ルカの福音書5章 「新しい働き」

アウトライン

1A 新しい人 1−16
  1B 新しい歩み 1−11
  2B 新しいいのち 12−16
2A 古い人 17−39
  1B 罪の赦しに反対 17−26
  2B 罪人との交わりに反対 27−32
  3B 食事に反対 33−39

本文

 ルカの福音書5章を開いてください。ここでのテーマは、「新しい働き」です。私たちは前回、イエスが福音を伝え始められたところを読みました。人々を会堂で教え、悪霊を追い出し、熱病をいやし、そしていろいろな町々を巡り歩かれました。そして、5章では、この新しい働きを人々がどのように受け止めていくかが書かれています。それでは、本文を読みましょう。

1A 新しい人 1−16
1B 新しい歩み 1−11
 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸辺に小舟が2そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

 群衆は、押し迫るように神のみことばを聞いていました。私たちは、前回、人々がイエスの教えに驚いたことを見ましたが、彼らは神のみことばに飢え渇いていました。神のみことばに期待し、イエスが教えられるのを、目を輝かして聞いていたのです。けれども、漁師たちに注目してください。人々がイエスの教えに聞き入っているとき、彼らはただ網をつくろって仕事をしていたのです。特に強い関心を寄せていません。聞いてはいたが、積極的ではありませんでした。

 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。

 その漁師のひとりはシモンでした。彼の名前が出てきたのは初めてではありません。4章38節には、シモンの家にイエスがはいり、シモンのしゅうとめをおいやしになった話が載っています。シモンは、イエスとその奇蹟のわざを見ていました。そして、実は、シモンはイエスに呼ばれて、すでにイエスについて行き始めていたのです。マタイの福音書に、そのことが記されています。シモンの兄弟アンデレ、またその仲間のヤコブとヨハネも、同じようにイエスに従っていました。けれども、彼らは、また自分たちの仕事に戻り、イエスのそばにはいたが、イエスが教えられているのを網をつくろいながら聞いたいたという有様だったのです。私たちも、初めてイエスさまに呼ばれてクリスチャンになっても、前から続けている仕事などによって、シモンのようになることがありますね。 イエスが新しい働きを始めておられるのに、古いものに戻ってしまいます。

 そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

 昔のユダヤ人教師は、このようにすわって教えをしていました。

 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、綱をおろして魚をとりなさい。」と言われた。

 イエスは、話を終えられました。終えられてから、奇蹟を行なおうとされています。4章には、イエスが教えられているとき、悪霊があばれたので、しかって悪霊を追い出された箇所がありますが、イエスの教えに権威があることが示されました。同じように、ここでもイエスはお示しになります。そして、それを、シモンの持ち舟の中で、しかも、漁という仕事の中で示されようとしています。シモンにとって、漁は自分の一部でした。それは、彼の得意としたところであり、彼の生活はそれによって成り立ち、漁がなければシモンはなくなる、と言っても過言ではありませんでした。つまり、自分のもっとも頼りとする生き方だったのです。しかし、そのところに、イエスが介入されようとしています。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われました。

 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

 シモンは、イエスを、「先生」と呼んでいます。ラビとして認めています。そして、昨夜、漁をしたけれど、何一つとれないことを認めました。自分の得意とするところで、何もできなかったということであります。自分の限界を知ったのです。けれども、この「でも」という接続詞がとても大切です。限界を認めながらも、みことばに従いました。神は、新しいことを行われるときは、いつもこのようにされます。まず私たちに、自分たちの限界を悟らせます。自分の生き方に行き詰まるようにされます。自分でいろいろやってみて、何とかうまく行っているように見えるのですが、状況はよくなっていません。ああ、どんなことをやっても、結局はだめなんだと思ったときに、神は初めてことばをかけられます。そして、私たちがみことばに従うように促されるのです。

