マタイ10章 「イエスの権威を授けられた者」

アウトライン

1A イエスの全権大使 1−15
2A この世からの迫害 16−23
3A 恐れるべき方 24−33
4A 生じる分裂 34−42

本文

 マタイによる福音書10章です。私たちは、イエス様が天の御国についての教えを、5章から7章までの山上の垂訓で学びました。そこでの特徴は、イエスが語られるのは単なる良い話ではなく、私たちに根本的変化をもたらす権威ある言葉でした。そして8章から、その権威が病や悪霊追い出し、そして湖の嵐さえ静める力を持っていることを読みました。そして9章に、その権威に信仰をもって応答している人々の姿を見ました。

 そして、御国の福音を聞いて、イエスの癒しと解放を必要としている人があまりにもたくさんいます。それで、そうした人々が羊飼いのいない羊のように弱り果てていたので、イエス様はかわいそうに思われた、とありました。そして、収穫のために働き手を神が送ってくださるように祈りなさい、と命じられます。

1A イエスの全権大使 1−15
 そこで主が行なわれたのは、弟子たちのうち十二人を選ばれたことです。興味深いことに、イエス様はすでに弟子として付いてきている人々から、働き手を選ばれました。つまり、私たちは、もちろん教会の外から働き人が与えられることを願いますが、それ以上に、今いる仲間の中から働き手が生まれるよう、祈らなければいけません。

10:1 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。10:2 さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、10:4 熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

 イエス様が選ばれた人々を、「使徒」と呼んでいます。これは「遣わされた」「送られた」という意味です。イエスの権威を与えられ、イエスが行なわれることを代表して行なう、全権大使としての働きです。これが、聖書では「宣教」と呼ばれています。

 そしてここに出てくる十二人は、後に初代教会を代表するペテロから始まり、イエスを裏切るイスカリオテ・ユダで終わります。ご自身を裏切ることを知りながら、なぜイエスはユダを選ばれたのでしょうか?それは、私たちの模範になるためです。後でイエス様は、「弟子はその師にまさるものではない。」と話されます。つまり、自分たちの仲間ではないのに、初めは仲間であるかのように存在するということは、教会の中では常にあるということです。ヨハネ第一にも、イエスが神の御子キリストであることを否定する人々が教会から離れていったけれども、もともと彼らは仲間ではなかった、と書いてあります。ですから、イエス様のように私たちは早まった判断を下さず、来ている人々を受け入れていく必要があります。自分たちの仲間であるのかそうでないかは、後で自ずと明らかにされます。

 そしてもう一つ興味深いのは、彼らはみなユダヤ人ですが、実に多彩な背景を持っているということです。漁師が多いですが、取税人マタイがいます。そして熱心党員シモンがいます。この二人が同じところにいるというのが奇蹟です。熱心党員は、ユダヤ人民族主義者であり、武力によってローマを倒し、神の国をもたらすと考えていた人々です。ローマの犬である取税人は刀で殺してもまったく構わないと思っている人々です。なぜこの二人が同じところにいることができたのか?イエスが真中におられたからです。イエスがそれぞれの主となっていて、自分自身の権利を捨てていたからです。

 私たちはとかく、気の合わない人、考えの違う人が教会の中にいると、その人との人間関係の中でどのように付き合えばよいか考えながら付き合おうとしていきます。それは世の中で、社会の中出なら通用することです。けれども教会でそれを行なってもうまくいきません。教会で行うべき事は、自分自身がキリストを主として、自分を捨てて、キリストの弟子として生きていくことです。兄弟たちを相手にしているようで、実は自分自身が主を相手にして生きるのです。

10:5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。10:6 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。10:7 行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。10:8 病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。10:9 胴巻きに金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。10:10 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

 イエス様が異邦人やサマリヤ人のところではなく、イスラエル人の失われた魂のところに行きなさいと言われているのは、異邦人やサマリヤ人を気に留めていない、ということではありません。そうではなく、初めに伝えなければいけない人たちが、旧約聖書の約束にあるようにイスラエル人たちだからです。彼らこそが神に選ばれた民であり、メシヤを受け入れて自らも光となるべき人々だったからです。けれども彼らがメシヤを公に拒んだので、イエス様はご自分が復活されて昇天される前には、「すべての国民を弟子としなさい」と命じられて、それから異邦人に対する宣教が始まります。

