マタイによる福音書16章  「十字架への出発」

アウトライン

1A  十字架の時  1−12
   1B  責任 見分け  1−4
   2B  警告 パン種  5−12
2A  十字架の土台  13−20
   1B  イエスの正体  13−17
   2B  教会の権威  18−20
3A  十字架の道  21−28
   1B  神の道  21−24
   2B  自分を捨てる道  25−28

本文

 マタイによる福音書16章をお開き下さい。ここでの主題は、「十字架への出発」です。この章は、イエスの公の生涯において大きな分岐点にあります。なぜなら、今まではご自分のことを言い広める、つまり宣教の働きをされていたのですが、ここからは十字架へ向かう準備をされているからです。ここにおいて、イエスが十字架につけられることについて主に3つのことが書かれています。

 1つは、十字架の時です。イエスが十字架につけられるのは、定められていた時があったことを学びます。2つめは、十字架の土台です。イエスが十字架につけられる根拠を学びます。そして3つめは、十字架の道です。十字架において現れているイエスの生き方、またその弟子の生き方を学びたいと思います。

1A  十字架の時  1−12
 それでは1つめの、十字架の時について学びましょう。前回私たちは、デカポリス地方で四千人に給食したイエス様と弟子たちを見ました。そしてマガダン地方に行き、再びユダヤ人の領域に戻って来ました。

1B  責任 見分け  1−4
 パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。

 パリサイ人とサドカイ人たちがともにイエスのみそばに立ち寄っています。これは興味深いですね。パリサイ派とサドカイ派は、互いに対立しているグループなのに、ここで共に来ているからです。パリサイ人は、律法の文字と形式の厳守を叫んで伝統を擁護しました。一方サドカイ人は世俗的な合理主義者でした。パリサイ人は、御使いとか霊とか復活とかという目に見えないもの、超自然的なものを信じていましたが、サドカイ人は、物質しか存在しないと考えていたのです。使徒行伝23章には、パウロがユダヤ人議会の審議にかけられている場面が出てきます。そこでパウロは、「私は死者の復活の望みのことで、さばきを受けているのです。」と言いました。そうすると、パリサイ人とサドカイ人の間に激しい論争があって、そこでパウロがもみくちゃにされて引き裂かれそうになったほどです。ところが、イエスという同じ敵によって、彼らは一致しているのです。

 そして彼らは「」からの徴を求めました。パリサイ派は、地における徴はサタンからのものもありえると考えました。ですから以前、悪霊を追い出しているイエス様を見て、ベルゼベルによるものだとそしったのです。けれども天からの徴は、神からのものだからです。

 イエスの応答を見ましょう。しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。

 イエスは、かなり辛辣に話しておられます。昔は天気予報はないですから、空模様を見て予測します。彼らが「天からのしるし」を求めたのですが、空模様という徴をあなたがたは見ているではないか、と言われているのです。

 ここで主は「時のしるし」を話されています。ダニエル書9章をお開き下さい。御使いガブリエルが、ダニエルにメシヤが来られる時を告げています。24節から読みましょう。「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。」イエスラエルの民と聖なる都が回復されるのが、エルサレムを再建せよ、と言う命令が出されてから70週だと書かれています。週は7周年のことなので、70週は70かける7で490年のことです。引き上げてエルサレムを再建せよと、という命令は、ペルシャのアルタシャスタ王によって紀元前465年に発布されました。

 油そそがれた者、つまりメシヤが断たれるのは、7週と62週の後ですから483年後になります。当時使われていた太陰暦ではかると、483年後とは、紀元32年の4月6日になります。ところで、福音書によると、イエスが死なれたのは紀元32年4月10日と計算できます。その4日前にイエスはエルサレムに入城されました。そして弟子たちが、「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によってこられる方に。ホサナ。いと高き方に。」と叫んで、イエスがメシヤであることを公にしました。従ってイエスは一日も違わずにメシヤの来られる時に来たのです。ところで、その箇所の後に、ローマが来て神殿を荒らすことが預言されています。したがって、紀元70年のエルサレム神殿破壊の前にメシヤは来ていなければいけないのです。ですからそれ以外にメシヤを求めるのは無意味なことなのです。

