マタイによる福音書22章 「キリストにある知恵と知識」


アウトライン

1A 祭司長と長老 1−15
   1B 招待された客 1−7
   2B 大通りの者 8−10
   3B 礼服を着ない者 11−14
2A  パリサイ人とヘロデ党  15−22
   1B 訊問 15−17
   2B 応答 18−22
3A サドカイ人  23−33
   1B 訊問 23−28
   2B 応答 29−33
4A パリサイ人 34-46
   1B 彼らの訊問 34−40
   2B イエスの訊問 41−46


本文

 マタイによる福音書22章をお開きください。ここでの題は、「キリストにある知恵と知識」です。イエスは、エルサレムに入られました。そして、エルサレムにいる宗教指導者との激しい対立が起こります。その対立の中で宗教指導者たちは、何とかしてイエスを捕まえようとし、イエスをことばのわなに陥れようとしています。しかしイエスは、彼らの問いかけに見事に言い返されただけではなく、実に知恵のあることばを言われました。

 パウロは、コロサイ人への手紙2章3節で、「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのです。」と言っています。私たちの信じているキリスト、私たちのうちにおられるキリストは、まさに知恵と知識の宝です。このことを内容を追って見ていきましょう。


1A 祭司長と長老 1−15
 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。

 「もう一つのたとえ」とありますが、これは、21章の続きです。イエスはぶとう園のたとえによって、ユダヤ人たちが神から遣わされた預言者を迫害したり、殺したりしたことを述べられました。そして、最後にこの宗教指導者たちが、キリストご自身を殺すことを話されました。神は、イスラ工ルが神に選ばれた民族にふさわしい実を結ぶことを望まれましたが、何一つ結ぶことがなかったのです。そこで、ユダヤ人から神の祝福が取り除けられて、異邦人がその実を結ぶことになることをイエスは話されています。このもう一つのたとえも同じことが書かれていますが、少し別の角度から書かれています。

1B 招待された客 1−7
 天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。

 王は父なる神であり、王子は子なるキリストのことです。王は招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。「お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。『さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。』」ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、その他の者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぽし、彼らの町を焼き払った。

 招待された客はユダヤ人であり、王のしもべは預言者たちです。ユダヤ人は、他の民族とは異なり、初めから神に招待されていました。キリストの救いを受けて神の祝福を受けることができるように、アブラハム以来さまざまな準備が整えられていました。旧約聖書全体は、いわば彼らへの招待状です。旧約聖書はキリストの預言で満ちているので、ユダヤ人はキリストを受け入れるように前もって用意することができました。神は預言者を遣わして、イスラ工ルにキリストの来られることを語られたのです。

 ところが、5節にあるように、彼ら多くがその招待を無視しました。その理由が、「畑に、商売に出て行」ったりと、自分の事情を持ち出しています。神は救いに必要なあらゆることを整えてくださったのに、自分の事情があるからそれに応じません。これはユダヤ人に限らず、現代のほとんどの人の反応です。

 イエス・キリストの福音を聞いても、自分の事情を持ち出して、その招きを断ってしまいます。ある人は、仕事を事情にあげます。家庭の主婦なら子育てや親の世話をあげるでしょう。学生なら宿題をあげるでしょう。でも、神の福音を聞く時間さえもないほど忙しいのでしょうか。忙しいというのは言い訳にしか過ぎなく、自分のしていることが神よりも大事になっているからです。これを、世の思い煩いと言います。神は、私たちが仕事や学校など与えられている事柄に勤勉であるように命じられていますが、それが神と自分との関係を引き離してしまうことが決してあってはなりません。

