マタイによる福音書11章 「主イエスを知る知恵」

アウトライン

1A  バプテスマのヨハネの働き
   1B  ヨハネ本人に対する説明
   2B  群衆に対する説明
      1C  理由  エリヤとしてのヨハネ
      2C  評価  市場にすわる子ども
2A  イエスご自身の働き
   1B  責任
   2B  方法
      1C  啓示
      2C  応答

本文

 それではマタイによる福音書11章を学びましょう。ここでのテーマは、「イエスを知る知識」です。

 ここまでのいきさつを話してみたいと思いますが、イエスは、人々の前に現れる前に、ヨハネという預言者によって紹介されました。彼は人々が罪から悔い改めるために、水によってバプテスマを授けていましたが、その時にイエスは彼に現れイエスは彼からバプテスマを受けました。そして、しばらくしてヨハネが牢屋に入れられて、イエスはご自分でご自分のことを言い広め始められました。まず、人々の前で説教をされました。そこで、ご自分が天の御国の王、メシヤであることを宣言されたのです。

 そして次に、このことを証明するために、様々な奇跡を行われました。病人をいやし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせたりしました。こうしてバプテスマのヨハネとイエスの働きによって、イエスはどのような方であるかが浮き彫りにされてきました。この11章では、イエスを知るに当たって、どのようなことを注意しなければならないかが書かれています。使徒ペテロは、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。(2ペテロ3:18)」と言いましたが、私たちは、この章において、イエスのことをさらに深く知っていきたいと思います。

 イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。

 イエスの12弟子に対する注意は、10章に書かれていました。イエスを求める声が急激に大きくなってきたので、イエスは自分の働きをゆだねられようとしたのです。けれども、彼らはキリストを言い広める働きは初めてだったので、失敗や不完全なところが多くあったでしょう。それでイエスは、彼らの行った町々に出かけて、彼らの不足している部分を補われました。そして、神の国の良き知らせを宣べ伝え、教えられたのです。

1A  バプテスマのヨハネの働き
1B  ヨハネ本人に対する説明
 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

 ヨハネは、イエスにバプテスマを授ける時に、イエスの上に聖霊が鳩のように下られたのを見ました。それによって、イエスが来るべきメシヤであることを知ったのです。それなのになぜか、イエスがメシヤであるかどうかの質問をしています。それは、ヨハネ自身のメシヤに関する知識が不完全だったからです。マタイ3章の11節です。ヨハネはメシヤについて説教しています。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」ヨハネの宣べ伝えたメシヤは、不法を行う者どもをことごとく焼き尽くすような、さばきの王です。

 確かに、旧約聖書のいたるところに、メシヤが来られると、ことごとく不法をさばいて、神の御国を立てる預言をみることができます。けれども、5章から9章までに書かれていたイエスの宣教を私たちは読んできましたが、イエスはそのようなことを一切行われていません。彼は、イエスにバプテスマを授けた時にこの方がメシヤであることを認めたのですが、イエスが行われたことは、彼が頭に描いていたメシヤとは異なるものでした。けれども、人々はこの方がメシヤ、であると言っていたのです。それを聞いたヨハネは、よく理解できずにイエスに使いをよこして質問したのです。それでは、イエスの回答を読んでみましょう。

 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

 ヨハネの弟子たちは、イエスが教えられているのを聞き、イエスが行われたことを見ました。私たちは、マタイの5章から7章にあるイエスの説教を聞き、8章から9章にある、イエスの行われた数々の奇跡を見ました。この説教と奇跡のわざによって、ご自分が来るべきメシヤであることを人々に示されたのです。

 そして、イエスの行われた、さまざまな出来事は、旧約聖書に預言されていました。盲人が目を開くことは、イザヤ書29章18節に書かれており、「盲人の目が暗黒とやみのなかから物を見る。」とあります。足なえが歩く事は、イザヤ書35章6節にあり、「足なえは鹿のようにとびはね。」とあります。らい病人がきよめられることは、イザヤ章53章4節に「彼は私たちの病を負い」とあります。同じように、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、死人が生き返り、貧しいものに福音が宣べ伝えられることも、メシヤのしるしとして預言されています。したがって、イエスは、ご自分が確かにメシヤであることをお示しになったのです。

