マルコによる福音書2−3章 「福音宣教の妨げ


アウトライン

1A 福音の妨げ 1−3:6
   1B 神の福音 1−22
      1C 中風のいやし(罪の赦し) 1−12
      2C 取税人との食事(悔い改めへの招き) 13−17
      3C 断食の問題(新しい働き) 18−22
   2B 掟 23−3:6
      1C 穂積み (イエスが主) 23−28
      2C いやし(イエスを葬る) 1−6
2A 宣教の妨げ 7−35
   1B 宣教の拡大 7−19
      1C 大勢の訪問 7−12
      2C 12弟子の任命 13−19
   2B 肉 20−35
      1C 赦されない罪(不信仰) 20−30
      2C 本当の母、兄弟(肉の関係) 31−35

本文

 マルコの福音書2章を開いてください。今日は、2章と3章を学びます。ここでの主題は、「福音宣教の妨げ」です。私たちは前回、福音とは、救い主イエス・キリストが来るという良い知らせであることを学びました。この方によって、私たちが罪から救われるわけですが、それは単なる教えではなくて、実際に私たちを変えてしまうカがあります。その力は、悪霊追い出しや、いやしの中に現われました。それで、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」ということばが、人間の知恵ではなく神の力であることを証明したのです。

 今から学ぶ2章と3章では、この福富宣教がどんどん広がっているのを見ます。と同時に、この福音に反対し、福音をけなす人が現われます。つまり、福音の内容を見つつ、私たちが気をつけなければいけない、福音を妨げる要因を見ます。

1A 福音の妨げ 1−3:6
1B 神の福音 1−22
1C 中風のいやし(罪の赦し) 1−12
 数日たって、イエスが力ペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。

 人々がその家に入ってきました。当時は、人々を家にもてなす習慣がありましたから、見知らぬ人が入って来てもおかしくありませんでした。

 そのとき、ひとりの中風の人が4人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。

 中風をわずらっている人が、4人の人にかつがれています。彼らは、多くの群衆に遮られていました。でも、失礼ではないかと思われる方法で、中風の人をイエスのみもとに連れて行きました。他の記事を見ても、イエスの奇蹟を体験する人々は、世間体や常識から出て行ってイエスに近づいています。イエスに近づいたらい病人は、自分は汚れているので人にさわってはいけませんでした。長血をわずらう女もそうですね。また、カナン人の女は、異邦人なのにイエスに近づきました。取税人ザアカイは、なんと木によじのぼってイエスを見ています。彼らに共通することは、イエスに近づくのに大胆であることです。自分の霊的な必要に関して、決して遠慮をせず、食らいつくようにしてイエスに近づいたのです。

 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。

 イエスは、この病人を治すのではなく、「あなたの罪は赦されました。」と言われています。この4人の者は、中風を治してもらうためにこんなに苦労して来たのですから、「あなたの罪は赦されました。」という言葉は、期待はずれだったでしょう。しかし、イエスは最も大切なことを一番最初に行われました。病気が治ったとしても、罪が赦されなければ無意味です。未信者の知り合いの人と出会うとき、その人が病気持ちであること、財政困難に陥っていること、子どもが登校拒否になっていることなど、いろいろな問題があることを心配します。しかし、最も大事なことを忘れてはなりません。それは、その人が神に敵対する罪人であることであり、罪の赦しのために祈っていく必要があるのです。

 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」

 この律法学者たちは、罪が赦されたという喜ばしい知らせに難癖をつけています。確かに、その言っていることは正しいものでした。つまり、神のみしか罪を赦すことができない、というものです。人に嘘をついたり、人のものを盗んだりしても、究極的には神に対して罪を犯しているのです。さすが、律法を調べている者であり、洞察は正しいものでした。しかし、彼の態度が間違っています。理屈を言っている、つまり、批判的になり、分析をしているのです。そもそも、なぜ、彼らはそんなところにいるのでしょうか。イエスのあら探しをするためですね。イエスが言われること、イエスが行われるすべてに、悪いものを見出そうとしています。このような態度で人々に臨むとき、たとえ自分の言っていることが正しくても、福音の働きを閉ざしてしまいます。

 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中で理屈を言っているのか。中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」

