マルコによる福音書16章 生ける望み」


アウトライン

1A 復活の事実 1―8
  1B 墓の石 
  2B 白い衣の青年 5−8
2A 復活への信仰 9−20
  1B 復活の証人 9−13
  2B 福音宣教 14−20
    1C 命令 14−18
    2C 従順  19−20

本文

 それでは、マルコの福音書16章をご覧ください。ここでのテーマは、「生ける望み」です。さっそく、本文を見ましょう。

1A 復活の事実 1―8
1B 墓の石 
 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。

 3人の女性が登場しています。2人のマリヤと、サロメです。この3人は、イエスがガリラヤにおられるときから、イエスにつき従った女たちの一部です。イエスや弟子たちの食事の世話などをしていました。彼女たちは、イエスの愛とあわれみにふれ、そのためイエスを愛するようになりました。その証拠に、この3人は、イエスが十字架につけられておられたとき、遠くからイエスを見守っています。しかも、2人のマリヤは、イエスが墓に葬られて、石が閉じられる最後のところまで見届けています。この箇所では、死なれたイエスのからだに油を塗ろうとしていますが、最後の最後までイエスにお仕えして、お世話をしたいと強く願っていたのです。

 イエスが死なれたのは、午後3時すぎのことでした。夕方になり、サンヘドリンの議員の一人であるヨセフが、イエスの下げ渡しを願って墓に葬ったときは、もう日没に近づいていました。日没になると安息日が始まり、何の仕事もできなくなります。本来なら、死んだからだに香油を塗ってから、亜麻布にくるめて墓に葬るのが、ユダヤ人の習慣になっていましたが、それをする時間がなかったのです。それで、彼女たちは、安息日が終わって週の初めの日がはじまる日没になってから、お店に行って香料を買ってきました。もちろん、夜にからだに油を塗ることは、何も見えないのでできません。それで、朝方早く、日が上ったときに合わせて、墓に向かったのです。

 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。

 当時の墓は、崖になっているところに穴が横に掘られていました。それで、石を閉じて死人を葬ります。その石は大きくて非常に重く、大人の男性が転がそうとしても、びくともしません。それで、彼女たちは話し合っていました。

 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。

 なんと、石はすでに転がしてありました。彼女たちの心配は、徒労に終わりました。彼女たちは、イエスが死んで、葬られていることは、疑いのない事実だと思っていましたが、そうではありませんでした。実は思い込みであり、実際は、イエスはよみがえって、墓からすでに出て来られていたのです。彼女たちは、言うなれば、事実に基づかない架空のものに仕えていたのです。イエスが殺されて、墓に葬られたことは碓かに事実でした。彼女たちは、自分の目で、しっかりとその光景を見ました。しかし、その経験から、イエスはまだ墓に葬られていると解釈したところに、誤りがあります。イエスの言われたことよりも、自分たちの経験や理解を優先させたのです。イエスは、ご自分は十字架につけられて、3日目によみがえる、と話されていました。そして、週の初めの日は3日目です。このときには、イエスが墓にはおられないことを悟るべきでした。

 私たち人間は、彼女たちと同じ過ちを、しばしば犯しています。それは、自分の感じていることや、自分が考えていることは、みな事実であると思い込むことです。確かに、いろいろな経験によって、私たちは史実を知ることができます。けれども、私たちは、その経験を、あらゆる分野に適応するなら、誤った解釈をしてしまうのです。もし、神のみことばの告げていることよりも、自分の感じていることや思っていることに捕らわれているのなら、女たちのように、事実に基かない架空の世界に生きてしまっています。彼女たちは、イエスが死んだままでいる、と思い違いをしました。

2B 白い衣の青年 5−8
 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。

 この青年は、御使いであることは間違いありません。御使いは、人のかたちで現われることがしばしばあります。面白いのは、彼が青年として現われ、真白な衣をまとっていることです。役柄のからだを象徴しているようです。今の肉体のからだは、老いて朽ちていきますが、役柄のからだはいつまでも若々しいです。死ぬことはありません。また、今の肉のからだは、疲れたり、病気をもったり、罪の性質を持っていますが、復活のからだには、それがありません。傷も汚れもないからだです。