 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、綱がやぶれそうになった。

 シモンの生き方では何一つとれなかったのに対し、イエスの一言によって、このような大漁になりました。シモンの努力とイエスの働きが対照されています。

 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図して、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、2そうとも沈みそうになった。

 今度は、シモンだけでなくて、ヤコブとヨハネもイエスの奇蹟を体験しました。

 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のようなものから離れてください。私は、罪深い人間ですからと言った。

 シモンはここで、ペテロと呼ばれています。ペテロはイエスによって付けられた名前です。この時点から、自分で生きることから、イエスによって生きるようになるからです。それで、ペテロはひれ伏して、「主よ。」と呼びました。今までは自分の得意とするものをもっていて、自分を主体として生きていましたが、今度はすべてをイエスにゆだねるようになります。そして、彼は自分の罪深さに気づきました。イエスに本当の意味で出会ったからです。預言者イザヤは、主を見て、「ああ。私は、もうだめだ。」と言いました。ダニエルも、主の御姿を見て、「私の顔の輝きは失せ、私の尊厳は破壊に向いた。」と言いました。心に貧しさがおとずれたのです。神が新しいことを私たちにうちで行われるとき、私たちは、自分のいたらなさを本当の意味で知るようになります。

 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコプやヨハネも同じであった。

 この二人もペテロのように、自分の罪深さを知りました。

 イエスはシモンに言った。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになります。」

 イエスはシモンを慰められました。心を貧しくした者は、必ず慰められます。そして、これから後、とイエスは言われました。今までとは違います。クリスチャン生活は、今までの生活の延長線上にはありません。全く新しいのであり、イエスを見つめて歩むときに、古い生活から解放され、それは過ぎ去ったことを知るのです。そして、人間をとるようになる、と言われました。あの大漁は、ペテロがこれから多くの人の魂をとるようになることを予め表していました。今までは魚を死なせる働きをしていたのですが、これからは、人を生かす働きに入れられます。

 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

 ここには、イエスが、「わたしに従いなさい。」と命じられていないのに、イエスに従ったことに注目してください。彼らは自ら進んで従ったのです。それは、イエスがどのような方なのかを理解し、自分たちの限界を知り、イエスから約束をいただいたからです。これらことがあれば、私たちも自ずとイエスに従うようになります。

 例えば、イエスは祈りなさいと勧められるよりも、祈ったらこうなりますという約束を多く話されました。願ったことは何でもかなえられる。信じれば、そのとおりになる。必ず聞いてくださるなどです。これらを真に受け止めるとき、自ずと祈りに導かれるのです。もし、ただ、「祈りなさい。」という命令だけを行なおうとすれば、私たちの祈りは儀式的になってしまいます。このように、彼らは、イエスがどんな方なのを知って、約束を与えられたので、自ら進んでイエスに従いました。

 こうして、イエスの働きによって、ペテロなどの漁師が新しい生き方を始めました。人生の方向性が変わりました。今までの生活様式を捨てて、新しい歩みを始めました。

2B 新しいいのち 12−16
 さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」

 一人のらい病人が登場していますが、彼は、最初からイエスを「主」と呼んでいます。漁師たちとは違って、最初から、イエスが働かれるのを受け入れようとしています。なぜなら、もうすでに自分の限界を知っていたからです。彼の体は、全身らい病でした。らい病は、律法で汚れているとされ、他のイスラエル人に触れることは決してできませんでした。しかも全身にそれを患っているのです。治癒の可能性は、人間的にはゼロです。また、漁師たちが自分たちのしていることに限界を感じたのに対して、彼の場合は、自分の姿そのものに限界を持っていました。自分の生き方よりも、自分のあり方に問題があったのです。例えば、自分はこういう親を持っているとかは、自分の姿です。私たちは、このような親を持ち、このような環境で育ったのだから、これからの人生は決まっていると考えます。しかし、このらい病人は、イエスならそれさえも変えることができると考えたのです。

