マタイによる福音書11章 「受け入れられない御国」

アウトライン

1A 応答しない人たち 1−24
   1B バプテスマのヨハネへの無反応 1−19
      1C ヨハネ自身の困惑 1−6
      2C ヨハネの働き 7−15
      3C この時代 16−19
   2B イエスの町々に対する裁き 20−24
2A 父に向くイエス 25−30
   1B 御父から来る知識 25−27
   2B 重荷を負っている者への招き 28−30

本文

 マタイによる福音書11章を開いてください。前回は、イエス様が弟子たちに御国の福音を伝えるための注意を与えておられました。そこで私たちが知ったのは、私たちは主の権威を身にまとっていること。つまり、人々は自分に反応しているのではなく、主に応答するかしないかの選択をしていること。それから、世は自分たちを迫害する、ということについてであります。家族の間にも剣が刺し通されるときがありますが、それは家族の救いを得るための過程であり、必要な葛藤であることも話しました。

1A 応答しない人たち 1−24
1B バプテスマのヨハネへの無反応 1−19
1C ヨハネ自身の困惑 1−6
1 イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。

 弟子たちはキリストを言い広める働きは初めてだったので、失敗や不完全なところが多くあったことでしょう。それでイエスは彼らの行った町々に出かけて、彼らの不足している部分を補われました。そして、神の国の良き知らせを宣べ伝え、教えられたのです。そのような中で、バプテスマのヨハネの弟子たちから知らせが入りました。

2C ヨハネの働き 7−15
2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

 マタイ伝の学びを続けて行なっていますから、前に起こったことを思い出しましょう。イエス様はヨハネからバプテスマを受けられ、荒野で誘惑を受けられ、そしてガリラヤ地方で宣教活動を始められます。その時に、「ヨハネが捕らえられたと聞い」た、と412節にありました。そしてイエス様は、ヨハネが語っていた言葉、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」を続けて語り始められたのです。イエス様は、確実にバプテスマのヨハネの宣教活動の延長としてご自身を位置づけておられました。そして、その成就としてご自分がいることを人々に示されました。

 ところでヨハネがなぜ捕らえられたかは、マタイ14章に出て来ます。ヘロデ・アンティパスが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを自分の妻にしたからです。それは不法であるとヨハネは責めました。確かにヨハネは悔い改めを説いていたのです。それでヘロデは彼を牢に入れました。その牢獄は、ヨセフスによりますと死海の東側のほとりにあるヘロデの要塞「マカエラス」であったと言われています。

 ヨハネは、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と尋ねています。メシヤすなわちキリストが既に来られたことを宣べ伝えていたヨハネ自身が、悩み始めました。まず彼は牢獄にいますから情報がなかなか入って来ないという問題もあってでしょう。けれどもそれ以上に、彼の悩みは旧約聖書にあるキリストの預言です。そこにはキリストは義の王であられ、栄光の主としてこの地上に来られて、敵どもをことごとく打ち砕かれる方として宣べられているからです。旧約の最後の預言マラキ書の最後には、こうあります。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。(4:5-6)」悔い改めない者は、来るキリストが律法の呪いをもって呪いを与え、打ち滅ぼすとマラキは宣べ伝えていたのです。

 自分は悔い改めを宣べ伝えていました。そして主ご自身も、天の御国を宣べ伝えておられていることを聞いています。また、悔い改めない者たちがたくさんいることも知っています。けれども、一向に呪いが来ない、いったいどうしたことなのか?という思いであったのです。

4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。5 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

 旧約聖書にある預言は、一つに主が来られる時に裁きと呪いがあります。けれども、イエス様が行なわれていたのは、その後にある希望の現れです。メシヤは癒しと回復、罪の赦しを与えることが預言書に書いてあります。例えばイザヤ書34章には、主によって敵どもに対する大虐殺が起こる事が預言されていますが、35章に入ると御国の民に対する癒しが宣言されています。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。(3-5節)」イエス様は、確かに世は裁かれるが、その後にくる回復の前味を、罪の赦しや癒し、呪いの除去などによって予め示しておられて、ご自身が確かにメシヤであることを示しておられたのです。

 しばしば私たちは伝道方法について、どうすればよいかの議論をします。ある伝道団体は、「罪から来る報酬は死です。」という御言葉を看板に掲げて、神の裁きが来ることを伝えています。それに対して私たちの多くが、確かに正しいけれども、それでは人々には伝わらないと懸念します。その懸念はその通りであり、キリストを受け入れることはもちろん罪の悔い改めが必要なのですが、そのキリストが将来与えてくださる永遠のいのちの希望、また罪の赦しの約束、そうした神の慈しみを伝えるからこそ、罪の悔い改めをすることができるのです。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。(ローマ2:4

