ルカの福音書4章 「貧しい者への福音」

アウトライン

1A 原理 − 神に仕える 1−13
  1B 神の御霊
  2B 神のみことば
2A 応用 − 人に仕える  14−44
  1B 高慢な者の拒絶 14−30
    1C 古い人への固執 14−23
    2C 肉の誇り 24−30
  2B 低い者の受容 31−44
    1C 教えの権威 31−32
    2C わざの権威 33−41
      1D 悪霊に対して 33−37
      2D 病に対して 38−39
      3D 個人に対して 40−41
    3C 臨在の権威 42−44

本文

 ルカの福音書4章を開いてください。ここでのテーマは、「貧しい者への福音」です。私たちは、前回、神と人とが近づいたことを学びました。人は悔い改めによって神に近づき、神は人と同じようになられて人に近づかれたことを見ました。イエスは、民衆とともにバブテスマを受けられて、人と同じようにアダムを先祖として持っておられました。そして、今日は、神が人に近づかれて、何をされようとしているのか、ということについて学びます。神の子が人となられた目的は何か、神に近づくことのできた私たちに、いったい何がもたらされるのでしょうか。それでは早速、本文に入りましょう。

1A 原理 − 神に仕える 1−13
1B 神の御霊
 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダン川から帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、40日間、悪魔の試みに会われた。

 イエスは試みに会われましたが、それは聖霊に満ちて、御霊に導かれたからだ、と書かれています。私たちは、いろいろな人が聖霊に満たされたことを学びました。まず、お腹の中にいるヨハネ、そして母親のエリサベツ、父親のザカリヤ、そして、イスラエルが慰められることを待ち望んだシメオンです。けれども、彼らはみな人間であって、いや人間であるからこそ、聖霊に満たされる必要がありました。

 
私たち人間は3つの部分からできています。霊と魂あるいは精神と、そして肉体です。植物には肉体はありますが、魂と霊はありません。動物は精神と肉体は持っていますが、霊は持っていません。けれども人間は、肉体と精神の他に、霊を持っています。神がアダムに鼻からご自分の息を吹き込まれた時に、そうなりました。そして、アダムがまだエデンの園にいるころ、彼は霊によって生きており、精神と肉体はそれに従っていました。食欲があっても、食欲に支配されることなく、怒りなどの感情を持っていても、それに支配されることはありませんでした。霊が支配していたからです。この人の霊は、神の霊と一体になっていました。神が人の霊と交わっておられたので、人は自分の思いと肉体の欲求を制御することができたのです。しかし、アダムが罪を犯してから、その順番が逆になってしまいました。肉体の欲求によって、その人の魂が支配されるようになってしまったのです。霊は神の御霊から離れてしまい、人は肉の思いによって生きるようになってしまいました。したがって、私たちは新たに生まれる必要があります。霊が生かされて、再び神の御霊と交わるようになることです。御霊に支配され、御霊に満たされる必要があるのです。けれども、イエスは本来、その必要はありません。神ご自身だからです。なのに、ここでは、イエスが聖霊に満ちて、御霊に導かれています。それは、人と同じようになられたからです。そして、イエスは悪魔の試みに会われます。

 その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。

 40日の間、断食をしておられて、その後に空腹を覚えられました。人間は、断食をして何日かすると、空腹感がなくそうです。そしてまたお腹が空くときに、もし何も食べないと死んでしまうので、断食をする人は、そこで断食を止めます。でも、これは、神には決してありえない問題です。人間にしかない問題ですね。イエスははじめて、肉体の欲求の問題に直面されたのです。