 イエス様は、私たちに接点を持つことのできる人々を与えてくださいます。世界にはもちろん、あまりにも数多くの人々が福音を必要としています。けれども、弟子たちにイスラエル人に御国を伝えることを命じておられるように、主が私たちに私たちと接点を持つことのできる人々を与えてくださいます。例えばこの交わりであれば、ロゴス・ミニストリーのウェブサイトによって既に聖書の学びに興味のある人々を集めてくださっています。そしてそこから後に、さらに広い範囲で主がご自分の御国を広げてくださることでしょう。

 そしてここで興味深いのは、イエス様が行なわれたことをそのまま弟子たちに命じられていることです。「天の御国が近づいた。」と宣言すること、病人を直して死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出すことはみな、私たちがすでにマタイ伝の中で読んできたイエス様の宣教活動であります。弟子たちはこれらをずっと見ていきました。けれども、今度は自分自身がやっていかなければいけません。ちょうどそれは助手席に乗っているときに見ていた同じ道路を、今度は自分自身が運転席に座って走っていくようなものです。

 私たちが奉仕の働きをする時は、まず見なければいけません。すでにキリストに従っている人々が奉仕をしている姿を見ていて、それで自分がどのようにキリストに従っていけばよいのか、神に奉仕しなければいけないのかを見ていかなければいけません。

 そして、実際に奉仕や宣教の活動をする時には、大事なのは、それは自分自身が行なうことではないのだ、ということです。弟子たちがこのような大きな奇蹟を、自分の信心深さや能力によっては到底できないことを知っています。それはあたかも、警察官のようです。警察官本人には権威がありません。何に権威があるのでしょうか?警官の制服ですね。または携行している拳銃かもしれません。警官の制服に、国の、特に刑法に関わる権威を有していることを表しているのです。その服を身につけていれば、自分よりもはるかに力のある大型トラックも止めることができるのです。

 ですから、奉仕をすること、福音宣教をするということは、主がそれぞれに与えられた賜物を用いて、主を代表して人々の前に出て行くことであります。自分自身が神の前に出て行けば、それで十分なのではありません。自分にイエスから与えられた権威があることを知らなければいけません。そこには大きな責任が伴います。警官が法に精通し、自分がまったく国の権威の下に服従していなければいけないように、自らもっぱらキリストの権威の下に置きます。自分自身のために用いたら、多くの人々を悩まし、傷つけ、痛めつけることになります。けれどもきちんと用いれば、その権威は福音による癒しと解放、救いを大いにもたらします。

 ですからその権威を用いて、他の人々がキリストの権威に服従するように導いていくのです。先週少し分かち合いましたが、例えば私は、聖餐式の時は緊張します。聖書箇所を朗読しながら、祈りながら、そこで主ご自身が人々に触れて、癒しの働きをされることがあるかもしれないと思いながら行っています。それは私が何かをするのではなく、一方的に主が行なわれるのを見ているのです。

 そして、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とイエス様は言われました。奉仕や宣教は、ちまたにある占い師や癒しをする人が行なうような、対価を要求するものではありません。神の恵みによって与えられたのだから、それを無償で与えるのです。特に私たち日本の社会は、「義理」という文化がありますから、教会を通していかに神の恵み深さを知ることができるのか、それを、身をもってこれから来る人々に表していかなければいけません。

 それと同時に、「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」とイエス様は言われました。ちょうど祭司やレビ人が相続地を割り当てられなかったけれども、イスラエル人の十分の一の捧げ物や祭壇のいけにえを受け取って生きていたように、福音の働き人は世の中で働く人々と異なり、生活費については身軽でなければいけません。福音の働きを受けている人々が、そこから平安を得ることができ、そして感謝の表れから、その働き人のために生活の必要を与えるというのが、神の与えられた宣教の方法であります。

10:11 どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。10:12 その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。10:13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。10:14 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。10:15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。

 弟子たちには御国の福音についての権威を持っています。ですから、その福音を拒んで損をするのは弟子ではなく、拒んだ人々です。平安の挨拶をしてそれを受け入れれば、その平安がその家に留まるので益になりますが、もし拒めば私たちから平安が逃げてしまうのではなく、ただ自分たちに戻ってくるだけです。害を受けるのはその町であり、ソドムとゴモラのように、いやそれ以上の裁きを受けるとイエス様は言われます。

 ここで大切なのは、ある意味の「気軽さ」です。人々がどのように反応するのか、ということについては私たちには責任が与えられていない、ということです。人々を分からせる努力はある程度必要ですが、それよりも、主が命じられたことを行なうことに集中します。日本の人々は興味深いことに、伝道をすると「それでは日本人には伝わらない。」と言って、伝道している人々に効果的な伝道方法の助言をしてくれます!福音の内容ではなく、表面的な福音の伝達方法に焦点を当てます。日本人は、「教えていること」ではなく「教えている人」に注目するのは、キリスト教だけでなく、教えよりも教祖を中心にしている日本仏教の中でも起こっています。