7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。8 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。9 でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。10 この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

 バプテスマのヨハネが捕えられてからしばらく経っている時に、イエス様は付いてきている群衆に彼の働きを思い起こさせました。何となく付いていったのではないでしょう、と問いかけるために、「風に揺れる葦」つまり弱々しい人、そして「王の宮殿にいる人」つまり位の高い人ではありませんでした、荒野から来た、皮衣を来た預言者でした。

 そして、ヨハネは数ある旧約時代の預言者の中でも最も優れていると教えておられます。マラキ31節を引用されていますが、他の預言者はこれから来るキリストについて宣べたのに対して、ヨハネはすでに来ていると宣言したからです。それだけキリストが切迫している、目の前におられると宣べたのです。群衆はこのことも、もう忘れかけていたかもしれません。

 けれどもイエス様はさらに、「天の御国で一番小さい者でも、彼より偉大」だと言われています。つまり、キリストご自身を受け入れた者です。ヨハネが宣べ伝えていたキリストが目の前におられ、そしてこの方を受け入れていることがその目的であり、その目的を理解して、その通りに応答することが大事であることをイエス様は今、教えておられます。キリストご自身、そして御国に入ることがいかに偉大なことであることを私たちは知らなければいけません。

11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。11:13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。11:15 耳のある者は聞きなさい。

 12節の言葉は、文法的に非常に難しいと言われています。ヨハネの日以来の天の御国と言えば、もちろんイエス様の宣べられる天の御国のことです。「激しく攻められている」と訳されていますが、その反対に「激しく攻めている」と訳すこともできるそうです。前者であれば、イエス様に激しく反対しているユダヤ人指導者を通して、悪魔が多くの人を御国の中に入れていない、ということになります。後者、激しく攻めている、ということであれば反対に、悪魔が虐げていたこの世の国に御国は激しく攻め入り、攻撃をしかけている、ということになります。どちらも正しいでしょう。すべての律法と預言が成就している天の御国は、この世と激しい衝突を行なっています。

 私たちは、霊の戦いがあることを知らなければいけません。ことに福音宣教においては、霊の戦いが激しいです。それは敵から受ける攻撃が激しいこともありますが、反対に福音を携える者たちが激しく相手の陣地に攻め入らなければいけません。

 そしてイエス様は、「耳のある者は聞きなさい」と言って、悟れる人だけが聞くことのできる言葉を言われました。それが、ヨハネこそが来るべきエリヤである、ということです。使徒ヨハネの福音書でバプテスマのヨハネは、自分はエリヤではないときっぱり言っています。そして主ご自身が弟子たちに、エリヤは他に来ることを言っておられます。ルカ伝に、ガブリエルが、ヨハネがエリヤの霊と力で来る、と言いました。預言者エリヤに働かれた同じ御霊が、力をもってヨハネに臨まれた、ということです。

 つまり、イエス様が再び来られる時に、主は世を裁かれます。その前に実際のエリヤがやって来て悔い改めを宣べます。おそらく黙示録11章に書かれている二人の証人の一人がエリヤでしょう。けれども初めにキリストが来られた時にも、御国の現れとして、初めに悔い改めを説くヨハネがおり、そして御国の到来として癒しと回復、罪の赦しを与えるイエスがおられました。ユダヤ人は主の到来を待ち望みながら、これは終わりの日に起こることだとして自分の生活には関わりがないということを、思っていたのです。

 私たちも同じことをしてしまいます。御国の約束はすばらしいです。平和に満ちています。獅子と羊がともに戯れています。だからなんとすばらしいことかと思います。けれども、目の前にいる自分の気に食わない人に対してそれを適用しません。気が合わない兄弟について、天においてそのような拒否感を抱くことはできるでしょうか?終わりの日のことだと思って、その和解と平和という至福を先延ばしにしてはいないでしょうか?

3C この時代 16−19
16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」

 「この時代」というのは、主がおられた時代のことです。その一世代のことを話しており、聖書ではだいたい四十年間を指します。主がおられたのは紀元三十年頃ですが、その四十年後にエルサレムが破壊され、ユダヤ人は神の裁きを受けます。その時の彼らの状況が、市場にいる子供たちが、他の子どもたちに呼びかけて何の反応もしないことを嘆いているようだ、ということです。楽しみの歌を笛で吹いてやっても反応せず、反対に弔いの歌を歌ってやっても悲しみません。