 どちらが、やさしいでしょうか。罪が赦されたと言うほうがやさしいですね。なぜなら、罪が赦されたこと自体は目に見えないからです。証拠を提示する必要がありません。起きて、歩け、と言っても歩かなかったら、その人の言葉には権威がないことがわかります。

 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせるために。

 ギリシャ語では、この文の前に「しかし」が入ります。つまり、「罪を赦すことを見せることはできないが、「起きなさい。」とわたしが言うことで、わたしのことばに権威があることを示そう。それで、わたしに罪を赦す権威があることを知りなさい。」と言われたかったのです。

 こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」 と言われた。すると、彼は起き上がリ、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。

 イエスは、この男に命令しました。人間的には不可能な命令ですね。しかし、彼には信仰があったのです。起き上がれませんという理由はいくらでも言うことはできましたが、イエスの命じられることに従おうと思ったのです。この信仰によって、彼に起き上がるカが与えられました。そして、家に帰りなさい、とイエスが言われたので、出て行きました。これは、私たちにとても大切なことを教えてくれます。すなわち、人間的には不可能な命令であっても、イエスの御力を信じて従うこと。そうすれば、従うのに必要なカが与えられることです。

 それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って、神をあがめた。

 律法学者の批判的な怠度とは裏腹に、群衆たちはすなおに神をあがめています。このように、人々から証を聞いたとき、主のすばらしい働きを聞いたとき、すなおに神をあがめることは大切です。

2C 取税人との食事(悔い改めへの招き) 13−17
 イエスはまた湖のほとリに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが取税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。

 ここには、イエスのみことばが、病を治すだけでなく、人生を変えることが示されています。このイエスのみことばが、レビ、つまりマタイの心の中で働きました。彼はその心の声に逆らうことなく、意思をもってイ工スに従ったのです。そして、結果的に、職業を失いました。

 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。収税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。

 取税人は、当時、やくざな仕事として考えられていました。ユダヤ人はローマに納税するのが大嫌いでしたが、お金もうけのためにロ−マの肩入れをしたのが取税人です。ローマは一定額の税のみを請求しましたが取税人はそれ以上の税を請求して、その差額を自分のポケット・マネーにしていたのです。この取税人と罪人がいっしょに書かれています。ここでの罪人は、霊的に救われていない人々と言うよりも、律法の伝統をまったく重んじない人々の総称として使われています。

 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は収税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」

 パリサイ人が出てきています。彼らは、律法を学んでいただけでなく、それを伝統にしたがって実践していた人々でした。その伝統によると、罪人にさわると、自分も汚れるというものです。彼らが通りを歩くときは、自分の着物のふさを固く縛りました。異邦人や罪人に着物がふれないようにするためです。ですから、取税人や罪人と食事をするとは、到底考えられないことであり、かつ、当時、食事をすることはいっしょに食べている人々と一つになることでした。そこで彼らは弟子たちに文句を言ったのです。面白いことに、先ほどは、心の中で理屈を言っていましたが、ここでは□に出しています。

 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 異本では、「罪人を悔い改めに招くために来たのです。」となっています。イエスは、パリサイ人たちに合わせて語られているので、パリサイ派の人々を「正しい人」と呼び、取税人たちを「罪人」と呼ばれていますが実はその反対です。取税人や罪人が正しいと認められ、パリサイ人たちに罪がとどまっていました。前者は自分に罪があることを認め悔い改めていますが、後者は自分がそれほど悪くないと思って、悔い改める必要性を感じていなかったからです。そして、イエスは、自分の罪を認め、悔い改める者たちとともにおられました。さらに、ともに食事をされました。親しい交わりです。黙示録には、こう書かれています。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」 主は、砕かれたたましい、へりくだった心を親しく交わられます。

3C 断食の問題(新しい働き) 18−22
 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは斬食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」

 今度は、パリサイ人とともにヨハネの弟子たちが来ています。弟子とは、師の教えることを学び、そして実践する者たちですがこのヨハネの弟子たちは、ヨハネの教えをちゃんと聞いていなかったようです。ヨハネは、「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。」と言って、イエスを指し示しました。ヨハネの言葉を聞いてイエスに従った、アンデレのような弟子もいましたが本当はそうなるべきだったのです。それなのに、この弟子たちは、逆にイエスをさばいています。彼らの問題は何だったのでしょうか。イエスが説明されていますので、見てみましょう。