 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。

 イエスは手を伸ばして、彼にさらわれました。これは律法では禁じられたことです。けれども、イエスはこのらい病人をあわれまれました。イエスは、私たちにも触れてくださいます。それに、さわったら、らい病は感染します。しかし、イエスの場合はそんな心配はありません。むしろ、イエスのきよさがらい病人に感染するからです。イエスは、わたしの心だ、と言われました。らい病人が自分がきよめられたいと願う以上に、イエスがそう願われていたのです。私たちも、自分たちがきよめられたいと願いますが、自分が願う以上に、イエスが願っておられるのです。

 イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司たちのところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのために、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」

 この儀式はレビ記に記されています。イエスは、自分を見せなさい、とこの人に命じられました。自分の身に、イエスのみことばが実現したのです。自分自身が人々へのあかしになったのです。彼が何かをしたから、あかしになるのでなく、彼自身がもうあかしだったのです。このように、イエスの働きによって、彼に、新しいいのちが与えられました。今までの自分そのものが変わり、全く新しくされたのです。それは、彼が自分のすべてをイエスになげうったからです。

 しかし、イエスのうわさは、ますます広がり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらうために集まって来た。

 ここに、イエスがきよめられたらい病人に、「だれにも話してはいけない。」と言われた理由が書かれています。イエスが有名になったからです。父なる神のことではなく、イエスご自身に焦点が当てたからです。

 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

 イエスは、さまざまな人を教え、いやされましたが、それはご自分の意思で行なったのではありません。父なる神に言われたことを聞いて行われたのです。ですから、大事なのは父のみこころです。だから、祈りを大事にされました。私たちはどうでしょうか。神の御子であるイエスさえが、祈りを必要とされていたのですから、私たちはなおさらのこと祈りが必要です。

2A 古い人 17−39
 こうして、イエスの働きによって、人々の歩みが新しくなり、また、人々の姿が新しくなりました。次も同じように、人々が新しくされていますが、それに不満を持つ分子も登場します。

1B 罪の赦しに反対 17−26
 ある日のこと、イエスが教えられていると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤのすべての村々や、エルサレムから来ていた。

 パリサイ人と律法学者も、群衆たちと同じように、いろいろなところから来て、イエスの教えを聞いていました。

 イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。するとそこに、男たちが、中風をわずっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。

 彼らは、イエスが中風の人のところに来られるのを待ったのではなく、彼らのはうからイエスに近づきました。床に伏せって歩くことができないからといってあきらめることをせず、床ごと中風の人を運んだのです。

 しかし、大ぜいの人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。

 イエスは、人々によって囲まれていました。どこからも遮られていました。しかし、彼らは、屋根をはがしてイエスに近づきました。彼らにとって、人々はイエスに近づかない理由とならなかったのです。私たちの信仰生活も、人々がいるからといって妨げられません。人間関係で自分の信仰の成長が止まることはありません。自分が求めれば、自分が捜せば、必ずイエスとお会いすることができるのです。そして、イエスは、「彼らの信仰を見」られました。彼らの一連の行為は、信仰の現われでした。イエスという方を、何となく見聞きするのではなく、まさに自分のこととして受け止めていく姿です。イエスを、個人的に自分のものとしていくこと、イエスと自分との間にはだれをも入らせないこと、そうした態度が信仰であります。

 イエスは、「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。

 イエスは、罪について言及されています。先ほどから、罪という言葉、罪に関連する言葉が出てきました。ペテロは罪深い人間と言いました。らい病人は、きよめられたいと願いました。このように、イエスは罪を処理する存在として紹介されていましたが、ここで、はっきりと、それが罪を赦す役目をご自分が持っていることを宣言されたのです。というのは、罪がすべての問題の根本だからです。アダムは、罪によって、汗水流して働かなければならなくなりました。だから、ペテロも、夜通し働いたのに何一つとれなかったのです。また、アダムの罪によって、病も人類の中に入ってきました。だから、らい病も罪を起源としています。そして、罪によって直接、病になることがあります。この中風の者はその可能性があります。なんらかの不正な性的関係をもって、梅毒になり、中風の症状が出てきた可能性があります。だから、根本の問題は罪なのです。その解決を、この病人を直す前に、まず最初に宣言されました。福音のもっとも大切な側面は、罪の赦しなのです。

