マルコによる福音書1章 「イエス・キリストの福音」


アウトライン

1A 福音の内容 1−13
   1B 神の子イエス・キリスト 1
   2B さらに力のある方 2−8
   3B わたしの愛する子 9−13
2A 福音の現われ 14−34
   1B 宣言 「悔い改めて、福音を信じなさい」 14−15
   2B 召命 「わたしについて来なさい」 16−20
   3B 権威 21−34
      1C 霊の領域  悪霊追い出し 21−28
      2C 肉の領域   熱病のいやし 29−31
      3C 愛の領域  日没後の働き 32−34
3A 福音の日的 35−45
   1B 宣教  「福音を知らせよう」 35−39
   2B 罪からの解放 らい病のきよめ 40−45

本文

 これから、マルコによる福音書を学びます。今日は、1章を学びます。この章でのテーマは、「イエス・キリストの福音」です。私たちは今まで、マタイによる福音書を学びましたが、そこでは、王としてのキリストが映し出されていました。イエスは、天においても、地においても、いっさいの権威を与えられた方です。したがって、私たちは、イエスにひれ伏して、また、この方に絶対的に服従しなければなりません。生活のあらゆる面において、イエスを主としてあがめて、自分を捨てて、この方の命じることを守らなければならないのです。そうした、王としての、あるいは主としてのキリストが、マタイの福音書では強調されていました。

 その一方で、マルコによる福音書では、しもべとしてのキリストが前面に出て来ています。父なる神に言われたことを、もくもくと従順に行なっていくイエスの姿を見ます。マルコの福音書10章45節をお開きください。この部分は、この書物の主題になる箇所です。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 イエスは、人々に仕える姿を取られました。そして、贖いの代価、つまり人々の代わりに犠牲になる道を歩まれました。したがって、マルコの福音書で私たちに仕えてくださるイエスを見出すことができます。あわれみをもって、私たちの必要に答えくださるイエスを発見するのです。

 また、この福音書を読む人たちは、マタイの福音書を読む人たちとは違いました。福音書とは、イエスがキリストであること、イエスが古くから約束された救い王であることを、その生涯を描くことによって示している書物ですが、マタイは、旧約の律法と預言を引き合いに出して、そのことを示しました。なぜなら、読者が主にユダヤ人だったからです。例えば、最初に、「イエス・キリストの系図」と始まりましたね。私たちは創世記の学びで、断続的に系図が現われたのを見ました。なぜなら、約束の子孫に救い主が現われることが預言されているからです。そうした系図の意義を知っているユダヤ人にとっては、イエスの系図を見ることによって、この方がキリストであることを知ったのです。

 ところが、私たち日本人はどうでしょうか。新約聖書を読むとき、多くの人は最初のページでつまずいてしまいます。系図が、救いの計画に重要な部分を占めているなんて、ほとんどの人が知らないからです。けれども、マルコの福音書は、日本人のように、聖書的な背景を持っていない人に書かれています。具体的には、ローマ人に書かれたと言われています。思い出してください。イエスが十字架の上で死なれたときに、ローマの百人隊長は、「この方はまことに神の子であった。」と言いました。それは、彼が聖書の預言が成就したのを知ったからではなく、全地が暗くなったり、地震が起こったり、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのを見たからです。つまり、理屈抜きで、超自然的な出来事を見て、単純に信じたのです。マルコは、このようなローマ人に理解してもらえるようなタッチで書いています。つまり、難しい教えよりも、イエスが行われた奇跡を多く描くことによって、この方がキリストであることを示したのです。

 マルコは、この書物で「すぐに」という言葉を何回も何回も使っています。なぜなら、間断なく躍動的に働かれるイエスの姿を表したいからです。工ゼキ工ル書1章には、4つの福音書に現われるイエスの姿が描かれていますが、その1つは牛の顔であります。イエスは、もくもくと働き、いつも体を動かしておられたからです。その姿をマルコは描きました。 そして、1章の主題は「福音」であります。福音とは何なのでしょうか。福音の有様が、その内容と、現われと、目的をもって描かれています。