 ヨハネは悔い改めを説きました。罪に対する悲しみを持つことを強く言いました。その現れとして断食をしていたのです。けれども、「あの人、なんかやりすぎじゃない?ちょっと頭、どこかいかれてしまったんだよ。」と言って、彼の説いている悔い改めに応答しなかったのです。ところが今度は反対に、イエス様は罪人が悔い改め、罪の赦しを受けていることを喜び、罪人と食事を共にしているのを見ると、「あの人、なんか普通付き合ってはいけない人たちといっしょにいるわね。」と言うのです。「こう言えばああ言い、ああ言えばこう言い」の状態です。あるいは神の御霊の流れに自分を従わせることがなく、時を逸している姿とも言えるでしょう。結局、その根っこにあるのは「今の自分を変えたくない」ということであります。「現状の私のままでいさせて。」という叫びであります。

 いろいろな評価が飛び交っている中で、唯一、私たちが耳を開かなければいけない言葉は、行ないが伴っている言葉です。イエス様は、「知恵の正しいことは、その行ないが証明する」と言われました。口先だけでなく、その言葉に責任を持ち行動に移していることです。

2B イエスの町々に対する裁き 20−24
20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。22 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。23 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。24 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

 カペナウムは、ペテロの家があったところでイエス様はそこを生活の拠点をされていました。そしてコラジンはカペナウムの北西にある近所の町で、同じくベツサイダは東にある近所の町です。先ほど引用した御言葉ですが、ローマ2章に「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。(ローマ2:4」主が示された慈しみの御業をもっとも多く見ている人たちが彼らでした。それを軽んじれば、神の怒りから決して免れることはできないということですが、まさにその町々がそうだったのです。

 ツロとシドンは、エゼキエル書においてその裁きについて長い預言があります。彼らは商業主義の極致でした。富を膨大に蓄積していました。ソドムはもちろん、同性愛による不品行を行なう町であり、神から火と硫黄によって滅ぼされました。そのような裁きを受けた町々を主は取り上げることによって、今、彼らがイエス様の力ある業に反応しないことの深刻さを伝えています。

 ここに大切な原則があります。人というのは、与えられた知識に責任があるということです。ソドム、ツロ、シドンは確かに悪い町でしたが、彼らに与えられていた神の知識、正義に対して神は滅びを与えられました。けれども、客観的に見てそれほど悪いことをしていない人々でも、神からの知識がたくさん与えられているのであれば、実はそちらのほうが悪いと神は見られます。「しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:48

 いかがでしょうか?私たち人間は極めて不思議な心を持っています。罪がなせる歪んだ心を持っています。それは、「近くにあるものを大事にしない」という心です。主が私たちの目の前に与えられている人々を通してご自身を現しておられます。また私たちの目の前に聖書を与えておられます。開ければ、そこに神がお語りになりたい私たちへのメッセージがあります。けれども、それをないがしろにします。そして、何か自分を変えてくれるのは遠くにあるお星さまかもしれないと言わんばばかりに、いろいろなものを求めて捜し回るのです。なぜか?高慢です。すべての良きものが一方的に神から来ているという恵みを忘れているからです。そして、今与えられているものは当たり前だと思っているからです。色あせているのは目の前にあるものではなく、自分自身の心なのです。

2A 父に向くイエス 25−30
 そしてイエス様は突然、父なる神をほめたたえ始められます!

1B 御父から来る知識 25−27
25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

 なぜ、ガリラヤ湖畔の町々に対する激しい裁きの宣言をされた後に、こんなしとやかな、心休まる祈りと賛美を捧げられるのでしょうか?これこそが、イエス様が地上で歩まれていた時の姿です。夜を明かされて祈ることが多いイエス様でしたが、宣教の働きの中で受けている多くの圧迫、戦い、悲しみ、喜びなどをこのような形で、ご自分の父に言い表しておられたのです。

 そして、このように他の弟子が聞くことができるようにしているということは、イエス様が私たちにも教えたい、模範としたいと思われて賛美されたものと思われます。それは、ご自分の言葉も、またそのわざも受け入れない、非常にかたくなな人々を目の前にして、そこで私たちが立ち戻らなければいけない真理があるからです。それは、悟って、受け入れることは、もっぱら父なる神の業なのだ、ということです。受け入れない人、拒む人を見ていると、こちらも腹が立ってくるし、またがっかりします。けれども、私たちは身軽でなければいけません。父なる神は、私たちにキリストによって与えたいと決めておられる人々を与えてくださり、その人が主を受け入れ、御言葉を受け入れていくのです。信じさせるのは私たちの仕事ではありません、神のお仕事なのです。

 そして、今度は伝わる側として考えるだけでなく、受け取る側として考えてみましょう。私たちに与えらる神の知識は、神が知らせてくださるから悟ることができる、ということです。私たちは焦ります。自分が神をもっと知りたいから頑張らなければいけない、けれどもまだ分からない、と思って焦ります。けれども、私たちがどんなに知識を蓄積しようと思っても、真の悟りは神が与えられる時にしか与えられないのです。