 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人はいったい何者だ。神のはかに、だれが罪を赦すことができよう。」

 彼らは理屈を言いました。神を知るために律法に精通していたのでなく、理屈を言うために精通していました。神のみことばを聞いたら、それに従うことが目的なのに、知識を増し加えることが目的となっていました。私たちもよく陥る過ちです。彼らは、ペテロやらい病人のように、イエスを主とすることをせずに、自分を主としながら律法を学んでいたのです。彼らが言ったことは、神にしか罪を赦すことはできないということですが、それは真理です。なぜなら、罪とは、神の言われることを聞かないことだからです。

 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。」

 イエスは、彼らの理屈を責められました。彼らは、頭の中では罪の赦しを信じていましたが、実際に罪が赦されるのを見たら、すかさず拒否したのです。考えとしては神の働きを受け入れていたのですが、実際面ではそんなことはあってはならないと考えていたのです。

 「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」

 もちろん、この答えは、罪が赦されたと言うほうがやさしいです。罪が赦されること自体は目に見ることはできないから、たとえ、赦されていなくてもごまかすことができます。でも、起きて歩けはごまかせません。

 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」

 人の子とは、単なる人間であることを示す言葉でも用いられましたが、メシヤの称号でもありました。イエスは、ご自分の存在を少しずつ明らかにされています。そして、罪を赦す権威は、メシヤに与えられています。

 「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると彼はたちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。

 罪の赦しが、立ち上がり家に帰ることで証明されました。目に見えない真理が、目に見えるようになったのです。しかし、これをパリサイ人、律法学者は拒否しました。私たちはどうでしょうか。罪の赦しを信じているが、実際に神が自分のうちで働かれるのを拒んではいないでしょうか。自分が過去にしたことによって、今はこうなっている、とあきらめていないでしょうか。愛はすべてを信じて、すべてを期待することです。イエスを愛しているなら、イエスに期待しなければならないのです。

 人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言った。

 いやされた中風の者も神をあがめたし、彼らも神をあがめました。これが、イエスが奇蹟を行われる目的です。ご自分の評判ではなくて、神があかしされることを目的とされていました。そして、ここでも、人々は驚いています。新しい働きを真に受け止めていたからです。

2B 罪人との交わりに反対 27−32
 この後、中風の者がいやされた奇蹟の後に、イエスは出て行き、取税所にすわっているレビという人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。

 
レビとはマタイのことです。彼も、ペテロやヨハネたちと同じように、イエスの行われたわざを見聞きしていました。そして、そのイエスが彼に個人的に目を留めてくださいました。取税人は汚い職業と考えられていましたが、イエスはいっしょに付いて来るように言われました。どのような不利に見える状況があっても、それがイエスにお従いしない理由とはならないことが、ここからわかります。いや、むしろ、不利な状況であると認めることができる人に、イエスに従う資格があるのです。

 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

 すわっているところから立ち上がりました。私たちが今、人生の中ですわっているところから、立ち上がることができるでしょうか。

 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に書いていた。

 いいですね、自分の家にイエスを招きました。私たちも、自分のところにイエスさまをお招きしたいですね。

 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」

 彼らは、イエスに直接ではなくて、弟子たちに向かってつぶやきました。先ほどは心の中でつぶやきましたが、彼らはいつも、イエスを直接見ることを避けたがります。横目でイエスを見ているのです。そして、彼らは、イエスが罪人と交わっていることについてつぶやきました。いっしょに飲み食いすることは、当時、お互いに一つになることを意味していました。したがって、罪人と食事をすることは、罪人といっしょになることであり、パリサイ人はそれを細心の注意を払って避けたのです。