 従って聖書を学んでいれば、時のしるしを見分けることが出来ました。しかし、このパリサイ人とサドカイ人は、空模様のしるしを見分けることが出来ても、メシヤが死なれる時のしるしを見分けることは出来なかったのです。そのため、自分たちの王を十字架につけるという、とんでもない過ちを犯してしまいました。

 これは私たちの時代への警告でもあります。主はご自身が再び来られるための徴を数多く予告されました。それらのことが、私たちの時代に数多く起こっているのです。そこに書かれてある預言は比喩的なものであるとする解釈が数多くあります。けれども、それを比喩的であるとするなら、キリストが初めに来られる苦難の預言を比喩的に解釈したユダヤ人たちはどうするのでしょうか?初臨のキリストが文字通りの成就であれば、再臨も同じなのです。

 「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。

 イエスは、彼らにご自分がメシヤであることの奇跡を見せられました。それなのに彼らはすべて、拒んだのです。そこで、しるしはもう与えられず、イヨナのしるし、つまりキリストが墓に葬られてよみがえるというしるしだけが残されているのです。しかし復活が、イエスがメシヤであることの最大のしるしでした。

2B  警告 パン種  5−12
 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」

 前回もそうでしたが、イエスはパリサイ人と話した後に、それを教材にして教えられています。

 すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。

 弟子たちは、イエスのたとえがわからなかったみたいですね。ある弟子が、「パン種?おい、お前わかるか。」「いや、・・・・・あっ、そうだ、パンを忘れてきた。」「やばい!」という感じですね。

 イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。

 弟子たちは、イエスがパンを分けて大勢の人に与える奇跡を行うことができるのですから、パンがないからといって、弟子たちを責めたりされているのではありません。

 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。

 イエスは、パリサイ人とサドカイ人の教えに気をつけるよう言われました。弟子たちにとって、出エジプト記にある「種無しパンの祝い」を思い出さなければいけませんでした。過越の祭りの時から七日間、イスラエルの地にはパン種がないようにしなければいけません。それは、パン種が罪を表しているからです。流された過越の子羊の血によってイスラエルから罪が取り除かれたのです。ですから、主が「パン種」と言われたときに、パリサイ人とサドカイ人の教えが入り込んで、あなたがたに広がらないように、と戒めていたものです。イースト菌の入ったパン粉は全体に広がるように、悪い教えもいつの間にか広がってしまいます。罪もそうです。

 教会に集まる人たちには、いろいろな問題を抱えている場合があります。それぞれに課題があり、またいろいろな考えがあります。そして互いに耐え忍び、祈り、そして戒め、励まし、慰めます。そして牧者は羊を守り、養うように命じられています。けれども、そのような問題と狼は別です。ちょうど弟子たちのいるところにパリサイ人とサドカイ人が来たように、その仲をかき乱す者たちが必ずやってきます。それをイエス様は「狼」と言いました。羊は問題があっても忍耐の中で戒めるのですが、狼は追い払わなければいけません。

 聖書のいろいろな箇所に書いてありますが、ローマ161720節まで読んでみましょう。「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(ローマ16:17-20

2A  十字架の土台  13−20
 こうしてイエスが十字架につけられるのに、定められた時があったことがわかりました。それでは次に、十字架の土台について学びましょう。それはイエスが誰であるかを知ることです。

1B  イエスの正体  13−17
 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」

 ピリポ・カイザリヤという遠いところまで行きました。そこは、ヘロデ・アンティパスのガリラヤから遠く離れた同じくアンティパスの兄弟ピリポの管轄にあります。そこは、ピリポがカエサルのために宮を建てたところであり、またギリシヤのパンという神が祭られているところです。ヘルモン山のふもとになります。彼らは極めて慎重にならなければいけませんでした。ユダヤ人からの影響がないところでなければいけません。当時、自分がメシヤだと公言してユダヤ人がついて行ってはいなくなり、そうした者たちをパリサイ人とサドカイ人のユダヤ人指導者は異端とみなしていました。ですから、このことを明言するのは、ユダヤ人の耳に入らない安全なところを探す必要がありました。