 
イエスは、「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすれば、これらすべてのものは与えられます。(マタイ5:33)」と言われました。しかし、ここに描かれている人々は、世のことや自分のことでせいいっぱいで、神からの招きに応じませんでした。こうして多くのユダヤ人が神の招きを無視しましたが、12節を読むと、「王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」とあります。この前も話しましたが、預言者を痛めつけたのは、同胞のイスラ工ル人でした。そして最後は、それら預言者が預言したキリストご自身を殺してしまいます。そのため、13節によると、「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払った。」とあります。ユダヤ人がイエスを拒んでから約40年後、つまり紀元70年に、500万人以上のユダヤ人がローマの兵隊によって殺されて、エルサレムの町は廃墟と化しました。

2B 大通りの者 8−10
 そのとき、王はしもべたちに言った。「宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。

 王は、招待されていない者たちを招待しました。これは、ユダヤ人以外の異邦人のことです。「大通り」にいた彼らにとって、それは突然の招待でした。同じように、異邦人にとってキリストの福音は新しい教えであります。私たち自身のことを考えても、私たち一言、クリスチャンの家庭で育っていない限り、聖書に触れることはほとんどありません。それは、私たちが招待状をもらっていない異邦人だからです。それに、王がしもべに、「出会ったものはみな招きなさい。」と言いました。これは別け隔てなく招いたことを示しています。神の救いには別け隔てがありません。どのような民族であっても、男であっても女であっても、年齢が低くても高くても関係なく、救いを提供されているのです。そのため宴会場には「良い人でも悪い人でも」いて、いろいろな背景を持っている人たちが集められました。クリスチャンを見ると実にさまざまな背景をもった人が集められていることがわかります。元ヤクザみたいな悪い人もいれば、まじめに人生を歩んだ良い人もいます。でも、それは人間的な評価であり、すべての人が救いを必要としているのです。そして、最後に、「宴会場は客でいっぱいになった」と書かれています。異邦人でキリストを信じた人は、歴史をとおして大ぜい現われました。

3B 礼服を着ない者 11−14
 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで王は言った。「あなたはどうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。」しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべに、「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」と言った。

 最後に、礼服を着ない者が現われます。大通りにいる人々はもともと礼服を持っていなかったので、宴会場に入るとき礼服が支給されました。彼らが宴会場に入ることのできる条件は、ただ王から支給される礼服を着ることだけでした。これは、異邦人が、神が与えてくださったキリストを、自分の救い王として受け入れることを意味しています。キリストを受け入れるには、2つのことが必要です。

 一つは、自分はどうしようもない罪人であり、神のさばきを受けなければいけないような者であることを認めることです。二つは、キリスト全く正しい方であり、キリストが神のさばきを代わりに受けてくださったことを信じることです。この2つのことをしっかりと把握していれば、私たちは自ずとキリストに救いを求めます。王から与えられる礼服を着るように、神から与えられたキリストを自分の救い主として受け入れます。したがって、礼服を着なかった者は、神の救いをキリストなしに得ようとした人です。自分がどうしようもなく罪深いことがわかりません。あの金持ちの青年のように、自分には何か良いものがあると考えたりします。その人は、罪の悔い改めをしないので、あるいは悔い改めを徹底的に行なっていないので、キリストにとどまる必要性を強く感じません。そこで、この礼服を着ていない人は外の暗やみに追い出されますが、これは地獄を指しています。ですから、キリストがこの礼服であり、キリストを身に付けた者だけが披露宴に参加することができるのです。

 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。

 これが、このたとえの結論です。多くの人に救いの手が差し伸べられましたが、実際に応答した人はごくわずかでした。神は、大きく手を広げて人々を迎えようとされましたが、人々の心は狭く、閉ざされていたのです。私たちはとかく、神のことをとても狭い方、排他的な方として捉えてしまいます。ごく−部の者しか選ばずに、多くの者を滅ぶままにされるような方なのだと考えてしまいます。しかし、真理はその反対です。人間の方が狭く排他的なのです。私たちは、神のそのような大らかさを受け入れることができず、自分なりの方法で生きようとします。しかし神は、「なぜ、自分のことだけで、忙しくあくせくしているのか。なぜ、ただで礼服が支給されているのに、それを受け取らないのか。わたしは、あなたがそんな貧しく窮屈な生活をするのではなくて、宴会で楽しんでほしいのだ。」と言われているのです。この呼びかけに応じる人が、選ばれた者たちです。しかし、人間の心の狭さのために、選ばれるものは少ないのです。