1A 福音の内容 1−13
 それでは、福音の内容に入ってみましょう。

1B 神の子イエス・キリスト 1
 神の子イ工ス・キリストの福音のはじめ。

 マルコは、福音の内容を明確にしています。イエス・キリストご自身が福音である、ということです。福音とは良い知らせのことです。イザヤ書の40章以降に、この言葉が何回も登場します。それが、平和や正義など、人々の救いに関連して出てきます。また、イザヤ書40章以降は、ある人物がその救いに関わることが預言されています。その典型的な箇所がイザヤ53章です。この人物によって救いがもたらされ、その人物が良い知らせであることが旧約の預言でした。したがって、イエスがその良い知らせであることをマルコは記しているのです。

 そして、イエスが神の子であると記されています。先ほどのローマの百人隊長が「神の子」という言葉を使ったのは、天と地において異変が起きたからでした。つまり、天地を支配する神であること、そうした力を持っておられる方であることが、「神の子」という言葉に示されています。つまり、イエスは、人を救うことのできる力をお待ちなのです。ですから、福音は本質的に力です。パウ□は言いました。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる人すべての人にとって、救いを得させる神の力です。」 福音のことばは、理屈でもなく、一時的に心を慰める気休めでもなく、人を根底から変える力なのです。

2B さらに力のある方 2−8
 この力ある方が来られる備えをした人物が現われました。2節を見てください。

 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ物の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」 そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。

 その人物は、バプテスマのヨハネです。彼は、救われるために、悔い改めをもって備えなさいと説きました。悔い改めとは、向きを変えることです。伝道者のグレッグ・ローリーは、悔い改めについてこう言いました。「自らすすんで、人生のなかに変化が起こることを受け入れ、神を悲しませるようなものから離れるべきです。」そして、なぜ悔い改めるかと言いますと、罪が赦されるためだとあります。ペテロは言いました。ですから、悔い改めなしには、罪の赦しはありません。

 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 悔い改めの説教を聞いて、大勢の人が来て、罪を告白しています。そして、この動きは全国親模になっています。このように、ヨハネは大いに神に用いられていますが、次を見てください。

 ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蛮を食べていた。彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。」

 全国的に霊的刷新を与えた者が、自分よりも力のある方が来られると言っているのです。さらに彼は、私には、かがんでその方のくつのひもを解く値打ちもありません。と言いました。つまり、その力は、次元をはるかに越えています。なぜでしょうか。

 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。

 イエスが、聖霊のバプテスマをお授けになるからです。これは、力のバプテスマです。イエスが復活されてから、弟子たちに言われました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、・・・わたしの証人となります。(使徒1:8)」やはり、イエス・キリストの福音は力であり、私たちが悔い改めて根底から変えられるカが、聖霊によって与えられる、というものです。

3B わたしの愛する子 9−13
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

 イエスご自身が、水のバプフテスマを受けられました。これは、悔い改めのバプテスマではなく、御父と御霊による任命式でした。御父は、イエスを「わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と呼ばれています。この言葉は、イザヤ書42章1節から来ていますが、そこには「わたしのしもべ」と記されています。私たちは、アブラハムの生涯を学びました。彼がひとり子イサクをこよなく愛し、しかし、その子を全焼のいけにえとしてささげなければならないことを学びました。イサクは、父の言われるままに、たきぎをかつぎ、祭壇の上でしばられました。ですから、イサクは、ある意味で、アプラハムのしもべになっていたのです。御父は御子イエスをこよなく愛されています。そして、イザヤが預言した神のしもべとしての使命を、ご自分の子に託されるのです。

 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは40日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた

 イエスは、悪の支配者サタンとの対決に入られました。なぜなら、イエスがこれからなされることは、悪魔と悪の軍勢の働きをつぶすために他ならなかったのです。40日間の霊の戦いのすえ、イエスが勝利を得ました。この勝利にもとづいて、イエスは、悪霊が追い出されて、病がいやされ、最後にご自分のいのちを捨てられます。福音は、悪のが滅ぼされる形で現われていきます。

2A 福音の現われ 14−34
 それでは次に、その福音の現われについて見ていきたいと思います。

1B 宣言 「悔い改めて、福音を信じなさい」 14−15
 ヨハネが補らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 福音はまず、宣教あるいは宣言という形で現われます。ヨハネが悔い改めを説いたように、イエスも悔い改めを説かれました。さらに、福音を信じなさいと言われています。福音を信じることと悔い改めることが、いっしょになっています。実は、この2つは、切っても切り離せない関係にあるのです。私たちはとかく、「信じているけれども、みことばを行なうことはできない。」と言います。しかし、本当は、みことばを信じていないのです。本当に信じているのなら、それを自ずと行なっているはずです。例えば、いすに座ろうとするとき、そのいすが壊れないと信じているから、座るのです。でも、「このいすはとっても丈夫だ。このいすに座ることができるのを信じている。」と言って、実際に座らなかったら、その人は信じていないことになります。したがって、信じるには、悔い改めが伴うのです。

2B 召命 「わたしについて来なさい」 16−20
 そして次に、このイエスのメッセージを、まともに受け入れていく人々が現われます。ガリラヤ湖のほとりを歩かれると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨てて置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。」

 シモンとアンデレは網を打っていて、ヤコブとヨハネは網を繕っていました。

 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

 彼らは、イエスのみことばにすぐに応答しました。イエスは後に、彼らを世界中に福音を宣べ伝えることを任されます。イエスは、その任務を、すぐれた人、地位のある人に託されずに、漁師のような普通の人に託されたのです。このように、福音は、普通な人たちをとおして現われます。それによって、福音が救いをもたらす神の力であることが、はっきりと証明されるのです。

3B 権威 21−34
 福音は、その説教のことばや選ばれた人々に現われるだけでなく、さまざまな奇跡に現われました。

1C 霊の領域  悪霊追い出し 21−28
 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。 ここから、安息日における出来事が記されています。人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

 イエスは、他のラビのように、他のラビの言葉を引用しながら律法を説明しませんでした。そうではなく、「わたしは、あなたがたに言います。」と権威をもって教えられたのです。福音のことばには権威があります。これを、学校の授業のようにして、知識のために聞くのであれば意味がありません。むしろ、親が子供にこれをしなさい、と言うのを聞いていくように、自分の行動を決めてしまうような言葉として受け入れていく必要があるのです。

 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。」

 そうです、イエスは悪の力を滅ぼすために来られたのです。この世をサタンから奪い取って、神のものに返すために来られました。

 「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはとうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

 イエスは、権威のあるように教えられただけではありません。実際に権威をお持ちだったのです。それで人々は驚きました。私たちは、目に見える世界が、目に見えない世界によって支配されていることを学びました。汚れた霊は、目に見えない霊の領域に属します。人々は、彼をどうすることもできなかったのですが、福音のことばには従わせるカがありました。イエスは確かに、ヨハネよりもさらに力のある方です。

 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全他の至る所に広まった。」

 こうして、福音が霊の領域において現わされました。

2C 肉の領域   熱病のいやし 29−31
 イエスは会堂に出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熟がひき、彼女は彼らをもてなした。

 シモンのしゅうとめが、熱病からいやされました。イエスは、ことばをかけることなく、ただ手を取って起こされました。そして、彼女は彼らをもてなしたのですから、熱が完全にひいたことがわかります。こうして、イエスは、肉体、つまり肉の領域において福音を現わしてくださいました。