 そして6節に、だれでも、わたしにつまずかないものは幸いです。とあります。

 ヨハネがイエスを疑って、不信仰になるようなことがないように気をくばっておられます。旧約聖書に書かれているメシヤに関する予言は、とても難解なものです。それは、悪者をことごとくさばいて、栄光に輝く、王なるメシヤの到来を告げているとともに、へりくだって、悪者から苦難を受られる、しもべのメシヤのどちらもが語られているからです。そのため、昔のユダヤ人の学者たちには、2人のメシヤがいるという人たちがいました。

 ただ、多くの人々は、バプテスマのヨハネと同じように、栄光のメシヤだけを待ち望み、受難のメシヤについては比喩的に捕らえていて、文字通り起こると信じていませんでした。しかし、真実は、2人のメシヤが来られるのではなく、1人のメシヤが二回来られるのです。イエスは、約二千年前にこの世に来られて、受難のメシヤとして十字架につけられました。しかし、2回目には、イエスは栄光に輝く王として来られます。このようにして聖書の預言が成就するのですが、まさかそんなことを当時の人々は思いつきませんでした。それでイエスは、「わたしにつまずかないものは幸いです。」と言われたのです。

 そこで、私たちにとってのつまずきは何であるかを考えて見ましょう。当時のユダヤ人とは逆に、メシヤが再び来られることについてつまずいてしまうのではないでしょうか。というのは、イエスが天に上られてから、2千年も経つのに、まだイエスは来られていません。そのため、当時のユダヤ人が受難のメシヤの予言を比喩的に解釈したように、栄光のメシヤを比喩的に解釈する人々が現在います。しかし、それはイエスにつまずいている証拠です。イエスは、初めの来臨、すなわち初めに来られた時に、ことごとく受難についての預言を文字通り成就されました。それと同じように再び来臨されるとき栄光についての預言をすべて、文字通りに成就されるのです。

2B  群衆に対する説明
1C  理由  エリヤとしてのヨハネ
 このことをきっかけに、イエスは人々にヨハネについて話しはじめられました。この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。

 大勢の人々が、荒野で説教をするヨハネのところに行きました。

 風に揺れる葦ですか。

 荒野には、風に揺れる葦をよく見かけます。

 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。

 ヨハネがらくだの毛の着物を着ていたので、イエスはわざと逆のことを質問されています。

 でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。

 ヨハネは預言者でした。預言者たちは、神の言葉を人々に告げるものであり、メシヤの来られる事を預言していました。しかし、ヨハネは、メシヤが実際に来られる直前に現れて、道備えをするように説いた人物です。その意味で、他の預言者よりもすぐれた働きをしました。

 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

 「すぐれている」とか、「偉大である」というのは、メシヤをさらに深く知っているという意味で使われています。ヨハネはメシヤに直にお会いしました。けれども、彼の説教は、神のさばきが下るから悔い改めなさい、というものでした。罪を犯す人間に、神がどれほど愛されているかをヨハネは知らなかったのです。なぜなら、彼は、イエスの十字架を見ていなかったからです。今、私たちはイエスの十字架を見て、神の愛がどれほど大きいものか知っています。それゆえ、私たちはヨハネよりも偉大な者なのです。

 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。

 
これは、天の御国の宣教に対し、激しい反対が起こっていることを意味しています。ヨハネが天の御国を宣べ伝えてから、多くの反対者が出ました。私たちは、9章と10章において、イエスをあざけたり、ばかにしたりしている人々と、イエスを宣べ伝える弟子たちが迫害されることを学びました。そして、この時点でヨハネは牢獄に入れられ、イエスは間もなく十字架につけられます。このように、イエスのことを知りたくない人々があらわれるのは、必然的に起こることなのです。

 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。

 これは、旧約聖書のことを話しています。旧約聖書は、一人のメシヤという人物を一貫して伝えていました。さまざまな異なる人物が現れ、様々な、異なる話し方がその中に書かれていますが、それぞれが、このメシヤという方を指し示していました。最後にヨハネが現れて、このメシヤを受け入れるために、悔い改めなさいと説いたのです。このように、旧約聖書は、私たちが、メシヤ、すなわちキリストを知るための準備の書物といってもよいかもしれません。

 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい。

 エリヤは、旧約聖書の列王記に出てくる預言者ですが、彼は死を経験することなく天にあげられました。そして、旧約聖書の最後の部分であるマラキ書4章に、エリヤが主が来られる前に、再び来ることが預言されています。しかし、ヨハネ自身は、「あなたはエリヤですか。」と聞かれたら、「そうではありません。」と答えています。(ヨハネ1:21)一見矛盾するような発言です。けれども、私たちはすでに、一見矛盾するようなメシヤの到来を見ました。悪者をさばき、この地を支配する、栄光に輝く王なるメシヤが、打たれて、殴られて、殺されるメシヤであったことです。この問題は、メシヤが2回来られることで解決しました。

