マタイ14章 「退かれ、仕えられる主」

アウトライン

1A 死の予告 1−12
2A 弟子の奉仕 13−21
3A 嵐の時の信仰 22−36

本文

 マタイによる福音書14章を開いてください。私たちは、ユダヤ人指導者が公にメシヤを拒んだゆえに、イエス様が喩えによって語り始めたところを前回読みました。そして14章からのイエス様の働きが変わります。これまでと同じように奇蹟を行なわれるのですが、ご自分が独りになられて祈られようとするときが多くなります。そして、弟子たちとの間の会話が多くなります。また、イエスに敵対する者たちとの接触も多くなります。それが20章まで続き、21章からついにエルサレムに入城されるのですが、ある聖書教師は14章から20章までを「王の休暇」と名づけました。休暇と言っても何もしていないのではなく、メシヤであることを公の働きから退かれて、むしろ十字架につけられることを見すえた備えをしておられるわけです。

1A 死の予告 1−12
1 そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、2 侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」3 実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。4 それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。5 ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。6 たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。7 それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。8 ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」9 王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。10 彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。11 そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。12 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。

 今、ここに出てきた国主ヘロデは、ヘロデ・アンティパスのことです。新約聖書には、何人かのヘロデが出てきますが、初代のヘロデ大王はベツレヘムにいるイエス様を殺そうとして、二歳以下の男の子を殺しました。このヘロデが、エルサレムにある神殿を始めとする、荘厳な建築物を建てていった男です。そしてその息子の一人がヘロデ・アンティパスであり、ヘロデ大王の死後、その領地は四つに分割され、その一つのガリラヤ地方の主となりました。この同じヘロデが主が十字架につけられる前に出てくる、ヘロデがいろいろ話しかけても、イエス様は一言も答えなかった人物です。

 ヘロデ大王の特徴は一言でいえば「パラノイア」でした。自分の権威が脅かされるのではないかという被害妄想から、自分の妻や子供を含めて次々と殺していきました。ヘロデ・アンティパスの特徴は「俗物」でしょう。権力と富、そして女にしか興味がない男です。イエス様は、パリサイ人が来て「ヘロデがあなたを殺そうとしている。」と伝えた時、「あの狐に言いなさい。」と答えられました。狐のギリシヤ語が女性名詞になっており、主がいかにこの男を侮蔑していたかを示しています。

 このヘロデが、今イエス様を恐れています(1節)。「バプテスマのヨハネの生き返りなのだ」と恐れています。もちろん、それは間違いですが、かつてのヘロデ大王が幼子のキリストを恐れたように、ある程度的を射た恐れであります。一つは、イエスが行なわれていることは、ヨハネが告げていた天の御国、悔い改めなければ神の火による裁きが下るという宣告の延長であった、ということです。大いなる業の中に、聖なる神の現れがありました。彼は、イエスの働きの中にヨハネにあったのと同じ、自分の犯した罪を抉り出す聖さがあるのを感じ取っていたのです。

 もう一つは、「よみがえったのだ」という言葉です。ヘロデは分かっていました。イエスが行なわれていた大いなる業には、復活の力があることを感じ取っていました。病人を直したり、悪霊を追い出したりする中で、その究極は、死そのものを打ち滅ぼし、永遠のいのちを与える力なのだということを感じ取っていました。ここが大事ですね、私たちが福音書を読む時に、これが過去の出来事であると読んではいけない、ということです。よみがえられた主がおられて、私たちの間におられる、ということです。黙示録2-3章には七つの教会に対して、よみがえられた栄光の主が教会を調べ、試される言葉があります。「彼らのしている行ないを知っている、あなたがたはよくやっている。しかし、わたしはあなたがたを責めることがある。悔い改めなさい。」という言葉です。