 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」

 悪魔は、イエスがご自分の肉の欲求に支配されるように誘惑しています。食欲とか性欲とか欲求そのものは、悪ではありません。それは、神によって造られたものであり、霊に支配されて用いるときに、神を喜ばすことができます。けれども、肉に支配されると、それは悪になります。悪魔は、イエスがそのような悪を行なうように仕向けているのです。そして、悪魔は、「あなたが神の子なら」と言っています。悪魔は、イエスに独特の誘惑を行なっています。石をパンにすることなど、私たちにはできないのですが、イエスは神の子なのでそれができるのです。そして、その誘惑は、ご自分の力を自分のために用いることでした。自分のお腹が空いているから、その力を用いることです。アダムの妻エバも、同じ悪魔から誘惑を受け、「女が見ると、その木は、まことに食べるのによく(創世記3:6)」という風に、肉の欲に訴えかけられました。そしてエバはその木の実を食べてしまいましたが、イエスはどうでしょうか。

2B 神のみことば
 イエスは答えられた。「人はパンだけで生きるのではない。」と書いてある。

 異本では、「人はパンだけで生きるのではなく、神のみことばによって生きる。」と書かれています。イエスは誘惑に抵抗されました。神のみことばによって抵抗されました。アダムと違って、誘惑に打ち勝たれたのです。アダムが最初に造られたときと同じように、イエスも、罪の性質を持たない自由意志のある存在でした。アダムはその意思を神のみこころに反することに用いましたが、イエスは神のみこころに従うことに用いたのです。ここに、人としての完全な姿が現れています。イエスが神の御霊に満たされて、神のみことばを用いられたように、人も、御霊に満たされて、神のみことばを用いることによって、誘惑に打ち勝つことができるのです。エバが悪魔にだまされたのは、自分の判断で木の実を食べたからです。しかし、イエスは、ご自分により頼むことをしませんでした。神の御霊と、神のみことばにより頼んだのです。

 また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」

 国々のいっさいの権力と栄光が、悪魔に任されているということですが、これに対し、イエスは何の反論もされていません。なぜなら、それは真実だからです。神はアダムに地を従わせるようにされましたが、アダムが罪を犯したので、それは悪魔の手に渡されました。それで悪魔は、他の箇所で「この世の神」と呼ばれています。イエスは、この世界を悪魔から神にお返しするため、つまりこの世界を贖うために来られました。ですから、「差し上げましょう」という悪魔の声は、イエスにとって大きな誘惑だったのです。これは、使徒ヨハネが、「暮し向きの自慢(Tヨハネ2:16)」と呼んでいる、この世の欲の一つです。自分に権力と栄光を引き寄せることであります。エバが悪魔から誘惑を受けたとき、「神のようになり、賢くする」という木は、いかにも好ましかった、と書かれています。イエスも同じ誘惑をお受けになりましたが、次を見てください。

 イエスは答えて言われた。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。」と書いてある。

 再び、イエスは申命記を引用されました。神にのみに仕えて、主にだけ仕えるということです。神のみこころは、そのひとり子が人と同じ姿をとって、人々の弱さをにない、最後は十字架につけられることです。十字架への道を通らなければいけないのに、悪魔はそれを通らなくても、目的のものをあげるよ、と囁いているのです。

 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。「神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。」とも、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。」とも書いてあるからです。

 イエスが、神のみことばを用いるので、悪魔も使い始めました。悪魔が神のみことばを歪曲するときに、異端が生まれます。そして、神殿の頂から飛び降りることは、目の欲に訴えています。自分がこんな高いところから飛び降りても、浮き上がるのを見てみたい、というのです。エバも、同じ種類の誘惑を受けており、「その木は、目に麗しく」と書かれています。けれども、次を見てください。

 イエスは、「あなたの神である主を試みてはならない。」と言われている。

 とあります。自分の欲のために神の約束を試すことをされませんでした。

 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。

 悪魔は、イエスから離れました。イエスが貫かれたことは、基本的に、自分に仕えるのではなく、神に仕えるということです。神の御子としての力は、決して自分のために用いるのではなく、父なる神のために用いるためにあります。ところで、悪魔は、「しばらくの間」イエスから離れた、とあります。彼のイエスに対する攻撃は、十字架に至るまで続きます。ゲッセマネの園における祈りは、まさに壮絶な霊の戦いでした。イエスが十字架の上で死なれて、3日目によみがえることによって、悪魔は完全に敗北しました。今は、彼は、イエスの御名を聞くと、恐れて逃げなければならないのです。