 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められたところです。」

 ここで、青年は、イエスの復活の事実を直視するように促しています。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。見てごらんなさい、ここに納められたのに、そら、いないではありませんか、と言っています。「よみがえられた」というギリシャ語は、「立ち上がる。起きる。」という意味です。自然の成り行きでは落ちたり倒れたりするものが、立ち上がり、起きたりすることを言います。自然界では、物はみな下に落ちますが、それは重力の法則が働いているからです。けれども、私たちは上にあがる飛行機を見ます。それは、重力の法則に逆らようにして、空気力学の法則が働いているからです。同じように、人はみな、いずれ死んでいくという法則があります。それを聖書は、「罪と死の法則」と呼んでいますが、私たちは罪を持っているので死にます。しかし、神は、イエスによって、この法則に逆らう新しい法則を、人間の中に導入されたのです。聖書では、「いのちの御霊の法則」と呼ばれていますが、死んで滅ぶべき人間が、逆行して、新たに生きるようにされるのです。そして、それは、空想話でも何でもなく、紛れもない事実なのです。人はいずれ死んでいくというのは現実ですが、人が生き返るというのも同じように現実なのです。

 
次に、青年は、この事実に基づいて行動するように、促しています。ですから行って、お弟子たちとペテロに、「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。」とそう言いなさい。

 彼は、「前に言われたとおり」と言いました。イエスは、ご自分はよみがえり、弟子たちよりも先にガリラヤに行かれることを話されていました。当時の彼らにとっては、十字架につけられることも、復活も、将来の話でした。そして、それは、弟子たちにとっても、女たちにとっても、とうてい受け入れることのできない言葉でした。けれども、今や、十字架につけられたことと、よみがえられたことは実際の出来事になりました。イエスが言われたことで、まだ将来として残っているのは、先にガリラヤに行かれることです。青年は、イエスが言われたことはそのとおりになっているのだから、これからのこともそのとおりになります、ということを言っているのです。また、これからのことも、イエスのみことばに基づいて行動しなさい、と勧めています。イエスは、ご自分のことばについて、「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。(13:31)」と言われました。この主張を証明するために、イエスは死者の中からよみがえられました。ここから、私たちは、聖書のことば、神のことばは、信頼に値することを知るのです。

 
そして、青年が、弟子たちとペテロと、ペテロの名に言及しているのは興味深いです。ペテロは、一番はでに、イエスを見捨ててしまいました。死んでも、あなたを知らないなどとは言いません、と豪語したのに、見事に3度、イエスを知らないと言いました。そのペテロにとって、イエスがよみがえられたというのは、この上もなく良い知らせです。それは、もう一度やりなおすことができるという知らせです。悔い改め、罪の赦しを得て、新たな人生を、キリストにあって始めることができます。ペテロだけでなく、失敗してしまったすべての人にとっても、イエスのよみがえりは良い知らせなのです。神は、再びやり直すチャンスを与えてくださいます。それを、イエスを死者からよみがえらせることによって、与えてくださっています。

 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも言わなかった。恐ろしかったからである。

 彼女たちは、ものすごく恐ろしい、ホーラー映画でも見たような反応をしていますね。ここから、彼女たちは、実際の体験をしたことがわかります。実際に墓の石がころがしてあって、実際に墓の中に入って、実際に真白な衣を着た青年に会いました。実際に、イエスがそこにおられないのも見ました。幻でも、夢でもなく、肉眼ではっきりと見たことですから、このような反応をしているのです。