3C 愛の領域  日没後の働き 32−34
 夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。

 人々は、汚れた霊が追い出されて、熱病がいやされたことを聞きつけて、イエスが病を治され、悪霊を追い出すことができると知りました。そして、彼らがやって来たのが夕方、日没の時であることに注目してください。ユダヤ人の暦は、一日が日没から始まります。安息日が終わってから彼らはイエスのもとに集まって来たのです。彼らは、ユダヤ人教師から教えられていました。病気をいやすことは神の禁じる「働くこと」になる、と。 したがって、彼らは、そのようなおきてや親則に縛られて、イエスに病人と悪霊につかれた者を連れて来るのを控えていたのです。

 
しかし、イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人々をお治しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。

 とあります。イエスは、そのような規則に縛られている彼らをかわいそうに思われました。本当は、安息日の日に連れて来れば、夜遅くまで奉仕をする必要はなかったのです。でも、イエスはご自分のことはお構いなしに、彼らに仕えられました。イエスは、彼らを愛されていたのです。このように、福音は愛の行ないによって現われたのです。

 そして、再び、悪霊が、ご自分のことを話すのを禁じられています。イエスは、人々がご自分のことをどう見ているのかを気にされていました。もし、その時点で、ご自分が神の聖者、つまり神の御子であることを人々に知られたら、彼らは理解できなかったか、イエスを誤解したに違いありません。聞く相手に合わせて、ご自分のこと、つまり福音を紹介されていたのです。したがって、ここにも、人々に仕えるイエスの姿を見ることができます。

3A 福音の日的 35−45
 ところが、人々の心は、イエスの意図していたことから離れていきました。次に、イエスは、ご自分が奇跡を行われている自的を明確にされています。

1B 宣教  「福音を知らせよう」 35−39
 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 前日は、激務の日でした。夜遅くまで働かれました。次の日は、ゆっくりと遅くまで寝ていようと、私たちは思います。しかし、イエスは、祈りの時間を過ごしました。祈りにおいて、御父と交わり、そこから力と知恵を得ることができるからです。

 シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを探しています。」と言った。イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里に行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

 弟子たちが、みながイエスを探していることを告げているのに、イエスは彼らに奉仕をすることをおやめになっています。その理由が、「そのため」つまり福音のために「出て来たのだから」と言われています。人々は、福音以外のものを求めてイエスを探していたのです。おそらく、魔術師とか、悪霊払い師のようにイエスを求めているのでしょう。しかし、イエスの願われていたのは、ただ一つ、人々が悔い改めて、福音を信じることなのです。しかし、そこから人々が離れていきました。奇跡だけを求めるようになりました。人々の心がそうなったとき、イエスは、他の村里に行くことを選ばれたのです。

 こうしてイエスは、ガリラヤ全土にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。

 イエスは、力ペナウムだけでなく、ガリラヤ全土に福音を告げ知らせ始めました。

2B 罪からの解放 らい病のきよめ 40−45
 次に、そのガリラヤ旅行の一つの出来事が記されています。この出来事は、福音の自的が象徴的に示されています。

 さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」

 らい病人が、イエスのみもとに来ました。そして、「お心一つで、私はきよくしていただけます。」と言っています。彼は、イエスにある力と権威を認めています。つまり、彼はイエスを信じたのです。そして、彼の病がらい病であることに注目してください。らい病は、進行性の病気でした。しだいに体を蝕む病気です。神経を殺して、感覚を破壊しました。そのため、例えばストーブに手が触れても何も感じないので、二義的な災害も多かったのです。そして、当時は治癒が不能でした。だから、らい病はこのような病気だったので、律法の中では、らい病人はイスラ工ルの共同体からはずされていたのです。らい病人は、人に近づいてはならず、誰かが近づいたら、「私は汚れている。汚れている。」と叫ばなければなりません。でも彼は必死だったので、イエスに近づいたのです。次を見てください。