 けれども結果的に、そうした神々の偶像があるなかでイエス様が聞かれたことになります。私たち日本人が、「あなたは、わたしを誰だと思っているのか。」とイエス様に尋ねられているのと同じです。

 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

 さすがユダヤ人です。すべて聖書人物が出てきます。バプテスマのヨハネですが、ヘロデがそう信じていました。エリヤですが、これは偽典と呼ばれている書物の一つで、第二マカバイ記に現れます。エレミヤがエジプトに隠した契約の箱を、メシヤが来られる前にエルサレムに持ってくる、と書かれています。そして、預言者の一人は申命記18章15節に書かれている、モーセのような預言者です。

 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

 様々な神々がいる中で、また様々な意見の中で、ペテロはイエスが生ける神の御子キリストであると告白しました。

 詩篇二篇を見ましょう。7節から読みます。「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。(7-12節)」ここには明確に、御子が書かれています。神が生む子であります。けれどもそれは、その子が被造物という意味ではなく、むしろ同じ性質をもった神ご自身を受け継ぐ者という意味です。使徒パウロはこの箇所を引用して、イエスがよみがえられたことを、「わたしはあなたを生んだ」ことであると解き明かしています。

 そしてこの方が国々を制圧し、従わせます。2節を読むと「主と、主に油注がれた者」とあり、この油注がれた者がメシヤあるいはキリストです。ユダヤ人の王として神から任命された方です。ですからペテロは、ここからその告白ができたものと思われます。

 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

 イエスが神の御子キリストであることは、ここに書かれてある通り父なる神によらなければわかりません。神の御霊によってのみ、私たちはイエスのことを悟る事が出来るのです。けれどもペテロがここで、自分が天からの啓示を受けたことを意識していたでしょうか。おそらく普通に口から出てきたのでしょう。このように、神の御霊の働きはその多くが、ごく自然に行われます。私たちはとかく、超自然的なものだけを御霊の働きと考えやすいものです。それでごく普通に神が働かれているのを見逃してしまいます。しかし自分でも御霊の働きだとわからないくらい、神はしばしば、ごく自然に働かれるのです。

2B  教会の権威  18−20
 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。

 ペテロはギリシャ語でぺトロスであり、岩はペトラです。大事なことはこの2つが違う単語であることです。ペトロスは小石です。道ばたに落ちているような小さな石です。そしてペトラとは大岩です。何メートルにもなる大きなものです。おそらくヘルモン山のふもとにある崖を指していたのでしょう。ですから、イエスがシモン・ペテロの上に教会を建てるのではないのです。このペトラは、今さっきのペテロの告白です。

 イエスが神の御子キリストであるという告白の上に、教会が建てられます。そしてイエスが、「わたしは、わたしの教会を建てます。」と言われていることに注意してください。教会は私たちのものではなく、キリストのものです。そして、教会は私たちが建てるのではなく、キリストが建ててくださいます。教会はキリストの所有物であり、キリストによって運営されるのです。

 そしてイエスは、ハデスの門もそれには打ち勝てません。

 と言われました。イエスは、死の力に対して、また地獄の勢力に対して決して打ち勝つ事の出来ないような、大きな力を教会に授けられます。それは、キリストの十字架の死によって、暗闇の力に決定的なダメージが与えられます。コロサイ人への手紙第2章には、「神は、十字架において、すべての支配の権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(15節)」とあります。そしてそれは、教会の携挙の時まで続きます。不法の秘密はすでに働いているが、引き止める者があるためであり、それがなくなれば不法の人が現れるとテサロニケ第二2章は言っています。黙示録を読めば、底知れぬ所からの力が地上にあふれるように出てくる恐ろしい姿を読みます。教会がすでにないからです。その時に信じた聖徒たちは、反キリストによって殺されていきます。反キリストが打ち勝つのです。

 私たちが、礼拝において、この信仰告白こそが土台になることを知らなければいけません。もしこの告白をすることができないのであれば、その人は教会の一員ではありません。「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリスト(神)は肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。(1テモテ3:15-16