 これで、イエスが復活されたことは事実であり、まだ死んでいるというのは、かえって架空の話であることが、おわかりになったと思います。女たちも、弟子たちも、イエスは死んでしまった、という思い込みで生きていたのです。女たちは、イエスのあわれみにふれました。ある者は、イエスによって悪霊から解放され、ある人は病気が直りました。また、弱っているときに助けられました。罪が赦されたことを宣言されました。こうしたあわれみにふれて、イエスにつき従っていたのです。また、弟子たちは、イエスが、聖書に約束されたキリストであることを信じて、神の国が到来することを待ち望みました。キリストが、不法や争いをことごとく滅ばして、平和と正義の支配する国を立てられることを信じました。もはや、人々は苦しみを受けたり、悲しみに沈むことはなくなる、喜びと笑いでいっぱいになる、と期待していたのです。ところが、そのイエスは殺されてしまい、死んでしまったので、彼らはみな、失望してしまったのです。

 私たち人間も、同じような状態にいます。人間はだれも、イエスにあるような豊かないのちを求め、平和や正義を求めています。それで、世の中には、それらのものを提供すると約束するものが出てきました。物の豊かさ、結婚・家族・友人などの人間関係、スポーツや学問、哲学や宗教、あるいは政治運動など、いろいろなものが、その豊かないのち、平和や正義を約束します。しかし、それらに従事した結果、約束は実現されないことを知って失望しています。また、実質のない単なる思想であると知っていても、他に生きていく道がわからないので、それにしがみついています。死んでいるイエスに仕えようとした、女たちと同様にです。しかし、イエスは、実際によみがえられました。イエスが約束された豊かないのちは、死んでいません。私たちが、実質のともなわない望みをいだいて生きるのではなく、客観的な事実に基づいた希望を持つことができるようになったのです。ですから、復活が事実であった、ということを知ることは大切です。

2A 復活への信仰 9−20
 そして、次に大切なことは、この事実を受け入れることです。事実だと言われても、自分が見たことではないので、信しられないかもしれません。けれども、信じないからと言って、イエスがよみがえられたことが変わるわけではありません。変わるのは、その人の人生と運命です。信じるのと、信じないのでは、全く違った人生をもたらします。

1B 復活の証人 9−13
 さて、週の初めの朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から7つの悪霊を追い出されたのであった。

 先ほどは、御使いが現われましたが、今度は、イエスご自身が現われております。まず最初に、マグダラのマリヤにお現われになりました。マルコは、彼女が7つの悪霊につかれていたことを記しています。たぶん、これがイエスが最初に現われた理由になるでしょう。7つの悪霊につかれていた、というのですから、彼女は、まともな生活を歩んでいなかったと思われます。生き地獄でした。そこでイエスは、彼女を悪霊から解放されました。それでマリヤは、イエスをなくして生きていくことのできないほど、イエスを愛したのです。他の福音書に、イエスがマリヤに現われたときのことが詳しく記されています。墓の中で泣いていたマリヤに、イエスが、「なぜ泣いているのですか。」と声をかけられました。マリヤは、最初は園の管坦人だと思いましたが、イエスが、「マリヤ。」と言われると、彼女はイエスにしがみついたのです。死に物狂いのしがみつき方だったと思います。一度は離れていってしまったけれども、もうどこにも行かせない、という感じだったのです。それでイエスは、「わたしにすがりついてはなりません。弟子たちのところに行って、わたしがよみがえったことを告げなさい。」と言われました。ですから、マグダラのマリヤが、復活の最初の証人となりました。

 マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆さ悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。

 弟子たちは、イエスが生きておられることを知らずに、嘆き悲しんでいました。マリヤが来て、イエスがよみがえられたことを告げても、それを信じませんでした。ここで、喜び叫ぶべきでしたが、信じなかったので、嘆き悲しみ続けたのです。これが、不信仰の結果です。イエスが死者の中からよみがえられたことを信じないと、このようになってしまいます。いつまでも悲しみの中、苦悩の中にとどまるのです。パウロは、コリント人に手紙を書いて、イエスがよみがえられなかったのなら、どのような状態になるかを記しています。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。・・・もし、私たちがこの世においてキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(1コリント15:17、19)」復活を信じないなら、たとえキリストの教えを信じていても、むなしい望みを、いだいているだけになります。

