マルコによる福音書15章 身代わりのわざ」


アウトライン

1A 悪者の行ない1−20
  1B 尋問 1−5
  2B 判決 6−15
  3B 嘲弄 16−20
2A 正しい方の働き 21−47
  1B 十字架 21−32
  2B 死 33−41
  3B 埋葬 42−47

本文

 マルコの福音書15章を開いてください。この章でのテーマは、「身代わりのわざ」です。さっそく、本文に入っていきましょう。

1A 悪者の行ない1−20
1B 尋問 1−5
 夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこしらえたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き出した。

 ここに、新しい人物が登場しています。ピラトです。前回、私たちは、祭司長たちが、ユダヤ人議会を招集し、イエスを裁判にかけた場面を見ました。神を冒涜した罪で死刑に定められました。けれども、彼らは死刑を執行することができません。当時のイスラエルは、ローマ帝国に支配されており、彼らは、死刑を執行する権利を剥奪されていたからです。そこで、その地域のローマの総督であるピラトにイエスを連れ出したのです。

 ピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王ですか。」

祭司長たちの起訴状は、イエスがユダヤ人の王と主張している、というものです。なぜこれが犯罪になるかというと、ローマでは、皇帝のみが王であり、自分を王とするものは死刑に処せられるからです。ユダヤ人は、ローマからの独立を切に願っていました。そこで、ローマに反抗する集団がときどき現れて、政治犯として捕らえられていたのです。

 イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」

 この直訳は、「あなたが言っています。」となります。イエスは、ご自分がユダヤ人の王であることを認めておられますが、ピラトの理解しているような王とは異なりました。ヨハネの福音書にそのことが書かれていますが、イエスは、「わたしたちの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。(18:36)」と言われました。そこで、ピラトは、イエスは何も、ローマに反抗するような意図は何もないことを知ったのです。

 そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。

 祭司長たちは食い下がって、イエスがローマに反抗していることを主張しました。もちろん、イエスはそんなことを話されたことはなく、それは嘘の告発でした。彼らの方が逆に、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。(出エジプト20:16)」という掟を破っています。

 ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」それでも、イエスはお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。

 ピラトが驚いたのは、被告が何の弁明もしなかったからです。何の弁明もなければ、原告の訴えがそのまま判決となります。判事であるピラトは、イエスが無罪であることを知りましたが、彼自身は、その立場上、イエスを弁明することはできません。このままでは、何の弁明もないまま死刑判決となります。

2B 判決 6−15
 ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。

 この囚人とは、ローマに反抗した政治犯のことです。年に一度の過越の祭りの時に、政治犯を赦免することによって、従属しているユダヤ人をなだめるのを、目的としていました。イエスが無罪であることを知った限り、ピラトはこの特赦を用いて、イエスを釈放する方向に持っていこうとしています。イエスは、ユダヤ人民衆の人気を集めていたことを聞いていたので、民衆の声からイエスを釈放する声が上がることを期待したのです。そうすれば、一般世論という無罪の理由ができあがります。

 たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢にはいっていた。

 この暴動は、もちろんローマに反逆するための暴動です。まさに、祭司長たちが訴えていた罪を、このバラバという人物は犯していました。

 それで、群衆は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。

 この群衆の中には、バラバの仲間がいました。彼の釈放を要求するために、集まって来ています。けれども、他の人々にとって、バラバの存在は危険であったはずです。暴動を起こして、殺人を犯し、治安を悪くしている張本人だからです。彼は、十字架刑を受ける予定でした。

 そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか。」ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。

 ピラトは、祭司長たちが皇帝に忠誠を誓うためにイエスを訴えたのではなく、イエスをねたんでいるからであることに気づいていました。大ぜいの群衆が,イエスについて来ていたことを思い出してください。イエスがエルサレムにおられるとき、イエスが、祭司長や律法学者たちとの激しい議論を交わして、イエスが彼らに何も言わせなくさせたのを、群衆は喜んで聞いていたのです。このように、民衆の人気がイエスに大きく傾き、祭司長たちは、自分たちの政治的な地位が危うくなることを恐れました。それで、イエスを殺すことを計画したのです。したがって、ピラトは、群衆から、「イエスを釈放しろ!」という声が上がることを期待していたのです。

 しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。

 祭司長たちは、おそらく、群衆の中にいるバラバの仲間を用いて、バラバの釈放を叫ばせたのだと思われます。

 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか。」といった。

 ピラトは驚きました。自分たちがユダヤ人の王として奉っていたイエスを、どうしてこの群衆は釈放するように要求しないのか、と思いました。

 すると彼らはまたも「十字架につけろ。」と叫んだ。

 この、「十字架につけろ。」のギリシャ語は、一つの単語です。「十字架、十字架!」と叫んでいます。私たちは、スポーツ観戦などで、そのように叫ぶ姿を見ることができます。アメリカ人は、オリンピックで、「U・S・A!U・S・A!」と言っています。一部から派生して、他の人が叫ぶようになります。一部のバラバの仲間が、「十字架!十字架!」と叫び始めたから、特にイエスを十字架につけたいと考えていなかったのに、いつの間にか、自分も、「十字架!」と叫んでいるのです。

 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」と言った。

 ピラトは、群衆の良識に訴えました。イエスが、何も悪い事をしていないことは一目瞭然です。ちょっと、よく考えてみなさい、と彼らに訴えています。

 しかし、彼らはますます激しく、「十字架につけろ。」と叫んだ。

 ピラトにそう言われれば言われるほど、彼らは逆に、大声で、「十字架につけろ。」と叫びました。これは、群集心理とよく言われるものですが、恐ろしいですね。他の人もやっているから、自分もやるというものです。また、彼らにとって祭司長たちは、宗教的権威者です。逆らえば、ユダヤ人共同体からはずされます。そうした恐れもあって、つい昨日まで、イエスをメシヤとして担ぎ上げていたのに、今は、十字架につけろ、と叫んでいます。イエスをねたみ、偽りの告発をし、群衆を扇動させた祭司長たちの罪は大きいですが、何も考えずに悪事に加担している群衆も、その罪は同じように大きいです。私たちにも、このことは頻繁に起こっているのではないでしょうか。イエスは、その罪のためにも、代わりに罰を受けられました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」と、イエスは十字架の上で祈られています。

 それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるように引き渡した。

 ピラトが、群衆のきげんをとることに決めました。ピラトは、その当時、たび重なる失政で皇帝ティベリアスから良く思われていませんでした。もし、ここでイエスを釈放して、ユダヤ人たちの不平が皇帝の耳に入れば、自分の地位を危うくすることになります。こうして、彼は、判事としての正義、人間としての良心をないがしろにしました。ですから、祭司長たち、群衆に続いて、今度はピラトが罪を犯していることになります。祭司長は積極的に働きかけ、群衆は流れにのって悪事に加担し、ピラトは、その流れに抵抗はしましたが、ついに屈しました。でも、みなが、同じように、「十字架につけるように引き渡した」のです。

3B 嘲弄 16−20
 さらに、また別のグループが悪事を働いています。兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。

 十字架刑を実際に執行するのは、ローマの兵士たちです。

 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王さまばんざい。」と叫んであいさつし始めた。

 彼らは、イエスを嘲っています。ただ、ここに、彼らがいばらの冠をかぶせたことに注目してください。いばらが出来た背景を思い出せるでしょうか。アダムが罪を犯して、神は、「土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ」る、と言われました(創世記3:18)。その罪の結果であるいばらを、兵士たちは、イエスにかぶらせました。イエスは、ここでも人々の罪を背負ってくださっています。

 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。

 ひどい仕打ちですね。兵士は、国の秩序を守るために、武力が与えられている存在です。その武力を、弱い者を痛めつけるために用いています。でも、兵士が大切にしていたものは、武力という力です。ですから、物事や人をそういった目でしか見ることができなくなっているのでしょう。祭司長たちは政治力を大切にしていたから、イエスが、自分の権力を脅かす存在にしか見えませんでした。また、群衆は、カリスマ牲という精神力を大切にしていたので、イエスが、何も口を開かず、祭司長たちの言いなりになるのは、どうもいただけなかったのです。このように、人が何を大切にしているかによって、物事の見方が変わります。

2A 正しい方の働き 21−47
1B 十字架 21−32
 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。

 これまで、イエスが十字架を背負われていましたが、体力が衰えて倒れてしまったと思われます。ユダヤ人議会で役人にこぶしで殴られ、先ほどはむち打ちを受けられました。その後に、先ほどの兵士たちの嘲りを受けているので、十字架を背負うどころか、ひとりで歩くことさえ大変だったでしょう。そこで、兵士は、シモンというクレネ人に、その十字架を無理やり背負わせました。その人の肩に剣を寝かせました。ローマの法律では、肩に剣を置かれた者は、1ミリオン、つまり1・5キロ、兵士の荷物を運ばなければならないことになっていました。それで、イエスが、「あなたに1ミニオン行けを強いるような者とは、いっしょに2ミニオン行きなさい。(マタイ5:41)」と教えられたのです。そして、彼は、使徒行伝13章に登場するシメオンであり、信者になったと言われています。

