ルカの福音書6章 あわれみへの呼びかけ」

アウトライン

1A あわれみの現われ 1−19
  1B 反対の中 1−11
    1C 弟子 1−5
    2C 群衆 6−11
  2B 選びの中 12−19
    1C 使徒 12−16
    2C 弟子と民衆 17−19
2A あわれみの教え 20−49
  1B 保証 20−26
    1C 幸いな者 20−23
    2C 哀れな者 24−26
  2B 勧め 27−38
    1C 敵への愛 27−31
    2C 無条件の愛 32−36
    3C 赦し 37−38
  3B 吟味 39−49
    1C 目 39−42
    2C 実 43−45
    3C 土台 46−49

本文

 ルカの福音書6章を開いてください。ここでの主題は、「あわれみへの呼びかけ」です。私たちが前回、学んだ中で、ペテロがイエスに呼び出された部分がありました。彼は、自分には何もできないことを知ったのにもかかわらず、「あなたは人間をとるようになります。」という約束を信じて、イエスに従うようになります。このように、私たちには何もできないと知るときに、主はあえて、「こうしなさい。」と呼びかけられます。私たちは、6章で、この「呼びかけ」あるいは「召し」について学んでいきたいと思います。そして、イエスは基本的に、ご自分が示されたあわれみを、あなたがたも他人に示すようにと呼びかけられております。

1A あわれみの現われ1−19
1B 反対の中 1−11
1C 弟子 1−5
 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」

 パリサイ人たちが、再びイエスのところに来ています。私たちは、前回、中風の者にイエスが、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われたのを聞いて、彼らが理屈を言ったことを読みました。さらに、イエスが罪人と食事されること、弟子たちが断食をしないことを責めました。そして、今、弟子たちが麦の穂を摘んで、手でもみ出して食べていることを咎めています。けれども、弟子たちのしていたことは、全く律法にかなったことでした。申命記に、「隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは手で穂を摘んでもよい。(23:25)」とあります。しかし、彼らが持っていた伝統によると、刈り入れやもみがらふるいは、神が安息日に禁ずる働くことになりました。それで、弟子たちが穂を摘むことは刈り入れ、手でもみ出すことはものがらふるいと彼らは考えたのです。

 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデの連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。」

 イエスは、「読まなかったのですか。」と言って、聖書を持ち出されています。彼らが聖書を知っていることに誇りを持っていたため、皮肉を込めてそうおっしゃっています。

 「ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない備えのパンを取って、自分も食べたし、友の者にも与えたではありませんか。」

 ダビデは、ユダヤ人が敬う名君であります。その彼が、律法を犯しても罰せられなかった記事を、イエスは引用されています。神の家にある備えのパンとは、聖所にある机の上に置いてある12個のパンです。これは、イスラエルの12部族を表していました。そして、これは聖なるものであり、祭司が食べると律法には書かれています。しかし、ダビデは罰せられませんでした。その理由は、「ひもじかったから」だとあります。人々の必要が満たされるのを妨げるまで、律法の伝統が拡大すべきではない、というのがイエスの主張です。儀式的な律法の規定は、あわれみに座を譲らなければいけないのです。こうして、イエスは、弟子たちに、あわれみを示されました。

 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」

 イエスは、この前、「人の子は、地上で罪を赦す権威を持っている。」と言われましたが、ここでもご自分が権威を持っていることを示されています。わたしはメシヤであり、罪を赦すことも、安息日に何を行うかもみな、権威を持っているということです。

2C 群衆 6−11
 別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。そこで、律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。

 彼らは、今度、イエスが安息日にいやしを行われるかどうかを見ていました。彼らの伝統によると、病気の治療は働くことになっていました。例えば、安息日に足を怪我した場合、傷口に包帯をあてがうだけにしておき、次の日になったら手術をするようになります。けれども、面白いのは、彼らは、イエスに反発しながらも、右手のなえた人をお直しになることを認めていましたことです。イエスに反発している者でさえ、イエスが人をあわれみ、必要に応えてくださることを知っていました。多くの人は、元気でなければ教会にいる資格はないと思います。ある基準に達していないと、自分は仲間にはなれないと思います。しかし真理は逆です。イエスは、必要を感じている人に、一番、関心がおありです。

