ルカの福音書9章 「神のキリスト」

アウトライン

1A キリストの力と権威 1−17 「力と権威をお授けになった」
  1B 福音宣教の任命 1−6
    1C 信仰の歩み 1−6
    2C ヘロデの恐れ 7−9
  2B 奇跡への参加 10−17
    1C イエスのあわれみ 10−11
    2C 群衆の満腹 12−17
2A キリストの使命 18−50 「人の子は渡されます」
  1B 教え 18−27
    1C 捨てられる道 18−22
    2C 自分を捨てる道 23−27
  2B 顕現 28-45
    1C 栄光の姿 28−36
    2C 不信仰な世 37−45
  3B 戒め 46−50
    1C 一番偉い者 46−48
    2C 私たちの仲間 49−50
3A キリストの決意 51−62 「御顔をまっすぐ向けられた」
  1B 人々の拒否 51−56
  2B 弟子の失敗 57−62

本文

 ルカの福音書9章を開いてください。ここでのテーマは、「神のキリスト」です。本文に入りましょう。

1A キリストの力と権威 1−17 「力と権威をお授けになった」
 イエスは、12人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。

 前回、私たちは、イエスご自身が力と権威をもって、悪霊を追い出し、病気を直されるのを見ました。弟子たちは、イエスのお供をして、その力あるわざを見ていました。今度は、彼ら自身がそのわざを行ないます。だから、ただ見るだけでなく、自分でイエスの御力を体験します。この自分自身の体験が、さらに、イエスがどんな方かを理解して、ペテロがついに、「あなたは神のキリストです。」と告白するに至るのです。

1B 福音宣教の任命 1−6
1C 信仰の歩み 1−6
 イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、2枚は、いりません。」

 イエスは、弟子たちが信仰によって歩むように教えられています。宣教に行くときは、神が必要を満たしてくださることを信じなさい、ということです。

 どんな家にはいっても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。

 当時は、見知らぬ旅人を自分の家に泊めてあげる習慣がありました。

 人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。

 これは、あなたがたと関係はないことを示すジェスチャーです。ユダヤ人たちが、異邦人の住む土地からイスラエルに戻るときにそうしていました。イスラエルの土地に、異邦人のものを入れたくないという思いから、足のちりを払い落としました。弟子たちの場合は、福音を受け入れないことによる神のさばきについて、自分たちは何の関係もない、責任はその人自身にあることを示すものでした。

 12人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。

 このことによって、ヘロデが恐れをいだきます。

2C ヘロデの恐れ 7−9
 さて、国主のヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。それは、ある人々が、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。」と言い、ほかの人々は、「エリヤが現われたのだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の頚言者のひとりがよみがえったのだ。」と言っていたからである。

 使徒たちのことではなく、イエスご自身についてのうわさが流れました。使徒たちは、イエスの御名によって悪霊を追い出し、病気を直していたからです。

 ヘロデは言った。「ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことからうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」ヘロデはイエスに会ってみようとした。

 ヘロデも、他の人たちと同じ質問をしました。イエスがいったいだれであるか、という質問です。これまで、大きなわざがイエスによって行われました。神のみことばがイエスによって伝えられました。それで群衆はイエスを預言者、預言者でも特別な、モーセやエリヤのような大預言者と見ていました。けれども、イエスとずっといっしょにいた弟子たちは、預言者以上の方であることに気づき始めていたのです。

2B 奇跡への参加 10−17
 そのことは、次の奇跡の出来事によって、さらに確かになります。

1C イエスのあわれみ 10−11
 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。

 イエスは、弟子たちとだけの時間を持ちたいと願われました。

 ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。

 ここで、イエスが彼らを追い出され、と書いてあるのが普通でしょう。せっかく弟子たちとだけなりかったのに、また群衆が来た。邪魔です、というのが私たちの自然な反応です。しかし、喜んで迎えられました。

2C 群衆の満腹 12−17
 そのうち、日も暮れ始めたので、12人はみもとに釆て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」

 彼らは、群衆のことを心配しはじめています。福音宣教の働きを少し始めたので、自分のことだけでなく人々の必要を考え始めたのでしょう。

 しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」

 彼ら自身で、食べる物を上げるように命じられています。

 彼らは言った。「私たちには5つのパンと2匹の魚のほかは何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」それは、男だけでおよそ5千人もいたからである。

 彼らには、たった5つのパンと2匹の魚しかありませんでした。しかし、イエスはそれをご自分に差し出すことを命じられました。私たちが、福音宣教のためにイエスが願われているのは、これです。自分の持っているものをささげる、自分にできることをささげることです。私にはこれだけしかない、これだけしかできない、と思われるかもしれませんが、イエスはそれだけで十分、とおっしゃられます。

 しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、50人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」弟子たちは、そのようにして、全部すわらせた。するとイエスは、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、12かごあった。

 群衆は満腹しました。この記事を読むとき、どのようにしてパンと魚が増えたのか知りたくなりますが、細かいことは何一つ書かれていません。けれども、福音書の記者は、あえて書いていないのだろうと思います。なぜなら、奇蹟そのものよりも、イエスが奇蹟を行われるという事実が大切だからです。例えば、テレビを持っていたら、スイッチを押したら映像が出てくるということを知ることが大切であり、映像が出てくるまでのメカニズムを知る必要はありません。私たちが、イエスに奇蹟を行なっていただくときも、ただそれが起こることを信頼して、どのように起こるのかを知る必要はないのです。

このように、弟子たち自身が、自分の手で、イエスの奇蹟に加わりました。自分で奇蹟を見るだけでなく、自分たちが参加したのです。それで、彼らは、イエスがどのような方であるかをさらに理解することができたのです。それで、次の出来事に移ります。

2A キリストの使命 18−50 「人の子は渡されます」
1B 教え 18−27
1C 捨てられる道 18−22
 さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群衆はわたしのことをだれだと言いますか。」彼らは答えて言った。「パプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」

 群衆は、イエスを預言者と見ていました。

 イエスは彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロは答えて言った。「神のキリストです。」

 ペテロは、イエスは預言者以上の方であり、預言者が預言していたメシヤご自身であると言いました。

 するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。

 イエスが、彼らを戒められたのは、彼ら自身がキリストについてまだ完全な知識を持っていなかったからです。彼らはずっと、イエスがあらゆる暗やみの力に打ち勝たれたのを見てきました。イエスは、病気を直し、悪霊を追い出され、死人を生き返らせ、罪を赦されました。そして、イエスが神のキリストであると知った今、この勝利の行進が続いて黄金時代が訪れると考えたからです。事実、このことはイザヤ書に記されています。61章をお開きください。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良いしらせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には開放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、」

ここまでが、イエスがナザレの会堂で引用されたところであり、弟子たちは自分の目でそれが成就されたのを見ました。だから、彼らは、次に出てくる預言の成就すると信じておかしくなかったのです。

 「われわれの神の復讐の日を告げ、」


 ソドムとゴモラをさばかれたように、神が不法を行なう者たちをさばかれます。

 「神が、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、」 シオンとはエルサレムのことです。 「灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」

 
このような回復があって、4節以降には、異邦人の国々がイスラエルに従うようになることが書かれています。だから、弟子たちが、このまま黄金時代に入って、神がイスラエルをエジプトのくぴきから解放されたように、今のイスラエルをローマから解放してくださると信じても、何らおかしいことはありませんでした。しかし、イエスは、聖書の預言のもう一つの側面を伝えられます。

 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして3日目によみがえらねばならないのです。」

 これも、同じイザヤ書に記されていることです。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。・・・しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から断たれたことを。(53:7、8)」

 イエスは、病人を直し、盲人の目を開いて、悪霊を追い出されることによって、確かにご自分がキリストであることをお示しになりました。しかし、黄金時代をもたらす前に、人間が持っている負の遺産、つまり神に対するそむきの罪の処理を行なわなければなりません。今までは、暗やみの中に光をもたらされましたが、今度は暗やみの中に入られて、暗やみから拒まれる、捨てられることを経験します。ですから、ここは、イエスの生涯の大きな分岐点です。これから、弟子たちにご自分が捨てられること教え始められます。

2C 自分を捨てる道 23−27
 イエスはみなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして、わたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」

 イエスは人々に捨てられるのですから、イエスについて来る者も、同じような経験を受けることは必至です。ですから、弟子たちに、自分を捨てなければわたしについて来ることはできないと言われました。黄金時代に入って、自分が高められ、自分が栄光を持ち、自分が富を持つような、そのような道ではなく、自分が低められ、卑しめられ、貧しくなるという道です。しかし、イエスは、自分のいのちを失うものはそれを救い、救おうとするものがそれを失うと言われました。

 これは、イエスが十字架につけられてから、よみがえられるように、弟子たちも、自分を捨てる道を選ぶことによって、復活の力を経験するということです。パウロは言いました。「私たちは四方八方から苦しめられていますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(2コリント4:8-10)」これは、クリスチャン全員の道でもあります。自分を捨てるのだけれども、キリストの復活の力を経験する、神が生きていることを体験することができるのです。

 「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」

 イエスは、ようやくここで、栄光に輝くメシヤの預言について触れられております。キリストは苦しみを受けた後に、はじめて栄光に輝く王として来られるということです。そのときに、私たち行ないが評価されます。私たちが自分を捨てて歩んできたか、それとも自分を救って歩んで来たか、評価されます。だから、私たちは、神を畏れかしこんで生活します。