 そして、彼らはイエスをゴルゴダの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。

 ゴルゴダの場所は、モリヤ山の上にありました。アブラハムが、イサクをいけにえとしてささげようとした場所です。これが、どくろの場所と言われている理由は、2つあります。多くの者が十字架の上で殺されて、死体がそこら辺に放置されていたので、どくろがたくさんあった、というもの。あるいは、崖の輪郭をみると、どくろの形をしているので、ゴルゴダと呼ばれるようになった、というものの2つです。

 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう洒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。

 没薬を混ぜたぶどう酒は、麻酔みたいなものでした。しかし、イエスはそれを拒否されました。なぜでしょう。苦しみや痛みを感じることが、イエスの十字架にかかられる目的だからですね。罪の結果としての苦しみと痛みを、イエスは身代わりに受けられます。

 
それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前9時であった。

 イエスが十字架につけられました。地面に置かれた十字架の上に、囚人が乗せられます。そして、両手と両足に釘を打たれます。小さな足掛けがあって、そこに囚人が立ち、囚人がゆるく縛りつけられると、死ぬまで十字架にかけられていました。十字架につけられると関節が外れるので、強烈な痛みが走ります。これは詩編22篇で、「私の骨々はみな、はずれました。(22:14)」と説明されています。そして、呼吸困難に陥り、最後は窒息死で死にます。この様子が詩編22篇やイザヤ書53章で、事細かく記されています。当時のユダヤ人の死刑の方法は、石打ちでしたが、そこから、詩編22篇、イザヤ53章などの描写を読み取ることはできません。ただ、十字架の描写でなければ、合致しないのです。つまり、キリストがローマの十字架を受けられることは、神がもともと定めておられたことなのです。そして、兵士たちが着物を分けるのも、詩編22編18節に書いてあります。

 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。

 そして、下の脚注にある、28節をご覧ください。こうして、「この人は罪人とともに数えられた。」とある聖書が実現したのである。

 これは、イザヤ書53章12節に記されています。

 道行く人々は、頭を振りながらイエスをののしった。これから、いろいろな人がイエスをののしります。「おお、神殿を打ちこわして3日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

 イエスは、かつて、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは3日でそれを建てよう。(ヨハネ2:19)」と言われました。それは、ご自分のからだのことを指していましたが、彼らは実際の神殿のことを話しています。その力があるなら、十字架から降りて来て、自分を救え、というものです。

 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

 祭司長の多くがサドカイ人で、律法学者の多くがパリサイ人であり、彼らはお互いに対立していますが、イエスをあざけることで一致しています。

 「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」

 彼らは、イエスが他人を救われたのを認めています。数々のいやしと奇蹟がそれです。しかし、自分は救えないではないか、とののしっています。

 また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

 ルカによると、彼らのののしりも、自分と私たちを救え、というものでした。ただ、そのひとりは思いを変えて、もう一人の犯罪人をとがめ、イエスが御国に導いてくださるように、お願いしました。こうして、道行く人も、祭司長・律法学者も、犯罪人も、イエスが自分自身が救えないことをののしりました。これは、本当でしょうか。「はい」であり、「いいえ」です。いいえ、から話しますと、イエスは物理的に、そこから降りることは可能でした。イエスは、神の御子キリスト、つまり全能者です。それに、十字架の上で死んだ後、復活することが約束されていました。だから、物理的には何の問題もなかったのです。しかし、霊的には不可能でした。なぜなら、ご自分が死なない限り、人間は霊的に救われないことを知っておられたからです。罪のいけにえになる人には、何の罪もあってはいけません。もし罪があったら、その人は自分自身の罪のために罰せられて死ぬことはあっても、他の人々の身代わりになることはできません。ところが、聖書は、すべての人が罪を犯した、と告げています。神の御子であるイエス・キリストのみが、罪を犯したことがなく、この方だけが、犠牲のいけにえとなる資格を持っておられたのです。だから、ご自分を十字架を救い出してしまえば、他の人々は救われないのです。

2B 死 33−41
 こうしてイエスは、十字架につけられましたが、次はイエスが死なれる場面です。さて、12時になったとき、全地が暗くなって、午後3時まで続いた。

 正午に、全地が暗くなりました。これは皆既日食ではありません。なぜなら、過越の祭りの季節に、太陽から見て、地球が月の裏側に来ることはないからです。これは、天地を創造された神ご自身が、意図的に起こされた現象です。旧約聖書には、それが預言されています。アモス書8章です。9節からです。「その日には、− 神である主の御告げ。 − わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、」その日は、イスラエルがエジプトから救い出されたことを祝う、過越の祭りでした。そして、「その日を、ひとり子を失ったときの喪のように」すると書かれています。ここに、神が全地を暗くされた目的が書かれています。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3:16)」神のひとり子が失われるのを悲しむ葬式を、自然界全体が行なっていたのです。