 その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。

 このふたりについては、ルカの福音書に詳しく記されています。先ほど墓に赴いた女たちは、思い直して、イエスがよみがえられたことを弟子たちに告げます。けれども、彼らはそれを信じませんでした。希望を失った弟子たちのふたりが、エルサレムを離れて、エマオという田舎に向かいました。そこでイエスは、ご自分を現わされたのです。彼らは、途中で、この人がイエスだと気づき、自分たちはイエスを見たことを他の弟子たちに告げるのです。

 そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。

 弟子たちは、マリヤだけでなく、ふたりの話も信じませんでした。これでは、主のみこころを悲しませることになります。聖書には、ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されることが書いてあるからです(申命記19:15、マタイ18:16)。マリヤがおり、そしてふたりの弟子が同時にイエスを見たという証言があるのに、それを事実として受け入れませんでした。

 しかしそれから後になって、イエスは、その11人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかなくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。

 イエスは、初めて弟子たちに現われました。そのとき、彼らがイエスを見捨てたとか、ペテロがイエスを3度、知らないと言ったことを責めることをなさいませんでした。そうではなく、よみがえりの証人が数名いたのに、彼らの言うことを受け入れなかったことを責めておられるのです。というのは、10節にもあるように、復活という事実があっても、それを信じなければ、その人は何も変わることができないからです。イエスがよみがえられたことを信じるのは、イエスが生きて働かれるように、この方を自分の生活に迎え入れることです。その行為によって、私たちは、自分自身ではできなくなっていること、つまり、神の願っておられるような生き方をしていくことができます。パウロはこう言いました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなくて、私を愛し私のためにご自身をお捨てに」なった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)」神は、私たちが罪を犯すことで、さばかれることはありません。御子がその罰をすべて受けてくださったからです。けれども、もし私たちが、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じなければ、そのような閉ざされた心の中で、神は働くことはできません。ですから、神がさばかれる唯一の罪は、イエスを信じないことになります。このことについて、イエスは弟子たちを責められたのです。

2B 福音宣教 14−20
 イエスは、次に、復活を信じることに基づく福音を、弟子たちが宣べ伝えるように命じられます。

1C 命令 14−18
 それからイエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

 イエスは、ご自分がよみがえられたことを「福音」と呼ばれました。福音とは、「良い知らせ」という意味です。人々が求めていた救い、豊かないのち、平和、正義など、あらゆる良いものが、イエス・キリストをとおして与えられるようになりました。人間は、希望がなければ生けで行くことのできない存在です。けれども、今まで世が与えてきたのは、実質のない架空のものでした。しかし、今度は、実質があります。キリストが、実際によみがえられたのです。使徒ペテロは、こう宣言しています。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、いける望みを持つようにしてくださいました。(1ペテロ1:3)」そして、イエスはこの福音を、全世界の人々に告げるように命じておられます。使徒たちは、マリヤとふたりの弟子からイエスの復活の証言を聞きましたが、今度は、自分たちがイエスの復活の証人となるのです。

 信じてパブテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 ここにも、神にさばかれるか、それとも受け入れられるかの判断の基準が記されています。行ないではなく、信仰です。イエスは、こう言われました。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:17,18)」また、ここに「バプテスマ」あるいは洗礼のことが書かれていますが、バプテスマは、自分がキリストのものになることを公にする儀式です。バプテスマの水は墓を意味しています。水の中に入るとき、私たちは葬られました。キリストが罪を背負って、墓に葬られたように、罪に支配されていた私たちが死んで、葬られます。そして水から出てくるとき、私たちは新たに生まれることを象徴します。キリストがよみがえられたように、私たちも御霊に支配された、新たな生活を歩むようにされたのです。この、「信じてパブテスマを受ける者は、救われる。」という筒所から、バプテスマを受けなければ救われないという異端が存在しますが、それが間違いであることは、すぐに分かります。イエスは、「信じてもパブテスマを受けなければ、非に定められます。」とは言わずに、ただ、「信じない者は罪に定められます。」とだけ、言われているからです。バプテスマは、イエスを信じる者たちに対する命令であっても、救いの条件ではありません。