2A 応用 − 人に仕える  14−44
 イエスは御霊の力を帯びて、ガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。

 イエスは、ガリラヤ地方のシナゴーグで、人々に教え始められました。ラビとして教えられ始めたのです。イエスは、ご自分ではなく、神にお仕えすることを貫かれましたが、神への奉仕は、人々への奉仕につながります。人々を教えて、人々の必要を満たすことに、イエスは専念されました。そして、その教えのゆえに、イエスはあがめられました。「このユダヤ人教師の話は、すごい。みんな聞きに行こう。」というような、期待感がみなの間に広まったのです。

1B 高慢な者の拒絶 14−30
 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いっものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。

 イエスが会堂に入って教えられたのは、いつものとおりのことでありました。ナザレの人々にとって、イエスは見慣れた人であり、イエスが朗読するのも見慣れた光景だったのです。

1C 古い人への固執 14−23
 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が貧しい人に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおりに実現しました。」

 つまり、イエスは、この預言の「わたしは」はご自分のことであることを話しています。主の御霊がイエスの上におられて、そして貧しい人に福音を伝えるように遣わされました。貧しい人に対する福音、あるいは良い知らせとは何でしょうか。貧しいとは、経済的な貧しさだけでなく、精神的な貧しさ、霊的な貧しさも含みます。必要を感じていて、欠乏しており、自分のいたらなさを感じている人々のことであります。そうした人たちの必要が満たされること、豊かにされることが良い知らせであり、福音です。イエスが神から遣わされたのは、まさにこの理由からです。そのために、ヨセフという普通の家庭にお生まれになり、そして、人としての誘惑をお受けになりました。そして、貧しい人々への福音として、具体的に、捕らわれている人に赦免が、盲人が目を開き、しいたげられている人々が自由になります。そして、それは、「主の恵みの年」であります。新しい年です。いろいろな意味で束縛されていて、暗やみの中にいた人間の世界に、神が介入されます。そして、人々のうちに、神の新しい働きが始まるのです。その新年が、今日、始まりました、とイエスは言われているのです。

 
みながイエスをほめ、これは、「証言する」という意味です。その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。

 人々は、イエスが非常に恵み深い説教をされたことに、驚きました。教師として彼を認めましたが、しかし、イエスを「ヨセフの子ではないか。」と言って見下しています。私たちは前回、バプテスマのヨハネが人々の人気を得たが、イエスはそうでなかったことを学びました。それは、くり返しますが、私たち人間の日常生活の真中に、福音が行き届き、私たちがそこで変えられて行くためであります。イエスは、目の見張るような場所に存在してはおらず、私たちの日常生活の、しかも暗やみの部分に存在されているのです。そして、その部分が変えられることによって、私たちは本当に喜ぶことができます。でも、私たちは、そうした核心部分に触れられるのを嫌がり、いつまでも同じままでいたいと願っています。ナザレの人々が、「ヨセフの子ではないか。」と言ったように、古いものに固執しようとし、「あなたは変わります、神は新しく働かれます。」というメッセージを受けても、「いや、今まではこうだったから、そんなことは無理でしょう。」と言って、不信仰に陥っているのです。

 イエスは言われた。「きっとあなたがたは、「医者よ。自分を直せ。」というたとえを引いて、カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」