 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。

 使徒行伝を読むと、ペテロが福音の扉を最初に開いた人であることがわかります。五旬節のときにユダヤ人に説教をしたのはペテロです。さらに、コルネリオという異邦人に福音を伝えたのもペテロです。

 何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

 天をつなぎ、天を開くような、とてつもない力が、私たちに与えられています。私たちは祈りによって暗闇の力を縛ることができます。ですから、私たちが家族や知り合いが救われてほしい、またこの地域に救いが訪れて欲しいと願う時、まずしなければならないのは祈りなのです。不信者の思いをくらませているこの世の神を、イエスの御名によって縛らなければいけません。サタンは、イエスに従うしかないのです。

 そして私たちは、主がなされている宣言をこの地上で確認する権威が与えられています。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。(ヨハネ20:23

 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。

 極めて敏感な情報ですから、これを気をつけて取り扱わなければいけないことを教えています。先ほどの「時のしるし」にありましたように、またその他の聖書の数多くの預言があるように、主は定められた時にエルサレムに行かなければいけません。

3A  十字架の道  21−28
 こうしてイエスが十字架につけられる土台は、この方が、神の御子でありキリストであることがわかりました。また、教会は、キリストの十字架によって大きな権威が与えられています。次にイエスは、十字架の道について話されています。

1B  神の道  21−24
 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

 イエスはご自分がキリストであることを確認された上で、十字架と復活のみわざを彼らに話されました。

 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

 なんとペテロはイエスをつかんで、いさめ始めました。今までそんなことをしなかったのに何故でしょうか。それは彼が図に乗っていたからかもしれません。天の父からの啓示を受けたと言われて、ペテロは自分に特別な霊的能力が与えられたと勘違いしたのかもしれません。

 ただそれ以前に、キリストが殺されるということは、弟子たちのキリストに対する期待と、あまりにもかけ離れていた事があげられます。彼らも聖書を読めば、メシヤが苦しみを受けなければならないこと、そしてよみがえなければならないことを見分けることができたはずです。ダニエル九章で呼んだとおりです。しかし、彼らがユダヤ人であること、ローマ帝国に支配されていたと言う事実、さらにメシヤについての一般的な教えなどによって、その聖書の箇所を読み取る事ができなかったのです。先ほど詩篇二篇はそうなっていましたね。国々を制する御子キリストの姿がありました。

 彼らはイエスと生活をともにして、この方が事実キリストであることを知るようになりました。それにつれて彼らの抱いていた期待は膨らんできたのでしょう。イエスがご自分の口からキリストであることを明かされたとき、さあ、ここからイエスはイスラエルを再興してくださる、と考えたに違いありません。ところが、ローマ帝国を倒すどころか、同じユダヤ人の宗教者に殺されてしまうと示し始めるではありませんか。そこで、弟子たちはギャフンときたのです。ペテロはいつもながらの行動派なので、そのことを面と向かって主に示したのです。

 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。」

 ペテロは今さっき、天の父からの啓示を受けたのに、今はサタンの声を聞いてしまいました。覚えていますか、サタンはイエス様が荒野にいたときに、栄光をあなたに与えると誘った時にイエス様は、「退け」と同じことを言われました。ペテロはショックだったに違いありません。けれども誰かが素晴らしいことを主から示されたからといって、その人がいつも神からの声を聞いているとは限りません。

 「あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 キリストが十字架に向かうことは、神の思いでした。つまり十字架への道は、神の道なのです。十字架は正しい方が罪に定められるという、あまりにも不条理で、むごい仕打ちと見ることもできます。しかし、神の道は人の道と異なり、天が地よりも高いように、神の道は人の道よりも高いのです(イザヤ53:8、9参照)。イザヤ53章10節には、キリストが砕かれて、痛められることは、主のみこころであったと書かれています。その理由が次に書かれていて、キリストは死なれた後に数多くの神の子どもを見ることになり、多くの人を義とし、暗闇の勢力を捕虜とすることなどが書かれています。