 イエスは彼らに言った。「花婿が、自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる間は、断食できないのです。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。

 イエスはご自分のことを花婿にたとえ、弟子たちを花婿の友だちにたとえられています。ここのイエスのことばで大事なのは、「時」という単語です。今は、花婿が友だちとともにいる時と、花婿が取り去られる時があります。むろん、これは十字架の時です。このように、時によってなすべきことが異なります。ヨハネが宣教をする時は終わっていました。さらに、ヨハネは断食をよく行ないましたが、それは、主の道を整える者にとって必要なことであり、しかし、その役目は終わったのです。それなのに、彼らは融通を利かせることなく、「時」をわきまえませんでした。

 「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い書物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。」

 真新しい布切れは、洗うと縮みます。だから、古い着物を引き裂いて、破れがもっとひどくなります。

 「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」

 新しい皮袋は弾力性がありますが、古い皮袋は固くなっています。新しいぶどう酒は気化するので、弾力性のある新しい皮袋に入れれば破れることはありませんが、古いのであれば張りさけてしまいます。この2つのたとえから、イエスは、新しい働きは、古い制度や組織から離れて行われることを言われています。古い制度や組織に新しい働きを入れようとしても、その働きがだめになってしまうだけでなく、古いものもだめにします。したがって、新しいところで新しい働きが始められるのです。けれども、ヨハネの弟子たちは、ユダヤ教の枠組みの中で悔い改めを説いて神に立ち返らせようとしていました。けれども、それは失敗するのです。

 このように、福音には時があり、また福音は新しい働きとして現われます。そこに必要とされているのは、柔軟性です。状況に応じた対応と、開かれた心が要求されます。もっとかみ砕いて言うならば、乳飲み子のように神のみことばを飲み(1ペテロ2:2)、苦しいならば祈り(ヤコブ5:13)、喜んでいるなら賛美をするなど、神に対していつも心が開かれているようにする、ということです。そうした柔らかい心に、福音が届きます。

2B 掟 23−3:6
 マルコは次に、2つの安息日における出来事を記しています。

1C 穂積み (イエスが主) 23−28
 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。

 弟子たちが穂を摘んで、それを食べ始めています。これは、律法にかなったことでした。申命記23章に、隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。(25節)とあります。

 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」

 彼らは、穂を摘むことを刈り入れであると解釈していました。刈り入れは働くことだから、安息日に働いてはならないという戒めに反することになります。ただ、ここで彼らが直接イ工スに訴えていることに注目してください。最初は心の中で理屈を言って、次に弟子たちに訴えましたがここではイエスご自身に対抗しています。なぜなら、安息日に関わる伝統は、彼らにとって絶対に譲ることのできないものだったからです。私たちの回りにも、人々が決してゆずることのできない伝統やおきてが存在します。例えば、家を守ることなどはそうでしょう。そうしたことが原因で、多くの人が福音に同意しても、それに自分をささげることをしません。「私の家は、仏教なので。」という具合になってしまいます。こうした、絶対視されているおきて、あるいはタブーにされていることがあるのですが、時に福音はそこに入り込みます。そのときに衝突が起こるのです。

 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。アピヤタルが大祭司ころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともといた者たちにも与えたではありませんか。」

 ダビデは、お腹の空いていたとき、おきてを破っても許されました。弟子たちも食物がなくて、ひもじかったのだ、とイエスは言いたかったのです。

 また言われた。「安息日は、人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」

 神は、戒めを設けられたとき、人間の益になるように設けられました。しかし、人間の側でそれを曲解し、おきてで人間をがんじがらめにしてしまいます。そのような掟と福音は、根本から対立するのです。不思議なことに、人間は、自分に益を与える福音よりも奴隷にするおきてを選ぶことが多いのです。

 「人の子は安息日にも主です。」

 イエスはここで、「あなたがたは、選ばなければなりませんよ。あなたが絶対に譲れない安息日にまさって、わたしを一番にすることができますか。」と言われています。絶対視しているものをイエスのために捨てるかそれともそれにしがみ続けるのか、どちらかを私たちは選ばなければなりません。

2C いやし(イエスを葬る) 1−6
 パリサイ人は、それにしがみつくことを選びました。次を見てください。イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を治すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった。