 
イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」

 答えは明らかです。必要があることを知っておきながら、それを行わないことは悪です。

 そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。そのとおりになると、彼の手は元どおりになった。

 イエスは、この人に不可能な命令をされました。だから、この人は、「それはできません。難しい。」と言うこともできました。けれども、「この方の言われることだから、手を伸ばしてみよう。」と考えることもできるのです。この人は、イエスのみことばに聞き従ったら手が伸びたのです。これが、イエスが私たちを呼びかけられる方法です。私たちではできないことを行なうように命令されます。でも、私たちが、それに聞き従おうとするとき、イエスは、従うことができるための力を与えてくださるのです。

 すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。

 今まで、イエスに反対する人々が現われたのを見ましたが、ここにおいて、彼らが集まって、イエスを滅ぼすための仲間が出来上がりました。そこでイエスは、逆に、ご自分について来る人々を集めて、ご自分に従う仲間を造られました。それが、弟子たちと使徒たちです。次を見てください。

2B 選びの中 12−19
1C 使徒 12−16
 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

 イエスは、だれを使徒にするかについて、夜を明かして祈られました。人を選ぶ重要な決断をするのに、神から知恵と導きをいただくためです。

 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。

 イエスは、弟子たちがご自分のもとに来るよう、呼びかけられました。これが、弟子たちのお仕事と言い換えてもいいでしょう。弟子とは、教師から学ぶ者であります。イエスのそばにいて、イエスの教えを聞くだけでなく、イエスの生き様を学んでいました。その生き様は、愛とあわれみです。イエスのそばにいるので、イエスがお受けになるさまざまな反対に遭遇しますが、先ほどの穂摘みの事件のように、イエスは彼らを守り、彼らを愛してくださいます。このように、弟子たちは、イエスのそばにいて、イエスのあわれみの中に生きるために、自分のしたいこと、していることを捨てる者です。そして、その中から、イエスは使徒を選ばれました。使徒とは、主から遣わされる者であります。イエスが権威をもって教えたり、奇跡を行われたりしましたが、その権威をたずさえて、他の地域に行きます。使徒が、弟子たちの中から選ばれたことは大切です。遣わされる者は、まず学んでいました。私たちは、自分は何をすべきなのだろうか、と悩みます。けれども、もっと大切なことは、イエスが私たちに何をしろと呼びかけておられるのかを聞くことです。遣わされる前に、学ぶことが必要です。

 すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

 まず、一番最初にペテロ、一番最後にイスカリオテ・ユダが載っていることに気づいてください。前者は、初代教会の指導者になり、後者は、イエスを裏切り自殺して、使徒職からはずされた者です。けれども、ペテロもユダ同じようにイエスを裏切りました。イエスを3度否みました。それにもかかわらずペテロが最初の使徒に選ばれたのは、彼がすばらしいからではなく、主のあわれみを受けたからです。ユダは受け取りませんでした。ですからイエスのあわれみの勲章として、ペテロが一番最初に列挙されています。そして、もう一つ指摘したいことは、元取税人であったマタイと、熱心党員シモンが同時に使徒に選ばれています。取税人は、ローマに加担するユダヤ人の裏切り者です。熱心党員は、ユダヤ人独立国家をつくるために、破壊行為も辞さないテロリストです。ですから、彼らがイエスのそばにいなかったら、互いに殴り合っていてもおかしくないでしょう。主に出会わなかったら、決していっしょになることのないような看たちをイエスは呼び出されます。