 これと同じように、主の来られる前触れをする働きは2回あるのです。初めの働きは、ヨハネによって行われました。けれども、ヨハネはマラキ書4章に出てくるエリヤ自身ではありません。そして、主が2回目に来られる時に、エリヤ自身が、主が来られることの前触れをするのです。つまり、ヨハネはエリヤの時と同じような働きをし、エリヤを指し示す働きをしたのです。これは、理解するのに時間がかかることなので、イエスは、「耳のあるものは聞きなさい」と言われました。

2C  評価  市場にすわる子ども
 このように、イエスはヨハネの説明をされた後、ヨハネもイエスご自身を受け入れない人々を諭されています。

 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」

 神は、イスラエルの民に預言者ヨハネを送られ、次にご自分の御子を使わされました。なんとかして彼らが神に立ち返るように、彼らに呼びかけられたのです。それなのに、彼らは勝手な批評をしました。ああいえばこう言い、こういえばああ言っていたのです。私たちも福音を宣べ伝えると、同じ事が起こります。例えば、神が人々をさばかれる事を話すと、「キリスト教は、実に恐ろしい宗教だ。日本人にはなじまない。」と言います。そして、神が人々をこよなく愛されることを話すと、「神が愛なら、なぜ不幸に出会ったり、悪い人々が繁栄するのか。実に不公平な神だ。」と言います。どんな方法で語っても、結局満足しないのです。イエスは、このような状態になっている人々を諭されたのです。

2A  イエスご自身の働き
 こうして、イエスは、ヨハネによってイエスを受け入れなかった人々を諭しましたが、次は、ご自分の働きによっても受け入れなかった者たちを責めておられます。

1B  責任
 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

 イエスがこのように激しく責めておられるのには、理由があります。それは、イエスがメシヤであることを証明する数多くのみわざを見ているのにもかかわらず、これらの町々が悔い改めることをしなかったからです。イエスは、ルカによる福音書12章48節において、「すべて、多く与えられたものは多く求められ、多く任されたものは多く要求されます。」と言われました。

 イエスが比べておられるツロとシドンのとソドムの町は、いずれも神のさばきを受けましたが、神についてその多くを知りませんでした。けれども、コラジンとベツサイダとカペナウムは、見えない神の完全な現れであるキリストを目の当たりにしているのに、それでも悔い改めなかったのです、。これらすべての町を神はさばかれるのですが、少しだけ神のことを知らされた町と、多く知らされた町では、多く知らされた町の方が罰が重いのです。

 私たちはよく、「イエス.キリストの福音を聞いた事のない人は、死んだ後それでも地獄に行くのですか」という質問を聞きます。それに対する答えは、第一に、神は公正な方であり、神はえこひいきをなさいません。第二に、神について多くの知識を与えられたものはそのさばきは重く、少ない人はさばきは軽いと言う事です。神は私たちの知っていることのみに責任を問われるのです。ですから、そういう質問をする人には必ずこういいます。「あなたは、すでにイエス・キリストについての知識が与えられました。何も聞いたことのない人たちのことを心配するよりも、自分のことを心配されたらどうなのですか。」こうして、ご自分のことをはっきり知ったのに、それでも拒んだ町々をイエスは責められました。

2B  方法
 次に、反対に、そのわざによって信じた人々を、イエスは喜ばれています。ここには、私たちがイエスを知るようになる方法が書かれています。

1C  啓示
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

 イエスは、ご自分を知るようになった者のことを「幼子」と呼んで、父なる神をほめたたえられました。そして、賢いものや知恵あるものには父のみこころが隠されていることを語られています。もし自分の知恵によって神のことを知ることができれば、その人は、ただ神のみを誇るでしょう。したがって、だれかがイエスを知るようになったら、本人ではなく神がほめたたえられるのです。

 そして、幼子は、初歩の教えしか知らず、未熟で、多くのことを知りませんが、イエスがあらわされた父の姿を見て、素直に応答したのです。ですから、私たちがイエスを知るのに要求されるのは、深い学識ではなく、神の言われることを素直に受け入れる姿勢です。そうすることによって、私たちは神の深みを理解するようになります。それは、「1足す1は2である。」という真理をそのまま受け入れることによって、難しい数学の問題を解くことができるのと同じです。ですから、私たちは聖書を読む時に、頭を白紙にして、小学校の国語の授業に出席しているように、何が書かれているのかを素直に読み取っていくことが必要なのです。