2A  パリサイ人とヘロデ党  15−22
 ここで、イエスのたとえは終わります。次から、さまざまな種類の宗教指導者たちが、イエスを捕らえようとして、言葉のわなにかけようとしています。最初に出てくるグループは、パリサイ人とへロデ党の者たちです。

1B 訊問 15−17
 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。彼らはその弟子たちを、へロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。

 パリサイ人とへロデ党のものたちがいっしょになっています。パリサイ派とへロデ党はどちらもユダヤ教の宗派ですが、互いに激しく敵対し合っていました。というのは、パリサイ人は愛国主義者であり、ローマ帝国からのユダヤ人の独立を強く求めていました。ヘロデ党はその反対に、ローマ帝国こ忠誠を誓っていました。この相容れない2つのグループが、イエスを滅ぼす目的のために一つになっています。それほど、彼らのイエスヘの敵対心は激しくなっています。

 先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。それで、どう思われるか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしようか。

 ユダヤ人は異邦人の国であるローマ帝国に税金を納めることをひどく嫌がっていました。もしイエスが、「律法にかなっている。」と答えれば、イエスはユダヤ人たちの反感を買います。今まで付いてきた群衆たちは、イエスから離れるでしよう。けれども、もし、「かなっていない。」と言ったら、今度はへロデ党の者たちがローマ帝国の役人のところに行き、イエスを帝国の反逆者として訴えることができるでしよう。この、税金を納めるという問題は、彼らの間でも論争していた点ですが、彼らはそのことを利用して、イエスを捕らえようとしているのです。

2B 応答 18−22
 イエスは答えられます。イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。誰の銘ですか。」彼らは「カイザルのです。」と答えた。そこで、イエスは彼らに言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

 イエスは見事に言い返されて、彼らを驚かせました。言い返しただけでなく、納税についての神の真理を明らかにされています。カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返すということは、言い換えると、世に対する責任は世に対して果たすが、自分は神を礼拝しなければならないということです。パリサイ人にもヘロデ党にもそれぞれ間違いがありました。パリサイ人は、世は悪と汚れに満ちているから、世に関わることはみな離れなければならないと考えたのです。確かに、世は悪魔の支配下にありますから、抵抗しなければならないことが多くあります。

 しかし、私たち一式それ以前に、世に対してキリストの愛を示すという責務があります。国の法律を守り、納税することによって、世に対してキリストの証しを立てているのです。しかし、へロデ党の者たちのように、国の命じるすべてのことにおいて従うこともまた問題です。私たちが従わなければならないのは神であり、国が神のみこころに反することを私たちに命じるのであれば、私たちはそれに抵抗しなければなりません。こうしたバランスのある信仰生活が、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい、というイエスのみことばに現われています。

3A サドカイ人  23−33
 次は、また創の宗教グループガ現われます

1B 訊問 23−28
 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、言った。

 サドカイ派もユダヤ教の一派ですが、彼らは合理主義者でした。または物質主義者でした。復活など目に見えないものは存在しないと考えていたのです。

 先生。モーセは「もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。」と言いました。

 彼らは、モーセの律法を引用しています。彼らがより頼んでいた聖書は、創世記から申命記までのモーセ五書だけでした。パリサイ人は復活を信じていましたが、それはダ二工ル書12章など預言書に基づいていました。しかしサドカイ人は、預言書は比喩で書かれているから、文字通り取るべきではないと考えていたのです。そして、復活の考えが実に馬鹿げていることを示すために、この律法から一つの仮説を立てます。