 そして具体的に、ヘロデが行なった悪事が2節以降に書いてあります。自分の兄弟ピリポの妻を奪い取って自分の妻にしました。それを不法であるとヨハネが責めました。それでヨハネを殺したいと思ったけれども、自分はユダヤ人の王ですから預言者であるとユダヤ人が認めている以上、殺すことができません。けれども、妻はもっとあくどいです。なんと自分の娘を利用しました。娘が踊っている踊りは、いわゆる卑猥なものです。それで喜んでいるヘロデはいったい何なのでしょうか。そして上機嫌になったので、その時に早まった約束をしてしまい、それを気に妻は「ヨハネの首を!」と娘に言わせました。面子がありますから、ヘロデはその要求に応じざるを得ませんでした。そして、主はヨハネの殉死を聞かれました。

2A 弟子の奉仕 13−21
14:13 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。

 イエスはガリラヤ湖畔におられました。ヨハネの死のことを聞いて、寂しいところに行かれています。先ほど話しましたように、独りになって退かれることがこれから多くなります。ここには、ヨハネの延長でご自身の死を考えていたことは確実です。そのために祈られていました。

 私たちは、キリスト者として成長する中でこの道を歩んでいきます。それは、「自分」というものを捨てていく道です。捨てるというよりも、「置いていく」と呼んだら良いでしょうか。自分が、主からの呼びかけを受けて、一歩先にこれまでやってきたことよりも前に進みたいと願った時に、自分ではなくキリストを選び取っていくことが多くなっていきます。その中で、自分の体を通してキリストのいのちが現われるのです。「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(2コリント4:10

 そして、これまではガリラヤ地方に定着していたイエス様が、そこから離れることが多くなっていきます。この前の日曜日の説教で引用した、ツロとシドンの地方に退かれて、カナン人の女が「娘が悪霊につかれている。」と言って助けを求めた話は次の章に出てきます。そして、ゴラン高原の北にあるピリポ・カイザリヤに上って行かれるのは16章に出てきます。それはもちろん、先に言及しましたように、ヘロデ・アンティパスがイエスを殺そうとしているからです。ご自分が死なれるのはエルサレムであることを知っておられた主は、賢く動いておられました。

 人間としてのイエスは、ヨハネの死は至極辛かったはずです。自分の親戚であり、メシヤが既に到来したことを告げる先駆者として、「女で生まれた者の中でヨハネほど偉大な者はいない」と言われました。その彼が殺されて、そしてご自身がエルサレムで死ななければいけないことを思おうとして寂しい所に行かれたのですが、なんと群衆がどんどんイエス様のところに現れてきました。

14:14 イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。

 これがイエス様の心です。「深く憐れんで」とありますが、これは腸が切れるほどに辛い感情を表しています。まさに「断腸の思い」です。この言葉が、弱まっている人に出会っている時の主の感情として、いろいろなところに出てきます。私たちがイエス様の心を持つ、というのはこの心を持つことです。その憐れみの心が、ご自身が寂しいところに行きたいという辛さを凌駕しているのです。私たちも同じ思いを持つべきです。しかし、これは「心」のことですから、何か自分が強く念じたからと言って与えられるものではありません。「心」は神のみが変えることができ、動かすことがおできになります。自分たちのところにやってくる人々に対して、このような心が与えられるよう祈っていきましょう。

14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」14:17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」14:18 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」14:19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。14:21 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。

 驚くべき奇蹟ですが、イエス様の思いはそこにいる群衆以上に、弟子たちにあったかもしれません。弟子たちが、「めいめいで食物を買うようにさせてください。」とイエス様に話しています。イエス様はこのように弟子たちが尋ねてくるのは、折り込み済みでした。このように尋ねてくるのを待っておられたと思います。主は、ご自分がなさる働きに弟子たちを加わらせようとされているのです。これから群衆に給食をすることに対して、弟子たちがその働きの一部になってほしいと願われています。

 ここから分かるのは、私たちが弟子のようにイエス様の近くにいると、自分の周りにいる人々に対して同じように必要があることを感じるようになることです。今までは無関心だったかもしれません。今までは気づかなかったかもしれません。キリストとの時間を過ごしていくうちに、「これをしなければいけないのでは。」と人々に仕える必要性を感じるのです。これが、キリスト者の奉仕の動機づけとなります。