 そこで必要な態度が、幼子のようなへりくだりです。神は、私たちが幼子のようになるまで、私たちを導いてくださいます。自分にはこれだけしか分からないのだ、と、一歩一歩学んでいくようになっているのだという認識に至るところまで導かれます。自尊心を捨てて、素直に神の前に出ることによってのみ、神の真理を一つ一つ知ることができます。

2B 重荷を負っている者への招き 28−30
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 イエス様は、父なる神に賛美された後に回りにいる人々に語りかけられました。主ご自身が、人々に拒まれるというストレスを受けておられます。けれども主は、それをご自分の父から得る慰めの真理によって強められています。そこで、その安息をもって同じようにストレスを受けている人々に、安息の約束を与えておられます。

 私たちはどうして疲れるのでしょうか?これは肉体の疲れというよりも、もっと精神的なものでしょう。そしてどうして、重荷を感じてしまうのでしょうか?この「重荷」とは、自分自身を喜ばすところにある重荷です。黙示録4章に、天において長老たちが神を賛美し、「あなたは万物を創造し、あなたのみこころ(悦び)のゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。(11節)」とあります。神の悦びのために存在しているのですから、そのように生きていけば安息があるのです。ところが私たちは自分を喜ばそうとします。自分の心を何か他のもので埋めようとします。疲れている原因を自己吟味してみましょう。何かやりすぎていることはないか?自分で何かをやっていないか、そしてそれは実は自分を喜ばすためにやっていたのだ、ということです。

 また、この重荷は他の人から負わされることもあります。チャック・スミス牧師は興味深い話をしてくれました。ある母親から電話がありました。「家まで来て、息子を見てもらいたい。たった今、銃声がした。彼がまだ生きていたら、彼は私を撃つかもしれない。もし死んでいたら、その凄惨な姿を見たくない。」じゃあ、牧師が死んでもいいのでしょうか?牧師が、破裂した体を見ても良いのでしょうか?(実際は、チャックが、半分頭のなくなった彼の姿を見なければいけませんでした。)牧師に対して自分の責任、すなわち重荷を負わせているのです。確かにガラテヤ書には、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6:2」という言葉があります。けれども、さらに読み進めると「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。 (ガラテヤ6:5」という言葉があります。自分自身の重荷をまず主に持っていき、主にあって身軽になっているからこそ、他の人の重荷を負うことができます。

 そして、人を喜ばせることはとても苦労します。人の欲は際限がありませんから、何か良くしてあげてもさらに欲しいと願うからです。けれども、神を喜ばせることは楽です。なぜなら、自分が何かを神に与えるのではなく、神が与えておられるものを受け、神が命じられていることを聞き、それに従うだけで喜んでくださるからです。幼子が親の言うことを聞き、親が喜ぶのと同じです。

 そしてイエス様は、頸木の話をしておられます。その頸木は負いやすく、軽いと言われています。このような注解がありました。イエス様の職業は大工ですが。家を建てることよりも、もっと他のものを加工することのほうが多かったのではないか、ということです。つまり、農耕で使う牛が負う頸木をたくさん作ったのではないか、ということです。頸木は、カスタムメイドでなければいけません。その牛にぴったり合ったものでなければいけません。もし合っていなければ、すれたり、またどこかに当たって痛くなって心地がよくありません。けれども、ぴったりあっていれば、本当に楽になれます。

 イエス様は、「心優しく、へりくだっている」と言われます。つまり、私たち一人一人に与えておられる重荷を最もよく知っておられる方です。他の人はあまりにも自分に合わない重荷を負わせようとするかもしれません。かつて少年ダビデに、サウルがゴリヤテと戦うために自分の鎧を着せようとさせましたが、彼にはあまりも大きかった、だから要らないとダビデは言いました。けれども、イエス様はそのようなことはなさいません。イエス様の与えられる命令は、いわゆる重荷にはならないのです。

 使徒ヨハネが同じことを話しています。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:3-5」私たちは日々、イエス様に会っていきましょう。その中で、自分自身が、また他の人が負わせている重荷を置きましょう。実は自分自身に重荷があり、それぞれが果たすべき分があります。それを行なうことによって初めて、他の人々への働きかけができます。イエス様でさえ、当時のユダヤ人社会を回心させることはおできにならなかったのです。ましてや私たちが全ての人を神に立ち返ることなどできるでしょうか?

 そして反対に遭った時に思い出さなければいけないのは、すでに世に打ち勝ったということです。イエスを神の御子と信じる信仰があれば、もう打ち勝っているのです。したがって私たちのすべきことは、父なる神にキリストの名によって任せていくことです。そして今、しなければいけないこと、神の命じられていることを行なうのです。そしてその命令は重くはありません。

「聖書の学び 新約」に戻る
HOME