 これは、自分は神に仕えたくないが、祝福はもらいたい、という態度です。俗に言う神頼みです。「自分を直せ」と言っているように、非常に自己中心的です。自分の必要が満たされることを求めているのではなく、自分の欲が満たされるのを求めています。エジプトの王、パロも、同じことを言いました。「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。」と言いましたが、モーセが祈ってかえるが取り除かれると、再び心をかたくなにしました。なぜなら、神を信じることはできないというのは言い訳にしかすぎなく、私は、自分のために生きており、神には仕えないと心に決めているからです。

2C 肉の誇り 24−30
 また、こう言われた。「まことにあなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。」

 その例を、次にイエスは挙げられます。

 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、3年6ヵ月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」

 イスラエルのために神から遣わされた預言者が、異邦人のところに行って、異邦人がその便益を受けました。なぜなら、イスラエルの民が心をかたくなにしていたので、エリヤもエリシャも受け入れなかったからです。

 これらのことを聞くと、会堂にいた人々はみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

 彼らは、怒り狂いました。イエスを殺そうとさえしました。なぜ、そこまで怒ったかと言いますと、預言者が異邦人に遣わされたことを聞いたからです。ユダヤ人は、自分の民族に誇りを持っています。そして、異邦人は、地獄の火の燃料のために造られたぐらいにしか考えていませんでした。非常に軽蔑していたのです。それで、怒り狂いました。民族に限らず、肉の誇りは、福音に真っ向から対立します。それで、真実を示されたとき、ものすごい怒りや落ち込みが生じます。パウロは、「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。(ローマ8:7)」と言いました。私たちが肉の思いから解放される方法は、十字架につけられたキリストを見ることです。同じくパウロは、「しかし私たちには、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。(ガラテヤ6:14)」と言いました。

 
しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。

 イエスは、彼らが投げ落とそうとするのを見事に避けることができました。悪魔は、御使いがあなたを守らせる、あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らがあなたをささえる、という聖書のことばを引用しましたが、皮肉なことに、今ここで、それが実現しています。イエスにはすべきことがまだたくさんあったので、神はこのようにして、イエスを生かしてくださったのです。

2B 低い者の受容 31−44
 こうして、心をかたくなにしている人たち、自分の貧しさを認めることのできない人たちを見ましたが、次は、認める人々の話を読みます。イエスの福音が受け入れられていく場面を読みます。

1C 教えの権威 31−32
 それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。

 場所は、ガリラヤ湖畔の町カペナウムです。ここにいる人々は、ナザレの人々とは異なり、イエスの教えの権威を認めました。イエスは、ふつうに、ラビとして教えを垂れましたが、それでもそのことばに権威があることを認めたのです。ここに、福音を受け入れる貧しい人々の姿が描かれています。それは、教えの権威を認めることです。聖書のことばが真理であると認めて、それを自分の生活の権威としても認めます。励ましのみことばを読んだら励まされ、慰めのことばを聞いたら慰められ、訓戒のことばを聞いたら、心痛めて悔い改めるような態度です。みことばを自分で納得するよりも、みことばに支配されることを選ぶ人々であります。そうした人に、主の恵みがとどまるのです。

2C わざの権威 33−41
1D 悪霊に対して 33−37
 そして、次に、ある安息日での話が載っています。また、会堂に、汚れた悪霊のつかれた人がいて、大声でわめいた。「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

 汚れた悪霊がめわき始めました。

 「いったい私たちに何をしようというのです。」

 というのは、「ほっといてくれ!」と訳すことができます。「お前はキリストを信じてもいいが、俺には関係ない。ほっといてくれ。」という態度は、悪霊から出たものです。そして、「あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。」と言っていますが、いや、イエスは人々を救いに来られたのです。しかし、多くの人は、キリスト教は私たちをさばいて、私たちの平和を揺るがすものである、と思っています。これも悪霊のせいです。最後に、「あなたは神の聖者です。」とありますが、悪霊は、霊の世界に生きているので、イエスの本当の姿を知っていました。イエスは、永遠の昔から生きておられるキリストであることを彼らは知っていたのです。

 イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け。」と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人には別に何の害も受けなかった。