2C 弟子と民衆 17−19
 それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。

 
イエスは平らな所にお立ちになり、説教されます。ですから、20節から読むところは、マタイの福音書にある山上の垂訓と似ていますが違う説教です。イエスは、似たような説教を2回以上話されたのです。

 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。

 私たちは、今まで、イエスが教え、病を直し、悪霊を追い出された記事を多く読みましたが、ここでも同じことがくり返されています。彼らは、イエスが話された貧しい者たちであり、自分に必要があるのを知っています。それで、イエスのところに来ていますが、イエスは彼らをあわれんで、助けられます。

2A あわれみの教え 20−49
 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。

 イエスは、弟子たちを意識して話されます。これから話されることは、弟子に対するものです。

1B 保証 20−26
1C 幸いな者 20−23
 「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」

 イエスは、彼らに保証を与えられています。あなたがたは、神の国にはいることができるという保証です。その資格は、貧しいこと、飢えていること、泣いていることです。これは、今の自分ではだめだ、と思っている人です。彼らは幸せ者と呼ばれていますが、それは彼らが神なしで生きていくことができないからです。神に飢え渇き、神を求める者だけが、神の国に入ることができます。そして、約束は、飽くことになり、笑うことになることです。神の囲が訪れるとき、大逆転が起こります。だから、私たちは神の国を待ち望んでいるのです。イエス・キリストが再び来られることを、希望にしているのです。

 「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。」

 
弟子たちは、イエスのそばにいたので、パリサイ人からの反対にあいました。彼らの敵意はイエスに向けられたものですが、イエスのそばにいるので、同じような待遇を受けます。ですから、同じように、キリストの弟子は必ず迫害を受けます。

 「その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いが大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。」

 私たちが迫害にあうとき、イエスは大いに喜びなさいと励まされています。なぜなら、大いなる報いが神から与えられるからです。ですから、大事なのは、私たちが目を上に向けていることです。

2C 哀れな者 24−26
 「しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」

 先ほどの、幸いですと対照的に言われています。この世にある富や笑いは、一時的なものです。また、ほめられることは、にせ預言者たちが受けたことです。エレミヤ書には、災いがふりかかるのに、「平安、平安」という偽預言者が現われたことが書かれています。エレミヤ自身は王から迫害されましたが、彼らは良い待遇を受けました。

 そして、ここで、「あなたがたは」とイエスが言われていることに気づいてください。紛れもなく、弟子たちに対してです。イエスは、弟子たちに、富んでいないか、笑っていないか、ほめられたいと思っていないか、と呼びかけておられます。これを、現代の私たちに当てはめるなら、信仰告白をして洗礼を受ければ、もう大丈夫だと思っているような状態です。イエスを信じることが人生の目標のように考えて、信じた後に何をすればよいか分からない状態です。教会に来て、奉仕をするなど、外側はクリスチャンとして生活しますが、実際は普通に生きていればいい、と考えているような状態です。そう考えると、イエスが、「あなたがたは」と言われたことが納得できます。私たちは、実に神の恵みを忘れやすいものです。あたかも信じていない人のように、自分の行ないで生きたり、自分の判断で生きたり、悔い改める必要性を忘れてしまいます。罪を犯しても、地獄には行かないから安心だと思ってしまいます。でも、これは、偽りの保証です。

2B 勧め 27−38
 こうして、イエスは、弟子たちに保証をしてくださった上で、いくつかの勧めをしてくださいます。

1C 敵への愛 27−31
 「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。」

 ものすごい、過激な発言です。敵を愛するなんて、あまりにも愚かな行為のように私たちは思います。でも、イエスは、基本的に、「わたしにならう者となりなさい。」と言われているのです。イエスは、弟子たちに愛とあわれみを注がれました。彼らがあわれみを受け取ったのだから、あわれみの中にとどまりなさい。周りの人に対しても、同じようにあわれみの中に生きなさい、と言うことです。