 ところがイエス様は、「あなたがたで何か食べる物を上げなさい」と言われます!そんなこと、彼らにはできないことを重々承知の上でそう訊ねておられます。これがキリスト者の奉仕の働きの挑戦です。自分に願いが与えられても、その先には自分には決してできない必要が無限大に広がっているように見えます。けれども、「あなたの持っているもので、これを満たしなさい。」と命じられるのです。もし、ここであきらめてしまうのであれば、そこで働きは終わりになります。弟子たちは、五つのパンと二匹の魚を持って来ました。ヨハネの福音書によりますと、弟子のアンデレが少年の持っていたことに気づき、それをイエス様のところに持って来たのです。

 ここで大事な原則があります。キリスト者の働きは、「自分の持っているものを捧げる」ことから始まります。自分が何かの必要を感じて、自分では満たせないことを知っていながら、それでも自分にあるものを捧げるのです。例えば、私たちは今、礼拝場所を借りていますが、もしお金持ちのクリスチャンが「あなたがたのために、この資金を使ってください。」と言ってきたら、それは喜ばしいことでしょうか、普通はそのようにはされません。私たちが捧げていく中で、主がそれを使って必要を満たしてくださいます。

 そして、主が天を見上げて、五つのパンと二匹の魚を祝福なさいます。私たちにとっては、こんな小さなものと思っているものでも、イエス様はこれを祝福なさるのです。そして、五千人の男に給食されたのです。このような経験をどうかしてください。主が、自分の持っているものを捧げることで、数多くの人々が恩恵を受ける、という経験をしてください。

 私は、ロゴス・ミニストリーのウェブサイトでそれを経験しました。自分は、アメリカには無尽蔵にある聖書の学びサイトが、日本語にはないという必要を感じました。それで、インターネット技術がない素人の頭で、とりあえず録音したカセットテープをMP3にして、ホームページに掲載しはじめました。また私は説教の要点だけを書くのではなく、すべて原稿を書くのでこのように原稿も掲載しているのですが、これがどれだけ多くの人に行き渡ったか知れません。「これは、わたしが増やしたのだ。」と主が語っておられるのを聞きました。私がしているのでは決してありません。

 そして、次に大事なのは、主が増やしておられるパンと魚を弟子たちが配っていることです。主が行なわれるのですが、弟子たちはその働きに必死についていくようにして働きます。これが、主への奉仕になっていきます。新しく来る人々、必要のある人々、どんどん出てきます。彼らに仕えていくのです。

3A 嵐の時の信仰 22−36
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。14:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

 イエス様がなぜ強いて弟子たちを舟に乗り込ませて、ご自身が独りになられたかは、ヨハネ6章に理由が書いてあります。群衆たちが、イエスをメシヤとして担ぎ上げようとしたからです。この動機が極めて間違っていることを、主は知っておられて、独りになられてご自身が十字架につけられることを思うために独りになられました。群衆は、自分たちの願っていることをかなえてくれる救世主が今おられて、これからエルサレムに行き、そしてローマを打倒するのだという思いでいたでしょう。ここからも私たちは学ぶことができます。

 人々は何かしらの恩恵を受けると、その恵みによってキリストの前にひれ伏すのではなく、その器を持ち上げていくということです。この時にその器が彼らの称賛を受け取るならば、そこには神の国は存在せず、バビロンが生まれ始めます。自分たちで塔を建て上げて、自分たちで天に届き、自分たちの名を挙げようとするバベルの塔と同じ、世の霊に巻き込まれるのです。

14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」14:29 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。14:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」14:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。