 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。

 彼らの考えていた復活は、生きている時に持っている肉体がよみがえることでした。そうすると、ここの仮説にある結婚閑関係の問題も出てきます。また、腐ってなくなってしまった死体は復活するときどうなるのか、という問題も出てきます。土に返るだけならまだしも、草がその土から生えて、その草を牛が食べて、その牛の乳を人間が飲んで、その人間が死んで、そして復活が起こったら、その化学物質はどちらの人になるのか、という問題です。

 このように、サドカイ人は、復活はありえないという立場をとっていましたが、イエスがその質問にきちんと答えられないのを期待していました。また、いっしょに聞いている群衆の理性にも訴えていました。復活なんていうのは馬鹿げているということを論理的に話して、群衆の関心をイエスから背けさせようとしていたのです。復活など自に見えない真理に対して、この世もサドカイ人のような人で満ちています。彼らはこう言います。「天国や地獄などと言うのは作り話で、死んだらみなそれで終わりだ。」あるいは、「キリストが天から来るだって。そんな馬鹿げたことを話すもんでない。」私たちは、そうした人々のことばをいつの間にか受け入れてしまっています。そうすると、物が上から下に落ちるほどと確実に起こるそれらの出来事を、あたかも自分だけのもののように心の内に秘めてしまいます。

2B 応答 29−33
 しかし、イエスの励ましのみことばを聞きましょう。しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」

 イエスは、彼らが無知であると言われました。彼らは自分がいかに賢い方を人々に引け開かしていたのですが、実は自分たちの無知をさらけ出していたのです。みなさん、どうぞ、自分のうちにおられるキリストを誇ってください。イエス・キリストを信じて、この方に望みをかけている人は、神を信じないノーベル賞受章者よりもはるかに賢いのです。そして、イエスは、2つのことについて彼らが無知であると言われました。聖書と神の力です。聖書を知るのに、特別な能力や才能を必要としません。書かれてある明らかな意味を、そのまま素直に受け入れるだけで良いのです。聖書について実に多くの書物が書かれていますが、そして、著者の多くは非常に高い学歴を持っていますが、彼らの多くは、聖書の読解力に関して小学生以下です。もう一つ、神の力についてですが、もし聖書の一番最初のことば、「初めに、神は天と地を創造された。」を受け入れることができれぼ、その他の奇蹟はすべて受け入れられるはずです。天と地を創造されたのですから、神にできないことは何一つありません。つまり全能の神です。ですから、人を復活させることもできるのです。

 復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いのようです。

 イエスは、復活のからだは現在私たちが持っている肉体とは違うことを教えられています。私たちが復活するとき、天から新しいからだが与えられるのです。第二コリント5章で、パウロは、今の肉体のからだを幕屋、つまりテントであり、復活のからだを神の建物であると言っています(1-4)。また、イエスは、「わたしの父の家には住まいがたくさんあります。(ヨハネ14:2)」と言われましたが、その住まいは復活のからだのことです。テント生活のように、私たちはこの肉体で生きている間、不便を強いられます。病気になったり、だんだん衰えてきます。疲れます。のどが渇きます。お腹がすきます。この肉体にアダムから引き継いでいる罪の性質があるのです。 しかし、復活のからだは大豪邸のように、実に快適です。病気はありません。けっして衰えません。病気になったり、そして何よりも、罪のないからだなので、完全にキリストに似た者になるのです。

 「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アプラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

 イエスは、死人の復活について、サドカイ人が信じていたモーセ五書を引き出されました。アブラハム、イサク、ヤコブはいずれも、モーセが生きていた400年ほど前に地上にいたのですが、神はモーセに対して、彼らがまだ生きていることを示されたのです。モーセ五書から復活を証明されたので、群衆は非常に驚いています。

4A パリサイ人 34-46
 こうして、サドカイ人は、イエスを群衆の関心から引き離すことができなかったばかりか、イエスヘの関心はさらに高まりました。さて、三番日の宗教指導者のグループは、パリサイ人です。