 私たちもともすると、そのことを行なっていないでしょうか?「言い方が良くない・・・」、それはその通りなのですが、「では、その言っていることについては?その内容についての話は?」と聞くと、それはないがしろにされていきます。教会は人柄に基づいているのではなく、愛を動機とした真理に基づいています。したがって、私たちは「人がどのように反応するか。」ということを過度に気にしてはいけません。また、人が否定的な反応をしても、それを自分のせいだと自分を責めてもいけません。大事なのは、正しい動機で主に命じられたことを行なうことです。残りは主が責任を取ってくださいます。

2A この世からの迫害 16−23
10:16 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。10:18 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。10:20 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。

 イエス様が宣教の働きをしているときに、既に反対が起こっていました。律法学者からの反対が起こっていました。弟子たちも同じように反対にあうことを、前もって警告しておられます。事実、ここにあることが起こりました。使徒行伝を読みますと、使徒たちはユダヤ人議会に引き渡され、むち打たれ、そして今度はローマの総督の前でパウロは弁明をし、ヘロデ王の前でも弁明しました。

 そこでイエス様は、「狼に羊を送り出すようなものだ。」そして、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」と命じておられます。この二つの特徴をどちらも持ち合わせていなければいけません。この二つのどちらかを持つのはたやすいですが、どちらも持つのは難しいです。聡くあっても素直さがなくなると、それは狡猾でしかありません。けれども素直さだけで聡くないと、騙されやすくなります。次にこの世がどんどん悪くなっている姿を見ますが、私たちはただ優しいだけでは駄目なのです。聡くありながら、かつ優しくなければいけません。

10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。10:23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。

 世の中が悪くなっていきます。すべての国や文明の基盤となっている家族の単位が、今ここにあるように互いに殺しあうということにまでなっていきます。いかがですか、過去にもたくさんあったでしょうが、ニュースを見るとこれが文字通り起こっていることが多いですね。そして同時に、キリスト者に対する憎しみが増し加わります。私たちが福音について、キリスト教的価値観について話すと、ものすごい剣幕で怒る人たちが出て来ます。最近も、アメリカではファーストフードの経営者が、個人的な見解としてキリスト教価値観について話したところ、全米を巻き込む騒動になっています。「どうしてそんなに怒っているのだろうか?そんな憎んでいるのだろうか?」と思いますが、それはイエス様が語られたとおりです。イエス様は、「耐え忍びなさい」と命じられています。

 そして、「人の子が来るときまでに」とありますが、ここではおそらく再臨のことではないと考えられます。なぜなら、「イスラエルの町々を巡り尽くせない」とイエス様が言われているからです。おそらくは、ここの文脈ではイスラエル人に対する宣教をイエス様は述べておられるので、彼らの拠り所である神殿が破壊される日、つまり紀元後70年のローマ軍がエルサレムの神殿を破壊した日であると考えられます。

3A 恐れるべき方 24−33
10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。10:26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

 ここからイエス様は、「恐れるな」という命令を与えられます。何度も与えられます。なぜなら、私たちはすぐに恐れてしまうからです。恐れなくてよい一つの理由は、「弟子はその師にまさらない」ということです。イエス様でさえご自分のなされていることを、悪霊の長がやっているという中傷を受けたのですから、私たちが全ての人を喜ばせることなど到底できないのです。

 そしてもう一つ恐れなくてよい理由は、「覆われているもので現されないものはない」ということです。反対者が陰で話していることは、すべて主が来臨されるときに明らかにされます。彼らは最後の審判ですべてのことを申し開きしなければいけません。「陰で何をいっているのだろうか?」と思い悩む必要はないのです。そしてその代わりに、私たちは恐れることなく、イエスから聞いたことを公に宣言していかなければいけない、ということです。縮こまって、主から密かに聞いたことを密かなままにしてはいけない、ということです。

10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

 とても大事なことです。健全な恐れと、そうではない恐れがあります。健全な恐れとは、主の前に立つときに自分は良心を清く保っておくことができるかどうか、ということです。私がしばしば出す例は、「イエス様を心に受け入れなかった人が死んで、救われる機会はないのか?」と聞かれるときに、相手のことを気にする、つまり恐れたら、「いいえ、救われる機会はあります。」といいたくなるわけです。けれども、私にはもっと大きな恐れがあります。聖書に書いていないことをはっきり言って、人に偽りの安心感、保証を持たせたら、私が全能者なる神の前に立つときにどう弁明すればよいか分かりません。こうしたのが主への恐れであり、健全な恐れなのです。