 「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」

 あなたを憎む者に善を行ないなさい、ということですが、ここでは、ロをもってあなたを憎む者に善を行うことが書かれています。私たちは、人のいう言葉で傷ついたりしないでしょうか。けれども、イエスは、そうした人を祝福して、祈りなさいと言われます。

 「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではいけません。」

 今度は、行動によってあなたを憎む者に善を行なうことが書かれています。頬を実際に打ち、上着を実際に奪い取るのです。私たちは、だまされて自分の持ち物を取られたり、実際の損失を被ることがあります。このような待遇を受けたからと言って、その人に愛を示すのを止めてはいけないと、イエスは言われています。

 「すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。」

 愛とは、基本的に与えることです。自分の時間、能力、財産などを与えることです。神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛されました。

 「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」

 これが、人を愛することの基本的なルールです。その人を愛しているかどうかは、自分だったらどうだろうと考えることです。仏陀は、「自分にしてほしくないことは、人にするな。」と言ったそうです。そうした消極的な愛というのもあるでしょうが、キリストは、してもらいたいと望むとおりに、しなさいという積極的な愛です。

2C 無条件の愛 32−36
 「自分を愛するものを愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人だちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。非人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。」

 
イエスは、人間が普通に考える愛を説明されています。自分を愛する者を愛し、良いことをしてくれる人に良いことをし、返す人に貸すのが人間の愛です。つまり、見返りを期待する愛、条件的な愛です。

 「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」

 そうです、イエスは恩知らずの悪人にも愛を示されました。

 「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」

 イエスは、弟子たちに、神の愛をもって愛しなさいと呼びかけられておられます。だから、この「敵を愛しなさい」というのは、神の行ないであって、私たち人間には決してできるものではありません。

 それならば、イエスがなぜ私たちに不可能な命令をされるのか、という疑問が出てきます。でも、手がなえた人のことを思い出してください。「伸ばしなさい。」というのは、人間では不可能な命令でした。しかし、おことばですから、伸ばしてみましょう、とみことばに従おうとするとき、その時、従うことができるように、神は力を与えてくださいます。肉体の病だけではなく、人を愛することも同じ原則が働いているのです。しかし、私たちは、病を直すようなことを超自然的にとらえることはしますが、「敵を愛しなさい。」ということは、道徳的にとらえて超自然的なこととしてとらえません。それで、この言葉を聞いて自分で愛そうとしますが、その人を愛せないので、がっくりくるのです。

 
もう一度言いますが、敵を愛することは神の働きであり、私たちには不可能なのです。手のなえた人が手をのばすのに、イエスの呼びかけが必要であったように、私たちが敵を愛するには、イエスの呼びかけが必要なのです。自分には決してできませんが、主よ、おことばどおりにお従いします、と信仰の一歩を踏み出します。そうすれば、主が奇跡的に、私たちのうちに働いてくださり、敵を愛するようにしてくださいます。

3C 赦し 37−38
 敵を愛すことに関連して、人を赦すことについて、イエスが勧めをされます。「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」

 
イエスは、35節で、敵を愛することで報いが大きいと話されましたが、私たちがこの地上ですることは、天において報いとなって現われます。さばかなければ、さばかれない。罪に定めなければ、自分が罪に定められない、赦せば赦される、ということです。私たちは、嘘をつくことは決してできないという神の恐れを持っていますが、同じように、さばくことに対しても神の恐れを持つべきです。

 「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

 これは、慈善についての教えです。日本人は、資源は限られたもので無駄に使うべきではない。人に与えたら、貧困を覚悟しなければならない、という考えが根底にありますが、それは今読んだ霊的な法則を無視しているからです。与えれば、なくなるのではなくて与えられるという法則が存在します。ちょうど、重力の法則が働いているが、それに逆らうようにして空気力学の法則が働くように、与えればなくなるという法則に逆らうようにして、あふれるばかりに与えられるという法則も存在します。それがどのように機能しているかは私たちにはわかりませんが、働いている事実は存在するのです。ですから、与えてみるといいのです。