 そこでイエスは言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

 イエスは、罪人を招くために来られました。悔い改めた罪人と交わるために来られました。先ほどは、イエスは罪の赦しを宣言されましたが、それは、人間が神と交わるためであります。罪が人を神から引き離しますが、罪が赦されて、神といっしょになることができます。その福音を今、イエスは実際に現しておられたのですが、そのことを彼らは拒否したのです。彼らは、自分が罪人と離れることに気を使いましたが、自分自身が罪人であることに気づきませんでした。自分自身が神から離れていることを知りませんでした。これは、イエスの新しい働きを受け入れなかった結果です。罪の赦しを受け入れない者は、神との交わりをすることができません。結果的に、神との断絶を味わいます。

3B 食事に反対 33−39
 彼らはイエスに言った。 ついに、彼らはイエスに直接、語りかけました。ようやく、本音が出てきました。「ヨハネの弟子たちは、よく断食もしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」

 
彼らの本音は、「今まではこうだったのに。」というものでした。それがあったので、イエスの言うことなすことが、気にくわなかったのです。この、「今まではこうだったのに。」という思いが私たちを支配すると、クリスチャンとしての成長が止まってしまいます。なぜなら、クリスチャンは、いつまでも悔い改める存在、変化し続ける存在だからです。今まではこうだったから、これからもこれでいいや、というのは、パリサイ人が持っていた考えと同じであります。

 イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。」

 彼らは、弟子たちが断食をしないことで文句を言いましたが、断食とは悲しむとき、嘆くときに行ないます。彼らは、いつもそれを行なっていたということは、彼らが神とともにいる喜びを持っていなかったことに他なりません。それに対して、弟子たちは喜んでいました。神との交わりが回復すると、いつもそこには喜びがあります。神と交わることによって喜びがあふれます。けれども、パリサイ派の人たちは、罪の赦しを信じていなかった結果、神との交わりがなくなっており、神との交わりがないので、悲しみと嘆きしかなかったのです。もちろん、彼らはそんなことを考えて断食していたのではありません。しかし、本物が現われたとき、実際に罪の赦しと神との交わりと、主にある喜びを目の前で見たとき、自分たちがそうでないことに気づいたのです。

 「しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」

 その時とは、イエスが十字架につけられる時です。そして、最後に、5章全体のまとめのような話が載っています。

 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。」

 新しい布切れは洗うと縮むので、古い着物に継ぎをすれば古い着物が破れてしまいます。

 「また、だれも新しいぶどう洒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう洒は新しい皮袋に入れなければなりません。」

 新しいぶどう酒からは、ガスが出てきます。新しい皮袋は伸縮牲があるので大丈夫ですが、古い皮袋は固くなっているので、新しいぶどう酒を入れると破れてしまいます。この2つのたとえから分かることは、古いものを捨てなければ、新しい働きを受け入れることはできないことです。イエスは、貧しい者に福音を宣べ伝えられました。貧しい人とは、古い自分に死んだ人のことです。ペテロのように、らい病人のように、今までの自分の生き方や、自分のあり方に限界を認めている人です。だから、新しい働きが起こったときに、古い人を脱ぎ捨てて、キリストにある新しい人を身に着けることができるのです。古いものを持ったままで、新しい働きを受け入れることはできません。そして、次に、イエスが彼らの問題の核心を突かれています。

 「また、だれでも古いぶどう洒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」

 パリサイ人、律法学者は、古い物のほうが良いと考えていました。他の人々は、新しい物が良いと考えて、イエスの教えとわざを受け入れていきましたが、彼らは古い物が良いとしたのです。みなさんはどうでしょうか。イエスの新しい働きを、自分のものとしたいですか。それとも、今のままでいいと思いますか。罪の赦し、神との交わり、主にある喜びを実際に体験したいと思いますか。それとも、頭で信じているだけで、今のままでいいと思いますか。選択は、ひとりひとりにあります。お祈りしましょう。


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