 「しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。 ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」

 ここを読んで、現代の私たちは、えっ、と思います。弟子たちはとっくの昔に死んでいるのに、まだ神の国はこの地上に訪れていないからです。けれども、次の箇所を見れば、イエスが何を意味されているのかを知ることができます。

 

2B 顕現 28-45
1C 栄光の姿 28−36
 これらの教えがあってから8日ほどしてイエスは、ペテロとヨハネとヤコプとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

 イエスは、ご自分の姿を弟子たちにお見せになりました。それは神の栄光です。イスラエルが神にお会いする神殿には、至聖所がありました。そこは、光をともしていないのに光り輝いていました。神ご自身がそこにおられたからです。この輝きをイエスは弟子たちにお見せになったのです。そして、そのことをモーセとエリヤが証言しています。モ−セは律法の代表、エリヤは預言者の代表です。律法と預言、つまり聖書が証言している神が、イエスにあって完全に現われています。パウロは、「キリストは、神の御姿であられる方」と言いました(ピリピ2:6)。そして、キリストの役目は、やはりエルサレムに行くことだったのです。エルサレムに行って、宗教指導者たちに捨てられて、殺されて、3日日によみがえることでした。

 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが3つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。

だったら、何も言わないで、ただ見ていればいいのに、と思います。私たちも、主のなされることに対して、見て、よく観察すべき時に、でしゃばって動こうとすることがありますね。また、ペテロの発言は、イエスを、モーセとエリヤと同列に並べています。先ほど、神のキリストだと告白したばかりなのに、と思いますが、そうです、彼は眠っていたので、霊的に鈍くなっていたのです。

 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

 イエスが神の栄光の輝きであることを、モーセとエリヤが証言しただけでなく、父なる神ご自身が確認されました。「わたしの愛する子」と言われました。神の御子であるということです。そして、「わたしの選んだ者である。」と言われました。救い主キリストに、ご自分の子をお選びになったのです。罪の赦しのために、多くの動物が犠牲として殺されました。それはやがて来るキリストを指し示していたのですが、そのキリストがだれになるのかという問題がありました。しかし、神は、ご自分の子を選ばれて、犠牲の供え物とされたのです。ただ、もちろん神は全知ですから、天と地が創造される前から、御子をキリストとしてお選びになりました。

 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった。

 これで、イエスが神の栄光の輝きであることがわかりました。

2C  不信仰な世  37−45
 次の日、一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。すると、群集の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。」

 暗やみの力の支配です。先ほどの光から、一気に暗やみの中に場面が移っています。

 「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」

 弟子たちは、イエスの力、と権威が授けてられていましたが、それをどう用いるかわかりませんでした。ちょうど、高性能のコンピューターを買ったのだけれども、使い方がわからなくて何もできないような状態です。

 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」

 イエスは、このことばを、弟子たちに個人的に言われたのでなく、今の世全体に対して言われました。不信仰な世である、というのです。この出来事は、まさに、イエスがこれから通らなければならない道を象徴していました。イエスが神の栄光の輝きであるのにもかかわらず、世はイエスを信ぜず、受け入れないということです。

 その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に返された。人々はみな、神のご威光に驚嘆した。

 しかし、ここでは、イエスの力あるみわざよりも、暗やみの力が強調されています。

 イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちこう言われた。「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。」

 これは、耳の中に沈み込ませなさい、と訳すこともできます。

 「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。

 イエスは繰り返し、ご自分が渡されることを話されました。弟子たちは理解することができず、理解できないように隠されていた、とあります。これは理解するのが難しいです。隠されていたなら、なぜ、イエスが、「しっかりと耳に入れておきなさい。」と話される必要があるのか、と思ってしまいます。けれども、ローマ9章をお読みください。神の主権について書かれています。

3B 戒め 46−50
 次に、弟子たちがイエスのみことばを理解していないことが現われている話を読みます。

1C 一番偉い者 46−48
 さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。

 黄金時代がこれから来ると思い違いをしていた弟子たちは、今度は、御国で自分たちがどんな高い位に着けるかに関心を持ち始めました。イエスが、「自分を捨てなさい。」とおっしゃったのに、彼らは自分のいのちを救おう、全世界を自分のものにしようとしたのです。

 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」

 イエスは、具体的に、自分を捨てる道をお示しになりました。一番偉い者ではなく、一番小さい者になります。教会が大きくなって、能力主義に陥ってしまう、また、政治的な権力が入り込むことは、いつも潜んでいる危険です。私たちの関心がいつも、いつも小さい者を受け入れることに寄せられなければいけません。

2C 私たちの仲間 49−50
 ヨハネが答えて言った。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」