 この大きな奇蹟も、先の奇蹟と同じように弟子たちへの実地訓練であります。ここでは、キリスト者の奉仕の働きではなく、キリスト者の信仰を教えておられます。

 風が吹き、湖が荒れているという状況は、聖書をよく読んでいる人が思い出すのは、世界の国々の騒ぎです。ダニエル書で、荒れ狂っている大水から四つの獣が出てくる幻があります(7:2)。そして黙示録17-18章では、大淫婦バビロンが大水の上に座っていますが、それはもろもろの民族、群衆、国民、国語であると書いてあります。イザヤ書には、「悪者には平安がない」と書いてありますが、まさにこのような状態です。この世において、人々の悪意と高慢、貪欲とねたみなどによって引き起こされている、いろいろな嵐の中に私たちは、ちょうど弟子たちの舟のように翻弄されているのです。

 そして弟子たちの多くが漁師であったことを思い出してください。自分たちの技術をもってしても、この嵐によって自分たちの舟を制御することができませんでした。自分たちではどうすることもできない状態、得意とするものによってもできない状況というものがあります。

 そこに、亡霊のようにして主が水の上を歩いて来られたのです。私たちは嵐の中で、イエスのなされていることをわずかにしか見えない時があります。イエス様が、「しっかりしなさい。わたしだ。」と言われました。「わたしだ」というのは、「わたしは、ある」という神の名前、ヤハウェの名前です。主がおられる、という存在だけで私たちは安心できます。

 そしてペテロは、大胆なことをしました。水の上を歩いたのです。そしたら、歩けました!そうなのです、荒れ狂う嵐の中に主を見つけることができたら、そこに自分も連れていけば主が歩かせてくださいます。けれどもペテロは問題がありました。「風を見た」と言っていますが、それはもちろん波が荒れていた、ということです。それを見てしまい、おぼれかけてしまいました。ここから私たちは何を学ぶでしょうか?「イエスから目を離さない」ということです。初めから不可能なことを行なっていることを知らなければいけません。だから、イエスから目を離さないでいるのです。

 そしてイエス様が、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。これは責めているのではなく、おそらく笑っておられると思います。「ペテロ、でも、よくやったな。」と言われているような気がします。

 そして風がやみました。弟子たちは驚き、恐ろしくなり、「イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」とあります。神の子である、という告白です。この言葉の大きさは、箴言304節を見るとわかります。「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。」天地万物の神の名と共に、その子の名を尋ねています。天地万物を造られた神には子がおられる、というのは旧約における主張だったのです。子がいない、というイスラム教は全くの偽りであり、反キリストであります。

 詩篇二篇にもあります。「「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。(7節)」この「生んだ」というのは、復活したことを意味します。イエスが復活されたことによって、この方が確かに天地万物の神であり、その子であることを知らしめました。その後で、詩篇の預言は御子に世界の国々の王がひれ伏す預言があります。国々が立ち騒ぐ時に、この方が征服し、平定される幻です。

14:34 彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。14:35 すると、その地の人々は、イエスと気がついて、付近の地域にくまなく知らせ、病人という病人をみな、みもとに連れて来た。14:36 そして、せめて彼らに、着物のふさにでもさわらせてやってくださいと、イエスにお願いした。そして、さわった人々はみな、いやされた。

 ゲネサレは、カペナウムの西に広がる平野です。イエス様は続けて、やってくる群衆をおいやしになりました。この時には、既に弟子たちは主がどのような方なのか、その本質に触れる機会がありました。興味深いことに、水の上を少し歩いておぼれそうになったペテロは、使徒の働きではゲネサレで主が行なわれていることと、同じことを行なっています。「ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。(使徒5:15-16

 このことも、ペテロが嵐の中におけるイエス様からの訓練を受けていたからこそできたことでした。信仰とは何かをわきまえ知ったのです。私たちは、今の嵐の中にいるように見える世の中で、確かに主だけに目を留めることができるでしょうか?また耳を傾けているでしょうか?主の励まし、また叱責もその中にはあるでしょう。目も耳も全て開いて、主が行なわれること、語られることをすべて受け入れてください。

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