 「信じる人々には次のようなしるしが伴います。」

 イエスは、しるしについて話されます。マルコの福音書の特徴ですが、彼は、キリストの教えよりも、その行ないに焦点を合わせています。信者についても、信じる内容よりも、信じたら何を行なうことになるかについて記しています。

 「すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

 奇跡的なことばかりが列挙されていますが、まず最初に、これらのことはすべて、使徒の働きの中に見ることができることを知る必要があります。そして、第二に、使徒たちだけではなく、特に宣教師たちが、これらのしるしを体験していることです。イエスが、全世界に福音を宣べ伝えなさい、と言われてから、これらのしるしを列挙していることに注目してください。宣教地では、悪霊にとりつかれている人々に、今でも遭遇しますし、蛇にかまれたり、害虫がうじゃうじゃいる水を飲まなければいけない時があります。また、病気にかかっても、医者に診てもらうことは、あまりできません。イエスは、そのような人々の必要を満たされることによって、信仰へと導かれましたが、宣教を行なう者たちも同じです。そして、新しいことばというのは、話している本人が理解することのできない異言のことです。聖霊を受けるときに、人々が異言を話すことがよくあります。異言によって、私たちは、神を賛美したり、祈ったりすることができます。

 主イエスは、彼らにこう話された後、天に上げられて神の右の座に着かれた。

 イエスは今、神の右の座に着かれています。そこで何をしているかと言いますと、私たちのためにとりなしておられます。パウロは、「よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしをしていてくださるのです。(ローマ8:34)」と言いました。とりなしとは、他の人の必要のために神に嘆願することですが、イエスは、私たちの必要のために、父なる神にお願いをしてくださっているのです。また、父なる神は、イエス・キリストにこう言われました。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。(詩篇110:1)」敵を足台とするということは、神とキリストに敵対している者たちが滅び去ることを意味します。この世は、まだ悪魔の支配下にあります。けれども、神は、この地上にさばきを下す時を定めておられ、最後に御子キリストを、再び世に遣わされるのです。そのときに、反キリストと偽預言者は、火と硫黄の池に投げ込まれ、悪魔は底知れぬところで鎖につながれます。ですから、イエスが神の右の座に着いておられるのは、ご自分がまた地上に戻られる時までのことです。

2C 従順  19−20
 そして、弟子たちは、イエスの命令に従います。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを碓かなものとされた。

 そして、20節の脚注を見てください。最後は、「アーメン。」で終わります。彼らはイエスの命令に従いましたが、彼ら自身が、イエスの行われたことをしていくのではありません。「主は彼らとともに働き」とありますね。福音宣教は、本質杓に、彼らの働きではなく、よみがえられたイエス・キリストの働きなのです。そして、それは、今に至るまで続いています。宣教も、また教会も、それは主ご自身の働きです。私たちは、イエスの言われたことに聞き従うしもべですが、神ご自身が主役なのです。私たちは、ひとりなのではありません。イエスは、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と言われました。私たち個人の生活においても、イエスが働かれます。イエスがよみがえられたのは、まさに、私たちのうちでご自分のわざを行われるためです。主は、彼らとともに働かれました。

 そして、「みことばに伴うしるし」と書かれていることに、注目してください。しるしは、みことばを碓かにするための手段であり、宣教の目的はみことばが広められることです。イエスがよみがえられたのは、ご自分のみことばがいかに権威のあるものか、真理であり、絶対であるかを示されるためでした。このみことばによって世界が造られ、このみことばによって歴史は動き、このみことばによって、人々は180度変えられます。そして、今の私たちは、聖書の記されている神のみことばによって、生きているイエスご自身に出会うことができます。自分の気持ちや考えは、しばしば、私たちを欺きます。それが、いかにも本当であるかのように見えるのです。しかし、それは、墓の石と同じように、もうころがされているのです。主イエスにあって、取り除かれています。大事なのは、神の事実をつかむことです。イエスの言われることこそが真実であると、信じることです。その事実を受け取るときに、イエスが生きて働かれるのを体験します。


「聖書の学び 新約」に戻る
HOME