 彼らが、イエスはこの片手のなえた人に目をつける、と思っていたようです。彼らは観察力は鋭いものがありました。イエスは、つねに一番弱っている人、一番助けが必要とされている人に一番の関心を寄せられます。私たちは信仰的にスランプのとき、他のクリスチャンを見て、神は彼らに関心があるが、私にはないだろう、と思ってしまいます。しかし、その逆なのです。

 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことかそれとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」

 もちろん、安息日にしてよいのは、善を行なうことであり、いのちを救うことなのです。しかし、彼らは黙っていた。とあります。彼らは、伝統のためなら、悪を行ない、人を殺す準備も出来ていたのです。

 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手をのばしなさい。」と言われた。するとその手が元どおリになった。

 イエスは怒られました。イエスはいつも冷静な方でしたが、怒るときがありました。それはいつも、宗教的盲目に対してです。宗教とは、自は神に熱心に仕えていると思わせるが、実は、神に逆らっており、逆らうことが実は神に仕えているようにさせるやっかいものです。この場合、片手のなえた人がいやしによって神に近づくことを、何としてでもやめさせようと考えていたことです。イエスは、そのことに怒られました。イエスは、宗教に走る今の人々にも怒りを持っておられます。

 そこでパリサイ人は出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。

 へロデ党はユダヤ教の一派ですが、パリサイ派と真っ向から対立していました。なぜなら、パリサイ派は国民主義でローマに抵抗していましたが、へロデ党はロ−マに肩入れしていたからです。けれども、ここでは、一人の敵がいるために、一致しています。そして、彼らはイエスを葬り去ることを考えています。つまり、神を葬り去ううとしています。つまり、イエスを主とするか、さもなければイエスを思いや考えから葬り去るかの選択があるだけなのです。中間は存在しません。

2A 宣教の妨げ 7−35
1B 宣教の拡大 7−19
1C 大勢の訪問 7−12
 それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。

 イエスは、パリサイ人たちの計画を知って、退かれました。それは、彼らを恐れたからではなく、ご自分の父を恐れたからです。御父が定められた時に、イエスはご自分を彼らに引き渡されます。

 すると、ガリラやから出て来た大ぜいの人々がついて来た。また、ユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、 イドマヤは、ユダヤの南に位置します。 ヨルダンの向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。

 私たちは、イエス・キリストの福音を反対する者たちが現われたのを読んできました。しかし、その直後に、このようにして広範囲から大多数の人々がイエスのみもとにやって来ているのです。福音は、反対にあってもつぶれることはなく、むしろ反対にあえばそれだけ促進するという、一見矛盾したことが起こります。

 イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちを言いつけられた。

 もし陸地にいたら、押しつぶされてしまうような感じになっていたのでしょう。

 それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人々たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにふれ伏し、「あなたこそ神の子です。」 と叫ぶのであった。イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。

 病気の人と、悪霊にとりつかれた人々が近づいています。イエスは、ご自分のことを明かす悪霊を、再び黙らせています。それは、前回も話しましたが、イエスが神のしもべに徹していたことがあります。また、御父が定めておられた時がまだ満ちていなかったからです。

2C 12弟子の任命 13−19
 さて、イエスは山に登り、ご自分のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは12弟子を任命された。

 イエスが「ご自分のお望みになる者たち」を弟子に任命されたことに注目してください。宣教や奉仕に任命されることは、イエスのご意志によるものです。私たちが選ぶことではありません。

 それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

 宣教が爆発的に拡大して、イエスおひとりでは対応しきれなくなりました。それで、イエスは、弟子たちにご自身の宣教を任せられています。彼らは遣わされて、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出すのですが、その前に「身近に置き」、とあります。力強い宣教は、イエスとともにいることを学んだ人によって行われます。

 こうして、イエスは12弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたリにはポアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。次に、アンデレ、ピリボ、バルトロマイ彼は、ヨハネ1章に出てくるナタニ工ルのことです。マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ彼は、ユダとも呼ばれています。熱心党員シモン

 熱心党員は、ロ−マから権力を奪取してユダヤ人国家を造ることにすべてをかけた人たちです。面白いことに、ローマの下で働いていた取税人マタイも、同じ仲間に加えられています。

 イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。こうして、12人の名前が列挙されていましたが、みな、特にすぐれた才能をもっているわけではない凡人たちです。イエスが彼らを選ばれたのは、彼らがすぐれていたからではないのです。選ばれるべき素質もなかったのです。神が、「わたしは、・・・。あわれもうと思う者をあわれむ。(出エジプト33:19)」と言われたとおりです。

2B 肉 20−35
1C 赦されない罪(不信仰) 20−30
 イエスが家に戻られると、またぜいの人が集まって来たので、みなは食事をする暇もなかった。

 ものすごいですね。食物を手に入れる時間さえないほど、人々がイエスに押し寄せて来ました。

 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。

 ここでも反対の手が伸びています。なんと身内という味方であるはずの者からです。

 「気が狂ったのだ。」 と言う人たちがいたからである。また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」 と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」 とも言った。

 エルサレムから来た律法学者です。いわば、本部からの専門家と言うところでしょう。彼らは、イエスが汚れた霊につかれているとしました。彼らの冒涜は、極みに達しています。心の中から弟子たちへ、弟子たちからイエスご自身へ、そして今は大ぜいの群衆に語りかけてエスカレ−トしています。

 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きできません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。」 イエスは、彼らの言ったことは矛盾していることを説明されています。「碓かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。」

 暗やみの力には、きちっとした命令系統と権威の序列があるのです。ですから、イエスは、まず階級の上部にいる悪霊どもをまず縛り、それから汚れた霊を追い出しておられたのです。

 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。

 これは、驚くべき発言です。神にとって、赦すことのできないような重い罪は存在しません。イエスの十字架が負いきれないような罪は何一つないのです。どんな罪も赦されます。

 「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。

 十字架によってどんな罪も赦されますが、その十字架を否定するのであれば、赦されることはありません。聖霊は、救いの道はただイエスのみにあることを証しされます。その証を受け入れないとき、その人は聖霊をけがす者となるのです。パリサイ人は、イエスが救い主キリストであることを決して否定することのできないような証拠を見てきました。それでも、彼たはイエスを拒み、その結果が、汚れた霊に取りつかれている、という発言を生み出したのです。したがって、彼らはこの赦されない罪を犯しそうになっています。

2C 本当の母、兄弟(肉の関係) 31−35
 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばれた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちがあなたをたずねています。」と言った。

 母と兄弟たちが、イエスの宣教の邪魔をしています。イエスは他の箇所で、「家族の者がその人の敵となります。(マタイ10:36)」と言われました。最も絆の深い親しい関係であるはずが、その逆に働くのです。いや、親しいからこそ敵にまわすと言ってもいいでしょう。これを聖書では肉と呼びます。イエスがニコデモに、「肉によって生まれた者は肉です。(ヨハネ3:6)」 と言われたように、肉は私たちの生まれて持っている一切合切を含みます。不品行や偶像崇拝のような類いのものであれば、それが肉であることは明らかなので、ある意味でそれを捨てることは容易です。しかし、神と私たちとの関係は、家族関係に似ているところがあるため、それを混同してしまって、その肉を断ち切れないことが起こるのです。しかし、家族関係は肉であり、本質的に福音に敵対するのです。同じことが、会社の上司と部下の関係でも起こってくるし、また、教会の信者どおしの関係でさえも起こります。

 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 イエスは、本当の深い絆を定義されています。神のみこころを行なう人たちの間の絆です。絆と言うと、私たちは互いに腹を割って話し合える仲だと考えてしまいます。自分のさみしさを埋めてくれるような関係が深い絆だと感じます。しかし、それは違います。一人一人が神のみここうを行なっているときに、その間に絆があるのです。海外にいる兄弟のために祈り、絆を持つことができます。また、初めて会う兄弟が困っているので、助けてあげるときに絆が生まれます。なぜなら、キリストの命令に従っているからなのです。

 ですから、私たちは自分を吟味しなければいけません。自分は肉の関係を持とうとしているのか、それともキリストの愛に促されているのか。また、エルサレムから来た律法学者のように人に認められたいと思っているのか、それとも、本当にキリストに促されて奉仕をしているのか。肉によって宣教の働きは妨げられます。けれども、福音に自分の身をゆだねるときは、宣教が拡大するのを見ていくのです。


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