 けれども、幼子のようなものがなぜ、神のような知恵と知識に富んだ方を知ることができるのかは不思議です。イエスは、こう言われています。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

 私たちは自分の経験や感性を使って神を知るのではなくて、逆に、イエスが私たちに知らせてくださることによって、神を知ることができます。よく、前者は悟りといわれ、後者は啓示と呼ばれます。悟りは、私たちが神を知ろうとする試みであり、啓示は神が私たちにご自分のことを知らせてくださることです。

 私たち日本人のクリスチャンがしばしば悩む事は、日常生活の中で神をなかなか感じる事ができないことです。アメリカのように、"God bless you"なんていう挨拶があればいいのですが、「いろいろな縁がありまして」などと、仏教的なほうが自然です、だから、祈っても、瞑想しても、くいしばっても神の姿がなかなか浮かんでこないのです。けれども、そのとき、私たちが悟りによって神を知ることができないことを思い出して下さい。私たちには、神が客観的にご自分を啓示された聖書があります。この啓示によって、私たちは神を知ることができるのです。

2C  応答
次にイエスは、私たちがイエスを知るように招かれています。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

イエスが招かれている人は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人」です。私たちはみな、生活を営む以上、疲れと重荷から逃れる事はできません。それが生活であり、主イエスご自身も「一日の労苦」と言われて、生活に労苦が伴うことを認めておられます。けれども、ここでの「重荷」は、自分を喜ばせようとする重荷です。私たちが、何とかして自分を喜ばせようとしても、満ち足りる事がなく、いつも不安です。現代は、「自己」という言葉が好きです。「自己実現」「自己尊厳」「自己啓発」など、自分を喜ばせようとする考えが中心になっています。けれども、現代はまた同時に、心の豊かさを求めています。逆に言うと、現代人は心が満たされいていないのです。この矛盾を抱えているわけは、自分を喜ばそうとしているところに起因しています。 そこで、3つの呼びかけが書かれています。「わたしのところに来なさい。」「わたしのくびきを負いなさい。」「私から学びなさい。」の3つです。「わたし」ということばが3つのいずれにもありますね。つまり、これらは、自分を喜ばす生活から、イエスによって、神を喜ばす生活に入りなさい、という呼びかけなのです。そして、それらにともなう約束は安らぎです。つまり、神を喜ばすことによって、初めて重荷を下ろす事ができ、とても平安な生活を送ることができます。

イエスはまず、「わたしのところに来なさい。」と言われました。これは、イエスと個人的な関係にはいることの招きです。私たちは、イエスのことばを聞いて、それに同意できるかもしれません、また、それを頭で信じることもできるかもしれません。しかし、もし、自分の救い主として、自分の心と人生にイエスを受け入れるのでなければ、ここに約束されている休みを得る事はできないのです。神を知るというのは、いわゆる知識のことではなく、夫が妻を知るような意味であり、親密で深い関係を示します。この関係の中で、はじめて安らぎを得る事ができるのです。

そして「私のくびきを負いなさい。」と言われました。「くびき」とは、牛舎で牛が車を引く部分です。そのくびきのかたちによって、牛が車を楽にひくことができるかが決まります。「わたしのくびき」とは、イエスがこしらえたくびきであり、イエスがあなたのために立てられた計画のことをさしています。したがって、「わたしのくびきを追いなさい。」と言うのは、イエスの支配にゆだねなさい、という事です。私たちは、聖書を読んで、知識を蓄えればイエスのことを知ることができると勘違いをしてしまいますが、イエスに従わなければこの方を知ることはできません。そして、イエスのくびきは、「負いやすく、私には軽いからです。」とあります。使徒ヨハネも、「神を愛する事は、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(1ヨハネ5:3)」と言いました。ですから、イエスに自分を奉げることは、実はとても楽なことなのです。

そして3つめの呼びかけは、わたしから学びなさい。」と言うものです。これは、イエスのことをさらに知っていくことです。私たちが今行っている聖書の学びは、まさにこのことです。イエスはここで、「わたしは心優しく、へりくだっているから」と言われていますがイエスのそうした特徴、イエスの働き、イエスの思いを聖書を学ぶことによって知ることができます。それによって、私たちはイエスを知って、安らぎを得ることができるのです。


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