 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」

 イエスは、だれもが触れることのなかったらい病人にさわって、「きよくなれ。」と命じられました。ここにイエス・キリストの福音がはっきりと現われています。なぜなら、らい病は罪を指し示す型として用いられるからです。しだいに体を蝕む姿は、少しだけと思っていた罪がどんどん悪影響をもたらす姿を表しています。ヤコブは、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(1:15)」と言っています。また、治癒不能であることは、罪がガンのように直しようのないことを示しています。ソロモンは言いました。「だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた。』と言うことができよう。(箴言20:9)」このようにして、罪は人を滅ぼします。しかし、イエスは、このらい病人に触れられました。同じように、イエスは、罪人をかわいそうに思って、その人に触れられるのです。次を見てください。

 すると、すぐに、らい病が消えて、その人はきよくなった。

 イエスがこのらい病をきよくすることがおできになるように、どのような恐ろしい罪でも赦すことがおできになります。イエス・キリストの福音は、罪を悔い改めて、イエスを信じる者を拒まずに、豊かに赦してくださるというものです。私たちは、逆のことを考えてしまいます。自分が良い子であったら、神に近づくことができるかもしれないが、悪い子であったら神に近づくことができないと思いがちです。そうではありません。むしろ、罪を赦そうと思って待っておられるのです。罪を悔い改めて、神のみもとに来るものを、腕をいっぱいに広げて受け入れてくださるのです。

 
そこでイエスは、彼をきぴしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司たちに見せなさい。そして、人々のあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」

 モーセの律法には、らい病人がイスラ工ルの共同体の中に入ることができる儀式が記されています。そこで祭司は、公にきよめられたことを宣言するのです。しかし、当時、らい病は治癒が不可能でした。でも、人間にはできなくても、神にはできますね。その律法は、神によっていやされたときのために設けられていたのです。

 ところで、なぜイエスはきぴしく戒めて、だれにも何も言わないようにしなさい、と戒められたのでしょうか。なぜ、彼を立ち去らせたのでしょうか。私はこう思います。イエスは、神のしもべとしての姿をとり続けたかった、ということです。ペテロとヨハネが、営にいる生まれつき足のきかない男を立ち上がらせたとき、人々は二人のところに集まってきました。彼らのうちに、何か秘められたカがあるのではないかと思ったのでしょう。

 そこで、ペテロは言いました。「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。(使徒3:12、13) 」ペテロとヨハネは、自分たちに栄光が与えられるのを拒み、イエスに栄光があることを訴えました。同じように、イエスは、らい病をいやされたとき、ご自分に栄光が行くことを拒み、むしろ父なる神に栄光が与えられることを望まれたのではないかと思います。ご自分の働きは、ただ神の言われることをもくもくと行われている結果であることを示したかったのです。祭司のところに行って、らい病がきよめられたことを見せれば、それはイエスご自身の働きではなく、神の働きとして認められるのです。

 次を見てください。ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広められた。そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。

 イエスは、会堂に入って福音を知らせることができなくなりました。その代わり、ご自分のところに来る人々にしか接触することができません。そして、人々は、イエスがいやしとか奇跡を行なう人であっても、神のしもべとしてはとらえないでしょう。そして、次の章を見ますと、イエスのところに運ばれてきた病人に対しては、いやしを行なう前に「あなたの罪は赦された。」と宣言されました。ここにおいて、福音の自的をはっきりとさせたのです。

 こうして、私たちは福音について学びました。それはイエス・キリストについてであり、イエスは私たちのさまざまな必要を満たしてくださる神のしもべです。多くの人をいやし、悪霊を追い出されたように、いろいろな場面で私たちを助けてくださいます。けれども、福音の根幹は罪の赦しです。私たちが罪を犯したとき、私たちが悔い改めてキリストに振り返るなら、それを豊かに赦してくださること、それが最も大きな良い知らせです。ですから、弟子たちのように、失敗をおそれずにイエスについて行きましょう。イエスは、聖霊の力によって、私たちを必ず変えてくださいます。


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