 今度は、セクショナリズム、分派主義です。私たちは、自分が偉くなりたいという思いを潜在的に持っているのと同じように、自分たちだけが正しいのだ、という思いも潜在的に持っています。ですから、ほかの人たちが、自分たちと異なる方法でミニストリーをやっているのを見て、気難しくなるのです。だから、私たちは、この自分も捨てなければいけません。

 しかしイエスは彼に言われた。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」

 キリストが宣べ伝えられているなら、私たちは喜ぶべきです。

3A キリストの決意 51−62 「御顔をまっすぐ向けられた」
 こうしてイエスは、ご自分が進むべき道を弟子たちにお示しになりました。そして、次から、イエスがその道を進む決意をされる部分が始まります。

1B 人々の拒否 51−56
 さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスはエルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。

 イエスはエルサレム旅行を開始されました。今までは、ガリラヤで活動されていました。4章で、「御霊の力をおびてガリラヤに帰られた。」とあります。そして今から、エルサレムに向かうまでの話が19章まで続きます。

 彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。

 サマリヤ人は、イエスを受け入れませんでした。理由は、御顔をエルサレムに向けられていたからです。ご自分が十字架につけられ、よみがえられることを最大の関心事とされていたのです。ガリラヤで行われたような力ある御業を見たかったのに、なんだエルサレムを見ているではないか、こんなイエスは必要ないよ、というのがサマリヤ人の反応でした。私たちも、キリストに従う限りそのような待遇を受けます。俺たちの問題を解決してくれるなら、何かやってくれ。でも、十字架なんて教えられたら困る。俺たちは、今のままでいいんだ、というような反応です。

 弟子のヤコプとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」

 異本では、ここに、「エリヤがしたように。」と加えられています。エリヤが、自分に反対するものに火を呼び下しました。けれども、彼らはここで、黄金時代の自分たちを思い描いているのです。おごり高ぶっていました。

 しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。 55節の引照を見てください。 そして彼は言われた。「あなたがたは自分がどのような霊的状態にあるのかを知らないのです。人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです。」

 イエスは、ご自分を拒んだ者を滅ぼさずに、そのままにされたのです。とにかく救われることを願う、拒んでも救われることを願う、そうした態度がイエスにあります。私たちも、福音を拒む人を見て腹が立ちますが、イエスと同じようにならなければいけません。

 そして一行は別の村に行った。

2B 弟子の失敗 57−62
 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」

 これから、イエスについて行くことのできない3人の人の話が出てきます。一人目は、どこでもついて行きますと、自発的に弟子になることを申し出ました。

 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

 イエスは、この人が犠牲を払わなければならないことをお知らせになりました。イエスの周りで大きなことが起こっているのを見て、自分も加わりたいと願ったのでしょう。しかし、イエスがご自分を捨てる道を進まれていることを知りませんでした。

 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」

 今度は、イエスがこの人を弟子にしようと呼ばれています。

 しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

 これは、実際の葬式に行かせてください、ということではありません。その人の父はまだ生きているが、父が死んでからあなたについて行きます、ということです。

 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

 イエスは、父の家族たちを死人たちと呼ばれています。罪の中で死んだ者、新生をしていない者ということです。彼らに父親のことは任せなさい、とイエスは言われています。また、イエスは、「あなたは」と強調されています。イエスと自分との間に、どんな関係も入ってきてはいけません。家族関係よりも、優先させなければいけないのです。

 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

 この人も、イエスに従うことを自発的に申し出ています。しかし、家の者にさようならを言わせてください、と言っています。

 すると、イエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

 一度、イエスに従ってから、振り返って後戻りしてはいけません、と言うことです。イエスを最優先にするだけでなく、持続させなければいけないことがここに書かれています。

 これだけ読むと、キリストの弟子になることがとても大変なこと気づきます。けれども、そのことがここでの注意点ではありません。大切なのは、イエスがそのような差し迫った状況の中にいることなのです。御顔をエルサレムに向けたのは、ご自分が見捨てられ、死に渡されるのを、何があっても逃げないで直面するという決断です。大事なのは、そのキリストが私たちとともにいるということです。私たちが、毎日の生活の中で、疲れて、クリスチャンとしての歩みをやめたい、やめなくても、ちょっと後戻りしてみたいと感じるときがあるかもしれません。けれども、そのとき、イエスはあなたを見捨てておられず、「前を向きなさい。わたしがあなたとともにいる。進みなさい。」とおっしゃいます。人々から拒まれ、弟子たちも従うのをやめてしまった、あの辛さをみな知っておられます。その方が、私たちとともにいてくださるのです。キリストの弟子であることは、確かに大変です。けれども、イエスがともにおられるから大丈夫なのです。


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