1B 彼らの訊問 34−40
 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

 パリサイ人は、復活の問題についてサドカイ人と言い争っていました。そして、イエスがそれを論駁されたのですから、イエスに好意を持つか、あるいはイエスに少しでも心を開くのが普通です。けれども、彼らはイエスをためそうとしています。なぜでしょうか。イエスをねたんだからです。自分たちがサドカイ人を黙らせたかったのに、イエスに先を越されてしまった、という思いでいっぱいだったのです。

 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

 これもまた、ひっかけ問題です。彼らの中では律法の重要度について議論が交わされていました。どの律法がより重要であり、どの律法がさほど重要ではないかが議論されていました。もしイエスが、ある一つの律法を大切にされたら、彼らは、イエスは他の律法をないがしろにしていると非難することができたのです。

 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これが大切な第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 イエスは、神を愛して隣人を愛するという、愛しなさいという戒めが大切であると言われました。そして、面白いことに、他の律法がその戒めよりも劣るようなことを話されていません。むしろ、すべての律法と預言書がその戒めにかかっていると言われています。つまり、律法の中に重要度のようなものはなく、すべてが神を愛し、人を愛するという目的のために書かれているのです。もし、愛から離れたらどんな戒めも意味がありません。それでは、「愛」とは何でしょうか。日本語には、あまりなじみのない言葉です。けれども、これを言い換えて、「一番大切にする。」としたらどうでしょうか。心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、神である主を一番大切にしなさい。隣人をあなた自身のように大切にしなさい。私たちにとって、神と自分との関係、また自分と他人との関係が最も大切なのです。

 パリサイ人たちは、律法という文字に従っていました。ちょうど私たちが法律に従うようにです。 しかし、私たちが法律を守ったからといって、その法律を立てた国会と深い関係を持つわけではありません。人格的な関係や交わりを持っていないのです。ところが、私たちクリスチャンは、聖書の言葉についてそうした間違いを犯してしまいます。聖書の文字を守ることが
クリスチャン生活だと勘違いします。そうではありません。クリスチャンが生きる目的は、ことばになって現われている神のご人格に触れることです。つまり、聖書を文字としてではなく、生きた神のみことばが自分に語りかけていると受け止めることです。イエスは、神を愛し、人を自分のように愛することがたいせつな戒めであると言われました。

2B イエスの訊問 41−46
 パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。 今度は、イエスが彼らに尋ねられています。「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」 彼らはイエスに言った。「タビデの子です。」

 
ユダヤ人はだれもが、メシヤはダビデの子孫から出なければいけないことを知っていました。

 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてタビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。」

 
「主は私の主に言われた。」とありますが、最初の主は父なる神であり、次の主はキリストであります。面白いことに、キリストはダビデの子孫であるのに、この方が生きていることをダビデは証言しています。 キリストが、永遠の昔から神とともにおられたのです。そして、ダビデだけでなく、アブラハムやその他の旧約の聖徒たちにも現われておられます。そして、「あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」というのは、現在のキリストの状態を表しています。キリストはよみがえらえて、天に昇られてから、神の右の座についておられます。それは、キリストが再び来られて、サタンを踏みつけるときまで続くのです。

 「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はタビデの子なのでしょう。」

 この質問は、当時の文化を知らないと理解できません。当時は、子供は父を「主」と呼んで、父に対する尊敬を示しました。父が自分の子を「主」と呼ぶことは、まず考えられないことでした。しかし、ダビデはダビデの子であるキリストを、「主」と呼びました。これはむろん、キリストが神であることを示しています。

 それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問する者はいなかった。

 こうしてイエスは、あらゆるグループの宗教指導者を黙らせてしまいました。それは、キリストのうちに、知恵と知識の宝がみな隠されているからです。このキリストが、私たちのうちにいてくださいます。私たちは、パリサイ人、サドカイ人などのように、私たちを神から引き離そうとすることばに満ちています。しかし、キリストには、そのようなことばをはねつける知恵と知識を持っておられます。キリストにとどまってください。キリストにしっかりとつながってください。私たちの主イエス・キリストが、私たちの避け所です。


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