 
そして、3時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

 これは、詩編22篇1節の、そのままの引用です。それを読み進めると、「遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神、昼、私は呼びます。しかし、あなやはお答えになりません。夜も私は黙っていられません。」とあり、次に、「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」とあります。神に見捨てられた理由は、神が聖であられたからです。イエスは、この瞬間に全人類の罪を負われました。私の罪と、みなさんひとりひとりの罪です。そのため、聖い神との交わりに断絶が起こりました。これはみな、身代わりのわざなのです。私たちが、神から永遠に引き離されることがないように、イエスはここで、ご自分が神から引き離されています。

 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。 エロイ、という言葉が、エリヤに聞こえたのです。 「すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう洒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」

 
エリヤは、主の来られる前ぶれとして来ることが、聖書で約束されています。彼らは、今、そのことを言及しました。

 それから、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。

 他の福音書では、「完了した。」と言い、「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」と叫ばれました。これで、イエスによる救いみわざは完了しました。その結果、次の出来事が起こります。

 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

 この幕は、神殿の聖所と至聖所を区別する幕のことです。聖なる神の臨在される至聖所には、年に一回大祭司だけが入ることが許されました。大祭司は、自分の罪のために多くの犠牲のささげものをして、きよめてから入るのですが、その衣には鈴がつけられ、ロープがつけられています。神殿の外にいる人々は、鈴の音を聞いて、大祭司が奉仕していることを知りましたが、鈴の音が止まると、彼が神に打たれて死んでしまったことを知りました。自分たちは入れないので、ロープで彼を引きずり出したのです。これほど、神と人との間には隔たりがあります。

 しかし、それが真二つに裂けました。しかも、上から下に裂けました。神ご自身が、ご自分と人との隔たりを取り除いてくださったのです。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)」とあります。イエス・キリストによって、大胆に近づくことができるのです。パウロは、「神は唯一です。また神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(1テモテ2:5)」と言いました。

 
イエスの正面に立っていた百人隊長は、この百人隊長は、イエスの十字架刑を執行する兵士たちを指揮していた人物です。だから、その全容を見ていました。イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。

これが、素直な反応でしょう。神ご自身でなければ、こんなことは起こらない、と感じるのは当然です。そして、「神の子」という呼び名は、この福音書の最初の言葉になっています。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」とあります。このことを、一番はじめに悟ったのは、ユダヤ人でもなく、イエスの弟子でもなく、異邦人の百人隊長です。

 
また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中の、マグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

 イエスにつき従っていた人たちで、まだイエスのところに残っていたのは、弟子たちではなく、女たちでした。近くにはいませんでしたが、遠くから見ていました。このように、イエスの働きを認めていたのは、異邦人と女たちです。外側では、さげすまれていた存在ですが、内側では非常にすぐれていました。

3B 埋葬 42−47
 そして、最後に、イエスの埋葬の出来事が記されています。すっかりタ方になった。その日は備えの日、すなわち安息目の前日であったので、アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。

 安息日になってしまうと、何の仕事もできなくなるので、その夕方のころ、つまり安息日にさしかかろうとしているころに、ヨセフは急いでピラトに、イエスのからだの下げ渡しを願いました。彼は、ひそかにイエスの弟子となっていました。しかし、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していました。今は、思い切って、下げ渡しを求めています。

 ピラトが、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。

 ピラトが、驚いています。なぜなら、十字架で死ぬときは、途中で昏睡状態になり、たいてい2、3日かかるからです。だから、他の福音書では、他のふたりの犯罪人の足のすねを折ったことが書かれています。そうして、窒息死させるのです。イエスはすでに死んでおられたので、その必要がありませんでした。先ほど、ご自分で息を引き取られたのを読みましたが、イエスは、人からいのちを取られるのではなく、ご自分でお捨てになったのです。

 そして、百人隊長がそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。そこでヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。

 イエスが、墓に葬られています。墓は、当時は金持ちの人しか入りませんでした。だから、イザヤ書53章9節が、ここで成就したのです。「彼は富む者とともに葬られた。」

 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。

 確かに、イエスが葬られたことを見届けました。どこか他のところに持って行かれたのではなく、墓に葬られ、石で閉じられたのです。それで、次の章に出てくる、石がころがされているという記事が大きな意義を持ちます。

 「身代わりのわざ」という題で、話させていただきました。祭司長たち、群衆、ピラト、兵士たちの中に、それぞれ私たちと同じ罪があることを見ました。自分の罪を見るのは、とても辛いことです。けれども、キリストが、その罪を完全に処理してくださったのも見ました。ですから、そこには神の深い愛があります。また自由があります。私たちは、もはや、罪に支配されていないのです。パウロは言いました。「神は、罪の知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:12)」


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