイエスの幻を見ることができるから、生けるキリストに出会うのではありません。イエスのみことばを信じていきるとき、本当に交わることができるのです。


 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 
ルカの福音書は、非常な喜びを抱いて、神をほめたたえてことで終わっています。では初めのことをおぼえていますか。ガブリエルは、「喜びのおとずれ」といい、マリヤもザカリヤも、それぞれ大喜びで、神をほめたたえました。したがって、福音書は喜びと賛美で始まり、そして、喜びと賛美で終わるのです。だから、「福音」の書物なのです。キリストは私たちの罪のために死なれました。でもそれだけで終わりません。私たちが新たないのちを持つために、復活されたのです。どうか、日々、生けるキリストに出会いつづけてください。



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