 そして神を恐れながら生きているときに、主は必ず苦難から救い出してくださることを教えてくださっています。頭の毛さえもみな数えておられる方ですから、私たちをすべて知っておられて、そして守ってくださいます。

10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

 人を恐れれば、もちろん人の前では自分の信仰を話しません。そこで、「心で信じていれば良いのだ。」という事がしばしば起こります。信仰者と言いながら仏壇の前で祈りを捧げる人がいますが、「心で創造主に祈っていれば、仏壇の前であろうとそれは偶像礼拝に当たらない。」と思っている人がいます。

 けれども、ここでイエス様ははっきりと、それはありえないことを教えておられます。人の前でイエス様を認めない人は、実はその信仰があやふやであることを明らかにしておられます。神の前でイエス様がはたしてこの人が信仰を持っているかどうか、はっきりいうことができない、というものです。ですから、バプテスマは重要です。バプテスマは、まさに信仰を公にする場であります。人の前で自分がイエス・キリストを心に受け入れ、この方を救い主として主として生きていくことを表明することです。

4A 生じる分裂 34−42
10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

 信じていることを公にすることを妨げるのが人への恐れがありますが、もう一つの妨げは家族への愛です。ここに書いてある事は、決して親をないがしろにしろというものではなく、イエス様は他の箇所で両親を敬うことを、供え物をいい事にして行わない姿を責めておられますが、そういった意味ではありません。けれども、親や兄弟への愛が、イエス様への愛にしばしば勝ってしまうのです。家族の絆がとても強いので、その絆によってイエス様にそのまま従えない人が数多くいます。ある姉妹が私に、「親や弟がイエス様を信じないで地獄に行くぐらいなら、私も信仰を捨てていっしょに地獄に行きたい。」というようなことを言っていました。正直な気持ちでしょう、イエス様への愛よりも家族への愛が強いのです。

 けれども、それは本当に家族のことを愛しているのでしょうか?いいえ、本当に家族を愛しているのであれば、家族が天国に行くことを切に願うはずです。自分が地獄にいっしょにいくのではなく、家族が自分といっしょに天国にいくことを望むはずです。その時に、自分の信仰について妥協すれば、必ず家族は救いから遠ざかります。たとえ葛藤が起こっても、いいえ事実葛藤は起こるのです、葛藤を経ることによって始めて真の愛が伝わるのです。

 これはある意味で、私たち信仰者の共同体でも起こりえるのではないでしょうか?御霊による一致よりも、肉によって一つになることを願うことがあります。互いに和を崩すぐらいなら、真理に立たなくてもよいではないか?と思ってしまうかもしれません。宣教地において、宣教師奥さんが現地の人に強姦されそうになりました。そこはその宣教師夫婦が伝道をして、信仰者の共同体になった村でした。けれども、その犯人を連れてくることなく、みながその罪を隠蔽しようとしたのです。宣教師夫婦はその島を去りました。去る前に宣教師は、「最後の審判の時にすべてのことは明るみにされます。」と言いました。私たちが都合の悪いことを隠していることをするならば、それは相手のことを考えているようで、偽の愛です。結局は、自分たちがかわいいのです。

 そこでイエス様は、自分の十字架を負いなさいと言われます。十字架をかつぐのは、当時はローマの権力の中に服している姿を表していました。同じように、イエス様の権威に服して歩いていくのが、日々の十字架を負うことです。そして自分を失うことですが、それこそが自分を救います。家族の救いも、自分の家族への情をイエス様への愛よりも低くするという辛さを味わいますが、結局はそれこそが家族を最も愛する道であり、彼らを救うことになるのです。

10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。10:41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

 ここも、大事な教えです。イエス様は、弟子にご自分の権威を与え、弟子がその権威を行使することによって、ご自分が働かれます。したがって、預言者を受け入れる、義人を受け入れる、そしてキリストの弟子だということで受け入れることは、そのままキリストの権威に服していくようになるのです。多くの人が、「私はキリストを愛するが、クリスチャンが嫌いだ。」と言います。その人は、救いから遠ざかることでしょう。なぜなら、クリスチャンが不完全でも、やはりクリスチャンを通して神はキリストを現し、ご自身に引き寄せてくださるのです。

 これは両親を敬うことにも通じます。神が親を与えられ、親に従うことによって子は神に従うことを学びます。教会においても、それぞれの賜物が与えられ、その賜物を用いる人に神が権威を与えておられます。したがって、その人を認めることによって、キリストを認めることになるので、大きな報いがあるのです。

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