3B 吟味 39−49
 こうしてイエスは、いろいろな勧めをされました。次は、基本的に、自分を吟味してみなさい、という呼びかけです。

1C 目 39−42
 イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。」

 
人を教えるときに、教えるものが何もわからなかったら、教える者も学ぶ者も滅ぶということです。イエスは、このたとえをパリサイ人たちにも引用されました。彼らは何も見えていないということです。

 「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」

 これは、自分が見ている教師によって、何もかもが変わることを意味しています。イエスは、貧しい者は幸いですと言われましたが、神とキリストを教師として、模範として訓練を受けているから、貧しくなるのです。ああ、自分は何といたらない者であろうかと思います。そして、自分は決してできないとわかっているが、イエスのおことばに従ってみようと思うと、イエスから力が出るのでそれを行なうことができます。そして、自分の師ぐらいにはなれるのです。したがって、自分がイエスをつねに仰いでいることが必要です。

 「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁に気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽書者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」

 
私たちは、イエスを見つめることなくして、他の人を見つめることがしばしばあります。そして、他人の目のちりを取りのけようとするのですが、イエスは、自分の目にある梁をまず取りのけなさいと呼びかけられております。ですから、イエスを仰ぎ見た後に他人を見るのではなく、自分自身を見なければいけません。私たちのクリスチャン生活は、あくまでも、神と自分との一対一の関係なのです。あの人がどうなのか、この人はどうなのか、あのキリスト教団体はどうなのか、という詮索をする前に、自分自身はどうなのかと問いなさい、とイエスは言われています。

2C 実 43−45
 このように、どこを見ているか私たちは吟味しなければいけませんが、次に、どんな実が出ているか吟味する必要があることが書かれています。

 「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。」

 私たちが何を信じているかは、その行ないによって現われます。逆に言えば、行ないによって本当は何を信じているのかがわかります。もし本当に、イエス・キリストを信じているのであれば、必ず良い実がもたらされます。自分に悪い実が結ばれていれば、イエスさまとの関係が何かおかしくなっていると考えなければいけません。パウロは、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、吟味しなさい。(2コリント13:5)」と言いました。

 「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」

 その実は、よく私たちの話す言葉で現われます。自分から怒りの言葉が出てくるでしょうか、それとも優しい言葉が出てくるでしょうか。自分の言葉によって、自分を吟味することができます。

3C 土台 46−49
 そして最後に、私たちがどんなところに立っているのか、その土台について書かれています。「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。」

 主と呼ぶかぎり、その人の言っていることに必ず従うことを意味します。ですがイエスの言われることを行なわないなら、イエスを主と呼ぶことは矛盾しているのです。

 「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした、聞いても実行しない人は、土台なして地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ペんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものになりました。」

 ですから、みことばは聞くだけでなく、行なうことが大切です。でも、イエスは、あなたがたの力でわたしのことばを守りなさい、と言われていません。わたしを信頼して、わたしのことばに従ってみなさい、と言われているのです。19節には、「大きな力がイエスから出て」とありました。従おうとするときに、大きな力がイエスから出てくるのです。ちょうどスウィッチをつけたら、テレビを見ることができるように、イエスのみことばを行なおうとしたら、行なうための力が与えられます。それを自分の力でやってしまおうとするのは、まだ自分が貧しいと気づいていないからです。富んでいる者は哀れであることを悟るまで、私たちは自分の力で行なおうとします。しかし、貧しいと知るときに、おことばですから、という実に単純な信仰をもって従うことができます。そのとき、イエスの力が働いて、そのとおりになるのです。ですから、呼びかけなのです。私たちが何かをして、それを主が祝福してくださるのでなく、主が呼びかけて、それに応答することが必要です。そして、私たちのうちに住んでおられるイエス・キリストが、力強く働いてくださるのを経験しましょう。


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