 悪霊につかれた人は、何の害も受けませんでした。イエスから取り扱いを受けても、悪魔が教えるように滅びることは決してなく、何の害も受けません。

 人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったのだ。汚れた霊でも出て行ったのだ。」こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった。

 
人々は、イエスのことばに、悪霊を制する力をあることを認めました。悪霊に対して、イエスが力のあることを認めました。つまり、イエスの教えだけではなく、イエスの行われるわざに権威を認めたのです。これも、福音を受ける貧しい人の姿です。自分の生活に、人生に、イエスが新しい働きをされることを認めます。受け入れます。自分がイエスによって変化することを願います。

2D 病に対して 38−39
 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家にはいられた。ペテロのことです。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。

 人々のはうから、イエスにお願いしています。イエスに病をいやす力があることを認めているのです。

 イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。

 
熱をしかりつけておられます。イエスは、悪霊のときと同じように、ご自分のことばでもって力を示されました。こうして、悪霊だけでなく、病に対してもイエスが権威を持っておられることがわかります。悪霊は目に見えないことでありますが、病は肉体的なことです。私たちは、目に見えないことに対しては信仰を持ちやすいのですが、目に見えることについては、不信仰になりがちです。しかし、そこの分野においてもイエスの権威を認めるのが、貧しい者の姿です。

3D 個人に対して 40−41
 日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人々がみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。

 今度は、イエスはひとりひとりに手を置かれています。イエスは、個人個人にふれられたのです。同じように、私たちにひとりひとりにも手をふれてくださいます。「あの人にはそうかもしれないが、私は違う。」ではないのです。自分のその独特の状況の中にイエスはおられて、そして、そこで働かれるのです。個人に対するイエスの権威を認めることも、貧しい者の姿です。

 また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です。」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。かれらはイエスがキリストであることを知っていたからである。

 悪霊は、またイエスを、神の子キリストであると叫びました。彼らは知っていたのですが、民衆は知らなかったのです。しかし、イエスは、まだ民衆には知られないようにされました。それは、知られるようになる時が神によって定められていることもありますが、イエスの人々に対する配慮もあります。イエスは、無理強いして人々を信じさせることをされませんでした。少しずつ、ご自分はだれなのかを示されたのです。彼らの能力に合わせて、彼らが福音として受け入れられるところから奉仕を始められたのです。相手の人格を認めたミニストリーを行われました。

3C 臨在の権威 42−44
 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないように引き止めておこうとした。

 
群衆は、イエスがいっしょにおられることを強く望みました。イエスがともにおられることによって、自分たちが自由になることを知っていました。イエスの臨在に、力があり、権威があることを認めたのです。私たちは、イエスの教えと、わざだけでなく、イエスがともにおられることを認めることによって、福音を受け取ることができます。いつでもイエスがともにおられることを知っていることが、貧しい者の姿です。

 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「他の町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」

 イエスは、一定の人々だけでなく、なるべく多くの人々にこの福音を宣べ伝えそうとされました。なぜなら、イエスはすべての人の救い主だからです。私たちは、そのように認めているでしょうか。自分に関係のある人たちだけの救い主ではなく、この地域の人々、この国、そして世界中の人々の救い主なのです。それが宣教への思いになります。

 そしてユダヤの議会堂で、福音を告げ知らせておられた。

 異本では、「ガリラヤの議会堂」となっています。こうして、イエスはガリラヤの至るところで、福音を告げ知らせておられました。イエスの願いは、全世界で福音が告げ知らされることです。カペナウムで力強く働かれたイエスは、ここにも生きておられます。まず、私たちひとりひとりの心の中を点検して、自分がナザレの人のようになっていないか調べてみましょう。そして、キリストの新しい働きを、神の恵みの年を受け入れて、カペナウムの人々のようになりましょう。イエスは、貧しい者に福音を告げ知らせておられるのです。


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