 神はそのような永遠の視野に立って、ご計画を立てられましたが、私たちは目の前に見える一時的なことによって計画を立てます。したがって私たちの目には不条理に思われることも、神のみこころであることがよくあるのです。このように、キリストの十字架は神の道です。

2B  自分を捨てる道  25−28
 そして十字架の道は、イエスに従う者にとっては、自分を捨てる道であります。それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

 これはすごいことです。ペテロや弟子たちは、今から御国の力が主によって現れて、ローマを倒して、この方が神殿に着座されると思いました。ところが十字架につけられるわけです。イエス様は、「自分の十字架を負いなさい」と言われますが、それはローマが犯罪人に十字架を持たせて歩かせる、つまりローマの権威に完全に服従している姿を表しています。つまり、イエス様に従うためには、完全に自分のあり方をすてて、服従しなければいけないことを表しています。

 イエス様はそれをゲッセマネの園で行なわれました。ご自分の願いではなく、父の願いどおりになるように、と祈られました。私たちも自分の願いではなく、父の御心を選び取っていく犠牲が必要です。

 「自分」というのは、私たちにとって自己生存本能と言ってもよいでしょうか?自然に普通に考えれば、そうやってしかるべきだと思うことをあえて、キリストに従うがゆえに捨てていくのです。

 ペテロは愛するイエスから厳しい言い方をされましたが、さぞかし心が痛んだでしょう。自分が正しいと思っていたことが、イエスを邪魔していたのです。私たちも、神の道を知るためには、通らなければならない痛みがあります。それは、聖霊に満たされるための痛みとでもいいましょうか。神の思いに満たされるために、私たちは自分のうちにある肉と対面しなければなりません。その肉は、自分が間違っていると感じている部分だけではなく、ペテロのように正しいと考えている部分もあります。

 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

 これは大事な原則です。「いのち」というのは究極的には実際の生命でありますが、先ほどは話した自分を生かそうとする生存本能と考えるとよいでしょう。それを救うために動けば、かえってそれを失う、ということを話しています。失う者はかえって主がそれを与えてくださいます。あるクリスチャン家庭で、夫が中南米への宣教が示されました。妻がそれを止めました。子供の教育のゆえです。宣教に行けばそれが施せなくなる、ということです。しかし何人も経った後、二人の関係が悪くなり離婚に至りました。子供の教育のためといいながら、もっとも教育にとって悪いことを招いてしまいました。そのことも主に捧げて妻が夫に従えば、子にもよい教育が備えられたはずです。

 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 御国の栄光という全世界的なことをペテロたちは考えていましたが、イエス様はもっと大切なことを語っておられます。「まことのいのち」です。そしてそのいのちは、失うことによって初めて得られるものです。

 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

 主は、ご自身の再臨について語られています。今、全世界を得るのではなく、今は命を失ったとしても、後の世には報いが用意されています。私たちがクリスチャンとして生きるときに、主が来られる日に目を留める事は非常に重要です。ビルを建てるときに完成図を見ないで建てることはできません。また完成に向けて建てるのでなければ、建てている意味がありません。同じように、神の救いの完成図を見ないでキリストに従うことは出来ず、神の救いの完成に向けて従うのでなければ意味がありません。

 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」

 ここに立っているとは弟子たちのことですね。それでは、キリストの再臨の時まで弟子の誰かが生き続けるのでしょうか。もちろんそれは歴史書によって否定されています。彼らはヨハネを除き殉教に遭い、ヨハネ自身も死にました。実はここで、イエスはご自分の再臨から話を変えられています。次に出てくる17章は、弟子たちの3人が栄光に輝くキリストの姿を見る場面です。このことを指して、「人の子が御国とともに来る」といわれたのです。私たちは、聖書を読むときに、前後関係を読むことによって理解できる箇所を多く見かけますが、ここは典型的な例です。

 こうして、イエスが十字架に向かって出発された部分を読みました。十字架には定められた時があったこと。そして十字架は、イエスがキリストであるという事実に基づいていること。さらに、十字架の道は神の道であり、私たちが自分を捨てる道であることを学びました。次回は今話した、イエスが栄光の姿に変貌される部分を読みます。

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